1章2の3

  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 明くる十一月十三日の辰三たつみどき、今で言う午前九時。


 本堂より離れへ渡る廊下を志麻しまは歩いていた。

 世話になっている承然しょうぜん慈来じらいを始めとする寺の者に挨拶を済ませてきたのだ。


 昨日は慈来じらいの指導の下、鶏子白けいしはくを少年に塗り、包帯を巻き直した。


 いまだ少年は目覚めない。

 それでも志麻しまは少年がたすかると信じている。慈来じらいに話した通り、少年の声を聞いてたすかると信じなければならないと思った。今はたすかると確信に変わっている。こんな心の移り変わりは道理に合わないと志麻しまもわかっている。それでもただただたすかると強く強く思うのだ。


 本当を言うと少し怖い。この確信も何か大きな力によって動かされているように感じる。

 大海原おおうなばらを小舟でぎ出してしまったような心細さ。天候は荒れる気配を示し、志麻しまと少年の乗った船は波に翻弄される。


 確信と不安。


 少年の寝る部屋のふすまの前に立ち、混乱する心を静めるように、ふぅ、と息を吐く。


 ふすまを開け中に入ると部屋の中央に少年は寝ている。

 むしろを二枚重ね、その上に古着を敷いて敷物とし、上には古着を何枚もかけている。


 静かに少年の枕元に近づき腰を下ろした。顔をのぞき込むと、少年の目が開いている。


「わぁ、気付いたのね」


 よかった。本当によかった。これで少年はたすかる。

 先ほどまであった不安な気持ちは霧が晴れるように消え去った。


 少年の唇がかすかに動いたのを志麻しまは見逃さなかった。だが、声は出ていない。

 それもそうだろう。少なくとも丸二日は水を飲んでいたのだから。


 慈来じらいにも目を覚ましたら白湯さゆを与えるようにと言われている。


「ちょっと待っていてね。すぐに戻るから」


 寺の台所に走って向かう。

 台所ではおけいが寺の手伝いをしていた。事情を寺の者に伝えおけいとともに白湯さゆを持って離れへ戻った。


 少年に白湯さゆを与えると一気に杯を飲み干した。

 包帯で表情はわからないが、とても美味おいしそうに飲んでいるのはわかる。杯に注ぐたび、すごい勢いで消えていくのだ。


 水差しの白湯さゆはついに尽きた。それでも少年はまだ欲しいと目で訴えてくる。


「おけい、もう白湯さゆがなくなったわ。元々どれくらい入っていたかしら」

「五合は入っていたと思います。すごいですね。全て飲み干してしまうなんて」


「ええ、あまりに美味おいしそうに飲むものだから考えずに注いでしまったわ。こんなに一度に飲ませてよかったのかしら」

慈来じらいさまにお伺いを立ててからの方がよかったかもしれません」


「そうね。ではこれで終わりにしましょう」


 おけいうなづいて同意した。


「と、いうわけだから今はお終いね」


 志麻しまは少年に向き直り目を見て言った。


「********」


 少年の発した言葉は聞いたこともない。思わず志麻しまとおけいは顔を見合わせる。


「困ったわね。唐人とうじん高麗こうらい人だったかしら」

「姫様、近ごろ聞くようになった南蛮人かもしれません」


「そうね。言葉が通じないのは参ったわね。何があったのか聞き出せないわ」

「はい、このようなむごたらしい行いをする野盗がいるのなら、すぐに岡部おかべさまか御屋形おやかた様に報告せねばなりませんのに」


「ええ、早く何とかしたいわね。けど、今は彼に回復してもらうのが先ね」

「はい、そうでございます」


「では、おけい、彼をもう一度寝かせてあげて」


 おけいが少年を寝かせると、志麻しまがやさしく語り掛ける。


「ここは安全、大丈夫よ。あなたはたすかるわ。だから今は休んでちょうだい。きっとよくなるから」


 少年に言葉が通じる訳ではない。けれども思いは通じるはずだ。


 静かに少年がうなづいたように志麻しまには見えた。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 さらに一昼夜が過ぎた。少年は、昨日の夕方にはかゆを口にできるまでに回復していた。

