人生の八分休符
さとみ@文具Girl
人生の八分休符
リミコは私のあこがれだった。それは大人になった今でも同じだ。
彼女は昨年、フランスへピアノの勉強のため、留学に行っていた。予定は二年から三年、あるいはもっと――と行く前の彼女は息巻いていた。でも実際は九か月ほど経ったころ、彼女は留学を打ち切った。それを知ったのは今年の春。リミコから一通のメールが届いたからだった。
〈ハナへ……留学をやめ帰国しました。近々、会えませんか。たまには実家の方で会いたいです〉
いたく他人行儀なメールに私は不安を覚えた。いつもなら〈ハナ! 今度の日曜、空いてる? 原宿でも行こうよ!〉という調子だったのに、どうしてしまったのだろう。
リミコと会うのに理由はいらないし、断る訳もない。私はその日のうちにメールを返した。
〈そうだね、横須賀で会おう! リミコに会えるのが楽しみだな〉
ゴールデンウィークの真っただ中、私は混雑する汐入駅の改札口そばで、つま先立ちしてリミコのすがたを探していた。
「ハナ……! こっち」
先に見つけたのはリミコの方だった。改札をスルッと抜けてこちらへ歩いてくる。
私はうれしくなって笑顔で「久しぶりだね、リミコ。元気そう――」と言いかけたけれど、至近距離まで近づいたリミコの顔を見て思わず言葉を失った。
(あれ? なんか、暗い……)
彼女の表情はどう前向きにとらえても「元気そう」と言えるだけの明るさはなかった。もちろん化粧で血色良くさせているけれど、どこか憂い気な雰囲気は隠しきれていない。それになにより、彼女のトレードマークと言えるほど長かったおさげがなくなり、男性と見誤るほどのショートヘアーになっていた。
(やっぱり急な帰国になにか理由でもあるのかな)
私は表情に出ないように笑顔で「元気そうでなによりなにより」とリミコの肩を抱いた。
「早くコースカに行こう! 覚えてる? 昔のダイエー。四年ぐらい前にリニューアルしたんだって! 私も久しぶりなんだ」
私はリミコの手を引いて歩きだした。
「もう、ハナったら。走らないでも建物は逃げないよ」
「は、走ってないよ」
いや、私の心は走っていた。それに合わせるように足も小走りになっていたようだった。
(だって……だって不安なんだよ。リミコ)
私はまた笑顔を取りつくろう。そうしないとリミコにすべてを聞きだそうと躍起になってしまいそうだったから。その変化の理由を。なにがリミコをそこまで変えてしまったのかを。
リミコと私は幼稚園生時代からの幼馴染だった。そして中学の卒業まで十年近くいつもどこでも一緒に歩いていた。でも私にとってリミコは幼馴染や友だちというよりもあこがれの存在だった。整った顔立ち。キレイな黒髪のおさげ。笑った時の天使のような目元と口元。性格も優しいし気立てもよく、だれからも好かれていた。同級生からも、先生たちからも、保護者方からも。頭も良いし、運動も苦手じゃない。非の打ち所がない、という言葉を知ったとき、これはリミコのためにある言葉だと思ったぐらいだ。
そんなリミコがかがやくのはピアノを弾いているときだった。幼稚園に入る前から習っているというそのピアノの演奏は、音楽素人の私でさえ、感動で胸を激しく揺さぶられるほどだった。けれどリミコは人前でピアノを弾くことを好まなかった。小学生のころはピアノが弾ける子たちはみんな自慢するように教室の電子ピアノで弾いてみせたというのに、リミコはどんなに頼まれても人前で曲を弾くことはなかった。
ただ、私の前でだけリミコはピアノを弾いてくれた。リミコの家に遊びに行ったとき、私が「聞きたいな」と言えば、リミコははにかみながらも「いいよ。ハナのためなら。何が聞きたい?」とリクエストに応えてくれた。
