6.新たな試みと不穏な匂い
「
猩々軒の向かいにあるそば処 黒いけの店先で、お昼の営業を終えて
柴本と同じ
「んー、ちょっと色々ありまして」
誰かと比べるようなことを言うからだよ。へらへらと笑う便利屋の元締めを、肘で小突いてたしなめる。
「立ち話もなんだし、中に入りなよ」
「へへ、ご厄介になりやす」
穏やかで人当たりの良さそうな笑みを浮かべる黒池氏にうながされるまま、柴本とわたしは店の戸を
彼が切り盛りするこの店は、猩々軒に次いで歴史ある店だ。戦争が終わって物資が不足する中、私財を投じてヤミ市を開いたのは園山氏の先祖だ。それを公私の両面で支えていたのが、黒池氏の先祖だったと聞いている。
入口から見た感じでは、こっちの店はマトモに見える。わたしは少しだけホッとした。
3つある小上がり席のひとつに上がり、店内を見回す。道路をはさんで向かいにある猩々軒と比べると狭い店内は、年季こそ入っていたものの、隅々まで手入れと掃除が行き届いていた。昼食の時間を過ぎた今、店内にいるのは、黒池氏の他にはわたしと柴本だけだ。先ほど猩々軒でたらふく食べた同行者は、座布団を枕に畳の上に寝転んでいる。行儀が悪いと
そうしていると、夜のための仕込みを一段落させた黒池氏がやって来た。廊下と座敷を隔てる上がりかまちに腰を下ろすと
「今日はフリーペーパーの取材だよね? でも、さっきのあの様子だと……」
「そっすね。あれじゃ記事を書かせてもらうのは難しいかも。お、どうもすんません」
黒山氏がほうじ茶を置いてくれるのと同じタイミングで、柴本はむっくりと上体を起こした。
『商店街に経緯を払い、伝統を壊すことがないように』
フリーペーパーを発行するにあたり、園山氏から提示された条件だった。つまるところそれは『新参者がデカい顔をするのは許さない』を意味する。
宣伝すべきものは何ひとつない、むしろ悪影響でしかない猩々軒をわざわざ
それにしても、うーん一体どうしたものか。このままだと
「まだ試作品なんだけど、良ければどうかな? 甘い物は別腹っていうだろう?」
黒山氏が出してくれたのは、2種類の生菓子だった。シフォンケーキ、それとプリンいやババロアだろうか。どちらもうっすらと茶色みを帯びている。それぞれ可愛らしい陶器の器に盛り付けられ、生クリームとアラザン、フルーツうとスペアミントで飾られている。美味しそうだ。
「シフォンケーキとプリン。どっちにも
「こりゃ良いじゃないですか! SNS映えしそうで」
わたしと柴本の様子に、黒山氏は尻尾を揺らして嬉しそうな表情を見せる。が、首を横に振り
「実はもうやってるんだよ。お店のアカウント作ってさ。でも、全然拡散されないしお気に入り登録だってほとんど付かない。フォロワーだって全然増えないし」
「そこらへん、やっぱり難しいっすね」
うーん、それは困りましたね。柴本もわたしも首を横にひねり――そうだ!
