2章2の4

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 にいさまに対するセイの初顔合わせが終わった。


 初めわたしが今までの経緯いきさつを説明し、にいさまはそれを、うん、うん、と聞いていた。一通りの説明が終わると、言葉の通じない相手でも目を見ればいいヤツかそうでないかはわかるものだ、とにいさまは言ってセイを呼び、じっと視線を合わせだした。わたしはセイがいい人間だと信じていたけれど、少しドキドキしながらその様子をうかがった。


 しばらくすると、にいさまはセイから視線を外しわたしの方に顔を向け、いいヤツに違いない、と宣言した。そして続けざまに、体が動くようになるまで屋敷に置けばよい、と言ってくれた。


 さすがにいさま。話が分かるわね。

 これでわたしにとっての気がかりの一つが前進した。


 これが昨日の夕方の話。今は翌日の昼を過ぎたころである。


 今もまた、志麻しま孫子そんしとにらめっこをして、あーでもない、こーでもない、とうなっていた。こちらがもう一つの気がかりで、一向に解決のめどが立っていない。


 最後の授業の内容を思い返してみる。


 セイのことを雑談し、授業を始めてからは主導権の獲得について教えを受けた。ここでお師匠をあきれさせるような受け答えはしていないはずだ。


 そしてさらに、戦いたいか、とお師匠に問われ、わたしは古典を引用して答えた。

 「へい凶器きょうき」は『国語』を始めとして多くの古典で言及されている。「へい不祥ふしょううつわ」は『老子ろうし』からだ。

 この格言は、唐の国の兵法の大前提であり、間違えようのないほど常識と言っても過言ではないだろう。


 志麻しまは何度り返したかわからないこの問答を今日もり返した。

 同じ考えが頭の中を、ぐるぐる、ぐるぐる、と駆け回る。あまりによく空回りするものだから、本当に目が回りそうだ。


「んー、気分転換が必要だわね」


 背伸びをして独り言を口にすると、志麻しまはセイの様子を見に行くことにした。


 セイの部屋は志麻しまの部屋のある棟の渡り廊下でつながった隣の棟にある。机の前から離れて少し歩くだけでも気分は違うはずだ。


 部屋を出て廊下を歩く。突き当りが渡り廊下へ通じる引き戸だ。

 志麻しまは引き戸を開け渡り廊下へと出た。


 緩やかに流れる風の冷たさが凝り固まった頭に気持ちいい。渡り廊下は板敷きの床と屋根だけで壁はない。

 庭を見ると小さな池のほとりにある松が水面みなもに映っている。松の本体は揺れていないのに映った像だけがゆらゆらと揺れていて、志麻しまには水面みなもうそをついているみたいだと思えた。


「偽りを映す水鏡みずかがみね」


 ひとしきりその水面みなもをぼーっと眺めていた志麻しまは急に寒さを感じた。

 今は師走しわすであるからほとんど外である渡り廊下に長くいれば当然である。


「寒いわね。行こうかしら」


 いそいそと渡り廊下を進み、隣の棟の戸を引き開けて入った。

 戸を閉め向き直る。廊下の突き当りの角。そこから現れた見覚えのある姿をみて志麻しまはぎょっとした。


 藤色の直垂ひたたれ(上級武士の装束)に見えるは、丸に二つ引きの家紋。それをまとうは……。


「お、御屋形おやかた様!?」


 細身で引き締まった体格。優美な立ち姿。気品ある顔立ち。御屋形おやかた様と呼ばれるこの男は今川いまがわ家の当主今川いまがわ氏真うじざねである。


冬青そよご姫ではないか。ちょうどよいところにいた」


 氏真うじざねは軽く片手をあげ、あたかも道端でばったり出会ったかのごとく歩み寄ってきた。氏真うじざねの後ろには朝比奈あさひなの家の者が二人、あたふたと慌てた様子で追いすがっている。


