第3話 猿に見守られし者

 六花はここに来る前に聞いた仙妃からの助言を思い出す。


「――とっておきの噂を教えてあげる。どうするかはあなたの頭脳次第よ」


 意味深な前置きの後、あのとき仙妃はこう続けたのである。


「仙転台で飛んだ後、福石村へ行く前に滝へ向かいなさい。村は花果山かかざんのふもとにあるんだけど、山の水が流れ込む滝の裏に洞窟があるわ。ひとりの豪傑が今そこを根城にしている」

「豪傑? 武侠ぶきょうですか」

「世界最強の男よ、この時代ではね。ということは……なにが言いたいと思う?」


 意表をつかれて答えに窮する六花に、仙妃はふっと微笑みかけた。


「そいつを術で支配して、あらゆる命令に従う下僕に変えれば、あなたは世界最強の女ってこと。もしも瑠瑠が眩暈集を先に手に入れても世界最強なら強奪できる」


 本当に欲するのなら力で奪え。

 捕縛した獲物を食らう蜘蛛のように――。


(容赦なく悪辣にやれとはそういうことか)


 六花は冷たい汗を流しつつ、仙妃の言葉が意味するところを理解したのだった。



 ◇ ◇ ◇



 ザアザアと激しい雨に似た音が山中にこだましている。


「ここが例の滝……」


 滝の流れが作り出す水飛沫を遠目に眺めて六花は呟いた。

 途中で会った行商人の話だと、この滝の裏に洞窟があるのは昔から有名で、水簾洞すいれんどうと呼ばれているそうだ。

 ところが最近、妙な男がそこに住み着いたようだという。

 名前は孫なんとか。

 武者修業のために諸国を旅している武侠らしい。

 おそらく今は戦いで負った怪我でも癒やしている最中なのだろう。

 村人は恐れて関わろうとしないが、仙妃の話では最強の武人だそうだから賢明な判断だとも言える。

 そんなやつに因縁でもつけられたら一般人はたまったものではない。


「でも、わたしはやる。世界最強のその男を倒して支配してみせる……」


 岩場を伝って進んでいき、やがて滝壺が見える位置で立ち止まった。


「うん、ここから行く」


 細いとんぼが間近を飛んでいる。小さな蜘蛛が苔の上を近づいてくる。

 六花は持ってきた令牌や瓢箪ひょうたんなどの道具を手早くしまって飛び込む準備をした。

 そして身を翻すと気合の声とともに跳躍する。


「ふっ!」


 きれいな放物線を描いて頭から滝壺に飛び込み、そのまま水流の壁へ泳いだ。


 薄い水の壁を一気に通り抜けると噂通りの洞窟がある。


「ぷはっ、意外と簡単に入れた――って、なにあれ?」


 六花が目を見張ったのは視線の先に巨大な空間が広がっていたからだ。

 ぽっかりと球形にくり抜いたかのような大空洞。

 そこにうじゃうじゃと猿がいて、なにかを円状に取り囲んでじっと見ている。


 異様な光景だった。

 大猿、小猿。茶色い猿に赤毛の猿。果ては白い猿までいる。

 三十匹以上にも及ぶ、猿の群れの中心には木製の棺があった。

 石の台座に置かれた木棺もっかん――。その中には若い黒髪の男が納められている。

 意味不明の状況だが、死者への冒涜は許せなかった。


「こら猿たち! なにしてますか!」


 声を張り上げると猿の群れは六花に気づき、ぱっと一目散に奥へ逃げていった。


「まったく。なんだというのか……」


 六花は濡れた宮女服の水を払いながら木棺へ歩み寄る。特殊な布地だから、どのみちすぐに渇くのだが。


 間近でよく見ると、木棺の中の男は意外にも死体ではなかった。

 瞼を閉じているが、胸が静かに上下している。どうやら眠っているだけらしい。

 だが何者だろう?


 男はかなり若く、しかも驚くほど貴族的で端整な容貌だ。

 とはいえ、着ている服は庶民風の筒袖つつそで短衣たんいで、武具類も身につけていない。

 髪も束ねておらず、艶やかで自然なざんばら髪だった。


 猿にさらわれてきた人だろうか?

 観察していると、ふいに彼の目がぱちりと開いたので六花は仰け反る。


「きゃっ!」

「……うるさいぞ、さっきから」


 黒髪の青年が紺色の短衣に包まれた半身をむくりと起こす。


「気持ちよく寝てたのに邪魔しやがって。誰だお前?」


 面倒臭そうに尋ねた青年は寝ているときとは印象がまるで違った。

 顔立ち自体は変わっていないのに、ひどく精悍。

 荒々しいものを胸の奥底に隠していそうな危険な空気を漂わせている。

 青年は木棺から這い出すと双眸をぎろりと六花に向けた。


(なに、この眼光)


 思わずたじろがされる。

 後宮の宦官とは生き物としての発熱量がまったく違う。

 粗野ではなく物腰そのものは洗練されているが、圧倒的に強靱な生命力を感じた。


(こいつが噂の最強の男……!)


