1章1の2

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 葉梨郷はなしごうから岡部郷おかべごうへと抜けるウスイ峠に差し掛かった。景色は田園から林に変わる。左手に毘沙門天びしゃもんてんまつったやしろが、緑を増した木々の奥に垣間見えた。


 この道はあまり人気がないが、峠を越えた先には今川いまがわ家重臣岡部おかべ氏の館や朝日山あさひやま城があり、盗賊のたぐいがおいそれとたむろできる土地ではない。


 そうであるので、本来であれば長慶寺ちょうけいじより南東に下り、東海道に出るのが普通であるところ、近道として志麻しまたちはこのウスイ峠を使っている。


 戦国の世にあっても、今日の駿河するがは平和であった。


 駿河するが府中ふちゅう駿府すんぷより東に富士ふじ川を越えた地方を河東かとうと称し、西に宇津ノ谷うつのや峠を越えた地方を山西やまにしと称した。


 河東かとうでは、北条ほうじょう家との争いがかつて行われたが、今より十数年前に手打ちとなった。さらに今川いまがわ家、北条ほうじょう家、武田たけだ家の三大名による駿相甲しゅんそうこう同盟により安定がもたらされた。


 山西やまにしで戦乱と言えば今の太守たいしゅ今川いまがわ義元よしもとが家督を争った花蔵はなぐらの乱にまでさかのぼる。今より二十三年前である。


 お家騒動であるから領民にひどい仕打ちをするわけもなく、長く続く平和はどことなくのんびりとした気質きしつを住む人々に与えている。ここ葉梨郷はなしごう岡部郷おかべごう山西やまにしに属し、やはり人々の気質きしつは穏やかである。


「姫様、あっしは少し先に行きやす」


 十兵衛じゅうべえ夕凪ゆうなぎ手綱たづなをおけいに預けると、振り返って告げた。


 いくら安心であるとはいえ、峠のような場所は用心に越したことはない。先に不審な者がいないか確かめるのである。


「ええ、頼むわね、十兵衛じゅうべえ


 へい、と言うとささと走り出す。あっという間に道の曲がり角に行き着き、大きく手を振って安全だと知らせてきた。


 志麻しまとおけいはゆっくり進む。

 十兵衛じゅうべえはそれを確認すると曲がり角に消えていった。


「あれで、閻魔えんまさまが迎えに来るですって。あり得ないわね」

「ふふ、そうでございますね。閻魔えんまさま相手でも百里先まで逃げてしまいますね」


 その時、一陣の風が吹いて草木を揺らした。

 手綱たづなを握ったおけいの手にわずかに力がこもったのを志麻しまは見逃さなかった。


「大丈夫よ、おけい。何もいないわ。ちゃんとわたしも見ているわよ」


 はい、と答えたが、まだ、力は抜けていないようだ。おけい志麻しまの身のこととなると、にわかに心配性になるきらいがある。自分のことよりも志麻しまのことなのである。


 草木のかすれる音。夕凪ゆうなぎひづめが土にむ音。それに加えて、おけいの静かな足の運びが出すかすかな足音。他に気配は感じられない。

 曲がり角を曲がると、次の曲がり角の前に十兵衛じゅうべえが待っているのが見えた。こちらを認めると、また大きく手を振って合図を送ってくる。


 左右からせり出す木々でぼんやりと暗い山道が続く。

 志麻しまたちは慎重に足を進めた。

 もう十兵衛じゅうべえの姿は見えない。


 空は左右の木々で狭く切り取られている。その隙間から旋回しているカラスの姿が視界に入る。

 ガァー、と不吉で耳障みみざわりな鳴き声がこだました。


 その時、志麻しまは何かおかしいと思った。


 カラスの旋回しているその真下あたりに、よくよく目を凝らす。


「姫さま、どうかなさいましたか」

 おけいが口元を押さえ、震えた声でささやいた。


「何かいるわ。右、奥、枯草の塊りのその向こうよ」

「どこです? 姫さま、見えません」

 おけいの声はさらに小さくなった。


うろのある木と二股に裂けた木の間よ」


 言われた方を見上げたが、今度は顔を左右に振るだけだった。

 おそらく馬上からでないと手前の枯草に邪魔されて見えないのであろう。

 神経を澄ましてじっと見つめる。


――人だ!


