1章3の1

 3


 十一月二十一日。

 志麻しま承然しょうぜんにより呼び出されていた。


志麻しまでございます」


 承然しょうぜんの部屋の前で志麻しまが告げると、中から、お入り、と返事があった。


 部屋は十畳ほど板張り。障子から射す光で明るい。奥の棚には大量の本や巻物が積まれ、部屋の主人が持つ教養の高さを物語る。一輪けられた寒椿かんつばきの華やかな桃色が目に鮮やかだ。


 畳が二畳、対面する形で置かれている。その片方に承然しょうぜんは座っていた。

 この承然しょうぜん、年は定かではないがとうの昔に還暦は過ぎていると聞く。顔には深いしわが走り、法衣ほうえの上からもわかるほどせている。


「朝から呼び出してすまぬの、ささ、座っておくれ」


 促されて志麻しまは、失礼します、と言って残されたもう一つの畳に正座した。


「姫、セイの様子はどうじゃ?」

 おもむろに承然しょうぜんが尋ねた。

いまだ自力で体を起こせませんが、食は良くなりかゆ以外も口に出来るまでになりました」


「食は良くともまだ起きれぬか。して慈来じらいは何と申しておるのじゃ?」

火傷やけどの範囲が広いため、その回復に体力のほとんどを持っていかれているのだろうとのことです」


「ふむ、他には何か申しておったか?」

「はい。それでもあと十日もすれば体を起こせるようにはなるだろう、とも言っていました」


「なるほどの。姫は休めておるかの? もし人がいるのならば今からでも寺の者を使うてもよいぞ」

「ありがとうございます。セイはずっと微熱こそありますがおそれていたほどの熱は出ておらず、容態は安定しております。わたしたち三人でも十分看病できます。逆に三人いても暇になってしまうので交代で空き時間を作っているくらいです」


「ほう、空き時間とな。姫はどうしておるのじゃ?」

「前回の講義で習った所を読み直したり、考えをまとめて紙に書き付けたりしております」


「前回は老子ろうしじゃったな」

「はい」


「書き付けは今持っておるか?」

「はい、ここに」


 機会があれば承然しょうぜんに添削して欲しいと思っていた。呼ばれた時に念のため持ってきたことが吉と出たようだ。

 承然しょうぜんは受け取ると三枚の書き付けに目を通していく。


「ふむ。よく書けておる。日々、古典漢文の修練に励んでおるようじゃの」

「ありがとうございます」


「されども、教えるべき所は教え終わってしもうた。姫はおそろしく飲み込みが速いからのう」

「わたくしはまだ学びとうございます」


「姫はここに通うようになってどのくらい経つ?」

「もうすぐ二年になります」


 一通りの学問を習得した後、さらなる知識を求めて長慶寺ちょうけいじ承然しょうぜんもとを訪ねたのが二年前の春だ。


「もうそんなになるかの。そうか。ところで姫は兵法書も学びたいと申しておったの」

「はい、承然しょうぜんさまの教えを頂けないでしょうか」


 ここで一つ、承然しょうぜんが息を吐いた。


「教えたいのは山々だがの、前にも申した通り、わしには兵法書の表面の字面じづらは追えても、その神髄まで教えることは出来ぬのじゃ」

「そう……でございますか」


 志麻しまには残念だったが、中途半端に教えることを嫌う承然しょうぜんのことであるから首を縦には振らないと分かっていた。


「誰か紹介できれば良いのじゃがのう。それにしても姫の向学は感心じゃの」

「初めて申し上げますがわたくしは軍師になりたいのです」


「ふむ。朝比奈あさひな家のかな」

「いえ、今川いまがわ家の軍師でございます」


「大きく出たのぉ」

「はい。ですがわたくしの憧れは雪斎せっさい様なのです」


「ほう。雪斎せっさい様が憧れとな」

 承然しょうぜんの目がギョロリと動いた。


雪斎せっさい様のようになりたいと申すのかの」

 承然しょうぜんが続けざまに念を押した。


「鎌倉の尼御台所みだいどころ東山殿ひがしやまどの御台所みだいどころも女ですが幕府の号令を発しておりました」

「そうじゃのう」


 鎌倉の尼御台所みだいどころとは北条ほうじょう政子まさこのことで、東山殿ひがしやまどの御台所みだいどころ日野ひの富子とみこのことである。


東山殿ひがしやまどの御台所みだいどころには確かに蓄財の悪評もございますけれど、それは今の世においては必要なものです。いくさをするにも、家臣を養うにも、民に施しを与えるにもお金がなければできません」

「ふむ、人の資質はある時には良き面に、ある時には悪しき面として現れよう。決して硬直したものではないのう」


「はい。常に内面を磨き、自分の資質が良き面として表に出るように精進いたします」


 この時、志麻しま承然しょうぜんからじっと見据みすえられた。


「姫よ、それでは足りぬの。姫は人の上に立つことを志しておる。故に、周りの者の資質を上手に使いそれが良き面として出るように助力せねばならぬ」


 志麻しまは恥じた。

 つい先ほど口に出した目標に適う心構えがまだ出来ていないと言われたも同然なのだ。何の言い訳もできない。


「仰る通りで恥じ入るばかりでございます。未熟なわたくしには師が必要です」

「そう自分を卑下なさるな。人はそうして学ぶものじゃ。しかしの。姫とこうして語るのも月に一度。これではむざむざ姫の才覚を腐らせてしまう。師については考えよう」


「お願い申し上げます」

「でな、今日、呼んだのは遍照光寺へんしょうこうじを訪れてみぬか? 当寺から用事で使いを出すんじゃが付いて行くとよい」


葉梨館はなしやかたの奥にあるお寺で、住職は恵進えしんさまですよね。」


 葉梨館はなしやかた葉梨構はなしかまえとも言い、五代目当主範政のりまさ駿府すんぷに居を移すまで、今川いまがわ家の本拠地とされていた館である。遍照光寺へんしょうこうじ今川いまがわ家の古くからの菩提寺ぼだいじである。恵進えしん遍照光寺へんしょうこうじにその人ありと言われるほどの徳の高い僧として有名であった。


「その通りじゃ。顔を売ってくるのも良かろう」

「はい、お供したいと思います」


 ふむ、とうなづいた承然しょうぜんが突然細い目を見開いた。


「そうじゃ、遍照光寺へんしょうこうじには武経七書ぶけいしちしょと高僧が記したその注釈書があると聞く。姫は武経七書ぶけいしちしょをお持ちか?」

六韜りくとう三略さんりゃくならば木版本もくはんぼんのものがございます。孫子そんしにいさまが掛川かけがわに持っていってしまいました。他はございません」


「ふむ、見せていただけるとありがたいのう。しかしあれは遍照光寺へんしょうこうじの秘宝とも聞くしのう。わしも一筆書いてお願いするが、どうじゃろうか。後は姫の努力次第しだいかの」

「承知いたしました。努力いたします」


「では。遍照光寺へんしょうこうじへ行く支度したくをしておくれ。あと四半時もすれば使いが出発する手筈てはずになっておるでの。手紙は出発時に門前にて渡そう」


 志麻しまは、ありがとうございます、と言うと一礼して部屋を後にした。


 断られる心配もなくはない。しかし、この時、志麻しまは大きな希望をいだいていた。

 道が開ける。いや、目標に向かって伸びる無数の道から進むべき道が光り輝いてあらわになったとでも言うべきかもしれない。

 志麻しまは体中に力がみなぎるのを感じていた。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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