第2話 色の世界
俯いたままのハクをヒガンは見下ろす。辺りには気まずげな沈黙が満ちていた。
宿に戻ってからというもの、ハクは黙りこくり、硬い表情を崩さない。それも当然だろう。世界の滅びなどというものをいきなり突きつけられたのだから。
ヒガンは少年にショックを与えた側ということになる。だが、罪悪感は感じていなかった。夢を見続けさせてやることのほうがむしろ残酷なこともある、そう考えていたからだ。
「ヒガンさん」
ようやくハクが声を絞り出した。
「なんだ」
「やっぱり、信じられません。世界が滅んだ、だなんて」
ハクの声は震えていた。震えを押し殺そうとしていて余計に力みが入ってしまってかえって震えている、そんな痛々しい声だった。
「お前が信じる信じないにかかわらず、滅亡は事実だ」
ヒガンは相変わらずの抑揚のない声で告げる。ハクが唇を噛んだ。
「いじわるしてるの?」
頬杖をついたテンの言葉に、ヒガンはため息を落とした。
「そもそもの話から始めるか?」
ヒガンはハクを見下ろす。ハクは俯いたままだ。
「世界……この星地球が滅んだのは、もう何百年も前のことだ。数百年前、異界の存在が確認された」
「……確認?」
ハクが小さな声で尋ねる。
「ああ。地球とその周りを囲む宇宙。それらとは全く異なる世界だ。並行宇宙、なんていう呼び方もあったかな。とにかく、単一だと思われていた宇宙は複数あり、それらの観測がなされるようになった」
「で、そんな並行宇宙を見つけた人間が次に何をしようとするか、わかるよね?」
テンが口を挟む。ハクは考え込む素振りを見せた。ハクの答えを待たず、ヒガンは続ける。
「異界との交信だ。どうにか接点を作れないか、とその研究が盛んにおこなわれるようになった」
「それで、その研究は成功した、んですね」
ハクの言葉に頷く。
「交信は成功、地球とそれら異界を繫げる理論の構築もされ、技術が開発された。異界はユニバースと呼ばれ、それぞれ名前を付けて区別されるようになった」
「ということは、複数あったんですか? 地球と繋がった異界──ユニバースというのは」
「そうだ。最盛期には百を超えるユニバースと繋がっていたらしい。だが」
ここでヒガンは一度言葉を切った。続きを待ってハクがこちらをじっと見てくる。ため息とともにヒガンは続きを口にした。
「地球と繋がった各ユニバースは、地球を飲み込み出した」
「飲み込む?」
「吸収されるようになっていったんだ。ユニバースは地球の各地を侵食し始めた。それが判明した時にはもう遅かった。一度始まった侵食は止まらない」
「なら、ユニバースとの繋がりを切ってしまえばよかったんじゃ」
「そう考えるのが普通だな。しかし、その頃にはもうユニバースからもたらされるものなしでは地球での生活は立ち行かないようになっていた。決定を下すべき人々は板挟み、そうこうしている間に取り返しのつかないことになった。つまり、このミドルのある島のみを残して、地球は侵食された。地球、という星は元の姿を失い、滅んだ」
「そんな……」
蒼白だったハクの顔からさらに血の気が引く。
「お前の住んでいた〈シティ〉は、残った人々が駆け込んだ街だ。かつての技術を使って生活している。ミドルは、そこから放り出された人々の末裔が住んでいる」
「じゃあ、侵食された土地に住んでいた人は」
「死んでいったわけではない。飲み込んだ母体であるユニバースで生活していた。最初のうちはな。混血が進み、文化にも馴染んでいった。だが、人間の血が混じったものはもうほとんどいない」
「それはどうして?」
「ユニバースの環境は、人間には過酷なものが多かったんだ。人間では耐えられない」
「ヒガンさんは」
黙っていたハクだったが、ヒガンを見上げてしっかりとした声で言った。ヒガンは彼の顔を見返す。何を言われるのかわかっていたが、黙ってハクの言葉を待った。
「ヒガンさんは、どうして知っているんですか? そんな話、僕は教わってきませんでした。教えまいとして隠していたんでしょう。でも、何百年も前の世界の真実を知っている理由がわからない」
「それは、ここがミドルだからだ」
「どういう?」
「ここは各ユニバースの狭間となっている。行き来する船の中継地点でもある。だから、世界の形を知っている」
「それだけじゃないよ」
ずっと黙って聞いていたテンが声を上げた。面倒なことになる、とヒガンは咄嗟に感じてテンに視線を向けたが、黙れ、という視線を無視してテンは続けた。
「ヒガンはもともと、ユニバースに行く船の船員だったんだよ。これまでにもいろんなユニバースに行ったことがある。ハイにもローにもね」
「やめろ、テン。昔の話だ」
ハクが僅かに眼を輝かせてヒガンを見た。それから首を傾げる。
「ハイとローというのは?」
ヒガンは舌打ちをしてテンを見た。ほら見ろ、やっぱり面倒なことになった。だが、テンは飄々とした表情を浮かべている。
「ここまで話したんだから、せっかくなら説明してあげれば?」
暢気にそう言った。仕方なくヒガンは説明を続けることにする。
「複数あるユニバースは、大きく分けて二つのグループになる。それがハイとロー。ハイ・ユニバースとロー・ユニバース。ハイ・ユニバースは知的生命体がいる世界だ。これらとの交易が今も続いているし、ハイ・ユニバース同士での交易の際、ミドルに立ち寄る船もある」
「じゃあ、ロー・ユニバースは、知的生命体がいない世界?」
「そうだよ。勘がいいね」
テンがハクを褒めた。ハクが一瞬嬉しそうな顔をする。
「さっき見た龍みたいなモンスターがいっぱいいる。それがロー・ユニバースだよ」
テンが簡単に説明する。はい、と続きを促すようにヒガンに手を向けた。
「ロー・ユニバースとはまともな交信ができず、交流も少ない。だが、かつてはそれらの世界に向かっても船が出ていた。危険な場所ではあるが、そこにしかない貴重な資源が見つかっていたんだ」
「じゃあ、ヒガンさんはそれを探しに行く船に乗っていたってことですか? あれ、でも船が出ていたのって一体いつまで?」
呟きに気がつかなかったふりをして、ヒガンは更に話を続ける。
「ロー・ユニバースのほとんどは地球との接点が遠ざかり、交流がなくなっている。だが、〝時化〟と呼ばれるこれからの時期、その接点が生まれたりして、ロー・ユニバースからの侵入者が発見されることもある」
ヒガンは口を閉ざし、かつて見た景色を思い出した。
各ユニバースとの接点は、海の向こうにある。光の渦のようなものが空と海とを遮るように広がっていて、その中に向かって船が進んでいくのだ。渦を抜けるとそこは異世界。各ユニバースに入り込むことができる。光の渦はゲートとも呼ばれ、地球とユニバースとの間だけでなく、ユニバース間にも存在する。
「そういうわけだ」
と、ヒガンは説明を締めくくった。ハクは黙り込み、何かを考えているのか、顎に手を当てて俯いている。
ユニバースは危険な場所だ。短い間の滞在ならば問題ないが、長期間の滞在は体に毒であり、昔のユニバース間を行き来する船乗りの中には、齢四十を待たずして死んでしまった者もいるという。脅すようにそのことを告げたが、ハクからは返事がない。
「でも」
ハクがようやく口を開いた。ぴくりとヒガンは肩を揺らす。ハクが顔を上げた。彼の瞳には強い光がともっている。嫌な予感がした。
「それでも僕は外の世界を見たい。ここに来る船に乗ればユニバースに行けるんですよね? だったらそこに乗せてもらえるように交渉をして」
「お前、話を聞いてたか?」
「聞いてましたよ。危険だってこともわかったし、僕が想像していた『世界』がないことも理解しました。でも、僕は自分の眼でそれを見たい」
ハクの言葉ははっきりとしていた。
「なんだってそんな外の世界とやらにこだわる? 〈シティ〉に戻れば何の危険もなく暮らせるんだぞ」
ヒガンは問い掛ける。少年の気持ちがわかる。自分の眼で世界を見たい、それはかつてのヒガンも抱いていた思いだ。少年が抱く世界への憧れがわかるからこそ、そして世界の厳しさを知っているからこそ、問わずにはいられない。
「そうですね。あの街だったら生きていくことに問題はない。ただ、僕はそれが窮屈なんです。鳥籠みたいだってずっと思ってた。あの街にいたら息が詰まる。街の中だけで全てが完結して、発展性がない。そんな生き方、僕は嫌だ」
きっぱりと彼は言い切る。
「命の危険があるにしても、僕は外の世界を見たい。そのほうが、『生きている』って感じられる」
「……」
ヒガンは黙り込む。それに、とハクは続けた。
「シキの国を探したいんです」
「シキの国?」
ハクの言葉にテンが首を傾げた。
「はい。図書館の奥で見つけた、探検家の遺した伝承です。この世界のどこかにはシキの国というものがあって、そこではあらゆる幸福が存在し、生命はたとえようもなく美しく輝く、という。その言葉が忘れられないんです」
「ふうん。その探検家っていうのは、ユニバースを渡っていたのかな?」
「おそらく、そうだと思います。僕は街の外、海の向こうの大陸のことかと思っていたけど……」
「それを探してどうする」
ヒガンは冷たい声で言った。
「そんなもの探してどうする。なんの意味もないだろう。どこに発表できるでもないし、見つけたところでお前に益はない。見つけられずに死ぬ可能性のほうが高い。俺はすっぱり死ねるんなら大歓迎だが、お前はそうじゃないだろう」
「生きる喜びを感じられないところで生きながらえるのは、死んだも同然だ」
ハクは、これまでにないほど確かな声で言いきった。ヒガンは脅すようにハクを睨んだ。ハクが瞬きをせずに見返してくる。どちらも視線を外すことなく、互いの眼を見る。一言も発さないどころか、物音さえ立てずに睨み合っている。
「じゃあ、探しに行けばいい」
重苦しい雰囲気をぶち壊して陽気な声を出したのはテンだった。ヒガンはあっさりとハクから視線を外し、呆れた眼をテンに向けた。
テンはにっこりと笑う。
「ちょうどこれから船が出る時期だ。だから、ついてきたらいいよ。シキの国なんて俺は聞いたことも見たこともないけど、ユニバースのひとの中には知っているって奴もいるかもしれない。どう?」
「テン! こんな子どもがユニバースに行けるか!」
「あれ? 俺が出会った時のヒガンもこのくらいだったと思うけど?」
テンはヒガンの苛立ちを相手にもしない。ハクの顔を覗き込んだ。頬杖をついていた手をハクへと伸ばす。
「どう? 来る?」
「え、でも」
突然のことにハクは狼狽えている。
「ユニバースに出かける用事があるんだ、俺が。一人二人船の空いているところにいさせてもらうくらいどうってことないだろうし。だからついてきなよ」
「テン!」
テンがヒガンを振り返った。彼にしては珍しいにやけた笑いを浮かべている。
「心配なら、ヒガンもついてくればいいじゃない」
「はあ?」
「いつも俺だけで行ってるんだしさ。たまにはヒガンもミドルから出て外の空気を吸ったほうがいいよ。そのほうが体が丈夫になる」
「余計なお世話だ!」
咄嗟に言い返し、ヒガンは口を閉ざした。
「あの、本当にいいんですか?」
ハクはおずおずとテンに尋ねている。もちろん、とテンが明るく請け合う。ハクは顔を輝かせた。それを見て、ヒガンは苦い気持ちになる。どうやら、ハクの気持ちを変えることはできないらしい。それにテンも乗り気になっている。こうなったらいくらヒガンが止めても無駄だろう。ハクを部屋に閉じ込めたとしても、テンがそこからさらい出して連れていく。だったら、大人しく行かせてやったほうが、部屋が一つ壊されないだけましだ。
「ヒガンはどうする?」
テンは振り返って尋ねた。ヒガンはがしがしと頭を掻く。勝手にしろ、と言いたいところだが、放り出すのも気が引けた。
幸いというべきか、これからの季節に宿に客は来ない。閉めても問題ないのだ。
ヒガンはしぶしぶ答えた。
「行くよ」
ハクとテンがハイタッチして喜んでいるのを、ヒガンは苦い顔をして見ていた。
宿の戸締りと荷造りを済ませ、三人が向かったのは当然港である。テンが軽やかな足取りで乗る予定の船を目指し、ハクが興味深そうにあちこちをきょろきょろと見回しながらそれに続く。ヒガンは最後尾についてむっつりと押し黙っていた。
「ヒガンさん、怒っていますか……?」
宿を出てからというもの全く言葉を発さないヒガンを不審に思ってか、ハクが恐る恐る尋ねた。ヒガンが口を開けるよりも先にテンが答える。
「怒ってないよ。面倒になったなって思ってるだけだよ。ヒガンは出不精なんだ。宿からもミドルからも出たがらない。昔とは全然違ってさ」
「テン」
ヒガンは、お喋りなテンに釘を刺すように声を尖らせる。テンは意に介した様子もなくふっと前を見た。腕を長く伸ばし、海のほうを指し示す。
「あれだよ。俺たちが乗る船。カロン号」
一艘の船が重厚さを感じさせる沈黙とともに佇んでいた。
背景には青々と輝く雲ひとつない空、太陽は白く煌めく。光が空中に散乱し、筋を作って辺りのものを照らし出す。揺れる海面は深緑色。波が立ち、空との界面には泡が浮かぶ。銀の鱗のような反射光をちらちらさせて、落ち着きなく揺れている。船はその海水の揺らめきに逆らうことなく、ゆうらりゆうらりと傾いでいた。
ハクが船を見上げて顔を輝かせる。口を開けて帆の畳まれたマストをじっと眺めている。かと思うと船の周囲を興味深そうに観察する。憧れ、興奮がないまぜになった顔だった。それを見てヒガンは苦々しいものを堪える。
かつてのヒガンもこのように、未知なるものへの憧れを持っていたものだ。ハクと同じかそれよりも少し幼い頃、家族の反対を振り切ってユニバース行きの船に乗ったのだ。その旅の中で得たものは、生きることへの絶望だった。ハクも同じことを突きつけられるのだろうか。
天候に似合わず暗い思いを抱いていると、テンが大きく手を振ってヒガンとハクを呼び寄せた。
「乗っても大丈夫だって」
「話つけて来たのか」
「うん。俺の船室で過ごすんなら問題ないってさ。狭くなるけどいいよね?」
「はい! 船に乗れるなら貨物室でも!」
「それはやめといたほうがいいんじゃないかな? 湿気がじっとり溜まって気持ち悪いし臭いも籠るよ」
「そうなんですね」
テンの言葉をハクは真剣に聞いている。
「さぁ、行こう!」
テンの先導で、ハクは船梯を登っていった。ヒガンはひとつため息をつくと、荷物を背負い直しその後に続く。船梯に一歩を踏み出し、片足に体重を掛ける。一歩、また一歩と、滑らないように慎重に登っていく。
「──あ」
風が吹いた。潮の匂いが鼻をくすぐった。潮風が頬を撫で、服を揺らし、髪を巻き上げていく。
──海だ。
ヒガンはそう思った。視線を上げれば、船のマストの向こう側、水平線のほうから向かってくる光が眼を射た。ただ眩いだけのその光にヒガンは眉を寄せた。懐かしさがこみあげてきた。初めて海に出た時のことが脳裏に蘇った。あの頃はまだ、何も知らない若造だった。純真無垢な少年だった。生きることに飽いていない子どもだった。今とどれほど違うだろう。
胸を焼く懐かしさが忌々しくて、振り払うようにヒガンは僅かに頭を振った。止まっていた足を動かして船梯の残りを渡り切る。
甲板に降りると、地面が頼りなく揺れた。停泊している船でもこれほどに揺れるのか、とかつては当たり前だったことを改めて実感した。
甲板の上には船員たちが出ていて、出航前の作業に勤しんでいた。年の頃は様々で、女性よりも男性が多い。これは力仕事をするからだろう。船員たちは忙しく手を動かしながらも、ヒガンのほうを物珍しそうに見ている。それもそうだろう。ミドルから新たに乗船する者などほとんどいないのだ。
テンは定期的にユニバースに行っていて、そのときに使う船は決まってカロン号である。だから彼に関しては顔なじみとなっているが、ヒガンとハクは新顔ということになる。
「ヒガン、こっち!」
テンが手を大きく振り上げて呼んできた。いつの間にかかなり先に行っている。ドアに手を掛けていることから察するに、マストの向こう側に船室へ繋がる通路があるらしい。
船員たちの邪魔をしないように避けながら、テンのもとまで進んだ。
船室に繋がる廊下は広いとは言えない。小さな窓から差し込む光が床に落ち、時折ヒガンらの顔を照らす。勝手知ったるふうに進むテンは細い手摺りのついた階段を素通りした。
