2章2の7

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 どこまでも続く板敷きの床。太陽がないのに明るい空。しーんという音さえ聞こえないほどの静けさ。暑さも寒さも忘れてしまったかのような感覚。

 目の前には机が一つ。紙に筆にすずりが整然と置かれ、かたわらには書籍が積まれている。そして対面するは白い蛇。


「お師匠」


 志麻しまは頭を垂れた。


「そのようなことはせんでも良い。頭を上げよ」

「はい……」


 志麻しまは恥じていた。お師匠の目を見るのが怖かった。それを隠すために頭を下げたのであったが、お師匠はそれを許してくれなかった。


 志麻しまは意を決して頭を上げ、お師匠の目を見た。全てを見透かすような目だ。


「思ったよりも早くに気が付いた」

「はい、一人では無理でした」


「兄に切っ掛けをもろうたか」

「はい。わたしは善き軍師になりたいと思っていました」


「そうであるな」

 お師匠の声が優しく聞こえる。それがまた志麻しまの心に強く突き刺さる。


「正しい道理を体現する軍師になりたいと思っていました」

「そうであるな」


「わたしは道にのっとった軍師がしないことを、わたしもしないのだと心に決めたのです」

「うむ。正しいことである」


「『へい凶器きょうき』、『へい不祥ふしょううつわ』、道は戦いをたしなむことを否定します」

「それが全ての前提であるよの」


「だからわたしは、わたしは戦いを欲していないと、思い込んだのです……。いいえ、違います。聖人の影を自分に写し、それを自分だと偽ったのです」

「うむ」


 お師匠の静かな声が頭の中で反響する。


「わたしには醜い心がございます。いくさをして、みずからが采配を振るい、華々しく勝ちを収めたい、と」


「醜き心か」

「はい、醜い心でございます」


「そうであるか。されど姫、それもそなたの心の一部あろう。それを統べるのもそなたの心の持ちようである」

「はい」


「己の心を知らずば、己を統べることはあたわぬ。裏を返せば、己の心を知れば、おのずと心を統べる方法も見つかるというもの」

「わたしにそれができましょうか」


「心がけ次第しだいであろう。ただ、できたという固まった状態があるのではなく、できているという定かではなく移り変わる状態が延々と続くのみ」

「終わりはないのですね」


「うむ。日が昇り、日が沈み、また昇る。月が満ち、月が欠け、また満ちる。終わることはない」

「陰陽ですね」


「心の持ちようも同じである」

「はい」


「聖人に近づこうとすることと、聖人になったと思い込むことは別である。真逆ですらある。聖人であると思い込めば近づく歩みを止め、聖人から遠ざかり、やがで邪道にちる」

「わたしも邪道にちようとしていたのね」


「能無き者ならば周りに相手にされぬゆえ周囲を困らせる程度だが、なまじ能あれば一国を巻き込んだ混乱をもたらす」

おそろしいことです」


「全ては姫、そなたの心持ち次第しだい。ゆめゆめ忘れるな」

「はい、お師匠」


「ではこの話はここまで。もう元に戻ってよいぞ」

「はい……?」


「分かったおらぬのか。言葉遣いだ。いつもはそう畏まっておらぬであろう。もっと砕けて、軽くあたって来よる」


「お師匠、わたしはそんな失礼な人間ではないわよ」

「うむ。元に戻ったようである。では近況から聞こうか」


 こうしてお師匠の夢の中での授業は再開したのだった。

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