2章1の3

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「お師匠、こんばんは」


「来たようだな」


 お師匠は尾をくねらせて言った。


「今日は少し遅かったな」

「ええ、少し考え事をしていたら、なかなか寝付けなくて」


「セイのことか?」

「お師匠には分かってしまうのね」


 志麻しまはそう言うと少しほっとしたように、そっと胸に手を当てた。


「なんとなく、ではあるが。話してみいや」


 促されて志麻しまはおずおずと切り出した。


「今日は暖かかったからセイの部屋の障子を開けて、庭を見てもらったの」

「うむ」


「昼八つも終わり頃(午後三時頃)に障子を閉めに行ったのだけれど、セイがとてもつらそうな顔をしていたわ。いえ、つらそうな顔だったのを無理に笑顔にしていたわ」


「単に寒かったということは?」

「いいえ、お師匠。わたしも障子を開けて復習をしていたのだけれど、本当に今日は春みたいに暖かかったのよ」


「では体のどこかに不調があったか」

「それならわたしに隠す必要はないわ。温めるなり、冷やすなり、さするなり何かできる訳だし」


「ならば答えは一つであるな。故郷のことを考えていたのであろう」

「セイの故郷……。お師匠にはセイがどこから来たのか分かるのですか」

「どこから来たのかも、話している言葉もわからぬ。が、この世の外から来たことだけは分かる」


 志麻しまが目を丸くして聞く。


「セイは幽霊や鬼、天狗てんぐのようなものなの!?」

「いや、違う。セイは人だ。これは間違いない。だが、この世とは異なる世界から我らのいるこの世界に流れ着いてしまったようだ」


「そんなことが、あるのですか……?」

「あった、としか言いようがない」

「はぁ」


 そう言うと志麻しまは黙りこくって考え始めた。お師匠はただ黙って志麻しまの次の言葉を待っている。


 しばらくして、志麻しまが口を開けた。


「セイは自分の世界に帰れるのかしら」

「どうであろう。こちらから向こうへ帰った話など聞いたことがない。神隠しを思い浮かべるが、あれは人さらいか事故におうて行方が分からぬようなったに過ぎぬ」

「そう、だわね」


「もう一つ悪いことがある」

「何でしょうか」


 志麻しまは背中に寒気を覚えた。夢の中のここでは暑さも寒さもないにもかかわらず。


「セイを見つけたとき、周りに火の気はあったかえ?」

「いいえ、なかったわ」


「そうであろう。と、すると、セイは向こうの世界で焼かれてからこちらの世界に来たことになる」

「そう言うことになるわね。すると、向こうの世界に何らかの強い感情、怨みや後悔のようなものを残しているとお師匠は仰りたいのね」

「うむ、もちろん単純に故郷を離れてつらい思いもあろうが……」


「どうしたらよいでしょう?」


 志麻しまは恐る恐る聞いた。


「姫がどうにかするしかないであろう。我は直接セイと話すことは出来ぬ。えにしが結ばれておらぬ故」


「わたしが、ですか」

「他におらぬであろう?」


 志麻しまはお師匠の顔をまじまじと見つめたが感情はやはり読み取れない。


「よし、ではこれを姫への宿題としよう。セイと話せるようになったならば、その心を支えてやるのだ」


 これはかなり難しい宿題を課された。が、もちろん志麻しまは断る気など一切ない。今まで気づかなかったが、それをやって当然であると思えた。


「わかりました。よくよく考えておきます」

「うむ、いつ話せるようになるか分からぬ。心しておけ」

「はい」


 志麻しまの固い決意のこもったりんとした声が響いた。


「では、昨日の続きをやろうか」

「お願いします」


 まず昨日のおさらいをした。志麻しまは復習を欠かさないので、難なく進む。敵から如何いかに主導権を奪うかの話である。


「うむ、ようできておる」

「ええ、授業も復習も楽しいからたくさんやれてしまうわ」


 志麻しまは特別に真面目まじめというわけではない。好きなことをやるときは誰でも集中し、時を忘れてしまう。志麻しまにとって好きなことが兵学であったのだ。


「それは善きかな。さて、自分と敵との主導権の取り合いであるが、他にも二つ、自分から主導権を奪おうとする者がおる。誰であろうか」


 時々、お師匠は今までに習ったことを前提にして俯瞰ふかんした問題を出してくる。


 志麻しまは右手の人差し指をほおに当てた。これは考える時の志麻しまの癖である。考えること呼吸を八回した程度であろうか。志麻しまが口を開いた。


「一つは君主ね」

「そうである。孫子そんし九変篇きゅうへんへんに『君命くんめいけざるところあり』と記されておる」

「ええ、それを思い出したわ」


「『君命くんめいけざるところあり』は原則か、例外か?」

「例外だわ」


「原則とは何ぞ?」

「主君が行う政治、つまり道に従うことだわ。あくまでも道が先にあって、兵を用いる範囲を決めるわ」


「よろしい。道こそが、その国が栄えるか滅びるかを第一に決める。それを損なっては元も子もない。逆に言えば道を損なわない部分で君主が用兵の自由を奪う命令を下しても、従う必要はないというわけだ」