高校から音大付属の学校に進学するのは、中学一年生のときから聞いていて知っていた。最初は親の意向だったらしい。リミコの成績なら県内の進学校にでも行けるだろうし、そうじゃなくても他に選択肢があるだろうと思った私は、リミコに一度だけこう提案したことがある。
「同じ高校に通おうよ。リミコの成績で進学する高校、選んでいいからさ。私も勉強、がんばるし!」
でもリミコは首を縦に振らなかった。
「私にできることは、ピアノぐらいしかないと思う」
そう言っていた彼女が、予定より早く帰国した。長いおさげも切り落として。その理由を彼女は私に話してくれるのだろうか。
コースカの入り口を進み、エスカレーターを上っていく。右も左も人ばかり。
「ゴールデンウィークだし家族連れが多いね」
「うん。時間的にお昼だけど、どうする?」
リミコの言葉に、私はスマホを出して時間を確認した。十一時を過ぎているから、レストランはどこも開いているだろう。でもこの混み具合ですんなり入れるお店はあるだろうか。
「とりあえず三階のレストラン街に行こうか。入れそうなところがあれば入ろう」
私がそう言うと、リミコは「分かった」とうなずいた。しかし三階に上がってみても人の多さは変わらなかった。「どこもいっぱいだね」とリミコは苦笑している。レストラン街は飲食店が十店舗ほど連なっている。けれどどこも店の外に客が並び、店前の通りも行く人来る人でごった返していた。
「この調子じゃフードコートもいっぱいかな」
「そうだね。どうする? ハナ」
私はうーん、とうでを組んで通りを歩いた。歩いているというより、人の波に押されているようだった。
「下の階のイオンで、おにぎりかサンドイッチでも買わない? でさ、ヴェルニー公園のベンチで食べるの」
「良いね。今日はあったかいし、天気も良いから」
私たちはそのままレストラン街を抜けてエスカレーターを目指した。エスカレーター手前の楽器屋を横ぎる。するとリミコが「ハナ……」と私のうでをつかんだ。
「リミコ? どうかしたの?」
私は楽器なんて、学生時代のリコーダーしか知らない。だから楽器屋もそこに〈ある〉ことしか知らなかったし、今まで覗いたこともなかった。けれどやはりリミコはちがうらしい。むかしはなかった楽器屋に興味を持ったのだろう――と思って彼女の視線をたどると、彼女の興味がお店ではなく店の前に置いてあるピアノだと気づいた。そのピアノは売り物ではなかった。なぜなら〈ヨコスカ街なかピアノ〉とはり紙があったからだ。最近設置されたストリートピアノだった。そのピアノにはたくさんの子どもが群がっていて、交互に鍵盤を叩いていた。
「ピアノがあるね。リミコも弾く?」
私が茶化すように言うと、リミコはとたんに「ううん」と目を逸らした。そのまま逃げるようにエスカレーターを降りていく。
「ちょっと、どうしたのリミコ」
追いかけてリミコのうでをつかむ。リミコはチラッとだけこちらを見て私だと気づくと、小さく「ごめん、ハナ」とつぶやく。
「別に良いけど。どうしたの? もしかして指でもケガしてた? それでピアノが弾きたくなかったの?」
私がそうたずねてもリミコはくちびるを噛んで黙ったままだった。
「まあ、とりあえずさ。お昼たべよう」
リミコのあまりに暗い表情をなんとか和らげようと、優しく明るい声で笑った。そしてようやくリミコは「うん」と小さく返事をしてくれた。
ヴェルニー公園は横須賀港に沿って広がっている。その園内のいたるところにバラが咲いていた。とくにこの時期になると咲きだす種類が多くて、リミコの強張っていた顔もようやくほぐれてきた。
「あ、そこのベンチがあいてる」
遊歩道に並ぶいくつものベンチ。どれもカップルや家族が座っている中、一つの空きを見つけた私は我一番にと駆けていってベンチを取った。リミコが遠くからでも分かるぐらい吹きだして笑っていた。
「もう、笑わなくてもいいじゃん」
「だってハナ、必死すぎ」