 六花は動揺を素早く冷静に立て直して口を開く。


「あなたが孫なんとか、ですか?」

「ちょっと待て。質問したのは俺が先だ」

「それもそうですね。わたしは鈴六花。廣の国の仙妃に仕える侍女にして一番弟子です。あなたは?」

「俺は孫……大我たいがだ。素性や肩書きは今のところ不明」

「は?」


 六花は目をしばたたいて続ける。


「もしかして、ふざけてますか?」

「ふざけてはいない。どういうわけか記憶がはっきりしなくてな。名前以外はなにも思い出せない。なあ、俺はどこから来た何者なんだ?」

「わたしに聞かないでください。馬鹿にして」

「馬鹿にもしてねぇよ。本当に数日前までのことしかわからない。たぶんこの洞窟でなにかがあったんだとは思うが……。でなきゃこんな場所にいるわけないからな。だから記憶の呼び水になるかもしれないと思って、ここ数日は洞窟で寝泊まりしてた。都合よく寝る場所もあったしな」

「棺は寝る場所ではなく遺体を入れるものです」

「似たようなもんだろ?」

「全然違います。牛と豚くらい異質!」


 ぴしゃりと否定すると六花は深呼吸した。

 いけないいけない。

 この男、妙に人の調子を乱すところがある。冷静にことを運ばなくては。


「あなたは腕の立つ武侠のはずです。武者修行中に怪我をして、ここで療養していると村の行商人が言ってましたが」

「そうなのか? にしては怪我なんてしてないし、武器も持ってないけどな。その行商人、誰かと勘違いしてるんじゃないか。最近その手の腕自慢が多いらしい。風の噂じゃ孫悟空ってやつが有名だとか」

「そらっとぼけて。わたしは寝言に騙されません」

「ふん、武器なんか洞窟内にごまんと隠せるだろって? まぁ、その考え方は正しい。初対面の相手の話をたやすく信じるやつは早死にする」


 大我が不遜な微笑みを浮かべ、こいつは相当な曲者だなと六花は判断する。


 惑わされてたまるか。

 最初に村人に聞いた通り、彼は武者修行中の腕自慢なのだ。

 言い換えれば遊侠ゆうきょう気どりの不良青年にすぎない。

 世界最強には見えないが、こうして虚実織り交ぜた話術で相手を混乱させて戦う実戦的な業師なのだろう。


「提案があります。よろしければわたしと腕試しをしませんか?」


 六花は覚悟を決めて切り出した。


「お前と?」

「他に誰かいますか? アリとか?」

「いや、そうじゃねぇよ。なんで唐突に腕試しをしなきゃならないんだ?」

「したいから、で問題あります? 武器でも術でもなにを使っても構いません。やり方は自由です。とにかく相手を屈服させた方の勝ち」

「は、冗談だろ」

「本気も本気です。わたしはあなたよりずっと強いので。仙妃様から直々に術を教わった道士どうしなんです。あなたを負かすのは赤子の手の指をひねるより容易」

「なるほど……道術どうじゅつ使いか」

「わたしが勝ったら、あなたを手下として従えたいのですが、いかがでしょう?」

「おいおい本気か?」


 不遜な大我もさすがに目を丸くした。


「便利に使える子分が欲しい気持ちはわからなくもないけどよ。それにしたって強引すぎる。どうしたんだ? なんか切羽詰まってるみたいだな、お前」

「ははあ。わたしが怖いんですね? 見かけによらず胆力のない小心者」

「怖くねぇよ。小心者でもないが……ちなみにお前が負けた場合どうなるんだ?」

「友人になってあげます」

「……おい」

「どうせ猿くらいしか友達いないんでしょう? 都に来れば会ってあげますよ。わたしみたいな都会の女子とお喋りが楽しめるだけでも僥倖じゃないですか。もっともわたしは毛づくろいなんてしてあげませんけど。とりわけ臆病なエテ公には」


 流暢に煽りながら六花は考える。


 あえて無礼に挑発して勝負に乗らせる魂胆だったが、考えなくても途中から言葉がすらすら溢れ出てきた。

 じつは自分には毒舌の才能があったのかもしれない。

 ある意味、この男の図太い尊大な態度のせいで目覚めさせられてしまった。

 少々複雑な気分だが、どんな才能でもないよりはあった方がいいと思っておこう。


 喜ぶべきことに毒舌が功を奏して、事態は望ましい方向へ転がった。


「……ここまで馬鹿にされて引っ込むのも癪だな。いいさ、暇潰しにやってやるよ、その不公平極まりない腕試し」


 大我が黒髪をぼりぼり掻きながら応じる。


「お前のちんけな術なんて、どうせ効くわけねぇ」

「もしかしたらそうかもしれません。お手柔らかにお願いします、物知らずさん」


 勝ったな、と六花はほくそ笑んだ。――ちゃんとあの子も連れてきている。


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