1章3の4

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 遅い……。まだ、師が来ない。


 確かに夜半とそもそも晩い時間を指定されていたが、もうすでにこく(午前零時)をとうに過ぎている。


「姫さま、今日はもういらっしゃらないようですから、お休みになられたらいかがでしょう」

 おけいが重いまぶたを必死に持ち上げて言った。


「そうねぇ、うーん、もう少し待つことにするわ。師がいらっしゃるのに初めて会う弟子が寝て待っていたとなっては末代までの恥だわ。師もあきれて帰ってしまうかもしれないし、ね」


 志麻しまは火鉢の炭を突つきながら答えた。

 十一月も下旬となるといくら温かい駿河するがといえども夜の冷え込みは体に応える。


「わかりました、姫さま。もう少し待ちましょう」

「おけい、無理して付き合わなくてもいいわよ」


 懸命に眠気と戦うおけいに今日何度目かの言葉を掛けた。


「いえ、お供します」


 おけいの言葉は眠気で呂律ろれつが怪しくなりつつある。


 それから一時いっとき(二時間)が経った。

 おけいはすでに体を横に崩して、かすかな寝息を立てている。

 志麻しまかろうじて意識を保っていたが、今にも意識は坂を転げ落ち深い眠りの奈落ならくに落ちそうである。


――眠ってはダメよ。


 必死に睡魔にあらがう。


――せっかく待ち望んだ師を得る機会なのだから。


 気持ちとは裏腹に眠気は強まるばかりである。


――志麻しま頑張がんばるのよ。あなたには果たしたい夢があるのだから。


 そう、心の中で叫びながらも、志麻しまの意識は漆黒の眠りの中に滑り落ちていった。

 すでにとらこく(午前四時)に達していた。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 誰かに、ペシッ、ペシッとおでこをたたかれて、志麻しまは目を覚ました。


――きっとおけいね。いくら何でもひどい起こし方だわ。あぁ、もう少し寝させて……。


 また、ペシッ、ペシッとおでこをたたかれる。


――あれ? わたし、起きないといけない理由があった……。えーと、あっ!