「良いじゃん良いじゃん」
私はさっそく、イオンで買ってきたおにぎりの包装を剥いて食べ始めた。
「ハナ、よっぽどお腹が空いてたんだね」
「まあね」
最初のおにぎりは昆布だった。私は「おいしいおいしい」と言いながらどんどんほおばっていく。
「あれ、リミコは食べないの? サンドイッチ買ってたよね?」
「あ、うん。食べるよ」
リミコは私にうながされてようやくサンドイッチのパックを開いた。けれどなかなか食べようとしない。
「もしかして、お腹空いてない? というか、体調悪い?」
「ううん。体調は、良い。健康だよ」
リミコの口調によどみがない。健康だよ、という彼女の言葉は本当なのだろう。じゃあ、何が彼女を悩ませているのだろうか。
「ハナは、最近、何してるの?」
「何って?」
「なんでも。どういう一日を過ごしているのかなって」
私はリミコの問いの意味を計りかねていたが、とりあえず「仕事と趣味かな」と答えた。
「レストランカフェで働いてるんだよね」
「そう」
「じゃあ、趣味は?」
「推し活!」
私は思わず声を張って答えてしまった。その勢いにリミコは一瞬、目を丸くしてしまった。
「推し活?」
「そう、推し活。推しを愛し、その愛を発信して、同じ推しの人と交流する。一人でも推すし、SNSの仲間とも推しを推し合うの」
私の熱弁にリミコは「へえ、はあ」と生返事。
「それって、アイドルとか、そういうのを追いかけてるってこと?」
「私の場合はアイドルじゃないけど、似てるかな。アイドル好きの人がアイドルを追いかけているみたいに、私は自分が好きな文房具を推すの」
「文房具を、推す」
リミコは噛みしめるようにくり返した。私はクスッと笑みをこぼした。
「文房具が大好きってこと。オタク的と言うか、コレクター的と言うか、そんな感じだよ」
「文房具って、シャーペンとか、ボールペンのことだよね?」
「そうそう。他にものりとかクリップとかハサミとか定規とかノートとかメモ帳とかふせんとか。とにかく〈文房具〉って言われるものは何でも好きなんだ」
私の熱量にリミコもようやく頭がついてきたようだった。
「そう言えばハナって、昔から筆箱がだれよりも大きかったし、ペンの数も半端なかったけど、もしかしてそのころから?」
「そういうこと」
私はうなずくとカバンの中からペンケースを取り出した。学生のころに比べればずっとスリムになったけれど、それでもカバンの中では一番重くて大きい荷物だった。
「昔からカラーペンとかボールペンが好きだったけど、大人になってお金に余裕ができるといろいろ集め始めてさ。今じゃ〈文具女子〉って言葉があるぐらい、私みたいな文具好きの人って多いんだよ」
「へえ、すごいね。推し、か」
リミコは私のペンケースを受け取って中をのぞいた。ペンだけでなくスリムなハサミやホチキスの一つ一つを大事なものとして扱ってくれた。
「リミコは? 推しってないの?」
「……推し、か。いたよ」
「いた……? 過去形?」
私は首を傾げた。今はもう推していない、ということだろうか? そんな私の表情を察して、リミコは切なそうに言った。
「死んじゃったんだぁ、その人」
リミコは私にペンケースを返すと、ようやくサンドイッチを口にした。
リミコは中学三年生になると、急に付き合いが悪くなった。私たちの関係が悪化した、という意味ではなく、放課後や土日に一緒に遊べなくなってしまったのだ。
「高校、ちがうところにしたんだ」と告白してくれたのはその年の夏休みに入る直前だった。
「え! 高校、音大付属じゃないところにするの?」
私はてっきりそう勘違いしてしまったけれど、リミコは「そういう意味じゃないんだ」と首を横に振った。
「別の音大付属の高校。いずれ行きたい音大に進学するためには、今までの志望校じゃむずかしいって分かったから」
