第2話 仙転台で遠方へ

 六花にとって仙妃は正真正銘の恩人である。

 あれは四年前のこと――。


 もともと六花は地方の貧民として、酷薄な大家族のもとで育った。

 家族と言っても血のつながりはない。

 六花は捨て子だったからだ。

 物心ついたときには拾われた先の家で、日々こき使われて暮らしていた。

 ほぼ家畜のような扱いで、働き終わった後の食事は少量の残飯のみ。

 養父母がそうやって邪険に扱うのだから子供が遠慮するはずもない。

 義理の姉たちはいずれも恐ろしく性悪で、六花は毎日これでもかと虐められていた。


 ある夏の日の午後のことである。

 ひと仕事を終えて束の間の休憩を取っていると、さぼっているという名目で義姉たちは六花の髪を掴んで強引に外へ引きずり出した。

 そして小屋にあった棍棒で何度も何度も叩いたのである。

 六花としてはわけがわからなかった。


 後で知ったところによると、なんでもその日、義姉たちには腹が立つことがあったらしい。

 楽しみにしている流しの歌唄いが怪我で当分来られなくなったと聞き、誰でもいいから八つ当たりがしたかった――それが本音である。

 単に手軽な憂さ晴らしの対象が拾われ子の六花だっただけ。


 とはいえ、やられる側はたまったものではない。

 炎天下、全身を何十発も殴打された六花は、腫れ上がった顔で路上に倒れたまま、ぴくりとも動けなかった。

 そんなとき、ちょうど仙妃――何蓮花かれんかが偶然通りかかったのである。

 後で聞いた話によると、仙薬の材料を採集するために仙転台せんてんだいを使って遠方まで足を伸ばしていたのだという。

 六花も後年、その仙転台の使い方を知ることになるのだが――。


「あら! あなた仙骨があるじゃない」


 それが六花を見た仙妃の第一声だった。


「せん……こ、つ?」

「仙人になるのに必要な骨よ。先天的な形態異常ね。持って生まれてくるのは数百万人にひとりなんだけど、こんな辺鄙な土地で出くわすなんて」


 仙妃は倒れた六花に近づいてくると、手のひらを向けて何事かを唱え、すると傷はゆっくりと癒えていった。


「嘘っ? なにこれ」


 顔の腫れが治まって戸惑う六花に仙妃は満面の笑みを向ける。


「いいこと教えてあげる。あなた、ここにいても一生どん底よ」

「そう……なんでしょうね」

「でもわたしの弟子になるのなら、すべてが変わる。一緒に来ない?」

「え、あなたに……ですか?」

「他には誰もいないわ。これはいわば蜘蛛の糸よ。思い切って掴んで、性根の腐った連中とは今日で縁を切るの。わたしはこれでも高位の仙人でね。昇天する前に後継者を育てなきゃいけない。まぁ仙人になれるかどうかはあなた次第だけど」

「――行きます!」


 選択の余地などあるはずもなく六花は叫ぶように答えていた。


「うん、決まり。うまくいけば、あなたは蜘蛛の仙人になれるわ。身柄の件はお金で処理しておくわね」


 こうして六花は仙妃の弟子兼、お付きの侍女として後宮入りしたのである。



 ◇ ◇ ◇



(あれからいろんなことを教わった……。思えばあっという間だったな)


