2章2の6

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 志麻しま氏真うじざねを見送るために屋敷の表に来ていた。泰朝やすとも氏真うじざねは一時を優に超えるほど二人で話し込んでいた。すでに夕方。西の空は赤みを帯びている。


 表のたまりには朝比奈あさひなの家来の者たちがたむろしていた。中には馬をく者もいる。


にいさま、御屋形おやかた様が見えないようだけど、一緒ではなかったの?」

「今、母上からの挨拶を受けているから、そのうち来るんじゃないか」


 少し時間がありそうだ。志麻しま泰朝やすともに気になっていた疑問をぶつけてみることにした。


「ねぇ、にいさま」

「なんだ?」


御屋形おやかた様にあんな口調で大丈夫なの?」

「あぁ、そのことか。表で言っているわけでもないから大丈夫だろう」


「でも相手は御屋形おやかた様よ」

「んー」

 泰朝やすともはポリポリと頭をかくと続けて答えた。


「それは逆さまだ。御屋形おやかた様だからだ」

「逆さま?」


御屋形おやかた様は貴種だ」

「貴種……」


 にいさまの言わんとしていることがわからない。御屋形おやかた様と呼ばれるのだからとうとい存在であるのは当たり前だ。改めて言われるようなことでもないことなのだ。


「『御所ごしょが絶えれば吉良きらが継ぎ、吉良きらが絶えれば今川いまがわが継ぐ』。聞いたことがあるだろう?」

「ええ、御所ごしょ足利あしかが将軍家に跡継ぎがなく吉良きら家にもなければ、将軍職は今川いまがわ家の方が継ぐことになる、ということね」


「そうだ。実際に今川いまがわ家が将軍職を継ぐ事態になるとは思わんが、それだけ足利あしかが一門の中でも高い地位にあるということだ」

「それならば、一層砕けた口調はまずくない?」


「正しい家臣の道、理想の家臣の道からはまずかろう。だが、御屋形おやかた様の身になったらどう思うか」

御屋形おやかた様の身……かぁ。考えたこともなかったわ」


御屋形おやかた様は貴種。皆がひれ伏すが今は戦国、下剋上げこくじょうの世。西に目を向ければ尾張おわりでは守護代ですらなかった者が今や支配者気取りだ。さらに西、美濃みのなんぞ元々どこの馬の骨とも知れん者が守護代家を乗っ取り、やはり支配者の顔をしておる。いつ誰が裏切るかわからぬ。それは今川いまがわ家に仕える者も同じ。御屋形おやかた様の前で伏せられた顔はみな能面のようなものだ。恭順した顔の能面のその下で何を考えているか分かったものでない」

「ええ、そうね」


「偽りの能面ばかりを見せられ続けたら心がおかしくなろう」

「だから、逆さまなのね」


「そうだ、皆が本心を隠すから、俺は本心を隠してはならぬ。俺は今川いまがわ家の重臣、朝比奈あさひなの家に生まれ、年も御屋形おやかた様と同じだ。そういう星の下に生まれたのだと思っている」


 にいさまはそんなことを考えていたのか。一見、道理から外れているようで筋道を立てて道理を考え、それに従う。にいさまらしい。


 玄関の奥から御屋形おやかた様が母上、母さまを引き連れて歩いてくるのが見えた。


「待たせたのう」

「いえ」

 泰朝やすともが短く答える。


「姫、その顔、わしの話でもしておったか?」

 図星をかれてドキリとした。目を泳がせないようにし、平静を装うので精いっぱいだ。


「いえ、あと五日もすれば正月ですので、正月になにをやろうかと話をしておりました」

 にいさまは事も無げに話を引き取った。


「さようか。ところであれはなんなのだ?」

 氏真うじざねは表のたまりにいる家来たちをいやそうな顔をして指さした。


駿府構すんぷがまえまでの警護にございます」


「いらぬぞ。わしには竹丸たけまる亀吉かめきちがおるでのう」

「あれらの者は普段、御屋形おやかた様の近くで仕えることが無き者たちにございます。ぜひ、あの者たちに御屋形おやかた様の警護の栄誉をお与えくださいませ」


「うむ、ここで断っては弥次郎やじろうのメンツを潰すか……。仕方ないのう」

「はっ、有り難き幸せ」


 氏真うじざねは、竹丸たけまる亀吉かめきちに手伝われて履物を履くと愛馬・南天号なんてんごうへと向かって行った。


「ねぇ、にいさま」

 志麻しまは肘でちょんちょんと泰朝やすともを小突いた。

「なんだ?」


「正月の話って何?」

「方便だ」


御屋形おやかた様にうそをつくのね」

 志麻しま氏真うじざねに聞こえないように小さな声で言った。

 一拍置いて、泰朝やすとも志麻しまにしか聞こえない声で応じた。


「友とはそういうものなのだ」


 志麻しま泰朝やすともの顔をちらりと盗み見た。

 西から吹き続ける風のいたずらで聞き間違えたかと思えるほどに、泰朝やすともの顔に変化はない。

 けれど、確かに聞こえた。


――友ね……。


「では、行ってくる」


 泰朝やすともは待たせていた愛馬・茶黒号ちゃぐろごうに騎乗すると氏真うじざねたちと合流した。

 騎馬が七、八騎、騎馬に乗らないかちの者が十五人ほどだろうか。集団は泰朝やすともの合図でゆっくりと動き出す。


 志麻しまは馬の背に揺られ小さくなっていく侍たちの背を見ながら泰朝やすともの言葉を反駁はんばくする。


――友とはそういうものなのだ。


 理想の正しい家臣の道よりも、友であることを選んだにいさま。曖昧で感情的な友であるということが、言葉で表せる道理という名の表面の中に隠されていた。


 生真面目きまじめばかりだと思っていたにいさまの心の奥に触れた気がする。生まれてから十五年も経つというのに、血を分けたにいさまの知らない部分を今日、初めて知ったのだ。目の前のことでさえ、知っていると思っていることでさえ、わかっていないことが多い。

 志麻しまはつくづく実感した。


「あっ」


 志麻しまの心の中で何かが動いた。まるで貝合わせの貝がぴったりとはまるようにつっかえていたものが溶けていく。


「そう……なのね。お師匠」


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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