リミコはそう言うと「夏休みも、お母さんにお願いして有名な先生の家で合宿させてもらうことにしたの。だから、あまり会えない」と申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、ハナ」
私はリミコが遠くへ行ってしまうように感じながらも、ひき止めることはできなかった。
「ううん、大丈夫。私も塾が入るから」
ウソだった。塾に通ってなかったし、夏休みに塾の講習に行く予定もまったくなかった。
「応援してるよ、リミコ。志望校に入れると良いね!」
これは本音だった。友だちである以上にあこがれの存在のリミコが「がんばりたい」と言っているのだから、応援しないわけにはいかない。そしてリミコは第一志望だった県外の有名な音大付属の高校へ進学し、行きたいと言っていた音大にも入れたのだった。
「リミコはなんで、いきなり志望校を変えたの? 行きたい音大が変わったって言ってたけど、どういう感覚なのか、私にはいまいち分かんなかったんだよね」
お互いにお昼の食事を終え、ベンチで腰かけたまま懐かしい思い出話に花を咲かせているうち、私はそんなことを思いだしてたずねた。するとリミコがあからさまに顔をしかめた。私は慌てて首を横に振った。
「ご、ごめん! 言いたくないなら良いんだよ」
「ちがう。むしろ、いつかはハナに話したいと思っていたから」
リミコは自分の眉間に寄ったしわを指先でのばしながら「あのころの話。聞いてくれる?」と言った。むしろ聞きたくて仕方がなかった私は、急いてしまう気持ちを抑えるようにゆっくりと「聞かせて」と答えた。
「中学三年生のとき。私、はじめて〈好き〉って思える人に出会えたんだ」
「え、そうなの?」
私はまばたきをしながらリミコをみつめた。リミコが好きになった人がいるなんて……。するとリミコは慌てて「付き合いたいとか、そういう感じの好きじゃなくて」と私の想像を否定した。
「そうだね……ハナの言葉を借りるなら、それこそ〈推し〉だね。推したいほど好きな人ができたの」
「それが、さっきの……死んじゃったひと?」
「…………。……うん」
私は尋ねてから「やってしまった」と思った。リミコは自分から「聞いてくれる?」と言ったが、実際はまだ気持ちの整理が付いていないのだと気づいた。だから「死んじゃった」と言ったときも、今の私の問いに対しても、リミコは苦しそうに顔をゆがめた。
「ごめん、ハナ。こんな顔ばっかみせて」
「な、なんのことかな」
「気づいてる。ハナが気を遣ってくれてることも、私が自分の気持ちに整理が付いていないことも」
「リミコ……」
「だからこそ、聞いてほしい。私はハナに話したいし、だれかに知ってほしいってずっと思ってたから」
リミコはそういうと、意を決したようにカバンからスマホを取り出して、アルバムを開いた。そこにあらわれた一枚の写真を私に見せてくれた。キレイな栗色の毛をした、彫りの深い男性だった。
「この人?」
「私が中学三年生のとき。そのときもゴールデンウィークだった……」
リミコは私にスマホを預けたまま、話を続けた。
「お父さんの知り合いからもらったリサイタルのチケット。あまり興味なかったし知らない人だったから行かないつもりだった。でも、気まぐれで行ってみた。そのリサイタルが、この人のピアノの演奏だった」
ひと息に言うと、リミコはペットボトルのお茶をひと口飲んで小さく息を吐いた。
「はじめて、人の演奏に胸が震えた。ドキドキして、息をするのも忘れてしまった。もしかして、恋かも……なんて思ってしまうほど、この人のピアノの演奏に惹かれたの」
「はじめて?」
「そう、はじめて。すごいなって思う人はいたけれど、胸を鷲掴みにされるほど感動したのはこの人がはじめてだった。優しく演奏するのに情熱的で、零れる汗がまるで削った命の雫のようだった」