「どうした?」
お店紹介コーナーにSNSのアカウントを載せるのはどうだろう? 二次元コードを付ければ携帯端末から簡単にアクセスできるし――
「素晴らしいね!」
黒池氏は目をキラキラと輝かせた。
「もっと色々聞かせてよ! もしかしたら、今度こそ上手くいくかもしれない!」
あ、でもひとつ大きな問題が。
「どんな?」
通りに面したガラス窓の向こうにある、猩々軒の建物。それを見た。
「あー、そうなんだよなぁ。うーん……」
一転して困り切った様子で、黒池氏は呻いた。
柴本もそうだけれど、獣人の年齢というのは見た目では分かりづらい。しわだらけの顔をした園山氏と同い年と聞いたときには内心驚いた。ただ、近くでよく見れば、黒くてつややかな毛並みのところどころに、白いものが浮かんでいるのが見えるあたりに、なんとなく察することができた。長年にわたり気難しい幼馴染みのフォローをしてきたのだろう。などと考えていると
「それにしても、あんなに怒鳴り散らしたのを見たのは久しぶりだよ。本当にどうしたんだい?」
「えーっと、それがですね……」
多少歯切れの悪い様子で、先ほどの出来事を話す柴本。
横で見ながら思い返す。知り合ってから数年。他人の感情を敏感に察知するこの男が、無神経に物を言うのには驚いた。少しガッカリしたと言っても良い。ただ、何か考えがありそうな気もした。
「ああ、そうか。言っちゃったのか」
黒池氏はため息をついた。
事情はどうあれ幼馴染みの
「園ちゃん、親父さんと比べられるのをすごく嫌がるんだ。前もって言っておくべきだったよ」
向かいにそびえ立つ猩々軒に目をやりながら言う。
「猩々軒さんのところはずっと、立派な人達ばっかりだった。園ちゃんは……まぁ、ちょっと気難しいところはあるけど、悪いヤツじゃないんだ。分かって欲しい」
「それにしても妙な人っすね。怒っているのに、嬉しそうな匂いがするなんて」
「そういうものなのかい? 気付かなかったな」
「なんつーか、香水で上書きしているみたいな気もしたけど、香水ともまた違うような……」
匂いを思い出すように鼻をひくひくさせながら言うのに、黒池氏は首をかしげた。柴本いわく、人――人間や獣人その他少数種族――を含めたあらゆる生き物は、感情に合わせて体から漂う匂いが替わるのだという。
獣人は人間よりも身体能力に
が、それも個人差が激しいようだ。目の前にいる人物の感情や健康状態までも正確に嗅ぎ分ける同行者と黒毛の店主とでは、どうやら大きな隔たりがあるようだ。
犬狼族ふたりを横に、頭の中で情報を整理する。
ひとつ。感情の匂いを覆い隠すような、園山氏の匂い。
黒池氏でも気付かなかったということは、よほど嗅覚の優れた人でなければ分からないものらしい。
もうひとつ。カウンター越しに見た、オレンジに濁った園山氏の目。ある種の薬物の常用者にみられる特徴だ。心当たりがあった。ビーストテイマー、その内服型。
〝獣よけの香水〟と呼ばれるものがある。獣人のすぐれた嗅覚を
どうにも嫌な予感がする。が、現時点でそれを口にすることには抵抗があった。
多種族共存を理想に掲げるこの町、
そのようなものについて、どうして知っているのか。危険を呼びかけるのならば、わたし自身の生い立ちについても説明せねばならないだろう。
知りうる限りの話をしたとして、どういう反応が返ってくるのか想像が付かない。もしそれで、今の暮らしを失うことになるとしたら。考えたくもなかった。
「で、話を戻しましょうか。次に作る記事の内容ですけど、やっぱり猩々軒さんの紹介は一旦置いといて、こういう新しい試みから始めちゃいましょうよ」
「うーん、それは園ちゃんが怒るだろうなぁ……」
机の上に並べられたデザートを前に言う柴本に、しかし黒池氏は首を縦に振ろうとしない。
「大丈夫ですよ。この商店街を立て直すためには、現状それが一番いい。話せば分かってくれるんでしょう?」
「それはまぁ……きっとそうなんだけど……」
幼馴染みを義理立てしたい気持ちが大いにある一方で、自分たちが置かれている状況を理解しているのだろう。悩んでいるのが何よりの証拠だ。
こちらに優性に傾いていることを嗅ぎ取った同行者は、もう一押しとばかりに
「決まりですね! 良い記事を書きますんで!」
ちょっと待った! それ、わたしが書くんだよね⁉
勝手にハードルを上げられ、抗議の声を上げる。まだ起きてもいないことを心配する余裕はなさそうだ。
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