 ピクリともしない。しかもひどい火傷やけどをおっている。皮膚がただれそれが赤黒いのだ。


「仏さん……だわ。ほうっておくわけにはいかないわよね。十兵衛じゅうべえを呼びましょう」


 志麻しまたちは急いで曲がり角まで行き、十兵衛じゅうべえを呼んだ。

 十兵衛じゅうべえが血相を欠いて駆けつけてくる。


「や、野盗でやすか!?」


 脇差を腰からさやごと引き抜き、志麻しまたちが来た方に鋭い眼差まなざしを向けた。


「落ち着いて、十兵衛じゅうべえ。仏さんを見つけたわ。一緒に来てちょうだい」

「仏さんというと、死体でやすか?」

「そうよ。近くには誰もいないと思うわ」


 それを聞くと、十兵衛じゅうべえは肩で大きく息をついた。


「さようで。いやはや、肝を潰しやした」


 志麻しま十兵衛じゅうべえ、おけいの三人では、実質、戦えるのは十兵衛じゅうべえただ一人だ。志麻しまにも弓の心得はあるが、普段から弓矢を持ち歩いているわけではない。剣の戦いでは女の力は無きに等しい。必然、十兵衛じゅうべえが時間稼ぎをしている間に志麻しまとおけいは逃げるという形にならざるを得ないのだ。十兵衛じゅうべえはそれを十分わきまえていた。


「では行くわよ」


 へいっ、と額に浮かんだ汗を袖で拭きながら十兵衛じゅうべえは答えた。


十兵衛じゅうべえ、この場合はどうすればよいのかしら」

「そうでやすねぇ、近くのお寺さんに連絡して仏さんを引き取ってともらいをしてもらうしかないでやす」

「そうね。わたしもそれがいいと思うわ」


 一行はもと来た道を戻り、死体を見つけたとことまで来た。


「あそこよ、十兵衛じゅうべえ


 十兵衛じゅうべえは指差された方向に視線を向けたが見つからないようだ。やはり馬上からでないと見えないのだろう。


「しかたないわね」


 そう志麻しまは言うと夕凪ゆうなぎから降りて急な斜面を登り始めた。


「姫さま、危のうございます」

 おけいが心配そうに声をかけた。


「大丈夫よ。武家の娘ですから。ほら、十兵衛じゅうべえ、こっちよ」

 へいっ、と言って十兵衛じゅうべえ志麻しまに続く。


 斜面を二けんほど登ったところに死体はあった。

 顔や頭、腕は焼けただれ、服も焼けてボロボロだ。


「ほう、これはひどい有様ありさまでやす」


 えぇ、と答えようとしたその時、死体だと思っていた者から、ぐぅ、とうめき声が漏れた。


 志麻しまは急いで耳を近づけた。

 かすかな息の音。近づかなかったら草木のかすれる音で聞き逃すところだった。


「まだ生きているわ!」

「本当でやすか。これで生きている。驚きでやす」

「えぇ、十兵衛じゅうべえたすけるわよ」

「へいっ、そうしやしょう」


 志麻しまは宙を見上げて頭を働かす。


駿府すんぷの家まで連れて行くのは遠すぎるわね。そうね。長慶寺ちょうけいじに連れて行こうかしら。承然しょうぜんさまなら引き受けて下さるわ」


 志麻しま十兵衛じゅうべえとおけいの方を見やり、どちらもうなづいて答えた。


長慶寺ちょうけいじに向かうわよ」


 志麻しま凛々りりしい声が峠に響いた。

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