御屋形おやかた様、どうしてこちらに?」

「それはだな……」


 氏真うじざねがそう言いかけた時、横の障子が、バタン、と勢いよく開け放たれた。


五郎ごろう! なぜおる!?」

 大声の主は泰朝やすともである。


「おう、弥次郎やじろう、探したぞ」

 氏真うじざねは平然として言ってのけた。


「探したぞ、ではない! 五郎ごろう、なぜこんなところにおるのだ!?」


 泰朝やすともは、志麻しまと家の者をちらりと見ると、決まりの悪そうな顔をして言い直した。

御屋形おやかた様、どうしてこちらにおでなのですか?」


 氏真うじざねは笑って答える。

「言ったであろう、お主、弥次郎やじろうを探しにだの」


「そうではありません。どうして御屋形おやかた様がこちらにおでになるのですか。仰って頂ければいつでも伺います」

「わしが会いたいと思ったのだから、わしが会いに行ってもよかろう?」


「そういうことではなく……。まさか、一人でお越しになったのですか」

「そんなわけあるか。ちゃんと共を連れてきたぞ」


「では、そのお共はどちらに?」

 泰朝やすともの眉がピクピクと動く。にいさま、沸騰し始めているわね。

「なんやかんや申して付いて来なんだった。今は、敷台しきだいにおるかのう」


 敷台しきだいは玄関に隣接する家来の控えの場だ。だから駿府構すんぷがまえから朝比奈あさひな屋敷まではお供を連れてきたが、屋敷の玄関にお供を置いてきてしまったのだ。


「お供の身になって下さい。いくら主人からみて家臣の屋敷であろうと、勝手に入るわけにはいかないでしょう。叱責しっせきで済めばよい方で、手打ちにされても文句もんくは言えません」

「お主も竹丸たけまる亀吉かめきちと同じことを言う。固いのう」


「ちょっと待って下さい。竹丸たけまる亀吉かめきちって、わが一族の竹丸たけまる海老江えびえ家の亀吉かめきちですか!?」

「さよう」

 氏真うじざねはさも当然といったように、うん、うん、とうなづく。


「さよう、ではありません! どちらもまだ元服げんぷくも済ませていない子供ではありませんか。亀吉かめきちに至ってはまだ九つですぞ」

「どちらも賢いゆえ、別に構わんがのう」


「もしや、お供はその二人だけでございませんよね」

「二人いればお供など十分であろう?」


「もし道中、賊に襲われたらどうするのです!」

「わしがおる」

 氏真うじざねは腰の刀をポンとたたいて胸を張った。


「わしがおる、ではありません」

「なに、見くびるな。賊が来ようともわし一人で竹丸たけまる亀吉かめきちも守ってやれるのう」


「主人が警護の者を守ってどうするのですか! 話が逆さまでございます」

「相変わらず石頭だのう。わしは強いから大丈夫だ」


「お言葉ですが、それがしでも二十本に一本は取れますぞ」

 氏真うじざねは事の成り行きをハラハラと見守っていた志麻しまの方を向くと、いたずらそうな笑顔を見せた。


冬青そよご姫、そなたの兄は姫の前だからといって見栄を張っておる。何百と稽古で打ち合ったが、弥次郎やじろうに取れれたことはほとんどないのう」


志麻しま、聞かんでもよいぞ」

 泰朝やすともはすかさず言った。そして、

御屋形おやかた様、それでも三本は取ったことがございます」


「数えておったのか?」

「ええ、数えておりました」


「ではやはり、お主の言った二十本に一本は、分かったうえでの大風呂敷であったということだのう」

 氏真うじざねは一人、うん、うん、と納得している。一方、泰朝やすとも苦虫にがむしみ潰したような表情である。


にいさま、お顔が怖いわ」

「あぁ、志麻しまも言うてくれるな」


 泰朝やすともは、ふう、と大きく息を吐くともう一度志麻しまを見やった。


「この通り、御屋形おやかた様は天邪鬼あまのじゃくなお方だ。驚いたであろう」

「えぇ……。なんというか、以前お見かけしたときとはずいぶん雰囲気が違うわ」


御屋形おやかた様は普段は猫をかぶっておるからな」

 氏真うじざねはその様子を見て、くつくつと笑っている。


 泰朝やすともは二度ほど首を大きく横に振ると、行き場もなく途方とほうに暮れていた家の者たちに声をかけた。

「一人は敷台しきだいに向かい、竹丸たけまる亀吉かめきちをここまで通してやれ。もう一人は母上に御屋形おやかた様がお越しになったと伝えてくれ」

 家の者たちは、はっ、と言うとそそくさとそれぞれ向かって行った。


 家の者たちが完全にいなくなるのを確認して、泰朝やすとも氏真うじざねに向き直る。


「で、五郎ごろうよ。本当に何しに来たのだ?」

「おっ、姫がおるのにその口調でええのかのう」


志麻しまにはもうバレた。今さら取り繕っても遅いわ」

「さようか。その方がわしも気楽でよいがのう」


「では、答えてもらおうか」

 泰朝やすともがにじり寄って問うた。


「お主に会いに来たのは半分本当だ。遠江とおとうみの近況も聞きたいしの」

「もう半分は?」


「何やら姫が半死半生の者を助けたと聞いてのう。それを見に来たのじゃ」

「まぁ、御屋形おやかた様はセイを見に来てくださったのね」


「ほう、その者はセイと申すか。案内してくれるかのう?」

「はい、こちらです」


 志麻しまを先頭に、氏真うじざね泰朝やすともの順で歩き出す。ちらりと見たにいさまは右手をおでこに当てて、やれやれ、と首を振っていた。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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