その写真の男性はこちらをジッと見つめている。ピアノのそばに座っていて、背がピンとしている。私には普通のピアニストにしか見えなかった。
「家に帰っても、その人のピアノが私の頭の中で鳴り続けた。もう一度、その人のピアノを聞きに行きたい――そう思っても、もう日本にいなかった。世界巡行の途中だったみたいで……」
「そんなに有名な人なの?」
私がそう聞くと、リミコは「どうだろう」とあいまいに答えて首をすくめた。
「前年にコンクールで一位を取っていて、それで世界巡行だったみたいだけど、そのあとはあまり表舞台に立たなかったんだ」
「なんで?」
「そのピアニストは〈先生〉になるのが夢だったから……なんだって」
リミコの言葉に私はピンと来た。
「もしかして、行きたいって言っていた大学に?」
リミコはすぐに「ううん」と否定した。
「それはちがう。そもそもフランス人の先生が日本で教えるなんて、滅多にないと思うよ」
「そ、そっか」
私は自分の無知さを恥じた。けれどリミコは気づかないまま話を続けた。
「でも、私が行った大学は世界中の音大とネットワークがあったの。留学先のツテ、ね。だから、その推しのピアニストが教えている大学にも行けるかもしれない……そう思ったのは事実だよ」
リミコはようやくスマホを私から受け取って電源を切った。私は聞いても良いものかと思いつつ、でもここまで来たら聞かずにはいられなかった。
「リミコは、フランスに留学に行って、その人に会えなかったの?」
彼女は「そうだよ」と消えるように小さな声で答えた。
「八月にフランスに行って、九月から大学で授業……と思ったら、その人が世界巡行をはじめちゃったんだ。すれ違いだったの」
「そっか……」
「でも、冬になったらフランスの大学に戻ってきて、特別講義があるって聞いてたから、ずっと待ってた。私はその人にピアノを教えてもらいたい、そして私のピアノを聞いてほしい……そう思ってた。そのためにイヤになるほどピアノの練習をしたんだもん」
「リミコ……」
ひざの上でリミコはこぶしを強く握りこんだ。私は続きを聞かずとも思い当たってしまうことがあった。
昨年の十二月、フランスで飛行機事故があった。それに日本人も乗っていたというから、日本でもニュースになって知っていた。だから、リミコの好きだったピアニストも……。
「飛行機事故が起こるなんて、思うわけないじゃん、この時代にさ」
やりきれない怒りがにじむリミコの言葉に、私はなんて返せば良いのか分からなくて、しばらく黙った末に「そうだね」と返した。
リミコはうなだれた。その肩をなでてあげたいと思ったけれど、私の手は胸の前から動かなかった。
推しがなくなるって、どういう気持ちなんだろう。
ずっと好きだったものが消えるって、どういう気持ちなんだろう。
私の推しの文房具がこの世から消えることはほぼないと思う。でも、リミコが推していた人は、もうこの世界にいない。
リミコがピアノに必死になるぐらい、強い影響力を与えた人。その人に会うために高校も大学もがんばり続け、フランスへ向かったのだろう。
〈留学の予定は二年から三年、あるいはもっと――〉
そう言ったときの空港でのリミコの顔を、私は思いだしていた。
「やっと会えるの。会いたかった先生に!」
(だから、余計にやりきれないよなあ)
会いたくて努力して。その努力が叶って、フランスまで行って。すぐに会えなくても冬になれば――そう思っていたら、その人がこの世からいなくなってしまうなんて。
(私には想像もできない)
リミコとその人をつなげていたものがピアノだったんだろう。その繋がりが無くなってしまったリミコがコースカに置いてあった〈ヨコスカ街なかピアノ〉に拒絶したのも、納得がいく。でも、このままリミコはピアノをやめてしまって良いのだろうか?