 志麻しまは勢いよく飛び起きた。

 あたりはもう明るくなっている。


 いや、昨日までいた部屋ではない。前も後ろも右も左も上も下も、何もない空間が続いている。


「やっと起きたか」


 志麻しまは声のした方を見て飛びすさった。

 白い蛇がしゃべっている。


「飛びのくとは失礼な」


 そう言った白蛇はくじゃには五色ごしき文様もんようがあり、金の後光が射している。目は全てを吸い込むような不思議な色合いだ。


「へ、へ、蛇がしゃべった!?」

「ほう、姫には我が蛇に見えるか」


 白蛇はくじゃは悠然とした声で言った。


 志麻しまはカクカクと首を縦に振る。


「そうか、ここは長慶寺ちょうけいじゆえ、白蛇はくじゃとなったのであろう。まぁ、姿かたちなぞ些細ささいなこと。問題なかろうて」


 この白蛇はくじゃには表情がない。否、むしろ能面のようにどの表情にも見え、見るものを惑わす。

 志麻しまには白蛇はくじゃの表情が読み取れない。表情がないとも言えるかもしれない。喜怒哀楽どれにでも取れそうで、どれでもないような印象を受ける。


「あのう、ここはどこなのでしょうか」

 志麻しまは恐る恐る尋ねた。


「夢の中だな」

 さも当然のように白蛇はくじゃが答えた。


 夢の中……。薄々そうだとは思っていた。自分の理解が当たっていて志麻しまは落ち着きを取り戻した。後から考えてみれば自分の図太さに驚く。


「では白蛇はくじゃさんはわたしが夢の中で想像して作った存在なのですね。自分で作ったものにおびえるなんて」


 そう言って志麻しまは自分にあきれたように笑った。


「否、我は姫によって作られたものではない」


 白蛇はくじゃはあくまで鷹揚おうようとした声で言った。


「ではあなたは何者なにものなのですか?」

「我は我だ。それ以上でもそれ以下でもない。そもそもこの夢の空間も姫ではなく我が作っている」


「えっ、そうなのですか。何のために?」

「今日の夜半に行くと恵進えしんを通して伝えてあったであろう」


「ええ! ではあなたが恵進えしんさまのあにさんで師を買って出てくれた……」

「そうだな。なのになかなか寝ないので随分待たされてしまった。終いには睡魔の術を使ったが頑強に抵抗して手こずった」


 ある時間から急に睡魔に襲われたのはそのためだったのか。あれほど頑張がんばったわたしの努力って。


「あのう……」

「なんだ?」


「ではあなたがあの武経七書ぶけいしちしょの持ち主なのですか?」

「そうだ。武経七書ぶけいしちしょはかつて我の持ち物であった。また、注釈書は我が記した物だ。そして今やそれらは姫の持ち物になった」


「どうして、わたくしに下されたのでしょうか?」

「半分は偶然」


「ではもう半分は?」


「姫は兵法書が何のためにあると心得る?」

いくさに勝つためです」


「うむ。正しいが正しくもない。兵法書は皆、戦いをしないため、戦いを終わらせるために記されたものだ」

「はい」


「しかしな、記された目的とは逆さまにいくさを始めるためにも使える。兵法書を片手にいくさが始まり、兵法書を片手にいくさが終わるのだ」


「兵法書はない方がよいのでしょうか」

「いや。兵法書をいたところで兵法書はなくならぬ。人がいくら願ったところでいくさがなくならぬのと同じだ。まず、いくさがあること、兵法書があることを認めねばならぬ」


「では、兵法書のある意味は何なのでしょうか」

いくさに規範を与え、無意味ないくさを減らし、戦乱の終結を早める。つまり、我が兵、我が民、敵が兵、敵が民の損害を抑えることだ」

「わたくしの目指したいところです」


「うむ。我は我が武経七書ぶけいしちしょが戦乱の世の間、書架の宝物としてただ眠りに続けるを良しとしない」

「はい」


「だが、ゆめゆめ忘れるな。兵法書は人をむ。見入るとも言えるかもしれん。兵法書のいくさを呼ぶ力は強力だ。だから兵法書につものだけが太平をつくれるのだ」


 志麻しまは正座し、姿勢を正して首を垂れた。


「わたくし、朝比奈あさひな志麻しまには師が必要です。どうか我が師をお引き受けください」


 二人の間に緊張が走る。


「引き受けた」


 白蛇はくじゃは静かにそしてはっきりと言った。

 志麻しまは再び首を垂れて、ありがとうございます、と礼を述べた。


「ところで、わたくしはあなたさまを何とお呼びすればよいでしょうか。お名前を教えていただけましょうか」


 白蛇はくじゃは少し考えた風に間を取ると、

「我のことは師匠と呼べばよい。名はそのうち分かるであろう」


 白蛇はくじゃ改めお師匠は名を教えてはくれなかった。確かに名はみだりに他人に教えるものでもないのだが、それ以外にも何か差し障る事情でもあるのだろうか。


「かしこまりました。お師匠」


 するとお師匠と志麻しまの間の空間がゆらゆらと、水に垂らした墨のように揺れ始めた。


「な、な、なんですか!?」

「まぁ、待っておれ」


 お師匠はあくまで悠然だ。その態度からお師匠が何かしたのだと志麻しまには分った。

 しばらくすると揺らめきは形を現し、武経七書ぶけいしちしょとなった。


「これは現実のものをこの夢の中に写したものだ。どれ、少しは読んだか」

「はい、少しだけですが」


 志麻しま武経七書ぶけいしちしょの一つ、孫子そんしに触れると確かに少しざらざらとした感触がある。現実のそれと同じだ。寝る前に読んだ個所を開いてお師匠に見せた。


「では、そこから軽く先を読んでみようか」


 本当に軽く読むだけで、お師匠は特別口を挟まない。まずはおおよそ何が書かれているかつかもうという事だろう。


 半時はんときほど読み進めたときであった。お師匠が前触れもなく言う。


「今日はここまでの様だ」

「えっ」

「では、また明日の夢の中で」


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「姫さま、姫さま、起きて下さいまし」


 体をゆすられて志麻しまは目を覚ました。

 明るい。障子から優しい陽光が目にまぶしい。もと居た志麻しまの借りている部屋に戻ったのである。かたわらではおけいがこちらをのぞき込んでいる。


「起きました? もう朝餉あさげの時刻になりそうです。遅れないようにいたしましょう」


 志麻しまはハッとして書棚に駆けつけ、武経七書ぶけいしちしょの一つ、孫子そんしを取りだした。

 たして夢の中でお師匠と新たに読んだ個所は、そのまま現実の孫子そんしにも書かれている。夢の中の記憶もはっきりしている。


「本当……だったのね」


 志麻しまは驚き、それとともに天にも昇る気持ちとなった。


「姫さま、どうなされたのです?」

「いえ、何でもないわ、おけい朝餉あさげに行きましょう」


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 これより後、志麻しまは夢の中で白蛇はくじゃのお師匠から教えを受けるようになった。



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