1章2の2

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 志麻しまたちが長慶寺ちょうけいじに着くと承然しょうぜんの対応は素早かった。


 怪我人のために寺の離れがあてがわれ、すぐさま寺の若い僧、慈来じらいが呼ばれた。

 慈来じらいには多少の医術の心得がある。それもまた志麻しま長慶寺ちょうけいじ行を決断させた要因の一つであった。


慈来じらい殿、何をどうすれば……」


 慈来じらいがゆっくりとした口調で答える。


「姫様、落ち着かれよ。まずは風呂にて水で体を清めて差し上げましょう。そののち、火傷やけどを負った部分に灰汁あくを塗り、布を巻いて差し上げるがよろしいと存ずる」

「まず体を洗うのですね。ありがとうございます」


 そう言って立ち上がる志麻しまを、おけいが呼び止めた。


「姫さま、ご自身でなさらずとも代わりにわたくしがやります」

「いいえ、おけい。やらせてちょうだい。ただ見ているだけではつらいわ」

「そうでございますか。普通の姫ならばそこまでいたしません」

「ありがとう、おけい。わたしの世間体せけんていを気にしてくれたのね。わたしは大丈夫よ」


 うつむいたおけいをそっときしめた。


「さぁ、こうしてはいられないわ。やるわよ」


 志麻しま、おけい十兵衛じゅうべえ慈来じらいと何人かの僧の力を借りて風呂で体を清めた。

 長慶寺ちょうけいじにある風呂は蒸し風呂である。なので湯を張らない。熱い蒸気が火傷やけどに障ってはいけないのでいてもいない。水は井戸から持ち込まれる。


 井戸の水では冷たかろうと、承然しょうぜんが水をめるかめに焼いた石を入れて温めてくれた。承然しょうぜんのちょっとした心配りが志麻しまにはうれしかった。


 ボロボロになった服を脱がせてその下が露になると皆の表情は険しくなった。ここにも火傷やけどは及んでいたのだ。


「姫様、これではたすかりますまい。ご覚悟をお願い存ずる」


 慈来じらいが井戸での清めを終えた志麻しまに静かに語った。


「わかりました。それでもわたしはあの者をすくいたいと思うのです」

「ですが、万に一つもないほどと存ずる」


「はい、この者はわたしが近づいたときに声を上げたのです。それは生きたいと言うことですわ。わたしはそれを受け止めました。なればわたしはこの者が生きたいと願う限り、信じて治療にあたらねばなりません」


「ええ、そうですとも。つまらぬことを申し上げた。拙僧も僧医の端くれ、全力を尽くしとう存じます」

「頼りにしておりますわ」


 慈来じらいは恥じたように頭をいている。


 志麻しまには慈来じらいが見捨てろなどと言いたいのではないことなど分かり切っていた。ただ、志麻しまが自分のせいだと自分を責めるようなことがないように言ってくれたのだ。


「ところでこの者、少年のようですな。体の肉付きや残った皮膚のからするとまず間違いないと存じます。まだ若い。姫様と同じくらいと拙僧には見えます」

「わたしと同じくらいですか。なお一層たすけたいわ」

「ではこちら、灰を水に溶いた上澄み、灰汁あくにございます。患部を漬して差し上げて下され」


 志麻しま灰汁あくの入ったおけを受け取ると、丹念に少年の患部を漬していった。


 漬し終わると、次は包帯が巻かれる。志麻しまとおけい慈来じらいの指導を受けながら行った。頭から足の先までかなりの量の包帯が必要だ。加えて、ただ巻くだけでもことほか難しく、時間がかかる。志麻しまはひと巻きひと巻きを神仏の加護があることを願いつつ慎重に巻いていった。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 少年をたすけてから一日が過ぎた十一月十二日ひつじこく、今で言う午後二時。


