2章

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 2章


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 初めは上も下もない真っ白な空間だった。光がどこから射しているのか判然としないが明るい。音はなく静かで、暑くも寒くもない。風もないものだから自分がどこを向いているのか分からなくなる。


 そのようなところであったので志麻しまには落ち着かないものであった。それを見たお師匠がまずは地面を、次には板敷きの床を作ってくれた。続いて机や紙、筆も現れ、なんとか学問ができる状態になった。


 夢の中で紙に書きつけたところで、現実の世界に持ち出せはしない。そうであるのだけれど、理解したことを書きだすことで格段に理解が深まる。

 志麻しまはこのひと月弱、充実した夢生活を送っていた。


「あっ、お師匠、こんばんは」


 志麻しまは目覚めて挨拶をした。目覚めて、と言っても現実の志麻しまは寝ている。夢の空間の中で目を覚ましたのだ。


「うむ、来たか。現実では駿河するがの館に帰ったようだな」


 お師匠が近づいて来て言った。今はもう後光が射していない。以前不思議に思って聞いたら、志麻しまがまぶしそうだから消した、とのことであった。


「ええ、ひと月も実家を空けることがなかったものだから、帰ったら母上がわたしにべったりで参ったわ」

「そのようだな」


「もうわたしは十五才なのに、ああもされては恥ずかしいわ」

「そなた、それでもうれしいのであろう?」


「まーそうとも言えますけど」

「では良いではないか」


「わたしにも世間体せけんていというものがありますっ」

「誰も見ている者はおらんだろうに」


「そうです……ね?って、お師匠、なんで『そのようだな』って知ってるんですか?」

「……」


「お師匠っ」

「そなた、ひと月前はこんなではなかった」


「だってお師匠があまり堅苦しくしなくて良いと言ったじゃないですか」

「そうであった。畏まった態度では本心が分からぬから。だがこのようにせよとは言うておらん」


「えー今さらですか。でも改めた方がいいかしら」

「なに、そなた、まだ間に合うと思うてか。このままでよい。それよりか、そろそろ始めようか」


「はい、お師匠、お願いします」

「うむ、今日から李衛公りえいこう問対もんたいの中の巻に入るか」

「はい」


 李衛公りえいこう問対もんたい武経七書ぶけいしちしょの一つで、別名を唐太宗たいそう李衛公りえいこう問対もんたいと言う。唐の二代皇帝、太宗たいそうと号した李世民りせいみんと、衛公にふうじられた重臣の李靖りせい、すなわち李衛公りえいこうとの兵法談義がつづられている。お師匠が言うには、この二人の会話を直接書き留めるということはあり得ないので、後世の何物かが二人の英雄に仮託かたくして書いたものだという。それでも二人の英雄が語っていてもおかしくない様な高い水準の議論が書かれていて、兵法書の最高峰、武経七書ぶけいしちしょに数えられているのだ。


「では参ろうか。太宗たいそういわく、ちんもろもろ兵書へいしょるに、孫武そんぶずるものし。孫武そんぶ十三篇じゅうさんぺん虚実きょじつずるものし。それへいもちうるに虚実きょじつせいれば、すなわたざるし」


 続けて志麻しまが復唱する。


太宗たいそういわく、ちんもろもろ兵書へいしょるに、孫武そんぶずるものし。孫武そんぶ十三篇じゅうさんぺん虚実きょじつずるものし。それへいもちうるに虚実きょじつせいれば、すなわたざるし」


 こうやってお師匠が先に読み上げ、志麻しまが続けて読み上げる。これを中の巻を通して行うのだ。細かいことよりも先に大枠を識ろうということなのである。


 かなりの時間をかけて、中の巻を読み上げた。夢の世界には太陽がないものだから時間感覚が狂う。二時ふたときはたったかも知れない。


「どうかな。読んでみての感想は」

「意味の取れる箇所と取れない箇所があるわね。それにしても、曹操そうそうが批判されていることには驚ろいたわ」


「うむ。いくさの達人ともなれば、いかに英雄といえども足りない部分が見えてくるのであろう。では、細かく見ていこうか」

「はい」


「まず、太宗たいそうは兵法書の中で最も孫子そんしが優れていると言っておる。これは我も同感だ」

「ええ、世間で孫子そんし以外を上げる人を聞いたことがないわね」


「そうである。まずおらんであろう。そしてその中でも虚実篇きょじつへんが最も優れていると言っておる」

虚実篇きょじつへんは確かに興味深い所だわ」


「この虚実を知れば主導権を取れるからな。李衛公りえいこうも強調しておるが、『ひといたしてひといたされず』、つまり、相手を思うがままに動かしても、相手の思うがままにはさせない。これが最も重要である」


孫子そんしでは『へい詭道きどうなり』もまた有名だけど、どちらが優れているのでしょう?」

「うむ。これは優劣の問題ではない。詭道きどうとは相手をあざむくこと。『へい詭道きどうなり』は『ひといたしてひといたされず』のための方法である」


「手段と目的の関係なのね」

「左様。どちらも重要であるが、目的が手段をも含んでいるとも言える」


「では、お師匠。敵が実であればこちらは正で対応し、敵が虚であればことらは奇で対応すると読めるのだけれど、これはどういうことでしょうか」


 ここは読み始めてすぐに引っかかったところだ。


「うむ、そうである。最初におさらいをしようか。虚・実・奇・正はそれぞれ何を表しておる?」


 志麻しまは居住まいを正して答えた。


「虚は戦力の手薄な状態、実は戦力の充実した状態、奇と正はいろいろな意味を含みますが、奇は奇襲、正は正攻法といった意味です」

「うむ。ひとまずそれでよいであろう」


「ありがとうございます。そうすると戦力の充実している敵に正攻法で対応することになってしまい、味方の損害が大きくなるのではないでしょうか」

「なるほど。これは文の前後をもっと注意深く読み込む必要がある。初めに奇と正だが、これは互いに転化するものであることを見逃しておる」

「ええ、気が付けば孫子そんし李衛公りえいこうもそのことを強調していたわ」


「そうだ。知識として奇正が互いに転化することを知っていても、それにのっとって思考することが出来ておらぬ」

「そうね。なぜ忘れていたのか、恥ずかしい失態だわ」


「いや、恥ずかしく思う必要はない。すでに学んだのであるからに。学問とはそういうものなのだ」

「はい」


「では、元に戻ろうか。太宗たいそうはこうも言っておる。相手がこちらを正であると認識したら、すかさず奇に転じ、相手がこちらを奇であると認識したら、すかさず正に転じる、と。これで姫は分かっただろうか」

「つまり、敵が実ならばまず正で対応し、敵がこちらを正と認識したら、すかさず奇に転じるという事なのね」


「そうだ。敵は正であると思っていたものがいつの間にか奇に転じており対応が後手後手に回る。我が方が奇正を操作しておるので、おのずと主導権は我が方が取れるというわけである」

に落ちました。物事を固定して考えてしまい変化を忘れる危うさを改めて感じたわね」

「うむ。兵法は深い」


 そう言うとお師匠は宙を見上げた。それは授業が終わりになる合図でもあった。


「そろそろ時間か。では、また明日」


「ありがとうございました」


 志麻しまはそう言って座礼をする。その時、自然と目が閉じられるのだが、その閉じた目を開けたときには現実の世界に戻っていて、朝、自室の寝床の上である。


 どういう理屈で夢の世界が出来ているのかわからない。夢の世界で頭を使いに使っても、翌朝目が覚めたときには体はもちろん頭もすっきりしている。まことに不思議であり、ありがたいものであった。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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