「例えばどういうときでしょうか?」

「姫みずから考えれば出るであろう。九変篇きゅうへんへんに何が記されていたかが足掛かりとなろう」


 九変篇きゅうへんへんに何が記されていたか、目を閉じて必死に考える。


「戦場における注意事項ね……。通ってはいけない道。戦ってはいけない地形に布陣する敵……。」


「気が付いたであろう」


「つまり戦場に君主がいなくて事情が分からないにもかかわらず出される命令なのね」


「君主が戦場におらぬのは最たるものだが、仮に戦場におっても地形などの事情を知らなければ同じことだ。しかしこれで正解でよかろう」

「はい、問題は遠さではなくて事情が分からない事なのね」


「遠さ以外にも事情を分からなくさせるものがある。怒りだ」


「怒り、ですか」

「どうした?」


「いえ、御屋形おやかた様も太守たいしゅ様も怒っている姿が想像できなくて……。」


 御屋形おやかた様とは、今川いまがわ家の現当主、今川いまがわ氏真うじざねであり、仮名けみょうつまり通称は五郎ごろう、官位は従四位下じゅしいのげ上総介かずさのすけである。


 太守たいしゅ様とは、前の当主にして氏真うじざねの父である今川いまがわ義元よしもとであり、仮名けみょうは同じく五郎ごろう、官位は従四位下じゅしいのげ治部大輔じぶのたいふである。今、今川いまがわ家には御屋形おやかた様が二人いる両御屋形りょうおやかた体制で義元よしもと氏真うじざねとともに御屋形おやかた様で違いはないのだが、紛らわしいので義元よしもとのことは太守たいしゅ様と呼び分けられている。


「うむ、五郎ごろう殿は陽の気性を持つお方だ。それは想像できぬであろう。芳承しょうほう殿は今でこそ怒りの姿を見せぬが、かつては激情型の人柄だった」


 芳承しょうほうと聞いて始め志麻しまは困惑したが、頭の中をひっくり返すように探し回り思い出した。芳承しょうほうとは太守たいしゅ義元よしもとがその昔、仏門にいたときの法号ほうごうである。今どきかつての法号ほうごう義元よしもとを呼ぶ人は珍しいというよりもいない。ただ、お師匠は白蛇はくじゃであるが。


「やはり想像できないわ。太守たいしゅ様は豪傑でらっしゃるけど怒りとは無縁に見えたもの。あまり表情を見せず、何にも動じない印象だわ」


「家督を継いでから変わった。人は変わるものである。さて、話を元に戻そう。孫子そんしでは怒りは強くいさめられておる。計篇けいへん謀攻篇ぼうこうへん九変篇きゅうへんへん火攻篇かこうへんと四度にわたり警告しておる。特に重要なのは火攻篇かこうへんの『しゅいかりをもっおこすべからず』。つまり、君主は怒りに任せて戦いを起こしてはいけない、である」


「はい、それと対比で『しょういきどおりをもったたかいをいたすべからず』でしたね。将軍も憤りから戦端を開いてはいけない」

「そうである」


「あっ分かったわ! もう一つの主導権を奪う者は部下の将兵ね」

「よくぞ気付いた。そう部下の将兵だ。だから法をもって統率を徹底せよと孫子そんしは記しておる。他の兵法書もまた、法を重視するのは部下による主導権の強奪が如何いかに起きやすく危険かを物語っておる。全体を俯瞰ふかんして把握しておらぬ者に主導権を取られてしまえば、すぐに敵にその隙を突かれ主導権を奪われる。こちらは内部統制もままならず、敵にいいようにされて、ただ負けるのみだ」


「肝に銘じます」

「そうせよ。どうだ? いくさの奥義の一つを知り戦いたくなったか?」


 志麻しまはすかさず答えた。


「いいえ、『へい凶器きょうき』『へい不祥ふしょううつわ』と言うわ。決して戦いとは思わないわ」


 お師匠がまじまじと志麻しまの顔を見る。相変わらず表情がないので何を思っているのか、皆目見当もつかない。


「うむ……、このままでは二人目だ」

「えっ?」


「姫が気付くまで授業はなしだ。今日はこれまで」


 そう、お師匠が宣言すると、志麻しまの視界は暗転した。次に志麻しまが気付いた時には自室の寝床の上、現実に戻ったのだ。外はまだまだ暗い。


「どうして。わたし、何をしてしまったの?」


 志麻しまは訳も分からず絶望的な気持ちに陥った。何がお師匠の気に触れたのか、思い当たらない。


 時が経ち、夜が明け、外からほのかに明かりが漏れてくるようになっても志麻しまは起き上がることが出来なかった。

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