 昨日、駿河するが府中ふちゅうの母上のもと十兵衛じゅうべえに事の次第しだいを報告に行ってもらった。その十兵衛じゅうべえが帰ってきたとのことなので、志麻しまは山門まで労いに出ていた。


「姫様、今、戻りやした」


 荷物を背負った十兵衛じゅうべえが軽く会釈しながら言った。


十兵衛じゅうべえ、ご苦労様。さぁ中に入って休んでちょうだい」


 志麻しまに続いて十兵衛じゅうべえも山門をくぐった。


「母上はなんて言っていたかしら」

「へい。事情は分かったから姫様のなさりたい様にして構わないとのことでございやす」


「さすが、母上。話がわかるわね」

「姫様、あまりご心配をお掛けになってはいけないでやす」

 十兵衛じゅうべえにぴしゃりと言われてしまった。


「そう、ね。気を付けるわ」


「ところで姫様、あの少年はどうなりやした?」

「一時ほど前にかすかにまぶたを開けたけれど、それっきりだわ」


「目を覚ましなすったでやすか」

「意識があったかは分からなかったわ。わたしの呼びかけにも反応しなかったわね」


慈来じらいさまは何かあおったでやすか」

「何とも言えないけれども、悪い兆候ではないだろうとのことだったわね」


「そうでやすか。悪くならないのならば良くにしかならないでやす」

「ええ、そうね。十兵衛じゅうべえの言うとおりだわ」


 離れの玄関に着くとおけいが水を張ったおけと手ぬぐいを用意して待っていた。


十兵衛じゅうべえ殿、お疲れでしょう。さぁ足をお洗いになって」

「かたじけないでやす」


 十兵衛じゅうべえ式台しきだいに腰を下ろすと、草履ぞうりを脱ぎ水で足を洗いだした。


十兵衛じゅうべえ、その背負っている荷物はなんなの? 母上から何か持たされたのかしら」

「いえ、これは……」


 そう言いかけたとき、奥から慈来じらいがやってきた。


「おぉ、十兵衛じゅうべえ殿、帰ってこられたか。それで、頼んでいたものは用意できであろうか」

慈来じらいさま。はい、こちらにありやす」


 そう言うと十兵衛じゅうべえ慈来じらいに背負っていた荷物を差し出した。


 そして、志麻しまの方へ向き直って言った。


「姫様、これらは慈来じらいさまより買ってくるよう命ぜられた鶏の卵でございやす」

「そうだったの。でも何で卵をそんなに」


「それについては拙僧から説明申し上げようと存ずる」

 慈来じらいが話を引き取った。


「鶏の卵の白身は漢方で鶏子白けいしはくと申して火傷やけどの患部に塗ると良いとされています。灰汁あくより効果があって、発熱を抑えることが期待できると存ずる」


「発熱を抑えるのですか」

「ええ、姫様、火傷やけどはその傷そのものも危険であるが、のちに熱を出して体力を奪われ、それで亡くなってしまう者が多くありましてな」


「そうでございましたか。では、あの少年も熱を出さないようにすればよいのですね」

「左様です。姫様。さすれば期待が持てるものと存ずる」

「ありがとうございます」


 志麻しま慈来じらいに深々と頭を下げた。そうせずにはいられなかった。


「ところで十兵衛じゅうべえ、あれだけの量の卵がよく手に入ったわね」

「運がよかったでやす。何せ今日は安倍あべの市の日でやしたから」

「あぁ、そうだったわね」


 安倍あべの市とは駿河するが府中ふちゅうで開かれる六斎市ろくさいいちである。六斎市ろくさいいちとは月に六日開かれる定期市のことである。近傍の村々や水運を使って遠くからも物や人が集まるのだ。


 志麻しまにはこの偶然も神仏の加護のように思えた。


「では拙僧はこれにて。すぐに鶏子白けいしはくの用意をいたします故、姫様、また手伝っていただけましょうか」

「ええ、もちろん、いたしますわ」


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