「ねえ、リミコ」
私はようやくリミコの手に触れることができた。未だに怒りで震えていた彼女の手が、ビクッと震えた。その手は燃えるように熱かった。その手を私は両手で包み込んだ。
「私、実は文房具より長く推してるものがありまして」
ふざけて聞こえないように、けれどつとめて明るくリミコに話しかけた。
「え? それは、なに?」
リミコはうろんな目で私を見ていた。私は「リミコ、あなただよ」と優しくささやいた。
「……え?」
「私、文具よりも前から、リミコのことを推してるの」
「ちょっと、冗談はやめてよ」
リミコは眉を寄せて少し怒るように言った。でも私は彼女から目をそらさないで「冗談でもウソでもないよ」と答えた。
「私はリミコが好き。リミコの手が好き。リミコの手が奏でるピアノが好き。ほら、リミコ推しなの、分かってくれる?」
「わ、分かんないよ……」
「分かんないかなあ」
私はリミコの手を優しくにぎったまま「そうだなあ」と続ける言葉に悩んだ。
「リミコって、私の前ではピアノを弾いてくれたじゃん? 同級生の前じゃ絶対に弾かなかったのに」
「それは……ハナだから」
「うん。だからね、私もリミコだから、好きだし、推してるの。だからリミコ。私、リミコにお願いがあるんだ」
「……なに?」
「これが最後でも良い。今、リミコのピアノが聞きたい。もう一度だけ……」
私のお願いに、リミコの手は震えた。
「む、ムリだよ……もう半年近くピアノ弾いてないから」
「たった半年だよ? リミコなら弾けるって」
それでもリミコは首を横に振った。
「だって、ここにピアノないし」
「ピアノがあれば弾いてくれるの?」
「え?」
私はリミコの手を引いて立ち上がらせると、彼女の荷物も持って歩きだした。公園の中央まで行くと、リミコは「あっ」と声を上げた。そこには一台の白いピアノが置かれていた。
「実はここにも街中ピアノがあるんだよね」
「もう、ハナったら……」
リミコはあきれたようにゆっくりと私の手を振り解いた。
「ちゃんと調律されてるの?」
「されてるんじゃない? っていうかさ、リミコ。むかしからこう言うじゃない。〈弘法、筆を選ばない〉ってさ!」
「私は弘法じゃないよ」
リミコは私に背を向けてピアノの前のイスに浅く腰掛けた。
「せめて、ビールの一杯ぐらいはおごってね」
武者震いするリミコの肩。鍵盤の上にかざされる両手も、かすかに震えていた。でも、リミコは意を決して鍵盤を鳴らした。
ドビュッシー〈亜麻色の髪の乙女〉。――それはリミコがフランスに発つ前日、彼女の家で私のために、そして何より自分自身のために弾いた曲だった。
落ち着いた曲調のメロディーがリミコを中心に奏でられる。リミコの手が、跳ぶ……そして流れる。彼女の生み出す音、それはまるでかがやく朝露。命の尊さ。
(よかった……弾けたね、リミコ)
私は目尻に浮かんだ涙をそっと拭った。この先、リミコがどんな選択肢を選び、そのときにピアノも私もそばになかったとして、それでもきっと彼女はこうやって立ち上がっていけるだろう。
「――こんな感じ。意外と弾けたなぁ」
「よかったよ」
私の拍手以外にも、いつの間にか集まっていた十数人の観客からの拍手に、リミコは恥ずかしそうにその場を後にした。
「リミコ。どうだった?」
「なにが?」
「なにがって。ピアノだよ」
バスに揺られながら私はリミコに尋ねた。
「弾けたね」
「まるで他人事だなあ」
「あはは」
リミコは笑った。そして笑いながら「でも、やっぱり……ピアノの勉強はもうやめるよ」と言った。
「やめるの?」
「趣味では続けるかも。でももうピアノの道に戻ろうとは思わないよ。……あの人がいないこの世界で、ピアノを続ける理由が私には分からなくなってしまったから」
私は「そう」と彼女を肯定してあげることしかできなかった。
「でもね。ハナが聞きたいって言えば、いつでも弾いてあげるから」
「本当? うれしい!」
バスがゆっくりと停車した。横須賀中央駅の駅前バス停に着いたのだ。私たちは慌てて降りる。
「約束だからビール一杯おごらせてね、リミコ。やきとりで良い?」
「……ねえ、ハナ」
「うん? やきとりはイヤだった?」
私が笑顔で振り返ると、リミコがわずかに頬を染めながらこちらをジッと見ていた。
「ありがとう」
「なにが?」
「話を聞いてくれて。……それと」
「それと?」
「私の推しも、ハナだから。一番好きなのは、ハナだよ」
そう言ってリミコは大きく一歩を踏み出した。
「ハナ、ありがとう。大好きっ!」
リミコは勢いよく飛びついてきた。私の首に手を回して強く抱きつく。その勢いに倒れまいと、私は両足を踏ん張った。そして「知ってた」と言って大きく笑った。
人生の八分休符 さとみ@文具Girl @satomi_bunggirl
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます