1章

1章1の1


 1章


 1


 時は永禄えいろく二年十一月十一日。

 朝比奈あさひな志麻しま長慶寺ちょうけいじからの帰り道の途上にあった。


 長慶寺ちょうけいじ駿河するがの国は葉梨郷はなしごうに所在する今川いまがわ菩提寺ぼだいじであり、今川いまがわ家四代目泰範やすのり開基かいきとして開創された由緒ある寺院である。今川いまがわ家がその拠点を駿河するが府中ふちゅうに移し一時すたれたが、今の十一代目当主氏真うじざねの父であり十代目の当主でもある義元よしもとの軍師として名をせた太原たいげん崇孚そうふつまり雪斎せっさいによって再興を果たした。その際、宗派を臨済宗りんざいしゅう妙心寺みょうしんじ派に移し今に至る。その雪斎せっさいも四年前に亡くなった。


 志麻しまは父や兄から漏れ聞こえる雪斎せっさいの武勇伝に心躍らされる、そんな姫であった。


 今、十一月であるから日の力は衰え、秋の穏やかさは過ぎ去り、本格的な冬を迎えようとしている。


「姫さま、お寒くはございませんか」


 おけいが愛馬、夕凪ゆうなぎの背にまたがる志麻しまあおぎ見ながら聞いた。

 おけいは三十も半ばの中肉中背ちゅうにくちゅうぜい、卵のような顔をした女で、志麻しま乳母うばである。


「大丈夫よ。おけい、これでも武家の娘ですから」

「はい、これは失礼しました」

「わたしより十兵衛じゅうべえは大丈夫なの」


 そう志麻しまは言って、夕凪ゆうなぎの反対側を向く。十兵衛じゅうべえ志麻しま付きの奉公人ほうこうにんだ。


「あっしも歳は取りやしたが、まだ若いものにも負けやしやせん。それに歩いていればこれくらいの寒さなどへっちゃらでございやす」


 十兵衛じゅうべえ夕凪ゆうなぎ手綱たづなを引く手を挙げて答えた。


 夕凪ゆうなぎ栗毛くりげの立ち姿の美しい馬で、もともとおとなしい性格であるが、ことさら志麻しまには懐いている。


十兵衛じゅうべえは今年でいくつになったかしら」

「へい、今年で五十と七でございやす。人生五十年と言いやすからいつお迎えがおでなすっても、不思議じゃございやせん」

「あら、十兵衛じゅうべえ殿、そんなに元気では閻魔えんまさまに追い返されますわ」


 おけいがくすりと笑う。


「そうよ、まだまだこれからも仕えてもらうわよ」

「ありがたいことで。ところで、雪斎せっさいさまのご供養はようお出来になりやしたんでございやすか」

「えぇ、しっかりご供養いたしたわ」


 昨日は雪斎せっさい月命日つきめいにちであった。そういうわけで雪斎せっさいが晩年を暮らした長慶寺ちょうけいじに参拝をしたのだ。


「学問の方もはかどりやしたか」

「そうね、短い時間だったけれど承然しょうぜんさまに見ていただいたわ」

「それはなによりで」


 承然しょうぜんとは長慶寺ちょうけいじに務める雪斎せっさいの弟子筋に当たる僧で、志麻しまが半分押し掛けで学問を習っている。


「はぁ、師が欲しいわ」

承然しょうぜんさまにご不満がおありでやすか」

「違うのよ、承然しょうぜんさまに不満があるわけないわ。おいそがしい身でありながら見ていただけるのは感謝しかないわよ。けれど、ね。ひと月に一度あるかないかでは充実とはいえないわ」

「そうでやすか。いい方がいらっしょればよいのでやすが」


 志麻しまが学んでいる学問は四書五経ししょごきょう老子ろうしである。さらに加えて武経七書ぶけいしちしょをも学ぶ腹積もりでいた。全て難しい漢文で書かれ、五山文学ごさんぶんがくきたえられた僧のような者でなければ教えることは難しかった。

 当然、乳母うばであるおけいに扱えるものではなかった。


 僧たちは普段のお務めと弟子の僧への仏教の教育、武家の子弟への教育に手一杯であり、姫である志麻しまの相手に時間を割いてくれる者はそうはいない。

 承然しょうぜんは奇特な人物と言えたのだ。


 それゆえ、駿河するが府中ふちゅうにある善得寺ぜんとくじではなく、あえて山西やまにし承然しょうぜんのいる長慶寺ちょうけいじまで雪斎せっさいの供養のため出向いているのである。


 もちろん、志麻しま雪斎せっさいへの憧憬しょうけいとも言うべき尊敬の念は真実である。


「姫さま、今度、若さまに相談してみてはいかかでしょう」

 おけいが問う。若さまとは、志麻しまの兄泰朝やすとものことだ。おけいにいさま贔屓ひいきなのだ。

「それがいいでやす」


 十兵衛じゅうべえも深いしわの笑みを見せて同調する。


にいさまに? そうね、それがいいまもしれないわ」


 志麻しまはあまり当てに出来ないと思いつつも、おけい十兵衛じゅうべえの励ましを無駄にしまいと明るく答えた。


  ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る