 四年前のそんな出来事を六花が自然と思い浮かべたのは、つい先ほど仙妃宮の奥の間を出る前に仙妃に小声で呼び止められたからだった。

 瑠瑠は先に立って長廊下を歩いている。

 ということは自分にだけ内密に伝えたい話があるのだろう。


「なんでございましょう」


 瑠瑠に悟られないように静かに仙妃の近くへ戻ると、こう告げられる。


「できれば言いたくないんだけどね。伝えないのはもっと酷だから、歯に布着せずにいくわ。六花、今回の試験で普通にやり合ったら、あなたは瑠瑠に負ける」

「えっ?」

「瑠瑠の術の素質は圧倒的よ。六花の潜在能力を一とすれば余裕で十はある。それはあなたも薄々わかってるんじゃない?」

「ええ……まあ」


 悔しいが否定できなかった。

 自分は根本的なところで術の才能が――ある種の精神的な腕力が瑠瑠に劣っていると六花は以前から肌で感じていた。

 まさか一と十もの差があるとは思わなかったが。


「でも勝ち筋がないわけじゃないわ。六花はわたしの最初の弟子だし、やっぱり思い入れがある。地力の差に途中で気づいても捨て鉢になってほしくない」

「仙妃様」

「聞きなさい六花。あなたは術の力では瑠瑠に劣るけど、知恵では遙かに上回る。優れた頭脳があるということよ。勝つには容赦なく悪辣に、それを駆使するしかない」

「悪辣……に?」

「そう。天地不仁、以万物為芻狗。この文わかる?」

「天地は仁ならず、万物をもって芻狗すうくと為す――。老子ですか」

「さすがに優秀ね。この世は無為自然。本来の自然界には仁も愛も正義も悪も存在しない。大切なのはあなたが生き残るために、なにを考えてどう行動するか」

「そのためには悪も為せ。わたしにとってはそれが正義であると?」

「自分で考えて自分で決めるのよ」


 仙妃が一呼吸分の間を置いて続ける。


眩暈集げんうんしゅうは簡単には回収できないわ。途中で荒事に巻き込まれるでしょう。瑠瑠なら力尽くで突破できるけど、あなたの非力な術では難しい」

「そう……ですか」


 確かに暴力沙汰は苦手だと思って唇を噛む六花に仙妃が顔をすっと近づける。


「だから、とっておきの噂を教えてあげる。どうするかはあなたの頭脳次第よ」


 そして仙妃は驚くべき助言を六花に与えたのである。

 それは額面通りに受け取っていいのか戸惑わされる内容だったが、今の六花は既に腹をくくっていた。


(瑠瑠に恨みはないけど、わたしは負けられない……。向こうに着いたら、やってみせる!)


 決意に満ちた表情で六花が長廊下を歩いていると、やがて仙妃宮の中庭に出る。

 美しい草花が生い茂る広い庭だ。

 池には桃色のはすの花が咲き、ひらひら飛んでいるのは白粉蝶。

 庭の中央にはこぢんまりとした霊廟れいびょうが建っている。

 これは仙妃廟せんひびょうと呼ばれる特殊な建造物で、見た目は小さな道観どうかん(道教の寺)だが、普通の人間は中に入れない。

 入口の扉を開けられるのは仙人とその弟子だけ。

 このこうの国には同様の仙妃廟があちこちに設置されていて、使用者はその間を一瞬にして移動できるのである。


 本来なら後宮の女性は自由に外出できないが、仙妃には壁をすり抜ける力があり、閉じ込めても意味がない。

 地上のことわりに縛られない特権的な存在である仙妃が後宮に滞在しているのは、あくまでも興味の対象である皇帝の近くにいたいという自由意志。

 出たいときには出るが、やがては戻ってくる。

 ゆえに、その仙妃の弟子も事実上、多少の外出を黙認されているのだった。


「お待たせしました。それでは行きましょう、瑠瑠」

「ん」


 仙妃廟の前で待っていた瑠瑠と合流した六花は扉を開けて中に入った。

 飾り気のない廟内の中心の床には、円柱形の大きな木製の台が設置されている。

 これが仙転台だ。

 六花と瑠瑠は高い台の上にひらりと飛び乗る。

 するとその足元には、大陸の地図が刻まれた大きな金属盤があった。

 地図上に点在する数多くの仙妃廟の場所にはくぼみがあって、そこに仙妃から受け取った令牌を入れると起動する仕組みである。


「どれどれ、えっと……河南地方にも結構ありますね。あ、ここはどうでしょう。少し歩けばすぐ福石村に着きます」

「ん、そうしよう」


 瑠瑠がうなずき、六花が示した地図上のくぼみに自分の令牌をはめ込んだ。

 そして目をかっと見開く。


「《開》!」


 瑠瑠が声を発した直後、強い圧力で建物全体が縦にどんと揺れた。

 ほんの一瞬の出来事。

 しかしそれで長距離移動は完了し、瑠瑠がくぼみから令牌を取り出す。


「着いた」

「お疲れ様です」


 六花と瑠瑠は仙転台から飛び降りると、扉を開け放って仙妃廟の外に出た。

 刹那、むっと濃厚な土の香りに包まれる。

 後宮とは全然違う、豊かな潤いを含んだ懐かしい田舎の空気だ。


「ここが河南地方ですか……」


 晩春の澄んだ空の下、六花は息を深く吸って辺りを見渡す。


 そこは小高い山の中腹だった。

 より峻険な山岳が、六花たちが今いる場所をぐるりと取り囲んでいる。

 背後には竹林が広がり、斜面の下には煙がたなびく巨大な集落が広がっていた。

 山の懐に抱かれた――あれが噂の福石村だろう。


「眩暈集の話が広まってる以上、村に行けば所在はわかるはず。そこからどうやって本を手に入れるかは交渉の腕次第ですけど、まぁ昼前には回収して帰れそうですね」

「ん」

「行きましょう」


 六花と瑠瑠は村に向かって斜面を緩やかに下り始めた。


 しばらくすると平地に至って分かれ道になる。

 立て札によると、村へつながる道と滝に続く道らしい。


「どうします? 瑠瑠はまっすぐ村へ向かいますか?」

「当然」

「では、ここで二手に分かれましょう。災いの予言書という性質上、事前準備なしで近づくのは危険かもしれません。わたしは周辺を軽く調べてから行きます。ああ、帰りは一緒に後宮へ戻りましょう」

「ん、わかった」


 瑠瑠は即座に六花に背を向けて、福石村の方へすたすたと歩き出す。


 やや素っ気ないが、これでいい。

 競争相手と馴れ合う必要はない。

 容赦なく本気でやらなければ自分は彼女に到底かなわないのだから。


「こちらも行くとする。――一世一代の大勝負に」


 六花は唇をぎゅっと引き結んだ。


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