 今朝もかゆを食べた。量が昨日よりだいぶ増えて志麻しまも大きく安堵あんどした。


 慈来じらいは驚きを隠さない。少年が目覚めてからの回復が早く、おそれていた発熱もほとんどないのだ。まさに万が一の幸運を手繰たぐり寄せたのだと志麻しまに語った。


 慈来じらいの許可を得たので、今、志麻しまたちは少年から事情を聞こうとしている。言葉は通じないので筆談を試そうということになった。


 部屋には、志麻しま慈来じらい、おけい十兵衛じゅうべえが集まった。


 志麻しまが紙に流れるように字を書いていく。

 念のため、まずは平仮名ひらがなで試すことにした。当然、通じる訳もなく少年は静かに首を横に振った。

 次に漢文で試す。が、これもダメであった。


「姫様、弱りましたね」


 困ったようにおけいが言った。通じるのであれば漢文でであろうというのが皆の一致した意見だった。

 ええ、と志麻しまが答えようとした時、少年の手が、ぬっ、と動いた。何かを書く仕草しぐさをしている。


 志麻しまが急いで紙と筆を渡した。


 少年がゆっくりと文字らしきものを書き始めた。しかし、見たこともない文字である。


慈来じらい殿、この文字に見覚えはありますか」


 この四人の中では最も外国の文字の知識があるのは慈来じらいであろう。少なくとも、他の者が読み書きできない天竺てんじくの文字、梵字ぼんじを習得している。


面目めんぼくないが、拙僧にもわかりかねます」

 慈来じらいは申し訳なさそうに言った。


「やはり南蛮の者でしょうか」

「姫様、それもわかりませぬ。力になれず申し訳ない」

「そうですか。慈来じらい殿がわからなければ、わたしたちがあれこれ考えても判らないわね」


 皆が途方とほうに暮れたように黙り込んでしまった。

 沈黙と重い空気があたりを漂う。


 そこを破ったのは十兵衛じゅうべえだった。


「あのー、この少年の名前は聞き出せないでやすか? 少年だと呼びにくいでやす」


 皆の視線が十兵衛じゅうべえに集まり、十兵衛じゅうべえをそわそわさせた。


「そうね。そうよね。十兵衛じゅうべえ、完全に失念していたわ。まずそれを聞き出すべきだったわね」


 志麻しまはそう言うと少年の方に向き直った。声をかけて手を胸の前で振る。少年の注意を引こうというのだ。

 少年の視線が志麻しまに来たところで、自分の胸を指して、志麻しま志麻しまと唱える。同じようにおけい十兵衛じゅうべえ慈来じらいに指をさして名前を唱えた。そして最後に少年を指さして答えを求めた。


 最初、少年は答えなかった。三巡目をした時、ポツリと答えた。


「セイ」


 志麻しまの表情が一気に喜びに変わる。


「セイ、あなた、セイって言うのね」


 皆も一様に表情がほころんだ。


「おけい、彼はセイって名前ですって」

「はい、姫さま。わたくしにも聞こえました。わたくしもうれしゅうございます」


十兵衛じゅうべえ、あなたの機転のおかげね」

「姫様、あっしは思いつくまま言っただけでやす」


慈来じらい殿にも感謝申し上げるわ」

「姫様、礼には及びませぬ。名前が分かったことは大きな前進ですな。それよりこれからどうなさる? 言葉が分からねば自立は難しかろう。承然しょうぜんさまに頼んで寺の下男げなんにしてもよいのですが」


「そうね。セイが馬に乗れるまでの間、この離れをお借りできますか」

「それは構いませぬが」


「馬に乗れるようになり次第しだい駿府すんぷの家に連れて帰りますわ。にいさまに相談してみないとだけど、一人くらい人が増えてもうちは困らないわ」

「承知致した。セイは善き人に拾われたな」


 慈来じらいがしみじみと言った。

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