1章3の3

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 長慶寺ちょうけいじに帰り着いたのは昨日の昼過ぎである。


 早速、承然しょうぜんに事の次第しだいを報告した。美形の僧についても尋ねてみたが、心当たりはないと言う。さらに恵進えしんこそが名実ともに遍照光寺へんしょうこうじの最高位にあってそれに勝る者はいないともいうので、志麻しまの困惑は一層深まった。


 午後はセイの看病で離れに詰めた。特に手がかかるわけでもなく、いつものように論語ろんご老子ろうしを読んで過ごそうかと思った。ところが文章が頭の中で上滑りし全く身が入らない。

 一晩経った今も、心は締まりのない感じを残している。


「姫さま」


 寺からあてがわれている志麻しまの部屋の外からおけいの声がした。

 志麻しまは両手でほおをビシビシとたたき、気合を入れなおす。


「どうぞ」


 志麻しまが声をかけるとふすまがスーッと開き、おけい遍照光寺へんしょうこうじから寺男てらおとこが使いに来ていることを告げた。

 急いで使いが待つお堂に向かい用件を聞くと、遍照光寺へんしょうこうじまでまで来てほしいとの事であった。


「何か理由を聞いてますか」


 寺男てらおとこは少し困った顔をして首を振った。


「いえ、わたくしはただお連れしろとしか聞いてはおりません」

「そう、わかったわ。すぐに支度したくをするから待っていてちょうだい」


 セイの看病をおけいに頼み、志麻しま十兵衛じゅうべえ支度したくを整え、寺男てらおとことともに遍照光寺へんしょうこうじへ向かった。


 遍照光寺へんしょうこうじに昨日と変わった様子はない。あの美形の僧も見渡す限りではいなかった。


 昨日、おけいに美形の僧の話をしたら、

「あら、姫さまから殿方とのがたの容姿の話が出るなんて! いつもならばいくさで誰が手柄を立てただとか、誰それの弓はよく当たるだとか、むさくるしい話ばかりなのに! 気になるのですわね。えぇ、これは恋だわ。でも相手がお坊さまでは困ったわね。若さまに頼んで還俗げんぞくさせましょうか。偉いお坊さまなら元の家柄も問題なさそうね。姫さま、わたくしに任せて下さいまし」

 なんて浮かれていた。


 にいさまに他所の家の人を勝手に還俗げんぞくさせる力はないし、そもそも私は恋なんてしていない、と言ったら、

「えぇ、えぇ、大丈夫でございます。初めは本人も恋を恋と認識できないもの。若さまならば御屋形おやかた様にも話を付けられます。きっと姫さまの恋は実りますとも」

 と。


 これは付き合いきれない。今日はセイの看病にかこつけて置いてきたけれど、ブーブー文句もんくを言っていた。たぶんおけいうわさの美形の僧を見たかったのだろう。

 おけいは私の乳母うばにして教育係で尊敬もするし大好きなのだが、浮いた話に目がない所は困りものだ。


 寺男てらおとこは私たちを本堂に連れていき、そこで待つように言った。


 しばらくすると、恵進えしんが平包みを携えて現れた。相変わらずいわおのような大男なのだが、歩く仕草しぐさは清流のように静かだ。


 恵進えしん志麻しまの前に座り、じっと志麻しまの目を見つめる。


 ……。


「あのう……」


 堪りかねて志麻しまが声をかけた。


「いや、失礼しました。拙僧もまだまだ人を見る目がないな、と思いまして」

「はぁ」


 事情が分からず志麻しまは曖昧な相槌あいづちを打った。


「昨夜のことになります。拙僧の元にあにさん、と言っても実の兄ではなく兄弟子なのですが、そのあにさんが突然いらっしゃったのです」

「はい」


「二十何年ぶりでしょうか。昔と変わらぬ姿にとても懐かしく、当時受けた御恩の数々をつい昨日のように思い出しました」

「はぁ」


 話が分からない。いや、話は分かるのだが、この話がどこに向かっているのか見当がつかず、志麻しま戸惑とまどった。


 それにしても二十年経って姿が変わらないのはすごいことだ。恵進えしんの兄弟子なので今、四、五十であろうか。すると昔は二、三十なので少し無理がありそうだ。だということは、元々おじいさんで今もおじいさんになる。そうでなければ辻褄つじつまが合わない。


「そのあにさんがおっしゃるんです。姫様にこれをお渡しせよ、と」


 そう言うと恵進えしんは隣に置かれていた平包みを志麻しまの方に差し出した。


「拝見してもよろしいでしょうか」


「もちろんですとも。これはすでにあなたの物ですから」


 平包みを開いて志麻しまは我が目を疑った。


武経七書ぶけいしちしょじゃないですか!」


 昨日見せて欲しいと頼んで断られた武経七書ぶけいしちしょ。どうやって信頼を得て見せてもらおうかと悩んだ武経七書ぶけいしちしょ


「それは元々、あにさんの物なのです」


「そんなものを本当に頂いてしまってよろしいのですか」

「ええ、あにさんがそれを譲ると決めた。となればその意を実行するのが寺の者の本望です。お納めいただきたい」


「ありがとうございます」

 志麻しまの頭は自然に下がっていた。


「それと姫様、師が欲しいとあおっていましたね」

「はい」


あにさんが言うには、今日の夜半に行くから待っておれ、とのことです」


 賢いと評判の恵進えしんの敬愛する兄弟子であれば師にうってつけであろう。志麻しまに断る理由はない。


「かしこまりました、とお伝えください」


「は、はい」


 恵進えしんが曖昧な返事をしたのはもう『あにさん』が寺にいないからかもしれない。


 その後志麻しまは重ねてお礼を述べて遍照光寺へんしょうこうじを後にした。今夜どのような人物が師として来てくれるのか、胸を躍らせていた。


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