「部屋に向かうんじゃないのか?」
ヒガンが声を掛けると、テンは首を振る。
「その前に行くところがあるんだよ」
ぴんと来なかったが、とりあえずついていくことにする。廊下を更に進んでテンがドアを開けたのは、ソファやテーブルが並べられた部屋だった。船員用の部屋という感じではない。壁に開けられた窓は小さく、ぽっちりと空を切り取っている。短いカーテンが今はまとめられていた。ソファは藍色をした革張りの、座面が広く座り心地の良さそうなもので、壁際に沿って置かれている。テーブルの上には片付けられたチェス盤が乗っている。他にも作りのしっかりしたキャビネットがあり、本や雑誌が並んでいた。
「ここはなんですか?」
好奇心を全身に現したハクが尋ねる。
「ラウンジだよ。暇な時に集まったり、ゲームしたり、パーティしたりするんだ」
「パーティがあるんですか?」
「誰かの誕生日とかにね。でも、今日は違うよ」
テンは言い、腕を伸ばした。彼が示す先、ソファと椅子が向かい合った席には人の姿がある。
「シキの国について調べたいなら、きっと二人のことを紹介しなきゃね」
テンは人影に向かって気安げに声を掛けた。
「マソホ、ニイロ! 久しぶり!」
呼び掛けに、人影は振り返る。がっしりとした体躯の、威圧感を与える容姿をした二人組だった。
二人とも、赤い髪をしているのが特徴的だった。揃って見上げるような身長である。背の高いほうであるヒガンやテンからしてみても、頭二つ分ほどは高い。ハクは顔をみるためにうんと首を傾げなければならない。
一人はくすんだ濃いめのピンクに近い髪色をしていて、眼つきが鋭いというよりは悪く、肩幅が広い。船員が来ているような麻のシャツと裾の膨らんだズボンではなく、もっとかっちりとした印象を与える服を着ている。詰襟の上衣にタイトなパンツ、これらはどちらも緑がかった黒色のもの。肩にはマントを掛けていて、丈の短いブーツを合わせている。
もう一人はオレンジに近いような黄味がかった赤髪で、片方に比べるとほっそりとした柔らかな印象を与える。着ているものは同じだが、随分と横幅の寸法が違うようだ。
二人ともが腰に剣を下げているのにヒガンは気がついた。
「こっちがマソホ、向こうがニイロ」
と、テンが簡単に紹介した。くすんだピンクの髪がマソホ、黄みがかった赤髪がニイロ、とのことである。
「二人ともこの船の護衛をしてるんだよ」
「じゃあ、戦ったりするんですか、その剣で?」
ハクは二人の腰に眼を止めて質問している。剣など普通に生活している時には縁もゆかりもないものだ。興味があるものの少し怖い、というような、おっかなびっくりの様子をハクはしていた。
護衛と聞いてヒガンは納得していた。かつてヒガンが乗っていたユニバースを渡る船でも彼らのような、襲撃に備えるための護衛を複数雇っていたものである。
「これはヒガン、俺の相棒。こっちはハク。外の世界を見てみたいんだって」
と、これまた簡単にテンが紹介を済ませた。ハクは丁寧に名乗って頭を下げ、ヒガンは軽く会釈するにとどめる。
「ハクはね、シキの国について調べてるんだ。何か知ってることはない?」
「つかぬことを聞くが」
と、テンの言葉に続けて、ヒガンは遠慮がちにではあるが素早く割り込んだ。
「二人は獣人族か?」
この問いに、マソホもニイロも頷いた。
「んな遠慮しねえでもいいぜ。俺たちゃ隠してるわけじゃねえしな」
とはマソホの言葉。
「そうですね。ごらんのとおりです」
とニイロ。
ハクは聞き慣れない「獣人」という言葉に、ヒガンを振り返って尋ねるような視線を向けた。
「俺はユニバースについていくらか知ってる。だが、ハクは初めて外海に出るもんでな。良かったら教えてやってくれないか」
ハクを指さして言えば、マソホもニイロも顔を綻ばせてハクを見下ろした。
「坊主、んな小せえのに度胸あんなあ!」
「ユニバースはいいところも多いですよ。船に乗るのも初めて? 酔いにくい方法を教えてあげましょうね」
それから、二人は顔を見合わせる。
「さて、どう説明したものか」
「ユニバースに行ったことがないのだとすれば、あれでしょう。百聞は一見にしかず」
「ちーっと見とけよ」
マソホがそう言うなり、マソホとニイロの体がふっと水で滲んだようになった。彼らの体のあるところだけ景色がぼやけていて、輪郭を掴もうとして眼を凝らしても掴めない。ハクが驚いて一歩退いた。
「大丈夫だ」
ヒガンはハクの肩を抱いて、変化している二人のほうを向かせる。
だんだんとマソホとニイロの滲みが収まってきた。輪郭が変化している。はっきりと姿が見えるようになった時には、二人の体は形が変わっていた。
「わあ!」
ハクが驚いて声を上げた。マソホとニイロは今や毛並みを持ち、細い鼻先と牙をハクに向け、大きな耳をぴくりと動かしていた。垂らした腕もまた毛に覆われて手の先には鋭い爪がついている。関節の形も変わっているようで、服の肘や膝の部分の布が伸びて体に沿っていた。
「これは……狼ですか?」
恐る恐るハクが尋ねた。マソホもニイロも舌を出してはっと笑う。
「大正解です」
「よくわかったじゃねえか。ご覧の通り、俺たちゃ狼の獣人だ。ユニバースの一つから渡ってきた」
「てことは、ユニバースには人間以外のひとたちがいるってことですね!」
ハクは、先程まで感じていた恐れなど忘れたようで、勢い込んで聞いている。
「ああ。それぞれのユニバースに適した形の連中がわんさかいるぜ。おもしれえ恰好をした奴らもいるが……まあ、言わねえでおいたほうが楽しみがとっとけるよな」
「では、私たちの説明をしましょうか。私たちは獣人ですが、こうして人の姿を取ることもできるのです」
ニイロは自分の胸に手を当てた。また姿がぼやけたようになって、輪郭がはっきりしなくなる。次の瞬間には出会った時と同じ姿に戻っていた。
「ユニバースの中には人間との混血がいましてね」
「それは聞きました。でも、多くは滅んでしまったって」
「獣人は別ですよ。遥かな昔、人間がユニバースに出向き、ユニバースの者がこちらに来た。その時に血が混じったのです。ただもちろん、人間の血が濃い混血はあまり体が強くなく、早々に滅んでしまったのですが。獣人の血を多く引いたものは残りました。だから今の獣人族の多くは、人間の血を引いています。そのためにこうして、人の姿と本来の姿を行き来することができるんですよ」
へえ、とハクが関心したように頷いた。
「それで、俺たちに弟子入りしようってんじゃねえんだよな? シキの国、つったか?」
マソホが話を元に戻した。
「そうそう、そうだった。ハクがね、知りたいんだって。何か知っていることはない?」
テンが手を打ち、尋ねる。
「そりゃどういうもんだ?」
「何にも詳しいことはわかんないんです。ただ、どこかにはあると」
ハクがシキの国について説明をする。マソホもニイロも腕を組み、或いは顎に手を掛けて首を傾げた。
「シキの国、ねえ。見たことも聞いたこともねえな。これでも結構な数、回ってるとは思うんだが」
「けれど一つ、同じ音のものなら聞き覚えがありますよ」
ニイロが顎に掛けた手を下ろし、言った。
「死期の国」
「それは?」
「本来の発音は違うのですが、こちらの言葉に直すとそうなります。獣人族の間で言われている古い伝承ですね。死を悟った者が身を寄せるという場所のことです。ここでは穏やかな死を迎えることができるんだとか」
「よくお前、そんな古い話ぱっと出てくんなあ」
マソホが関心したように言った。ニイロが胸を張る。
「私、記憶力にはちょっと自信があるもので」
「シキの国と死期の国か。音としてはあってるが、内実が全然違うな」
ヒガンは口を挟む。ニイロが肩を竦めた。
「ええ。なので、これは正解ではないかと。まあ調査はこれから始めるんでしょう? 一つの参考程度に覚えていてくだされば」
「はい。ありがとうございます」
ハクが頭を下げた。
それから、マソホとニイロと別れたヒガンたちは船室に向かった。ベッドが一つと椅子が一つ、書き物机が備え付けられた部屋だった。確かに三人で過ごすには狭いが、文句は言えない。荷物を整理して待っていると出航の汽笛が聞こえてくる。ハクが外に飛び出していったのを追った。
船はもやいを解き、風を受けながらゆっくりと岸から離れていく。甲板で感じる潮風に、らしくなくヒガンの胸が躍った。
遠洋に出て光の渦であるゲートをくぐる。ユニバースに入り、そこからもしばらく進む。数日かかる船旅はモンスターの襲撃を受けることなく順調に終わった。
「見えてきたぞ、ヴェールベル大陸だ」
ヒガンは空が地面と交わる位置を指さした。霞のように大陸の影が見えてきている。
空は濃いものから白に近いものまでのグラデーションで塗られた赤。海もまた血のように鮮やかで、深いところはくすんだ黒に近い赤色をしている。船やヒガンたちの姿もまた赤かった。
「あの大陸の街も赤いんですか?」
甲板の手すりに寄りかかって前方を眺めていたハクが尋ねる。
「そうだよー」
手すりに腰掛けて髪をなびかせ、手で眼の上を覆っていたテンが答えた。
「ユニバースはたいてい、光の色の種類が限定されている。地球ではオゾン層が太陽からの波長の一部を吸収しているだろう? それみたいに、上空にある層が光を吸収していて、だから、一系統の色で塗られたように見えるんだ。ここは赤の世界ってことだな」
「へえ……」
じっと眺めている間に船は大陸に近付いていく。一時間もしないうちに港に到着した。
「じゃあな! 道中気をつけろよ!」
「シキの国について情報が集まることを祈っていますよ」
船を降りたヒガンたちはマソホとニイロに別れを告げた。彼らはまだこの船で巡る先があるが、ヒガンたちとは別になる。ここから先は船を乗り継いでユニバースを渡るのだ。
名残惜しそうに手を振っていたハクがとうとう手を下ろした。
「よーし、それじゃあ出発だ!」
テンが元気よく拳を突き上げる。船着き場から街へと続く道を進み始めた。
「僕、ユニバースってどんな危険なところなんだろうって思ってたんですけど」
ハクがきょろきょろしながら口を開く。
「ここは気候が穏やかなんですね」
「前を見て歩けよ。ぶつかるぞ。そうだな、比較的過ごしやすいとこだ」
このユニバースは一年中、心地よい暖かさの漂う世界である。草木が萌え、花々が蕾を開くのにぴったりの気候だ。すれ違う人の服装もある程度軽装で布地は薄く、朗らかな空気が街に漂っている。
街は石をくりぬいて作られた建物が並んでいた。中央にある建物は幹の周りを一周するのに苦労するほどの大木がしがみついて根を伸ばしている。あちこちに花壇がおかれ、或いは街路樹が植えられ、植物が街を覆っているかのような印象を受ける。建物も、窓であろうくり抜かれた部分に蔦のカーテンができているところが多かった。どの植物も赤色をしているが、一つ一つ色味が違う。黄味がかったもの、紫がかったもの、色の濃いもの、薄いもの、鮮やかなもの、くすんだもの。赤系統の色しかないとはいえ、十分に鮮やかな植物には圧倒された。
「あの、腕から植物が生えている人たちは?」
ハクはこっそりと、すれ違った人々を指さして尋ねた。
「ここの人だよ」
「草人、なんて呼ばれかたもするな。このユニバースの住人は皆、体が植物のようなものなんだ」
ヴェールベール大陸に住む者は、体のどこかに枝や花をつけている。髪が葉っぱでできていたり、腕が枝だったり、枝が生えている場合だったり、瞳が花のようだったりと様々だ。ユニバースの住人は人のような四肢を持ち、体をしているが、人間とは全く違う生き物であることが窺える。
「そうおどおどするな。失礼だぞ」
ヒガンはハクを窘めた。
三人は港から続く斜面を登っていき、市場を目指した。こういう港にはすぐ近くに発展した市場があるものだ、というのはテンの談である。
だんだんと道幅が広くなっていき、立ち並ぶ建物も一階部分が大きいものに変化していった。道のそこここで交わされる声が響いている。陽気な声が辺りに反響している。店が立ち並び、ひとがごった返している様子に圧倒された。
「気になるものがあったら言えよ。買ってやる」
「そんな、悪いですよ」
「でもお前、ここの通貨持ってないだろう?」
「そうでした」
そんな会話をしながら雑踏の中を進んでいく。
「すごい活気ですね」
ハクがはぐれないようにテンの服を掴みながら、あちこちを見回している。
「気をつけて歩けよ。まあ、船が着くこの時期にはものもひとも溢れるからな」
「ここでは何をするんですか?」
「買い物に決まってるじゃない。次の旅の用意と、ハクにも色々足りないものをね。あとは、香料」
「香料?」
「ヴェールベール大陸はご覧の通り、植物が豊富だ。それで、香料や香水なんかが特産品になっている」
「そんなもの買ってどうするんですか? お土産?」
「まあ、ちょっとな」
「他のユニバースでは、火種と薪、それから火山灰を集めるよ」
言葉を濁したヒガンだったが、テンは屈託なく言った。ハクはますます首を傾げる。
「そんなものが必要なんですか?」
「俺とヒガンにはね。ああ、あそこの店だよ、いつものところ」
テンが道を曲がり、店の一つに向かった。木の板でできた看板を吊るしたその店は、雑貨や香水などを扱ったものだった。店内は広く、壁際には乾燥した草花が吊るされている。店の奥にはテーブルがあって、そこは作業台なのだろう。乳棒とすり鉢、抽出に使うような器具が置かれていた。
テンはそこで乾燥させた花びらを買い込んだ。これは高山でのみ採取される花卉類である。花びらがそのまま残っているものと既に砕かれているものとを別に購入し、それらとは別にポプリを買った。
「はい、これはハクにあげる」
「え?」
テンがぽんと小さな袋をハクに投げる。ハクは慌ててそれを受け取った。それから困ったように眉を下げる。
「これ、一体?」
「嗅いでみなよ」
促されるままにハクはポプリに鼻を近づけた。すぐにぱあっと顔を明るくする。
「いい匂いです! 爽やかでほっとするような……」
「慣れないところで寝るのって結構大変だからね。枕の近くに置いておくといいよ」
「気を使っていただいてありがとうございます」
ハクは頭を下げ、ポプリをしっかりと荷物の中にしまい込んだ。
三人は店を出ると、街をぶらぶらした。次に乗る予定の船はまだ到着していない。それを待つ間の宿を決める。
部屋に荷物を置いた後もまた市場に繰り出して珍しいものを見て回る。ハクはずっと眼を丸くしてあちこちをきょろきょろと落ち着きなかった。
ヴェールベール大陸を離れたのはそれから四日後のことだった。テンがいつも世話になっている船にヒガンとハクを乗せてもらえるよう口をきいてくれ、無事に彼らの船室が決まった。
ここまで乗ってきたカロン号よりも大きな船には、カロン号よりもはるかに多くの船員と護衛がいて、ヒガンらのようについでに乗せてもらっている乗客もちらほら見えた。
地球とユニバースが繋がる〝時化〟の時期、ユニバース間でもゲートが開いて行き来が可能になることが多い。この時期はロー・ユニバースからモンスターの侵入が心配されるものの、文物が活発に行き来する、活気のある時期なのだ。違うユニバースからもたらされたものは、今では生活の基盤となっているものもある。船を出さない、という選択肢はない。
ヒガンらの乗ったような船だけでなく、大きな貿易船もいくつも出航している。大陸を発つ間、港にはひとが詰めていて、出たり入ったりする船の連絡に大わらわだった。
今回三人に与えられた船室は、カロン号よりも広いものだった。ベッドと長椅子があって、寝袋も一つ貸し出してくれた。これほどの待遇なのは、いざという時にテンだけでなくヒガンも護衛として働く、と請け負ったからである。出不精なヒガンだが、動けないわけではない。本職にははるかに劣るが、モンスターについての知識は入っているから、何か手伝えることがあるだろう。
ヒガンとテン、ハクの三人はじゃんけんをしてひとまずの寝床を決めた。ハクがベッド、長椅子はヒガン、寝袋はテンという形になった。
夜が更け、海が静まった頃に船は出航した。暗いこの時間に港を出るのは、明け方に出現する可能性の高いモンスターを避けるためである。もやいを解かれた船は静かに滑るように海を走り出した。
ハクは甲板に行って出航の様子を眺めていた。そんなハクをヒガンとテンは見守った。少年が胸を期待に膨らませている様子がありありとわかった。
黒に近い赤色の空と海の中を船は進む。地面がゆらりゆらりと大きく揺れる。風が肌を撫でる。塩気の含まれた風は冷たくなく穏やかで、出立を祝っているかのようだった。
「そろそろ部屋に戻るぞ」
「はい」
ヒガンが声を掛けると、ハクは惜しみながらも手すりから離れた。
三人は簡素な食事を摂って着替えをし、布団にそれぞれ潜り込んだ。
ゆらゆら定まらずに揺れる暗闇の中、ハクはそうそうに寝てしまった。胸にはポプリをしっかりと抱いている。ヒガンは頭の下に腕を組んで敷き、ハクの立てる寝息に耳を澄ませた。
「嬉しいなぁ」
ぽそりと呟いたのはテンである。
「何がだ?」
ヒガンは天井を眺めたまま、小さな声で尋ねた。
「ヒガンも一緒にユニバースに来てくれるの。初めてだから」
テンの声は本当に嬉しそうに明るく、緩んだものだった。ヒガンは寝返りを打つ。長椅子の背もたれで視界がいっぱいになる。
テンの言葉に返事をすることなく、ヒガンは眼を閉じ、眠りについた。
この度の船旅を終え、辿り着いたのはアルベスタース大陸である。
「眩しくて何も見えないですっ!」
ハクが叫んだのも無理はない。ここは常夏、白が幅を利かせる世界である。燦燦と降り注ぐ陽射しは圧倒的なまでに強い。肌を焼くそれはあまりにも強烈で、そのために景色のあらゆるものが白に見えている。ヴェールベル大陸は赤の世界だったが、ここは白の国なのだった。ゲートを通ってからというもの暑さが増し、光の量は増えていき、大陸が見えるかどうかというところになって我慢ならないレベルに達した。
「はい、これ」
「ちゃんと掛けとけ。眼が痛むからな」
テンがハクにサングラスを渡し、ヒガンもまた受け取って装着する。光の量が抑えられ、眼を開けていられるようになった。サングラスを掛けたハクがほっと息を吐く。
ここは色味の異なる白のみで景色が構成されている。港に向かって降る斜面はほとんどが砂でできていて、その中にぽつぽつと樹木の集まりらしきものが見える。船が近づくにつれ、それは予想よりもうんと大きく、塊になっていて、その塊同士はかなり距離があることがわかる。
「あれはなんですか?」
船の手摺りから身を乗り出してハクが腕を伸ばした。
「落ちるぞ、気をつけろ。あれは人工オアシスだな。あの周りにひとびとは暮らしているんだ」
「この大陸は、水がほとんど全部地面の下にあるんだよ。高い山に湧いた水はすぐに砂に染み込んで、ぐーんと地下に向かってる」
ぐーんと、のところで腕を下に突き刺す動きをし、テンが説明する。
「つまり、川というものがない。水は砂を掘った先にあるから、井戸を作り、人工的なオアシスを構築しているってわけだ。周りを取り囲む木々は乾燥に強く、燃えにくい種類のものだ」
「やっぱりあれって木なんですか。色が違うと全く違うものに見えるな」
「雪でもないのに真っ白な木なんて不思議だもんねー」
ハクの呟きに、あはは、とテンが笑う。
船はやがて接岸した。船梯が桟橋へと渡されて、ヒガンたちは降りていく。降りた先で待ち受けていた係の者から布を受け取った。細い糸で織られた薄い布である。色味は当然白だが、僅かに黄みがかっているようだ。大きさは長辺がヒガンの両腕の長さよりもあり、短辺は肩から膝の辺りまでである。左右にはフリンジが付いている。布を手に被せて見てみれば、目が細かくほとんど透けない。それなのに軽い、不思議な布だった。
「これは?」
なんのために渡されたものなのかピンと来ず、ヒガンはテンに尋ねた。
「そっか。ヒガンもここは初めてだっけ。こうやって巻きつけるんだよ」
テンは布を広げて頭から被ってみせる。肩を覆い、腕の先に余りを垂らした。
「砂の土地に行くと日差しがうんと強くなって火ぶくれができちゃう。だからこうやって遮ってるの」
それを聞いたハクが慌てて布を自分に巻きつけた。
準備が済むと砂の斜面を登っていく。ほとんど砂漠といってもいいような光景だった。白の砂がどこまでも広がり、視界いっぱいに砂の丘が聳えている。砂は軽いらしく、ちょっと風が吹くたびにさらさらと動く。テンの話によれば、こうやって砂が移動してしまうので、地形を目標に道を進んではいけないらしい。初めてこの大陸の砂漠に足を踏み入れたものがしてしまいがちな初歩的なミスで、毎年何人かの遭難者が出るのだという。
「オアシス同士を繋げて案内するガイドがあるから、俺たちは大丈夫だけどね」
と、テンは懐を探って方位磁針を取り出した。見せてもらえばそれは単なる方位磁針ではなく、盤面に地図が描いてある。水のマークがついたところがオアシスで、その間を繋ぐ道の上に磁針がある。磁針は道に沿う形でふらふらと浮いており、これで街への方角がわかるとのことだ。
砂の地面は思ったよりも歩きにくい。思いがけないところで足が沈んでしまうこともあれば、変形して流れていく砂に足を取られることもある。固まった地面と違う反発を受けて疲労が溜まるし、転ばないようにと気を使う。
それでもどうにか歩き通し、オアシスに辿り着いた。
「ちょっと休憩してく? 俺は別にいいんだけど」
「お前はなんでそんな涼しげな顔をしているんだよ……」
ヒガンは額の汗を拭った。ハクが口を開けて肩で息をし、こくこくと真剣な様子で頷いている。
日差しがきついから当然というべきか、ここは気温が高い。ヒガンたちが着ているのは長袖のシャツでその上から布を纏っているから熱気が籠る。風はあるがほぼ熱風であり、息をするのも苦しいくらいだ。湿気がないのが幸いというべきか。もしも湿度が高かったなら、じめじめとして不快感が強く、もっと疲れていただろう。
ヒガンたちはオアシスの門──樹木を絡めて作ったものだった──をくぐり抜けた。一瞬の影からまた日の中に出たことで瞳孔が反応し、眼の前が真っ白になって何も見えなくなる。刹那の後、明るさに眼が馴染んだ。
「わぁっ……!」
ハクが歓声を上げた。
門の中には、広大な砂漠からは想像できないほど豊かな街が広がっていた。
街のぐるりを樹木が覆い、それは街の内側へと斜めに生えて日陰を作っている。日陰の下には建物があった。白の石を積んで作った建物だ。白と一口に言っても、仄かに緑がかったものと紫がかったものの二つが使われている。それらは草花の模様を描くように組み合わされていた。柱には蔦をイメージした溝が彫られ、そこには白銀に輝く金属が流し込まれている。
建物の窓と思しき穴からはカーテンが垂れ下がっていた。ヒガンたちが身につけているのと同じような薄い布である。これは建物の色と馴染む乳白色をしていて、裾のところに同じ色のレースが縫い付けられている。風にカーテンが揺れて地面には極々薄い色をした影が落ちている。この大陸では影すらも白色をしているのだ。その影はレースの模様を切り取ったように地面を揺らめき、砂が舞う地面を可憐なものに変化させていた。
地面にはタイルが敷かれており、これはぴったり正方形に切り出した石板を組み合わせて案内表示も兼ねている。交差点の真ん中にはひし形のタイルがあってそこに絵が描かれ、目的地までの距離が記されていた。たとえばヒガンらが初めて眼にした案内板には、門と教会、水辺と丘がそれぞれ線で結ばれて、その線が交わって十字を作っている。
「あっちに休憩できそうなところがあるよ」
テンは、水辺が描かれたほうを指差した。
テンの案内で街中を進む。ハクが物珍しそうにきょろきょろとあちこちを見回している。
「前を向け。ぶつかるぞ」
ヒガンはそう注意しつつ、自分も周囲のものに眼が奪われるのを止められない。
ヒガンがユニバースを渡り歩いていたのはテンと出会うまでのことだ。その間にこの街を訪れたことはなかった。というのも、この大陸は新たに航路が開けた場所だったからだ。
地球と繋がるユニバースはもう何百年も増えていない。だが、ユニバース間の繋がりは増減している。一度別のユニバースに行けば、そこから行けるようになる場所の選択肢は増える。
「あそこにしようか」
テンが店の一つを指差した。慣れた様子で店内に入る。そう広い店ではなく、二、三人が座れるほどの飲食スペースしかない。
壁にはメニューが貼られていたが、ヒガンにもハクにも読めない文字だった。
ユニバース間の共通語が制定され、広く使われるようになって久しい。会話する分には不便はないものの、書き言葉だとこのように現地の言葉が使われているということが多いのだ。
テンはカウンターへ行くと店員と気安げに言葉を交わし、食事を注文した。三人分を手にして戻ってくる。店を出よう、と片手を振って示した。
店の外の日陰にはベンチが置かれている。石でできたベンチに腰掛けると勝手に息がもれた。頭上にはほんのりと灰色がかった白の葉がせり出すように茂っていて、その根元には泉が作られ、ちろちろと水が湧き出ている。それがいくばくかの涼しい風を生み出して、火照った体を少し冷やす。
「はい」
食事がヒガンとハクに配られた。
テンが買い求めていたのは、店先でも食べやすいような軽食だった。薄く延ばして焼いた生地に肉や野菜を挟んである。僅かに色がついているとはいえども全て白で統一されているのが不思議だ。
「これ、なんだ?」
見た目からは具材が想像できない。ヒガンはテンに尋ねたが、すぐに後悔することになった。
「ケバリィヤだよ。クレアの肉とマルッリを挟んであって、ソースはエデュスマタだって!」
何を言っているのか、さっぱりわからない。
「……お前に聞いた俺が馬鹿だった」
「ひどいなー。ちゃんと答えたのに」
テンの憤慨を聞き流し、ヒガンは手にしたケバリィヤに口をつけた。焼き目がついているような生地は見た目よりも弾力があり、噛み千切るのに苦労する。もちもちとした生地の下にはジューシーな肉と野菜があって、酸味と塩味の強いソースが掛かっている。穀物を挽いた粉と水で作った生地を焼き、そこに鶏肉に似た肉と野菜を挟んだ食べ物、ということのようだ。肉はぷりっと艶があり、野菜は瑞々しくしゃきしゃきとした食感が楽しめる。ソースは暑さに疲れた体の疲労を流していくようだ。
テンが買い求めていたのはこれだけではなかった。素焼きのコップに入った白の液体を飲むと、口の中がさっぱりする。酸味がまず感じられ、優しい甘味が広がる。とろりとしていて、しかしくどくない。一口飲むたびに喉の渇きが癒えていく。
「これ、美味しいですね」
ハクが眼を見張った。どうやらこの飲み物がお気に召したらしい。ヒガンもその気持ちがわかった。
もう一杯飲み物をおかわりして店を出る。
「二人とも、まだ動けそう?」
テンが尋ねた。ヒガンはハクを見下ろす。ハクは健気にも頷いていたが、その顔には疲労が見えている。このまま歩き回るのは難しいだろう。
「今日はもう休もう。俺は涼しいところに行って寝たい」
ヒガンが言うと、テンにも思惑が伝わったようだった。
それから三人は今日の宿を探した。ここでもテンが率先して店の者と交渉をし、日陰にある部屋を押さえてくれた。
ベッドが三つ並んだ部屋には小さな窓がついている。カーテンが取り付けられ、それは窓の外に向かってひらひらとなびく。ハクが窓から街を見下ろしていた。
荷物を片付けて仮眠をとることにする。この街に着いたのは昼過ぎで、今は午後三時を回っているかどうかといったところだろうか。ちょうど腹も満たされたし、ここらで休憩しておこう。そう考えて、ヒガンはベッドに倒れ込むと眼を瞑った。
夜になると気温がぐっと下がり、動きやすくなった。眼を覚ましたヒガンたちは宿を出て夕食を買い求めに行く。
外は明るかった。太陽は沈んだが、月に似た衛星が二つ空に浮かんでいて、煌々と街を照らしているためだ。流石に昼間よりは暗くなっているものの、灯りを持たずとも歩くうえでは問題ない。
街中を歩いていった三人は店を決め、よくわからないメニューを注文し、恐る恐る口に運んでその美味しさに感動した。
宿に戻ってくるとずっと纏っていた布を解き、服を緩める。息がしやすくなり、夜の涼しさが直接体に触れてほっとした。
「次に乗る船が出るのは五日後でしたよね。それまでは何をするんですか?」
ベッドに乗り上げたハクが問う。
「ここでも集めなきゃいけないものがあるからな。それを取りに行くんだろ?」
ヒガンはテンに向かって言った。服をほとんど脱ぎ捨ててしまったテンが振り向く。
「うん。明日から探してみようと思ってるけど、ヒガンとハクもついてくる?」
「探す? 売っているお店を探すんですか?」
「ううん。自分で見つけに行くよ。売っていないものだから」
「一人のほうが動きやすいか?」
「うーん、人数がいたほうがいいかも。ああ、でも、ちょっと危ないモンスターがいて」
「おい、ハク。眼を輝かせるんじゃない」
ヒガンはハクに向けて厳しい声を出した。ハクはモンスターと聞いて眼をきらきらさせている。この少年はとにかく、今まで見たこと聞いたことがないものが大好きなのだと、旅の中でヒガンは了承していた。だからこそモンスターという言葉がハクの興味を引いてしまったようだ。
テンが「危ない」という言葉を使うくらいなのだから、モンスターは厄介な相手なのだろう。それが待ち受けているとわかっている場所に子どもを連れて行くのはいかがなものか。だが、ハクはもうすっかりモンスターに興味津々だ。置いていくといっても納得はしないだろう。納得せずに文句を言うだけならまだいいが、この調子だと禁止したところで意味はなく、無理やりついて来ようとするだろう。何しろ、着の身着のままで〈シティ〉を抜け出した実績持ちだ。であれば、下手に同行を禁じるよりも、ついてこさせたほうがいくらかまし、というものである。
ヒガンはハクにびしっと指を突き付けた。
「一緒に行動するのはいいが、危ない時はちゃんと言うことを聞けよ」
「そんなこと言わなくても、ずっとハクはいい子にしてたじゃない」
「そうですよ」
「自分で言うと信用ならない」
ともかくもヒガンたちは明日以降の予定を立てると、この日はさっさと眠りについた。
翌日。日の出とともに眼を覚ました彼らは着替えと身支度を済ませると、宿の一階の食堂で朝食を摂った。シリアルをミルクに浸したようなものとフルーツが出された。やはりこれも見た目より瑞々しく複雑な味わいをしていて、ハクとテンは三回もおかわりをしていた。
荷物をまとめて布を厳重に巻き、ヒガンたちは宿を出た。街をぬけていってまず向かったのは役所である。
「採取許可証を貰わないとね」
と、テンがハクに向かって説明する。
「今日取りに行くのは焔苔って言ってましたよね。いったいどういうものなんですか?」
「落雷の火をともし続けている苔だよ。山の深いところにあったりするんだ」
「山? 山なんてなくないですか?」
「いや、ここから数キロ離れたところに標高の高い土地がある。それだろう」
「いつの間に」
「昨日、寝る前に宿においてあったパンフレットを読んだ」
役所は他の建物よりも質素な見た目をしていた。壁や柱の飾りが少なく、色味も真っ白で統一されている。テンは窓口の一つに向かっていき、五分ほどで戻ってきた。手には採取許可証が握られている。
「これがなかったら俺たちみんな密猟者になってお縄だからね。ヒガンが持っててよ」
「なんで」
「俺よりヒガンのほうが綺麗にとっておけるでしょ?」
ヒガンは押し付けられた書類を荷物の中にしまった。
それから彼らは街を出た。山がある場所まではかなり離れているので乗り物を使うことにする。車に似た乗り物をテンが借りてきて、彼の運転でヒガンたちは出発した。
砂の道を行く。どこまでも広がる砂丘が地平線の彼方を覆い隠している。ヒガンは方位磁針を片手にナビを務めていた。
「お前、もうちょっと丁寧に運転しろよ」
がたがたと揺れる車に、ヒガンはテンに向かって文句を言う。
「え? 何?」
「聞こえないふりをするな。っ、と」
がたん、と大きく車が跳ねて、ヒガンの体も跳ねあがった。
テンの運転はどうにも荒く、道がそれほど整備されていないこともあって乗り心地はいいとは言えない。
「俺が先に乗り込むべきだった……」
後悔したが、今更どうしようもないことである。
「そういえば、ヒガンさんとテンさんってどうやって知り合ったんですか?」
座席を掴んで体が跳ねないようにしたハクが、唐突に尋ねた。
「いきなりどうした」
「お二人のこと、聞いたことなかったなと思って。成り行きで一緒に行動するようになったけど、何も知らないのはちょっと寂しいです」
「この状況でそんなこと聞くなんて、お前も大概タフだな」
「ありがとうございます?」
「……まあいい。俺とテンの話か? そう面白いもんでもないと思うぞ。俺はミドルの出身だ」
「ユニバースを旅していたんですよね?」
「ああ。もう昔の話だが。お前くらいの歳の時に家を飛び出て船に乗った。それから、帰るところもなくてあちこち回ったな。テンとはその中で出会ったんだ」
「え、ということは、テンさんはユニバース出身ですか?」
「そうだよー。故郷には今回の旅じゃ行かないけど」
「わあ! どんなところなんですか? テンさんの見た目は人間そっくりだけど、地球と似たところなんですか?」
「似てると言えば似てるし、似てないといえば似てないかなぁ。面白くないところだったよ。だから、ヒガンと出会えて、俺、本当に感謝してるんだ。お陰でこんなに楽しく過ごせているんだもん」
「ヒガンさんが訪れたユニバースにテンさんがいた、んですよね?」
「そうだ。ちょっと色々あったんだが、結論から言えば、こいつは俺に惚れてくっついてきたんだ」
「え!」
ヒガンはごくあっさりと言った。ハクが驚いた声を出した。テンがハンドルを切った。揺れる車内でテンが唇を突き出す。
「もう、恥ずかしいから言わないでよ。本当のことだけどさ」
「あの、惚れたって……?」
ハクがおずおずと上目遣いになってヒガンを見る。ヒガンはふっと顔を背けた。
「どうなんだ、テン?」
「途中で説明面倒にならないで。……あのね、俺とヒガンは別に恋人ってわけじゃないよ」
「そう、なんですか」
「うん。イチャイチャしたりなんてしないしねー」
「お断りだ」
「でも、そうだなあ。大切な相手、みたいなものかな」
「というと、家族とか?」
ハクに問われ、ヒガンは考え込む。テンとの結び付きのことを誰かに告げるのはこれが初めてで、問われてみればなんというのが適切なのか、わからなかった。テンも似たようなものらしく、うーんと頭を悩ませている。
「テン、前をちゃんと向けよ」
ヒガンはそうテンに注意を促してからハクを見た。
「家族ってのともちょっと違うな」
「じゃあ?」
「友達、だと遠すぎる?」
「そうだな」
「友達以上家族未満、恋人じゃない。……なんていったらいいんでしょうね?」
「俺にとってヒガンはね、魂を預けられる相手だよ」
さらりとテンが言った。
「魂を預けられる相手?」
ぴんとこなかったのか、ハクは腕を組んで首を傾げた。ヒガンは苦笑する。
「そんなに大げさなものじゃない。テンの言葉も嘘じゃないが。そうだな、腐れ縁かな」
「もうちょっといい言い方はなかったの?」
「思いつかないだろ、他に」
「本当のこと言って番いとか」
「余計わからなくなるだろうが」
「それ以外に正解はない気がするんだけどなあ」
「その言葉を他にどう表すかってところで俺は頭を悩ませてたんだが?」
「ヒガンでも思いつかなかったなら俺には思いつかないよ」
「そうかよ。って、前を見ろ、前を」
「ああ、危ない危ない」
テンが華麗に障害物を避ける。車が傾き、ヒガンたちの体が車体に押し付けられた。平静を取り戻し、座席に座り直す。
「今後のためにもちゃんと制定しとく?」
「ちゃんと制定って何を?」
「俺たちの関係をどう言うかってこと」
「いらないだろう。ハク以外にこんなこと聞いてくる奴はいない」
「そうかなあ。俺、結構宿のお客さんに聞かれることあったよ。特に女の人とか」
「それはお前、お前が狙われてたんじゃないか?」
「狙われてたって?」
「フリーかどうか、つまりこれから付き合えるかどうかを確かめられてたってことだ」
「ああ、なるほど。でもだったらなんで直接言ってくれないのかな? そう遠回りをするなんて」
「人間は普通、それを遠回りだって考えないんだよ。ユニバースの住民も多くはそうらしいな」
お互いにああいえばこういう、の繰り返しでヒガンとテンは言葉を交わしていく。そんな様子をハクが眼を丸くして聞いていた。
「ん? どうしたの?」
ハクに気がついてテンがちらりと横目で窺った。途端がたんと車が揺れる。
「だから前。お前は興味が移ると一個おろそかになる。どうしたハク」
「いえ、なんというか……」
ハクは言葉を探しているようだった。ヒガンもテンもじっとハクの言葉を待つ。
「信頼してるんですね、ヒガンさんもテンさんもお互いのことを」
ハクが言ったのは思いがけないものだった。ヒガンはちょっと眼を丸くする。
テンのことを信頼している、と表現されるとなんだかむずかゆい気持ちになった。信頼、とはちょっと違うような気がする。その言葉が持つイメージほど清らかで確固たるものではない。
ヒガンがテンと出会って今日にいたるまでの間、テンのことをどうとらえたものか、悩んだことがあった。ヒガンにとってのテンとの出会いは望んだものではなかったからだ。テンはヒガンの人生の中に唐突に現れて、それからずっと居座るようになった。ヒガンはそれを押し留めることができなかっただけだ。どうにもならないことが積み重なり、ヒガン個人の手には負えなくなって、それで今日までテンをそばに置いている。
テンのことは嫌いではない。長い年月をかけて、彼のことを認め、今ではヒガンの人生において唯一といえる地位を与えている。
それを信頼というのだ、といわれればそれまでだったが、やはりどうにもしっくりこないのだった。
「ヒガンさん?」
考え込んでしまったヒガンを不思議そうにハクが見遣る。ヒガンは苦笑を堪えた。これはきっと真剣に考えても答えの出ない問いだ。だから悩むだけ無駄なのだろう。
「信頼とはちょっと違うな。どうしようもない奴だってことを信用してるだけだ」
「酷いなあ」
テンは言ったが、そう傷ついてはいないようだった。
がたがた揺れる道を行き、三人はとうとう目的地の山に到着した。車を安全そうな木陰においておく。山道を歩き始めた。
山には多くの植物が生えている。ハクが勢い込んであちこちを観察し始めたのをテンが止めた。
「焔苔はこういう場所にはないよ。もっと上のほうじゃないと」
「そうなんですか」
拍子抜けしたというような顔でハクがテンを見上げる。
「落雷の火をともす苔って言ったな。落雷が起きた時の火種を保持している苔ってことだろう。だったらもっと地面がむき出しの高い場所じゃないとだめだ。ここには雷はそうそう落ちないだろうし、火が上がったとしてもすぐに消えてしまう」
「ヒガン正解ー! よくわかったねえ」
「このくらいはな」
「焔苔はね、ヒガンが言ったみたいに山の高いところ、植物がほとんど生えていなくて、生えていたとしても地面を這うような恰好をしているところにある苔だよ。雷を直接受けて、乾燥した葉が燃えたその火を吸収して内側に抱えているんだ。もうちょっと歩いたら、火を抱えていない種類のが見つかると思うよ。それを参考に探すのを手伝ってね。ああ、あと、モンスターがいるかもしれないからあまり離れないように」
「モンスターはどういうものなんですか? かっこいい?」
「そうだね、かっこいいよ。炎虎って言うんだ」
「えんこ?」
「そう。毛並みが炎みたいに逆立っていて、実際に燃えている奴もいる。焔苔から火を集めて自分の体に移すんだ」
「へえ。なんで燃えているんですか?」
「それはよく知らない。燃えたいからじゃない?」
「急に適当になるなよ」
ヒガンは思わずつっこんだ。
途中休憩を挟みつつ、三人は山を登っていく。斜面は急で道など開かれておらず、枝を打ち払っての道行きだったが、日陰があって風が涼しいので砂漠を歩くよりもましだと思える。
しばらく行くと植物の数が少なくなり、背も低くなり始めた。そこから更に歩き、とうとう植物がほとんど生えていない場所に辿り着いた。
それほど高く登った感じはしないが、日差しが強く照り付けて乾燥が酷い。そのため、植物が育つのに必要な水分が確保できず、こうして開けた土地になっているのだろう。地面にはごろごろとした粗い石がいくつも転がっていて、ひび割れている箇所もあった。そのひび割れをとっかかりにして僅かばかりの植物が生えている。その中には何種類かの苔があって、テンが一つを指さした。
「これだよ、焔苔」
テンの手元をヒガンとハクはのぞき込む。
岩と岩の隙間を縫うようにして、もそもそとした苔が生えていた。葉と茎のような部分が小さく短く、一つ一つがぴんと天を指していて、それが密集している。乾燥しているのか、こころなしかしぼんで見える。色はほんのりとオレンジと青が混ざった淡い白で、内側から輝いているようだった。
「これは火をともしていないね」
テンが焔苔に手を翳した。ハクが真似して手を差し出す。
「中に火が入っているものはこうやると温かいんだ。それで見分けるといいよ」
テンに見分け方を教わり、手分けをして目当てのものを探し始めた。
焔苔は岩のあちこちにこびりついていたが、なかなか温かく感じるものがない。それでも探しているうちに求めていたものを発見した。
「テンさん! これ!」
ハクが声を上げた。ヒガンとテンが彼に近寄る。ハクが指さしているものに手を翳すとほんのりと温かい。よくよく見れば、内側からの輝きが強く、風が吹くたびに揺らめいているようだ。それは炎が風に揺れる様によく似ていた。色もオレンジが強く、苔全体もふっくらとしている。触れてみればしっとりと湿っていて、それは内側にある炎によって温まり、結露した夜の間の空気だということだった。
テンが慎重に爪で苔を剥がしていく。
「中の火が漏れると意味がないからね」
そういって苔を取った彼は、予め用意してあったのだろう小さな革製の袋に苔を詰め込んだ。炎をともしていないものも剥がして上からかぶせるように入れる。こうすることで炎が広がり、火をともした苔が多くなるとのことだった。
「これだけでいいのか?」
焔苔の内側の火は特別な火種として使用する。テンが採取した分だけでは持ち帰り、火を起こすには少々心もとない。テンはうーんと考え込んだ。
「いつもはもう少し取ってるね」
「なら、探しましょう」
ハクが言い、三人はまた分かれて地面を探索し始めた。
ヒガンは山の中央から外れて、木々が生えているぎりぎりまで行った。ここに来るまでの間、木の根元にも苔が生えていることに気がついていたのだ。だが、木の根元にある苔は焔苔とは少々種類が違うらしい。背の高いもの、多肉植物のような葉状の組織を持つもの、リボンのようにひらひらとしているものなど様々ある。ヒガンは丹念に見て回り、一つ火を抱え込んだ焔苔を発見した。テンの真似をして爪で剥がし、手のひらにそっと置く。ほんのりと温かいそれは、裏側のほうが温度が高いことを発見した。
テンの袋に入れてもらおうと立ち上がり、振り返った時だった。
「うわあああ!」
ハクの驚いた声が聞こえた。ヒガンは焔苔を握りしめ、声のしたほうへと駆け寄る。
「ハク! 大丈夫か!」
離れたところで腰を抜かして地面にへたりこんだハクの姿を見つけた。ハクのそばまで行き、彼がどうしてへたりこんでいるのか、その理由がわかった。
彼の眼の前には獣がいたのだ。
白い毛皮をした虎。毛は逆立ち、風に揺れている。それは炎の揺らめきとよく似ている。毛の先は火花が散るように光をまき散らし、飛んでいった火の粉が風で流れてきて顔に掛かる。ちりっと頬が焼ける痛みが走った。
「炎虎」
ヒガンは思わず口に出していた。テンに言われていたモンスターが現れたのだ。
炎虎は感情の読めない白い眼でじっとハクとヒガンを見据えている。ヒガンは咄嗟に眼を逸らしたが、炎虎の視線はハクのものと交わった。
ぐるるる、と炎虎が呻き声を上げた。まずい、とヒガンは直感した。
多くの獣にとって眼を合わせる行為は敵対心の現れを示す。炎虎にもそのように思われてしまったに違いない。だが、今更視線を外せということはできない。眼を逸らした瞬間、炎虎は襲い掛かってくるだろう。
「ハク、聞こえるか」
押し殺した声でヒガンは言った。ハクからは返事がない。そろそろと足を動かし、ヒガンはハクに近寄る。
「眼を離すなよ。いいな。何が何でも見続けろ。隙を与えるんじゃないぞ」
ハクの背中に声を掛ける。ヒガンは炎虎の注意を引かないほどのスピードでハクに近寄った。
ハクの肩に手を掛けた。それと同時に手にしていた焔苔を炎虎に投げつける。炎虎が驚いて飛び退った。振り払うように顔を背ける。その隙を突いてヒガンはハクを抱え上げた。
「テン!」
宙に向かって叫ぶ。それを聞きつけたテンが、しゅんと空中に姿を現した。
「あー、来ちゃったかあ」
「何暢気なこと言ってんだ! なんとかしろよ!」
「りょーかい」
逃げるヒガンの横を通り、テンが前に出る。携えていた剣を鞘ごと引き抜いた。鞘を嵌めたままの剣で炎虎に切りかかる。炎虎がそれを避けた。剣を抜かないテンを見て、ヒガンはぴんと来た。
「もしかして、傷つけたらまずいのか?」
「まあね。自然動物保護法に反するし、俺たちは狩猟許可証を持っていないかから」
「てことは」
「なんとか逃げるよ」
「できるのか?」
「もちろん。ヒガンはしばらく逃げてて」
「逃げるって、お前が炎虎と戦ってるなら……まさか」
「そのまさかだよ」
嫌な予感がして振り返れば、背後にまた別の炎虎がいた。それも一頭ではない。群れがヒガンを待ち構えている。
「炎虎は群れで行動するんだ。一匹いたら十匹はいると思っていい」
「どうしてそれを先に言わない!」
「今日は遭わないかなーって気がしてたんだよ」
「ったく。逃げればいいんだな?」
「ボスを追い払えば群れごと逃げる。しばらく辛抱してて」
「任せたぞ!」
ヒガンは叫び、炎虎の群れと対峙した。ぐるる、と唸りながら頭を低くする炎虎たち。今にも襲い掛かってきそうな雰囲気に背筋を汗が伝う。手のひらがじっとりと汗ばんだ。だが、逃げきれないという絶望はない。これでもかつてユニバースを巡って危険と隣り合わせの生活をしていたのだ。この程度の危機ならば、体が鈍っている今でもどうにか脱することができるだろう。
「ハク、しっかり掴まってろよ」
肩に担ぎあげたハクに声を掛ける。
炎虎が飛び掛かってきた。ヒガンはそれを地面を蹴って躱す。ヒガンが先程まで立っていた場所に炎虎が爪を振りかざし、地面を抉った。岩をやすやすと切り裂いて、炎虎の爪痕が残る。ハクがそれを見て悲鳴を飲み込んだ。
次の一頭が襲い掛かる。ヒガンは躱す。せわしなく視線をあちこちに向けて、炎虎の陣形を見ておく。どうやら炎虎は常に円を保つように場所を変え、獲物を狙っているらしい。いや、獲物というより侵入者か。縄張りに入り込んできた余所者を排除しようとしているのだろう。その証拠に、炎虎からは飢えた気配を感じない。
「ひ、ヒガンさん!」
ハクが掠れた声を出した。
「どうした? 黙ってないと舌を噛むぞ」
「大丈夫ですか、僕を抱えたままで?」
「心配するな。お前は軽いからな。しかし軽すぎやしないか? もっといっぱい食え」
「食べてます、もりもり!」
ざん、と炎虎が顔の前を爪で切り裂く。ヒガンは岩を蹴って避ける。そこに次の一頭が飛び掛かる。飛んだ先の岩場を蹴って上に飛ぶ。ハクを抱え直し、ちらりと背後の様子を探った。
テンは剣を使って炎虎のボスをじりじりと後退させているようだ。傷をつけないように気をつけながら、炎虎の攻撃をいなしている。炎虎は自分の爪がテンの体に届かないことに困惑しているようだった。
炎虎が引き上げていくのにもういくらも時間は掛からないだろう。ヒガンはそう考えた。
それが一瞬の隙を生んだ。
「ヒガンさん!」
ハクが悲鳴を上げた。はっとした時にはもう遅い、背後から炎虎が忍び寄り、ヒガンを狙って前足を振り上げていた。済んでのところでそれを躱す。髪が爪にかすり、毛先が散った。
逃げた先が良くなかった。待ち構えていた炎虎が口を開く。咥内の奥に炎が見えた。ヒガンは避けることができない、と察し、むしろ炎虎に突っ込んでいった。鼻の上に手をついてひらりと体を飛び越える。降り立った地面の形状が悪く、岩に足を取られた。バランスを崩したところに別の一頭が牙を剥く。ヒガンはハクを放り出した。腕を上げ、牙を受け止める。鋭い牙がシャツを切り裂き、その下の腕に突き刺さった。痛みが一瞬で全身を駆け巡り、動きが止まる。そこを背後からの一頭が襲う。振りかざされた爪はヒガンの頭を狙っている。
爪がヒガンの後頭部をえぐり取った。衝撃にヒガンの体が吹き飛ぶ。ハクが甲高い悲鳴を上げる。
「テンさん! ヒガンさんが!」
異常事態に気がついて、テンがひらりと駆け寄った。地面に転がりぴくりとも動かないヒガンを見てさっと表情を変えた。だが、ヒガンの体を助け起こすでもなく、炎虎の相手をする。
「ヒガンさん!」
「放っておいて」
「でも!」
「いいから」
ハクが地面を這い、ヒガンへと向かった。
その時。異変は起きた。
ゆらり、と空気が震えた。と思うとヒガンの体からぼっと炎が上がった。焔苔や炎虎の纏う火とは違う、青く澄んだものだった。その炎はみるみるうちにヒガンの体全てを覆いつくし、燃やしていく。
「ハク、離れて!」
テンがハクの体を引きずる。
「これは生身の人間も焼いてしまうから」
「な、にが起こって」
ハクはあまりのことに呆然としている。
炎を吹き上げたヒガンの姿に炎虎は恐れをなしたのか、じりじりと後ずさり、そして去っていった。脅威のなくなったその場で、テンとハクが燃え盛るヒガンの体を見つめる。テンが腕を伸ばしてヒガンの体に触れた。テンの体を避けるように炎が揺れて分かれる。テンはヒガンの体に顔を寄せると、傷口の近くにそっと口づけを落とした。そこから更に火が上がり、ヒガンの体を包む炎は激しくなる。
炎の中で影が動いた。地面に飛び散っていたヒガンの血が炎を中心に集まっていく。
見守られる中、炎の内側でヒガンの体が再生する。傷がふさがり、皮膚が新たに作られ、髪が生えて服が元通りになる。
炎が収まり、ちろちろと熾火に変わった時、横たわっていたヒガンが起き上がった。彼はまるで今目覚めたかのようにぱちりと瞼を開ける。重さを感じさせない動きで立ち上がり、体のあちこちを確認して舌打ちをすると、呟いた。
「しまった、死に延びた」
「一体どういうことなんですか!」
ところ変わって飛行船の中、ヒガンはハクに詰め寄られていた。
「……」
ヒガンは苦り切った顔をして、手を前に突き出し、迫るハクを押し留めている。ハクはそんな抵抗をものともせず、ヒガンに一歩近寄った。
「いい加減、教えてあげたらー?」
暢気な声で言うのはテンである。ヒガンはテンを振り返り、威嚇するように睨みつけた。
「面倒なことになるだろ」
「もう十分なってると思うけど?」
「……」
「のらりくらり躱すのもそろそろ限界だと思うよ」
「他人事みたいな顔してるなよ。お前にも関係あるんだぞ」
「俺は別にハクに知られてもいいもん」
「……ちっ」
ヒガンは舌打ちをもらし、テンから視線を外した。両手を握りしめてじっとこちらを見つめるハクに眼を戻す。ハクの顔つきは頑固で、どうあがいても彼の追及から逃れることはできなさそうだ。
ヒガンが追及されているのはもちろん、先日のことである。
炎虎に襲われて重傷を負いながらも、その傷が治ってしまったのはなぜなのか。なぜ、ヒガンの体が青い炎に包まれたのか。──ヒガンは、何者なのか。
そういったことをハクはずっと尋ねてきていた。アルベスタース大陸を出るまで、ヒガンはのらりくらりとその問いを躱し続けてきたのだが、そろそろ限界らしい。テンに言われるまでもなくそれはわかっている。
観念する時か、と諦めてヒガンは全てを話すことにした。
「場所を変えよう」
ヒガンたちがいるのは、飛行船──貿易船と同じ形の船だが、特別な動力を使用することで空を飛べるように改造したもの──のデッキである。飛行船は空の低いところを飛んでいる。それは、次に向かう大陸へのゲートが海の上、空に浮かんでいるからだ。ゲートの高度に合わせて船を動かしているのである。
デッキには暑いほどの熱を孕んだ風が吹き付けてくる。大陸から離れるにつれてそれはだんだんと冷たくなっている。降り注ぐ陽射しも弱まっており、常夏の灼熱地との別れを示していた。
ヒガンらは部屋に戻った。狭い三人部屋には三段ベッドが置かれている。ベッドのない床に腰を下ろした。
はあ、と息を吐いてヒガンは考える。さて、何をどこから話そうか。
少し迷い、単刀直入に始めることにした。
「俺はただの人間じゃない。不死身だ」
「不死身」
ハクは繰り返した。
「どんな傷を負っても死ぬことはない。いや、死ぬには死ぬんだが、体から炎が噴き出て、それで治る。生き返る。ハク、お前が見たのはその場面だ」
「じゃあ、あの時ヒガンさんは」
「ああ。死んでた。彼岸の景色までは見てこれなかったがな。とにかく、そういうわけだ。これでいいか?」
「いや、まだ疑問はあるんですが」
早々に切り上げようとしたヒガンを、ハクが手を挙げて留める。
「なんだ」
「ヒガンさんはミドルの出身だって言ってましたよね? 元からそういう特性を持っていたんですか?」
「違うな。俺が不死身になったのは、こいつのせいだ」
ヒガンは親指でテンを示した。ハクの視線がテンに移る。
「テンさんが……?」
ぽかんとしているハクに向かって、テンが緊張感のない笑みを浮かべて答えた。
「俺がヒガンを番いにしたの」
「番い、とは?」
知らない単語にハクが首を傾げる。ヒガンが続きを引き取った。
「テンは人間じゃない。ユニバースの出身だって話はしたよな? こいつの種族は鳳凰。フェニックスとも混同されることのある希少種だ」
「鳳凰? 初めて聞きました。どんなひとたちなんですか?」
「不死鳥だ。決して死ぬことはないし、老いるのも人よりうんと遅い。それに一度死んで復活したら、最も健康的な肉体年齢にリセットされる」
「実質不老不死ってことですか」
「そうだ。鳳凰は番いを作る。気に入った相手を選び、一生連れそう相手を見つける習性がある。そして、番いに決めた相手が異種族である場合、自分と同じ特性を付与することができる」
「それはつまり、相手を不老不死にできる、と?」
「正解。俺はヒガンが気に入ったから番いになってもらったわけ。せっかくの番いならずうっと一緒にいないと寂しいでしょ? だから俺の炎を分けた」
「炎を分ける?」
「鳳凰は心臓の代わりに炎を燃やしている。それの一部を相手に渡すことができるんだ」
「じゃあ」
とハクが考え込みながら声を上げた。
「ヒガンさんもテンさんも、ずっとそのままの見た目で死ぬことはない、と。あれ、でもそしたら今おいくつですか?」
この問いに、テンが生温かな笑みを浮かべ、ヒガンは沈黙した。
自分がいつ生まれたのか、何年不死身の体となって生きているのか、ヒガンにも定かではない。ヒガンは不死身になってからというもの、世間を疎んじて暮らすようになっていたから、より一層時間の流れというものがわからない。どのくらいの年齢になっているのか見当もつかなかった。
「鳳凰は不老不死とはいえ、その能力は完全じゃない」
ヒガンが沈黙を破る。ハクが顔を上げてヒガンを見た。
「復活するには炎が必要だが、何回も復活を繰り返しているとだんだんその火は弱まってきてしまう。だから、外から火種を与えて復活力を回復させる必要がある」
「俺たちが集めた香料と火種はその材料だよ」
その説明にハクは納得したようだった。
鳳凰は定住することなくユニバースを巡る種族で、様々なユニバースから火種を集めて回復の炎を生み出す。それに使用する火種やその他の材料は、必ずしもヒガンたちが集めているものと同じでなければならないというわけではない。鳳凰本人たちが気に入った炎や燃料を使用することが必要となるのである。
「ヒガンさんが復活するところを見たけど、なんだか信じられませんね」
ハクが腕を組みながら言った。
「どういうこと?」
テンが尋ねる。いえ、とハクはテンを向く。
「不死身だなんておとぎ話の中のものだけだと思ってました。でも、眼の前にそういう人たちがいるなんて、なんだか不思議な気持ちです」
「本当に生き返れるか、疑問?」
「まあ、そうですね」
「だったらここで実践してみようか?」
「え……。わー! やめてください!」
テンが言っている意味に気がついて、ハクは慌ててテンを止めるように手を伸ばした。テンが素早く立ち上がり、ハクから逃げる。ハクも立ち上がってそれを追い掛ける。狭い部屋で追いかけっこが始まった。
「お前たち、ばたばた暴れるんじゃない」
しばらくじっと我慢していたヒガンだったが、とうとう二人を止めた。
船旅はゆったりと続く。ゲートを通り抜けると一気に気候が穏やかになった。吹き過ぎる風は強くなく、涼しく、ぽかぽかと心地良い日光とともに肌を撫でていく。
空を飛ぶ飛行船が到着したのはカエラトゥムヌス大陸の一都市である。飛行場に船は降り立ち、ヒガンらは下船した。
ハクが恐る恐るというように足を踏み出して歩いているのに気がついて、ヒガンは声を掛ける。
「心配しなくても、ここは墜落したりしないぞ」
ハクが何を恐れているのかヒガンにはわかった。このカエラトゥムヌス大陸は空に浮かぶ土地なのだ。
海の上に浮かぶ大陸。その秘密は大陸の内側に埋められた浮遊石にある。この大陸は鉱石を多く産出することで有名である。浮遊石は大陸の各地からとれるごくごく小さな石で、それ自体を浮かせる力を持っていた。大陸のひとびとはこの鉱石を研究し、大きな塊として合成することに成功。大陸の中央にそれを設置し、大陸ごと海の上に浮かせることに成功したのである。
「本当ですか?」
ヒガンの言葉を聞いても、ハクはまだ心配しているようだった。ヒガンは前を行くテンを指さす。
「あの暢気さを見習ったほうがいいな」
「俺って暢気なの?」
テンがくるりと振り向き、首を傾げた。ヒガンは真面目な顔をして頷いておく。
「かなりな」
少しすればハクも慣れてきたようで、足取りに慎重さはなくなり始めた。桟橋を抜けると街並みが見えてくる。ハクが一瞬足を止めた。
「ここは鉱石の世界だ」
ヒガンはハクの背中に手を当てて先を促す。
街の至るところから鉱石が生えていた。アクアマリン、ブルー・トパーズ、ブルー・サファイア、実に様々な種類のものが建物、道、街灯や街路樹から飛び出している。抜けるように青い空から降り注ぐ太陽光を浴びて、それら鉱石はきらきらと輝いていた。この世界の色は青色に限定されていて、ほとんど透明の水色から漆黒に近い紺までがある。吹いてくる風と相まって、爽快感がある世界だった。
「この土地のものはなんでも鉱石が生えてくるんですか?」
ハクがヒガンを振り仰ぎ、尋ねる。ヒガンは首を振った。
「なんでもかんでも鉱石で飾る風習があるんだ。ここにある鉱石は全部、出来方が違う。様々な鉱山から採れた鉱石の屑をこうして利用しているんだ。鉱石は光を受けて、地中にある浮遊石にエネルギーを渡す役割も兼ねているからな」
「ソーラーパネルみたいなものか」
ハクは納得したようだった。
鉱石で溢れているのは街だけではなかった。ひとびともまた、鉱石でできていた。
全身が鉱石でできている人、一部だけが鉱石となっている人、種類は二つに分けられるが、どちらも透き通るような体を持っていることに変わりはない。ハクが物珍しそうな視線を向けていたが、通り過ぎるひとびとはそんなものに慣れっこなのか、気にした様子がない。
鉱石でできたひとびとはごく薄い布を纏っているだけだった。それで、体の内側までを見通すことのできる者もいた。
「あの、見ちゃっても大丈夫なんでしょうか?」
ハクが慌てて眼を逸らす。彼が視線を向けていたほうを見てみると、臓器がくっきりとわかる体を持つ者がいた。
この世界の人々は、臓器までもが鉱石でできている。宝石におけるインクルージョンのように、内側に種類の違う鉱石や不純物を抱えているのだ。
「彼らにはあれが当たり前だから、気にしないと思うよ」
答えたのはテンだった。ハクはそれでも遠慮するかのような、申し訳なく思っているかのような様子で、首を竦めて通りを歩いていく。
三人は今日の宿を探した。時刻は早朝で、太陽の位置はまだ低い。それでも、ユニバースを渡っていく者が多く利用する宿では部屋に空きが出ていて、難なく一室を押さえることができた。
宿を出てからは街の中を通って役所に向かう。建物は皆、鮮やかな青色で塗られた柱でできていて、木組みが表に見えているものもある。幾何学的な模様を彫った扉や透かし彫りの衝立などがあり、開いているところには鉱石が埋め込まれていた。軒下には提灯が吊るされて、よくよく見ればそれは内側に発光する鉱石を入れている。
「昔地球にあった、中華風、っていう感じに似てますね」
「こういう建築があったのか。ユニバースが繋がり出した時に、文化が混ざったのかもしれないな」
役所は他の建物に比べると背の高いものだった。朝早くから窓口は開いているようで、テンが堂々と乗り込んでいく。ここで身分を告げて求めたのは許可証である。この大陸でも採取するものがあるのだ。
許可証を得たテンは、木の札と鉱石を組み合わせてできたそれを首から下げた。
「さあ、早速採取しに行こう!」
元気な声でそう促す。
「そのために、エレベーターを見つけなくちゃ」
「エレベーター?」
「あれ、知らない?」
「知ってますよ。でも街中でエレベーターなんて探してどうするんですか?」
「海に降りるんだよ」
テンはそれだけ答え、すたすたと歩いていった。
テンについていき、彼らは目的のものを発見した。
「あったあった。前と場所が変わってたから困っちゃった」
テンはちっとも困っていないような声音で言い、眼の前の建物に近寄って行った。そこには確かに共通語でもエレベーターと書いてある。
「海に降りてどうするんですか?」
「薪を取りにいくんだよ」
「薪? 海に?」
「そう。薪といってもただの木じゃない。特別なものなんだ」
もったいをつけてテンが言う。
「ここではそう特別じゃないだろう」
ヒガンが口を挟んだ。
「探すのは、オパール化した流木だ」
「木がオパールになるんですか?」
「ああ。珪化木とも言われるな。オパーライズウッドってやつだ。木の化石の中にシリカ成分を含んだ水が含侵して、木の形を損なわないままオパールに置換されたもの。それを探すんだよ」
「でも、この大陸の下って海だけですよね? 海上に漂っていたりするんですか?」
「ううん。この下にも島はあるよ」
「へ?」
「大陸が宙に浮いた後、地殻変動で海底が隆起して、島ができたんだ。そこに、かつての大陸からこぼれた土地に堆積していた岩石や鉱石が残っている。俺たちが探す薪もその一部だ」
「じゃあ、エレベーターの行き先はその島なんですね」
「せーかい。島産の鉱石は純度はそう高くないけど特別なものがあるから、採取が行われているんだ。ああ、でも、普通は観光客なんかは行けないよ」
「僕たちは許可証を持っているから行けるんですね。でも、どうして?」
ハクが尋ねた。それは当然の問いだろう。一般には公開されていない場所となると、何か理由があるに決まっている。
テンはちょっと意地の悪い表情を作り、顔をハクに近付けた。
「それはね……」
ハクが次の言葉を待って息をひそめる。
「モンスターが出るからなんだよ」
「えっ」
ハクの表情が曇った。先日、炎虎に襲われたことで、モンスターに対する恐怖や忌避感が生まれていたのだろう。テンはそんなハクに気がついていないのか、説明を続ける。
「サラタンっていう、蟹だよ」
「蟹? じゃあそんなに大きくないんですか?」
「ううん。俺とヒガンの身長を合わせても足りないくらい大きいよ」
「えっ……」
ハクが引いた顔をした。そりゃそうだろう、とヒガンは思う。ヒガンも実物を見たことはないが、話はテンから聞いていた。テンの説明に誇張がないのだとすれば、サラタンは巨大で素早い蟹ということになる。ハサミが片方大きく、それは鋭く、しかし臆病な性格なので滅多にその武器を使うことはないらしい。ハサミの専らの使用用途は地面を掘ったりそこに落ちている鉱石を拾って食べることで、攻撃に使われるのは稀だそうである。
そうハクに話してやると、僅かにほっとしたようだった。
これから向かう先のことがわかったところで、三人はエレベーターに乗った。エレベーターは丸い筒の中を通っていく。強化ガラスでできているのか窓は透明で、大陸を降りていく間の地層、それから空の様子がよく見えた。
「すごい! 空に浮かんでます!」
遥かに上になった大陸を見て、ハクがはしゃぐ。大陸の影が頭上には広がっていて、それを見ると大陸が本当に宙に浮いているのだと実感できた。
エレベーターはまだまだ続く。途中で空を飛んでいる鳥と眼が合うこともあった。鳥の姿を見つけるたびに、ハクが歓声を上げて指を指す。
エレベーターは長い。大陸と島との高度差に人を慣らすためかゆっくりとしか進んでいかないので、中にベンチが設置されて休憩できるようになっている。三人はそれに腰掛け、しばらくの疑似的な空中散歩を楽しんだ。
やがて、空よりも海のほうが近づいてくる。大陸の影が落ちているものの、水面には宝石の放つような輝きがあるのが見て取れた。紺碧の海がだんだん眼の前に迫ってくる。足元を見れば、エレベーターを覆う筒は、海に浮かぶ小さな島へと続いているのがわかる。
島の全貌が見えてからさらに三十分ほどを掛け、ようやくエレベーターは到着した。
ちーん、と機械的な音が鳴り、扉が開く。涼やかな風が三人を出迎えた。
「あー、長かったー!」
テンが思いきり伸びをした。ハクがそれを真似する。ヒガンもまた深呼吸をした。そう広くないエレベーターに長時間閉じ込められているのは、それだけで疲れることだったのだ。
降り立ったのは島の中央で、地面にはごろごろと鉱石が転がっている。指先で摘まめるほどのものから拳大のものまで様々だ。どれも皆色味の違う青色をしていて、向こう側が透き通って見える。
テンが屈みこみ、何かを拾った。
「こういうふうになってる木を探してね」
手のひらに載せたのは小さなオパールだった。欠けて落ちた木片のような尖った形をしていて、内側に複雑な色味を湛えている。傾ければ様々な青に光った。空の色の移り変わりや海の波間の変化をそのまま閉じ込めたようだった。
テンは拾ったオパールを放り投げると、ヒガンたちを引き連れて砂浜のほうへと向かった。だんだんと地面に落ちている鉱石の粒が小さくなっていく。風が吹くたびに小さな粒がからからと動いていて、そのために角が削れ、欠け、だんだんと小さくなっているのだろうと思われた。
島には川のような水の流れもあって、その中に身を浸している鉱石も存在した。川とはいうが実際には陸に残った海水が溜まり、また海を目指して流れ出したものであり、水は緑がかった青をしていた。
「この辺りかな」
砂浜に出てテンが足を止めた。木々が途切れた場所、海を見渡せる広い砂浜である。砂となっているのは青色の鉱石の欠片で、全て角が取れて丸みを帯びている。風が吹くたびにさらさらと位置を変え、靴の下で流れていくのが感じられた。
砂浜には様々なものが打ち上げられていて、中には鉱石を生やした流木もあった。だが、ざっと見ただけでは目的の珪化木は見つからない。よくよく探さないといけないようだ。
「手分けして探そうか」
三人は担当する場所を決めて、それぞれで珪化木を探し始めた。
テンは波打ち際の辺りを探す。
流木の他にも鉱石の欠片やゴミなどが流れ着いていた。ゴミは上の大陸から落ちてきたものが漂着したのだろう。
地面を見ながら黙々と歩く。それらしい木を見つけてはひっくり返し、中を確認する。それはただの木であったり、別の鉱石でできたものであったりした。珪化木を探すのはなかなか難しそうだ。
ずっと地面を見ていることに疲れて顔を上げた。歩きどおしでほんのりと汗ばんだ額を風が撫でていく。青い海が広がっているのが視界に入り、一瞬言葉を失った。
海はミドルで暮らしている以上、身近なものだった。見慣れていると思ったのに、今こうして眺めている海はミドルのものよりもうんと綺麗に見えた。波打ち、揺らめき、光を受けて複雑に色を変える水面。潮の匂いを含んで吹きつける風。水平線の彼方で接する空はうんと高く、掃いたような雲が薄っすらと広がっている。太陽の位置が変わり、大陸が落とす影の場所が変化すると、それに合わせて海の輝きもまた移ろっていく。
だが、綺麗な光景だというのに、何かが物足りないような気がした。物寂しさをヒガンは感じ取っていた。ただ美しいだけの光景で中身が充足していないような、そんな感覚。どうしてそう思ったのか少し自分に尋ねてみたけれど、答えはわからなかった。
ヒガンは海から眼を離した。さあ、珪化木探しに戻らなければ。
担当していた砂浜を隅から隅まで探し回ったけれど、見つからなかった。場所を変えることにする。砂浜を離れ、岩が連なる磯とその奥へ足を踏み入れた。
波しぶきが打ち寄せる岩石を飛び越えながら奥まった場所に行く。水に身を浸す岩石と岩石の間には打ち寄せられたものが溜まっていることがあり、ヒガンはその中で一つ珪化木を発見した。
上腕の長さくらいの細いもので、複雑な色味の青に輝いている。途中で枝分かれしているそれは、手に取ってみると見た目よりもずっしりとしていた。手のひらの熱を奪っていく冷たさをもっていて心地良い。
似たような場所にも落ちていないかと、ヒガンは岩石の間の潮だまりを覗き込んだ。
全ての潮だまりを見て回った後、ようやく奥まった地点に向かう。小さな崖のような、盛り上がった地面の崩れた表面があらわになっている岩が聳えている。足元は砂が打ち寄せられ、岩の隙間へと水が浸入し、ちょっとした入り江のようだった。
岩の隙間はヒガンが体を横にしたら通れるくらいの幅があり、裂け目はうんと背が高い。灯りがないと中を探索することはできなさそうだと考えて、そこを通り過ぎてさらに奥まった場所を目指した。
木々が生えてきてる陸地との境目に、海水が侵入してできた小川があった。抉られた地面、川底には岩が沈殿していて、その中に珪化木を発見した。今度は短くて太い、重さもあるものだ。ヒガンはそれを、先程発見したものと一緒に脇に抱えた。
「もう少し探しておきたいな」
ヒガンは呟く。テンとハクがどの程度発見できているかはわからないが、ひとまずもう一本ほど見つけておきたい。その後見つけたものを持ち寄って、足りない分をまた探す、という流れでいいだろう。
ヒガンは入り江を中心にいったりきたりしながら探索を続けた。
ずり落ちてくる珪化木を抱え直し、地面を見つめながら歩いていく。時折屈めた腰を伸ばした。
ずっと歩いていると汗ばんでくるが、風が涼しいので汗が肌を伝うほどではない。潮の匂いが強まった。先ほどよりも足元に打ち寄せる水の量が多くなっている気がする。潮が満ちる時間があるのだろう。ここまで来るのに通った磯は岩石が水面よりもうんと飛び出ていたから、入り江に取り残されることはないだろうが、一旦戻っておいたほうがいいかもしれない。そう思い始めた時だった。
ヒガンの顔の前にぬっと影が落ちた。
誰かがやってきたのかと思ってヒガンは顔を上げる。そして、固まった。
ヒガンの前に垂直に聳える崖ができている。紺色をしたそれはいつの間にか入り江に現れたものだった。なんだ? と疑問を浮かべながらさらに上を見上げ、凍り付くような気がした。
じろりとこちらを見る眼を視線が交わったのだ。伸びた軸の上についた眼は二つ。感情を窺わせることのないそれらがヒガンを見下ろしている。
そろそろと視線を横に移せば、大きなハサミが視界に入った。
崖だと思ったそれは、蟹だった。ヒガンの背丈の二倍以上もある高さの蟹。その体は薄く、立てているのが不思議でならない。
「どこから……っ?」
ヒガンはぴんと来た。探索を諦めた岩の裂け目、あそこに潜んでいたのに違いない。この体の薄さならば入り込むことは可能だろう。
ヒガンはじりじりと後ずさった。今のところ、蟹──サラタンに敵意は感じられない。このまま刺激せずにどうにか距離を取れないだろうか。
サラタンから眼を離さないようにしながら、ヒガンは砂の上を後退する。抱えていた珪化木がずれて、それを抱きなおした。
その途端、サラタンの眼の色が変わった。蛍光色にも似た青色をともし、ヒガンを、いやヒガンの手元を見ているようだ。
しまった! ヒガンは思った。
サラタンは鉱石を餌とする。珪化木はちょうどいい餌だと思われたのだろう。
サラタンが近づいてきた。思っていたよりも速いスピードで横に移動する。ヒガンは駆け出した。岩を飛び移って逃げようとしたが思い留まる。これをテンやハクのいる場所に連れて行くのはまずい。であれば、ここでどうにか興味を失ってもらうしかない。でも、どうやって?
ヒガンは方向転換をし、サラタンの進行するほうとは逆へと走り出した。サラタンはびくっと動きを止め、また俊敏に歩き始める。
ヒガンは陸地を目指した。
木々が生えている場所ならば、サラタンの動きがどれほどかは制限されるはず。視界も悪い場所でサラタンを撒いてしまえばいい。
だが、ヒガンの考えは甘かった。
走るヒガンの横に、さっと影が落ちた。見れば、サラタンのハサミがそこにある。ハサミは器用にもヒガンの抱える珪化木を狙っていた。
素早い動きでサラタンが珪化木を掴んだ。ぐいっと引っ張られ、ヒガンはよろめく。奪われまいとしたのがよくなかったのか、ヒガンの体は持ち上がった。サラタンが珪化木ごとヒガンを宙に浮かせる。
ヒガンは珪化木に抱き着いた。今から飛び降りたのでは安全に着地できない。ではどうするか。どうにかサラタンに地面に下ろしてもらうしかない。
ヒガンは体をねじり、サラタンのハサミに足を掛けた。サラタンがそこで初めて、珪化木についているヒガンに気がついたようだった。反対のハサミ──こちらのほうが大きい──をヒガンに近付けると、ヒガンの腕を掴んだ。
「がッ」
鈍い痛みが走り、ヒガンはうめき声を挙げた。ヒガンの左腕が千切れ、地面にぽとりと頼りない音を立てて落下した。傷口から血が噴き出てそれはすぐに炎に変化する。血は止まったが、ちろちろと炎が上がり続けている。
突然の痛みにヒガンの全身から力が抜けた。抱えていた珪化木を離してしまう。落下する地点は岩の上だ。全身を強打することは間違いない。当たりどころが悪ければ、死んでしまうだろう。
衝撃に備えてヒガンは体を強張らせる。そのヒガンの体を柔らかく抱きとめるものがあった。
「何してるの、ヒガン」
テンだった。
どこからか駆けつけたテンはヒガンを抱き留め、安全に着地する。岩の上にヒガンを座らせると、いつの間にか回収していたヒガンの腕を渡してきた。
「ちょっと持ってて」
テンは至って軽い調子で言い、地面を蹴った。尋常でないほどの高さにまで飛び上がると、宙をまた蹴ってサラタンに飛び乗る。サラタンのハサミに飛び移ると、ハサミの間に剣を差し入れ、ぐい、とこじ開けた。珪化木が一つ落ちていくのを受け止める。
自分の手から珪化木がなくなったことに気がついて、サラタンが動きを止めた。そして、体に乗っているテンにも同時に気がついたようである。煩わしそうにハサミを向けてぞんざいに振った。
テンはむしろそのハサミに近づいていくように身を躍らせた。ハサミを蹴って宙をひらりと舞う。サラタンの眼に鞘を当てた。痛みを感じたのか、それともただ驚いただけか、サラタンが飛び上がる。テンの体も宙に浮く。ハサミが迫ってきていた。テンはひょいと最小限の動きでそれを躱すと、ハサミのことを恐れていないかのようにむしろ飛びついていく。ハサミの淵に鞘を引っかけて体を持ち上げ、隙間に残っていた珪化木を弾いて取り出した。宙を舞った珪化木を蹴り、ヒガンのもとへと落とす。
最後の仕上げというように、テンはサラタンのハサミを蹴って他の足をとんとんと降りて行った。体に最後の一蹴りをくれてやると、サラタンは飛び上がって逃げていった。
サラタンの姿が見えなくなったのを確認し、テンがヒガンのもとに戻ってくる。
「姿が見えないと思ったら。どうしてサラタンに襲われてるの。危険なことしないでよ」
「あんな無茶な戦い方をするお前に言われたくないな」
ヒガンは言い返したが、あまり強く出られない。テンがその場にしゃがみ込み、ヒガンの腕を受け取った。
「さっさと直しちゃおう」
テンがヒガンの腕を切断面とぴったり合わせる。そこに口づけをすると、ぼうっと炎が上がった。ヒガンの体から出ていた火とそれは混じり、腕全体を焼いていく。テンの内側にある炎を分け与えてもらうことで、回復力を高めたのだ。
腕が炎に舐められていくうちに、みるみると傷が塞がった。切れた服も元通りになる。
炎が静まり、テンが手を離した。ヒガンの腕がぶらりと垂れさがった。
「ありゃ?」
テンが首を傾げた。
「ヒガン、ちょっと手をぐーぱーしてみて」
「できないな」
ヒガンは首を振る。痛みはなくなったものの、腕が動かなかった。力なく垂れ下がるだけだ。
「出力が弱かったのかな? でももうやり直しはできないし」
「どうするんだよ」
ヒガンは少し慌てた。テンがぽんと手を叩く。
「治してもらいに行こう。怪我をしたのがこの大陸でよかった」
「レイレイのところか?」
テンの言っていることにぴんときて、ヒガンは顔を顰めた。
この大陸には幸いというべきか、知り合いがいる。彼女ならヒガンの腕を治せるはずだ。
「珪化木はヒガンの分をあわせれば必要な量採れたし。上に戻ってレイレイを探そう!」
テンは、相棒の腕が動かなくなっているとは思えないほど明るい声を出した。ヒガンはなんとか片手でバランスを取って立ち上がり、珪化木をテンに渡して、岩の上を歩いていく。知り合いに会う前にハクと合流しなければ。
ハクは戻ってきたヒガンとテンを見て眼を丸くした。ヒガンから怪我のことを聞くと絶句した。
「だ、大丈夫なんですか?」
おろおろとするハクをヒガンは宥める。
「こういうこともある。知り合いがいるから、そいつに治してもらいに行くぞ」
「なんでそんな冷静なんですか!」
「慣れだ」
「……恐ろしい慣れですね」
ハクを連れてエレベーターに乗り、大陸に戻る。エレベーターに乗っている間、どうにか手が動かないかと試したが、やはりうんともすんとも言わない。ぴくりとも動かなかった。
大陸に戻った頃には夕方が近くなっていた。太陽が早く沈み、あっという間に日が暮れる。この大陸は日没が早いのだ。
ぽつぽつと灯りが灯る中、ヒガンたちが目指したのは街の北側にある区域である。ここは歓楽街で、様々な店が灯りをともして客を歓迎している。活気のあるところで、ハクがあちこちを見ていて人にぶつからないようにするのに苦労した。
「鉱石でできた人以外にも、いろんな姿の人がいますね」
ハクが驚いた声を上げる。街並みを行き交うひとの中には、耳を生やした獣人族や人間にしか見えない者、体から植物が生えている種族、二足歩行で歩く狐、狼など様々な姿があった。体は見えず、服だけが歩いているように思えるようなひとの姿もある。
「ここはとりわけ雑多な区域だからね。ああ、そこの角を右だよ」
伝統色の強くなる街を抜けて、灯りに誘われるように角を曲がっていく。
辿り着いたのは背の低い建物の一つだった。翡翠のようにとろりとした青色が特徴的な柱をしていて、紫がかった灯りが軒先を照らしている。
「ここはなんのお店なんですか?」
「お前に教えるのは憚られるようなところだな」
「ええ?」
いまいち理解していないハクを連れて、ヒガンは店内に足を踏み入れた。
入ったところはエントランスのようで、受付には若い青年がいる。テンが彼に近寄り、「レイレイを呼んで」と頼んだ。訝しむ顔をした彼に、「テンとヒガンが来たって言えばわかるから」と続ける。青年はまだ怪しむような顔をしていたが裏に引っ込んだ。
少ししてまた顔を見せる。
「二階のロビーにいるそうです。他のお客様もご一緒とのことですが」
「ありがとう。とにかく行ってみるよ」
テンは青年にチップを渡し、ヒガンたちに合図をして階段を目指した。
一段一段が低い階段を上っていく。二階部分は天井が低くて圧迫感を感じた。廊下を歩いていくと少し開けた場所に出る。ここがロビーだろう。ちょっと座って話ができるようにソファが置かれていて、その前には小さなテーブルがある。角には花が鉱石でできた花瓶に生けられていて、それが灯り代わりに発光していた。
ソファには二人の人影があった。談笑しているらしい二人の背中にテンが声を掛ける。
「レイレイ!」
人影のうちの一人が振り返った。
頭に艶やかな毛並みをした耳をつけた女だった。少女と呼ぶには大人びていて、しかし成人しているかと言われたら自信がない。幼いところを残した顔立ちをしている。白い面につんと尖った小さな鼻。眉は短く、瞳は切れ長で、猫のように瞳孔が縦になり、目尻に朱を差している。唇は薄付きの薔薇の色。唇の端はきゅっと上がり、笑みを形作っている。その笑みは美しかったが、どこか胡散臭いものを感じさせる。
身に付けているものは薄い紗を重ねたようなもので、ヒガンらの着ているシャツとは仕立てが全く違う。布を縦に縫い付けて前を合わせ、紐で腰の辺りを縛って止める作りになっている。
髪は耳と同じ艶やかさを持つ黒で、顎の辺りで切られて内側にくるんとまかれている。
「あらぁ。テンさんじゃないですか。それにヒガンさんも。お久しぶりですねェ」
ゆったりと笑んでレイレイと呼ばれた女は答えた。
「また採取の時期ですか? それでわざわざアタシのところに? それは嬉しいですよお~。そんなところに立ってないでこちらに座ったらいかがです?」
レイレイは椅子を進めた。テンは近寄っていき、レイレイの眼の前に座っていた人に眼を止めて驚いた顔をする。
「久しぶりだな」
凛とした、笑みを含んだ声がした。
レイレイの前に座っていたのは、レイレイよりも年上の女だった。豊かな髪を背中に垂らし、前髪をかき上げている。眉はきりりとした直線で、その下の瞳は濃厚なオレンジ色。すっと通った鼻筋に、細められた唇には赤のマットリップを塗っている。着ているものは七分丈のスーツで、体にフィットしている。胸が大きく、腰はくびれていて、魅力的な体つきをしているが、背筋を伸ばして足を組んでいる様子からはあまり女性らしさを感じない。人の上に立つ者ということがはっきりとわかるような、少々威圧感のある雰囲気を纏っていた。
「誰かと思ったらクィンシーか」
「古い名だな。それを使っていたのは五十年以上も前だぞ」
「じゃあ今はなんていうの?」
「レオナルドだ」
「男の人の名前でしょ?」
「ああ。だが、私によく似合っているだろう?」
「確かに! 王様みたいなところがぴったり!」
「あの、こちらの人たちは?」
ハクがこっそりとヒガンに尋ねた。ヒガンは動くほうの手でハクの手を握り、彼女らに近づいていく。
「知り合いだ。こっちはレイレイ。そんでこっちは今のところレオナルドというらしい」
「今のところ、とは?」
「偽名を使ってるんだよ。時々名乗る名を変えている」
「おや、見慣れない顔だ。初めて会う人にそう簡単に私の情報を公開しないでくれないか」
ちっとも困っていない様子でレオナルドが言った。
ヒガンはハクを座らせて自分も腰を下ろす。
「ヒガンがミドルを出るなんて珍しいですねえ。何年ぶりですか?」
「さあ、覚えてないな」
「それで、こちらの坊ちゃんは?」
「ハクだ。一緒に旅をしている」
「人間ですねえ、この匂いは。ミドルに、ユニバースに出てくるなんて気概のある子がまだいたなんて驚きました」
「厳密に言うとハクはミドル出身じゃない。〈シティ〉育ちだ」
「なんと! それは驚きました。ますますびっくりですよ。〈シティ〉から人が出てくること自体稀でしょう?」
そう驚いてもいなさそうな顔でレイレイが答える。ハクはヒガンとレイレイの顔を交互に見つめて、困ったような表情を浮かべていた。手足をきゅっと縮めて小さくなっている。
「紹介しておこうか? こっちがレイレイ。化け猫だよ。この店で働いてる、のかな? それとも根城にしているだけかも。それでこっちがクィンシー、じゃなかったレオナルドだって。貿易商をしているんだよ。二人とも、違うユニバースの出身だ」
テンがそう紹介した。ハクはぺこりと頭を下げる。
「あの、初めまして」
「初めましてえ」
レイレイがにっこりと笑い、レオナルドが笑みを薄く作る。
「二人は何の話をしてたんだ? 邪魔したか?」
ヒガンの問いに、レイレイが手と頭を振った。
「いいえェ。ちょっと情報のやり取りを」
「レイレイの言い値で情報を買っていたところだよ」
レオナルドがさらりと付け足す。
「ああ、いつものか」
ヒガンは納得した。レオナルドは貿易商だが、扱うものは物品だけではない。あらゆる情報もまた彼女の支配下にあった。そしてレイレイはどこから聞きつけてくるのか、膨大な知識と情報を持つ腕のいい情報屋で、彼女たちがこうして定期的に取引をしているということはヒガンも聞き及んでいた。
「もう終わっているから問題ないよ」
安心させるようにレオナルドが言う。
「それはよかった」
「それで、今日はどんな要件なんです?」
レイレイが首を傾げた。それにあわせて耳もぴくりと動く。ハクが興味深そうにその動きを見つめていた。
「ああ、これを治してもらいたくてな」
ヒガンは動かない自分の腕を示した。
「ああ、治る時に接着が甘かったんでしょうねえ」
一目見ただけでレイレイは言う。
「レイレイさんはお医者さんなんですか?」
ハクが尋ねた。
「いえ、単なる情報屋ですよ」
「金にがめつい、な」
「もう、ほんとのことを言わないでくださいよぅ。恥ずかしいじゃないですかぁ」
レイレイがちょっと手を振る。ぽっと頬を染めてみせるのが芸が細かい。今は必要ない芸だが。
ハクが説明を求めるようにヒガンを見た。
「こいつは何よりも金が好きで、金になることならなんだってするんだ。だから、鳳凰の治療なんていうものもできる」
と、ヒガンは説明した。それから付け足す。
「普通の医者なら匙を投げられる怪我でも、こいつならほとんど治せる。まあ、違法ではあるが」
レイレイとは昔、ミドルで出会った。その時も今のように回復させた体が動かなくて治療を頼んだのである。
「それじゃ、さっさと治しちゃいましょうかねえ」
レイレイがヒガンの腕を取った。
「えい、えい」
小さな声で言いながら、ヒガンの腕を押していく。びりびりとした痛みが走り、ヒガンは顔を顰めた。
「はい、これでどうですかぁ?」
レイレイが手を離した時、ヒガンの腕は動くようになっていた。
「わあ、すごい!」
治してもらった本人よりもハクのほうがいいリアクションをする。レイレイが鼻を鳴らして得意そうに胸を張った。
「じゃあ、お代をいただきますよ」
「いくら?」
テンが懐を探る。
「いえ、お金じゃなく、お話でもしてもらいましょうか。ハクさん。〈シティ〉の暮らしについて教えてください」
「え、僕ですか?」
「ええ。〈シティ〉育ちの人なんて、滅多にお目に掛かれないので」
にこりとうっとりするような笑みを作ったレイレイは、次々とハクに質問を繰り出した。ハクが慌てて答え始める。
「長くなりそうだぞ」
レオナルドがその様子を見て言った。
「じゃあ、俺たちは別の話でもして待ってようかな」
「ほう?」
「ユニバースを渡れるレオナルドならちょうど良かった。ハクがね、知りたいことがあるんだって」
「そっちの少年が?」
「うん。今はレイレイの相手に忙しそうだから、代わりに俺たちが聞くね。あのね、シキの国って知ってる?」
「シキの国……? それはどういうものだ?」
テンとヒガンは交互に、ハクから聞いたことを説明した。さらに、以前マソホとニイロから聞いた死期の国の話もする。聞き終わったレオナルドが腕を組んだ。
「それそのものの伝承は聞いたことがないな」
「なんだあ」
「だが、同じ名前のものは耳にしたことがある。四季の国と言うんだ」
「四季? 何それ?」
「さあ、良く知らない。だが、そこは穏やかな暮らしが約束された場所、というほどの意味を持つらしい。それから、少し違うが色の国というのもあるな。色は読み方を変えればシキだ。こちらは、豊かな土地という意味を持っている」
「四季の国と色の国かぁ。うーん、シキの国に当てはまるような、そうでないような……」
テンが頭を傾げた。ヒガンも考えこむ。話を聞いたことで謎が深まったような気がする。
「各ユニバースの話に詳しいお前が言うなら、シキの国っていうものが直接伝わってはいないんだろうな」
ヒガンはそう呟く。
「力になれなくて残念だよ」
レオナルドがひょいっと肩を竦めた。
「いや、参考になった」
ヒガンが首を振る。
「俺たちの用事はこれで終わったんだけど……」
テンが隣を見た。
隣では、まだレイレイがハクに質問を重ねているところだった。レイレイの問いに一つ答えればそこからまた三つ四つと質問が飛び出すという具合で、なかなか終わりそうにない。ハクは一生懸命答えているからなおのこと、まだ時間が掛かりそうだった。
「もう少し待つことにしようかな」
「そうか。なら、私に付き合ってもらおうか」
レオナルドが言い、テーブルに置いてあったベルを鳴らして係の者を呼ぶ。やってきた青年に茶の用意を言いつけた。すぐに青年が茶器と香草茶を用意して戻ってくる。
それから、レイレイの質問が終わるまでの間、ヒガンたちは茶を啜りながら時間を潰した。
レイレイの興味関心が満たされてハクが解放されたのは、深夜になった頃だった。
「お疲れ様」
テンがねぎらいの言葉を掛けた。
「俺のせいで悪かったな」
「いえ……」
ハクはぐったりした様子で答える。三人は人気のない道を、宿を目指して歩いていった。
カエラトゥムヌスに別れを告げて次に訪れたのは、ウィリディスヒエムスという大陸であった。
ここはカエラトゥムヌスの穏やかな気候とは打って変わって、吹雪が吹きすさぶ土地だった。まっ平な大地。そこには雪が積もっている。雪の色は緑がかっていて、これは雪の下にある苔の色を透かしているからだ。
空から降ってくる雪もまた、薄っすらと緑色をしている。これは雪が緑に染まっているためではない。空にはオーロラが揺らめいていて、神々しい光を雪が受けて発光しているのである。
緑の雪は色を薄くしながら舞い降りて、地面の苔の色に染まる。そのために地上は草木と違った緑に覆われ、また空もオーロラの緑が広がっている。
冬と緑の大陸。それがウィリディスヒエムスだった。
ヒガンたちは船を降りて街を目指すことにした。この大陸に滞在するのは一週間ほど。採取の予定があるのでその許可を得ることと、宿を探す必要がある。
雪をかき分けてできた道は、港から街まで一直線に繋がっている。ヒガンたちはその道を辿って行った。
さくさくと靴の下で雪が音を立てる。足跡が彼らの背後に続いている。後から後から雪が降ってきて、すぐに足跡を覆い隠していく。地面は時折霜柱ができていて、苔が浮いているところもあった。霜柱はあまりの寒さにためにか、踏んでも壊れることはなく、しっかりと体重を支えた。
ヒガンは後ろを振り返り、尋ねた。
「ハク、寒くないか?」
「大丈夫です」
ハクはそう言ったが、鼻が赤いし鼻水を啜っている。体も細かく震えているようだった。できる限りの服を着こんで船から降りたのだが、その程度では太刀打ちできるほどの寒さではない。予めここと訪れることはわかっていたので備えをしてはいたのだが、以前訪れた時よりも寒さが厳しくなっているようだ。ヒガンもまた寒さを感じていた。元気なのはテンばかりである。彼は無邪気に雪にはしゃいでいて寒そうではないが、それは運動していて発熱しているから暖かいだけであり、着ているものの効果ではないだろう。これはなんとかしなければ命に関わる。もう少し気候にあったものを身に付けなければ。
幸いにも街は港からそう離れてはおらず、服屋が真っ先に建っていた。大きな店構えをしていて、品物も良く揃っている。服屋に駆け込む者がいることを明らかに想定していた。備えが足りなかったものは皆ここで冬用の服を購入するのだろう。
ここで温かなダウンやマフラーを購入し、ヒガンたちは外に出た。相変わらず外は吹雪いていたが、感じる寒さはましになる。
街に入ると吹雪の中を平然とひとびとが歩き回っていた。
「皆さん凄いですね」
もこもこと布に囲まれたハクがすれ違う人々を見上げる。
「獣人族の土地だからな。みんな毛皮があるから暖かいんだろう」
すれ違うひとびとは皆、毛並みに覆われた体をしていた。耳が出ているひとも多い。この大陸は獣人族が住んでいて、人間とそっくり同じになれる彼らだが、一年中降り続ける雪に対応するために、半分ほど獣化したような恰好をしているのである。
「でも、ただ寒いだけの土地じゃないぞ。ここは温泉でも有名なんだ」
この大陸には数多くの火山があって、今も活動しているものがいくつか存在する。そういう土地であるために、各地に温泉が湧いているのだ。
宿を探すよりも先に体を温めたほうが良いと判断して、ヒガンたちは温泉を目指した。
街の中には銭湯がいくつもあった。天然温泉と看板に掲げられている店の一つに入ることに決める。獣人たちにも人気なようで、客が多かった。案内を見てみれば、サウナなども併設されているようである。温泉文化はかなりこの地に根付いているのだろう。
服と荷物を預けて浴場へと入っていく。
温泉は室内と露天風呂があり、獣人族のひとびとは外に出て雪を眺めながら湯に浸かっていた。だが、毛皮を持たないヒガンたちに同じことはできない。温かな蒸気で包まれた室内の温泉に身を沈めた。
温かな湯が全身を包むと、ほう、と息がもれる。ハクがほっとしたように表情を緩めていた。
温泉の湯は少し熱いくらいで、寒さに凍えた手足がじんじんと痺れ出す。じっと我慢しているとそれは収まってくる。湯の熱さに体が馴染んできた頃になって、強張っていた体が解れてきたのがわかった。
「テン、泳ぐなよ」
隣で水を掻いたり、足をばたばたさせているテンに声を掛ける。
「はーい」
テンは不満そうに、しかしきちんと返事をした。
温泉にはいろいろと種類があり、テンは頻繁に湯から上がってはそれらの温泉を制覇するかのように場所を変えている。ヒガンとハクは同じところに留まって肩まで浸かった。寒さだけでなく長旅で溜まった疲労も湯の中に漂い出し、溶けていくようだ。
「おお、旅人さんかい」
よそからやってくるものが珍しいのか、そう声を掛けられる。談笑しがてら、獣人たちにシキの国について尋ねた。
「死期の国なら知ってるよ」
多くはそう言って知っていることを教えてくれる。だがどれも皆似たような話で、新しい情報を得ることはできなかった。
「シキの国について、何も残っていないんでしょうか?」
ハクが眉をひそめて考え込む。
「僕が見つけたものは、他のユニバースにもないものだったんでしょうか?」
「そう判断するのは早いんじゃないか?」
ヒガンは濡れた髪をかき上げた。湯を手に掬い、顔を洗う。ハクが視線を向けてきた。
ちらりと視線をヒガンも向ける。
「シキの国。死期の国。四季の国、それから色の国。全部音が同じだ」
レオナルドから聞いた話を共有されていたハクは頷く。
「それが偶然か? 俺は違うと思う」
「偶然じゃないなら、一体?」
ハクは首を傾げた。ヒガンはハクに向き直る。
「まず一つ目の考えだが、シキの国というのは、各地にあった伝承をまとめたようなものなんじゃないか、というものだ」
ハクが顎に手を当てて考え込んだ。
「どのユニバースにも、ここではないどこか、を指す伝承があった。幻の土地があった。それをまとめて名付け直したものがシキの国ってことだ」
つまり、シキの国とは一つの土地を指すのではなく、様々な土地を総合した呼び名だった、という可能性である。
各地に残る伝承は、文化が混ざっていくとそれにつれて変化していってしまうという脆い面がある。その中で元々の伝承を追い求めていた者が、死期の国ないしは四季の国、色の国という名を新たにつけ、その呼び名が残ってしまったと考えられる。
「それからもう一つ」
と、ヒガンは指を立てた。ハクが首を傾げて言葉を待つ。
「これら三つの伝承は元々は一つのシキの国、というもので、それが分かれていったパターンだ」
「分かれていったというのは?」
「物語の各部分が抜け落ちて、要素だけが残っていったということだな。シキの国の伝承はもっと大きな枠組みがあって、ハクが読んだという部分、死期の国、四季の国、色の国、全ての要素を兼ね備えていた」
「それが、部分部分だけになってしまった、ということですね」
「そうだ。といっても、どっちの説でも説明はしきれないだが」
ヒガンは眉を寄せた。
「そもそも、シキの国が伝えたかったものがわからない。死期の国の内容だけを考えるなら死後の世界ともとれなくもないが」
「他の部分も、死後の世界の考え方に似ているものはありますよね。あの世では幸福が待っている、というような」
「ああ。だが、わざわざそれをまとめたりするだろうか?」
うーん、とヒガンもハクも考え込んでしまった。
そこに、ばしゃんと湯が掛かる。ぽたぽた水滴を垂らしながら、ヒガンは眼を鋭くした。
「何するんだ、テン」
「二人とも難しい顔をしてたからさ。こう、気分転換?」
いつの間にか戻ってきたテンが、可愛らしく小首を傾げて言った。少しも悪びれたところがない。ヒガンは水を含んで張り付く髪をかき上げた。
「こっちは真面目に議論してたんだがな?」
「そんなに考え込むと、せっかく解れた体がまたかちこちになっちゃうよ」
テンがすかさず言い返す。どう返そうか、とヒガンは考え込んだ。テンがまたばしゃんと水飛沫を上げる。両手で掬った湯がヒガンの顔に掛かった。ヒガンはさっと顔を拭いてテンを睨みつける。
「おい、こら! 他の人に迷惑だろうが」
「もう誰もいないよ?」
そう言われ、辺りを見回す。テンの言う通り、ヒガンたちが浸かっている場所に他には誰もいなかった。皆露天風呂のほうへと移動してしまっている。まったく気がつかなかった。
「二人とも、ずっとここにいたの? もう顔が真っ赤だよ。のぼせちゃう。そろそろ上がらない?」
テンは僅かに心配するような表情を浮かべて言った。思えばテンの言う通りだ。獣人たちから話を聞いている間に、かなりの時間が経っている。もう寒さを全く感じていないどころか、指摘されれば暑いと感じていることに気がついた。
「それに、まだ情報が少ないんじゃない? ばらばらのピースだけじゃパズルの全体像は見えてこないもんでしょ?」
「……」
これもまたテンの言う通りだった。これだけの情報を無理矢理に繫げたとなると、本来の形からはかけ離れた想像をしてしまうことにもなりかねない。もう少し、確信に迫る情報が必要だ。言い返す言葉を見つけられなくて、がしがしとヒガンは頭を掻く。
「そうだな。そろそろ出て宿も探さないとか。ハク、のぼせてないな?」
「はい、大丈夫そうです」
ハクはしっかりと頷いた。ヒガンは立ち上がる。
「情報集めの前に、最後の採取もしなくちゃならないしな」
「そうそう。ああ、そうだ。後で採取の時に必要なものも買いに行かなくちゃ」
温泉を出た三人は宿を探し、外の店で必要なものを買い求めた。
次の日。ヒガンらは完全防備の上、宿を後にした。
ふかふかのダウンコートは丈夫な素材でできている。ひっかいても中の綿が出てこないよう特殊な布を使っているのだ。また着ていても重さを感じることがないほどに軽く、動きやすい。ダウンコートの下に入れたマフラーは毛織の質の良いもので、もともと持ってきていたマフラーと重ねて付けている。こうすることで隙間から入ってくる冷気を完全にシャットアウトすることができる。ニット帽は耳までを覆う形のもので、ほどよい締め付け感がある。雪が積もっても解けることはなく、頭をちょっと降れば雪が落ちてくる。手袋はニット帽と同じ素材でできていて、暖かいのに薄く動かしやすいのが特徴だ。これならば雪山での作業を邪魔しない。下に履いているのはダウンコートと同じ素材からできているズボンで、雪をかき分けて歩いてもくっついてこない優れものである。靴は滑りにくいように鋲がついていて、雪が解けて凍った地面を歩いても安心だった。
三人は万全の装備だけでなく、もう一つ秘密道具を持っていた。それが懐に入れたカイロである。これは金属製の入れ物の中に燃やした炭を入れたもので、暖かさが持続する。いざという時は中身を取り出して火種にすることもできる。毛皮を持たない人間はこれがあるとないとでは雪山での動きやすさが違う、と店の者に聞いて新たに買い求めたものだった。
三人は街を離れて歩き出す。目指す先は火山だ。
「今回取るのは火山灰だからね」
とテンがハクに説明した。
「灰ならなんでもいいといえばいいんだけど、ここのものが一番質がいいんだ。火を邪魔しない」
「ここから山まで歩いていくんですか?」
少々うんざりしたようにハクが聞いた。
「まさか。そんなことしたら途中で遭難して死んじゃうよ。俺とヒガンは困らないけど、ハクが困るでしょ? だから、そりを使うよ」
テンは、雪をかき分けて作られた道を進み、分かれ道となっている場所を左に折れた。その道の先には建物があり、灯りをともしている。
ここは雪道を行くときに使用できるそりの案内所であるということで、テンが一つを予約した。待っていると呼び出しがある。
そりは獣人が引いていくもののようで、三人並んで席に着く。
「どこまでで?」
「火山灰が一番多い山を知らない?」
「火山灰? だったら、アレウス山かもしれないですね。一番新しく噴火したのがそこなんで」
「じゃあそこでお願い」
「しっかり掴まっててくださいよ」
獣人が言うとそりは動き出した。慣性が働いてぐん、と体に力がかかる。
そりはほれぼれするほどのスピードで走っていく。そりを引く獣人は犬のような見た目をしていて、駆ける足取りに迷いはない。力強く疾走し、雪道を走っていく。
どんどんと景色が変わる。木々が近づいてきたと思ったら後ろに流れていく。ぐうんぐうんと体を左右に揺られながら曲がっていく。
いくつもの山を通り過ぎた。雪に覆われた大地からは急峻な山がいくつも飛び出していて、それらは皆大地と同じように雪をかぶっている。山の山頂にはオーロラの裾が触れていて、山全体を緑に照らし出していた。
そりはぐんぐん進む。獣人の足はちっとも衰えることがない。疲れなど知らないようで、スピードを緩めることなく進んでいく。
やがて止まったのは、とりわけ高い山の麓だった。この辺りは積もった雪が薄くて、剥げた地面にまばらに苔が生えている。苔の色は褪せていて、てかてかとしているところを見ると氷の下にあるようだ。
「ここですよ、お客さん」
獣人がはっはっと息をしながら振り返った。
「この山にご用事が?」
「うん」
「それはどのくらいかかりますか? そんなに時間が掛からないなら待ってましょうか? 迎えを呼ぶにも時間が掛かったら凍えちゃうと思うんで」
「いいの、君はそれで?」
「ええ。大丈夫っすよ。ここらでひとっ走りしてクールダウンさせときます」
お願いすることをテンが告げると、獣人は笑顔で手を振って、木々の間に姿を消した。
「これだけ走り通してまだ走れるなんて、体力はどうなってるんだ……」
ヒガンは思わず呆れてしまう。
「獣人の方ってすごいんですね……」
ハクもまた呆然としていた。
「雪山に強い犬の種族だったみたいだからね。さあ、行こうよ!」
テンが促す。
三人はそりを離れて山へと向かった。
山は背の低い木が生えていて、それらは幹に苔を付けていた。この苔が数少ない日が照る日に太陽光を集め、それ以外の時はオーロラの光を集めて木に栄養を渡し、木のほうは苔に住処を与えているのである。そうやって共生しているものたちだった。
雪山は積もった雪が深いところが多かった。ヒガンとテンが交代して先頭を歩き、体で雪をかき分けて道を作っていく。これがかなり体力を削られる作業だった。
地面が斜面になったくらいのところからは積もる雪が少なくなった。雪のない場所もところどころ現れていて、むき出しになった地面からは湯気が立っている。この下を温かな湯が流れていて、その熱で雪が解けているのだろう。
積もった雪の中には、何かの動物の足跡が残っていることもあった。ほとんどはその上から積もった雪によって輪郭がわからなくなっていて、どんな種類のものかは判断ができない。
「こんな寒いところなのに、動物もいるんですね」
「そうだね。トナカイとかかな」
テンが軽い調子で答えた。
彼らは雪山を登っていく。
しんしんと雪は絶え間なく降り続け、彼らの肩に積もっていく。時折手で払わなくてはならなかった。少し空を見上げて道を確認すれば、風に揺れているようなオーロラを見ることができる。何種類もの緑を混ぜたようなオーロラは不思議な光を放っていて、それに見とれてハクの足が止まることが度々あった。
斜面が急になると、へばりつくように生えている木を手掛かりにして登っていく。靴についている鋲のお陰で、雪の多い斜面でも足を取られたり滑ることがなかった。
木の細い幹に手を掛け、反対の手でそのさらに先の木を掴み、ぐっと体を持ち上げる。一歩登ると後ろに手を差し出してハクをひっぱり上げてやる。ハクは二人よりも背が低いので、木に手が届かないのだ。テンと手分けをしてハクの面倒を見てやりながら進んでいく。
雪がだんだんと薄くなってき始めた。その代わりに凍った地面が広がるようになる。地面からは先程見たものよりも強く湯気が立ち上る箇所もあった。この辺りには温泉が湧いているのだろう。その熱で雪が解けるが、すぐに寒さによって凍ってしまうに違いない。岩などがあって熱が冷めにくい場所には雫が伝っていて、それを浴びたのか、すぐ下の苔が生き生きとしたエメラルドグリーンに輝いていた。
斜面が少し緩やかになる。山が抉れたようになっていて、変質した岩が多い地帯にやってきた。
「そろそろ、この辺りかな」
テンが足を止めて腰に手を当てる。と思ったら眼の上に手を翳し、辺りをきょろきょろと見回した。
「どこか、風が吹いていなさそうなところはない?」
「風の吹いていなさそうなところ? あっそうか、そこに火山灰が溜まっているんですね」
「そうそう。窪みとかがあるといいんだけど」
三人は辺りをきょろきょろと見回した。あっとハクが声を上げる。
「あそこなんかはどうですか?」
「ああ、いいかもしれない」
ハクが指さした場所に行く。地面が抉れて岩が風よけになった土地だった。人が三人は入れるほどの広さがあって、隅のほうに緑色をした粉が散らばっている。
「あったよ」
その粉が火山灰だった。地下で作られた鉱石が噴出の際に粉々になって混じっているので、光を反射させるペリドットそのものの色になっているのである。
ヒガンたちはその場にしゃがみ込み、火山灰を拾い集めては袋に詰めた。
三人で作業をすれば、あっという間に必要量が集まった。
「さて、じゃあ戻ろうか」
袋を担いでテンが言う。自分たちの足跡を辿りながら元来た道を戻り始めた。
斜面を今度は滑り落ちないように気をつけながら下っていく。そうしているうちに、自分たちの足跡に何か別のものが混ざっているのに気がついた。
「あれはなんですか? トナカイ?」
くっきりと残ったものを指さしてハクが尋ねる。ヒガンはそれに近寄ってみた。まだできて新しいそれは、深く雪の中に跡を残している。蹄の形がくっきりとわかる。かなり体の大きいもののようだ。
「テン、どうだ?」
「トナカイっぽいよ」
「本当かな……」
ヒガンは疑うような眼を向けた。
その足跡はどこからかやってきて、ヒガンたちの後を追っていた。また途中で途切れてしまっている。
「たまたま道が一緒になったのかもな」
トナカイに会えなくてちょっと残念そうなハクに、ヒガンはそう声を掛けた。
トナカイらしき足跡を超えてヒガンたちは先に進む。急な斜面を、地面から突き出している岩に気をつけながら滑り降りた。
ずささっと音を立てて、雪と一緒にハクが下りてくる。ヒガンはその体を受け止めた。
「あ」
「どうした」
「トナカイがいました!」
ハクが弾んだ声を上げた。
「どこだ?」
「あっちの木立の奥に!」
ハクが背後を指さす。ヒガンは振り返った。眼を細めて木立の中を見てみる。さっと何かの姿が横切ったような気がした。
「ほら、見えました?」
興奮してハクが言う。
「ああ、確かに何かいたな」
「近寄ってきてくれるでしょうか?」
「どうだかな」
なんとなくじっと待ってみる。また何かの姿が見えた。先程よりも近い。ハクが押し殺した声で歓声を上げている。
やがてそれは姿を現した。
トナカイのような体格をしたそれは、大きな角を聳えさせて頭を上げている。凛々しい立ち姿だった。体は深い苔色をしていて、角は真珠のような輝きを放っている。
「あれトナカイじゃないよ、一角獣だ!」
と、興奮した声を上げたのはテンだった。
「珍しいな、姿を見せるなんて」
一角獣は悠然とした態度でこちらを見つめている。と思うと、ものすごいスピードで駆けよってきた。角を突き出してテンを狙う。
「うわッ」
テンが慌ててそれを避けた。一角獣は木にぶつかって止まる。木から積もった雪がずさっと落ちた。
ヒガンはハクを後ろ手に庇い、腰を低くした。テンが剣を抜く。
「なんかこいつ、怒ってないか?」
「怒ってる! 縄張りに侵入しちゃったみたい!」
「どうするんだ」
「逃げてもらうしかないよ。逃げきれないもん、このスピード。わっ」
どっと地面を蹴って一角獣がテンを襲った。テンはまたすんでのところで避ける。一角獣は器用にも方向転換すると、スピードを緩めることなくテンに狙いを定める。
「なんで俺ばっかり?」
「テン、おい、その袋が狙われてないか?」
「え?」
一角獣の視線を辿れば、テンが担いでいる火山灰を入れた袋がある。
「これ、一角獣には大切なものなのかな?」
「そうかもな」
「じゃあ、えい」
テンは袋を放り投げた。一瞬一角獣の視線が逸れる。だが、すぐにテンに戻ってきてしまう。
「やっぱり俺を狙ってるよ?」
「盗人だと思われたんじゃないか? 実際一角獣からしたらそうなんだろうが」
「うーん、どうしよう」
一角獣がテンに突進した。テンはひらりと躱す。地面を蹴って木の上に退散した。テンの重みで雪が落ち、一角獣に降り注ぐ。一角獣は頭を振ってそれを振り払った。
テンが一角獣に飛び掛かる。抜いた剣を角に見立てて一角獣に攻撃する。一角獣の角が剣を弾いた。きいんと硬い音がする。
テンが首を竦めた。
「すっごい硬い。これ切れ味はどうなのかな?」
一角獣は頭を振り乱し、テンの刃を受け止める。それだけでなく、急発進と急停止を繰り返し、テンを翻弄している。テンはひらひらと宙を飛んで躱しながら剣を繰り出す。一角獣がテンに集中している間に、ヒガンはハクから離れて火山灰の袋を回収しに行った。落としたままでは一角獣に踏まれて袋が破れ、中身がこぼれてしまいそうだと思ったのだ。
一角獣の動きに注意しながら袋を手繰り寄せる。こそりと音がして、一角獣が振り向いた。
「!」
一角獣が今度はヒガンに眼をつけた。
「お前の相手はこっちだよ」
テンがひらりと飛び掛かる。一角獣がそれを受け止める。ヒガンは袋を安全そうな木の下に放り投げると駆け出した。
一角獣はテンの相手に忙しそうだ。
「ハク、お前はそこから動くなよ」
ヒガンはハクに向かって叫ぶ。ハクが木にしがみついてこくこくと頷いた。
ヒガンもまた雪の少ない木を盾にして一角獣とテンの様子を見守る。
テンは宙を飛ぶような戦い方を続けていた。一角獣が繰り出す角にも怯えた様子がなくむしろ突っ込んでいく。だいぶ命知らずな戦い方だ。それがテンの癖なのだ。死んでも大怪我をしても元通りになるのだから、怪我を恐れずに相手に飛び込んでいくのである。
だが、今回はその戦い方が裏目に出た。
テンが一度引いたところを狙って一角獣が突進した。
「ありゃ?」
間抜けな声を上げて、テンが体を傾けた。
いや、違う。
テンの体が腰の辺りから傾いた。彼の胴体は上半身と下半身とにすっぱり分かれてしまっていたのである。
恐ろしい切れ味だった。
「テン!」
どさっとテンの体が雪の中に落ちた。背後からハクの悲鳴が上がる。テンの体からぼうっと炎が噴き出した。
一角獣は燃えているテンに興味を示さず、次はヒガンに狙いをつけた。ヒガンが木の後ろから逃げ出した瞬間、そこを過たずに攻撃してくる。
どんっと衝撃。一角獣の角がヒガンの胸を貫いていた。
ハクの悲鳴が遠くから聞えた。角が胸から抜け、ヒガンの体が雪の中に倒れ込む。眼の前を炎が覆った。一瞬気が遠くなる。
きん、と硬い音にはっとすれば、復活したテンが一角獣を相手にしているところだった。まだ炎を纏ったままで完全に復活しきってはいなかったが、動けるので攻撃を仕掛けた、というところだろう。
「うわ、体がずれてくっついちゃいそう」
そんな暢気なことを口にしているのが聞こえる。
テンは一角獣を跳ね除けるとヒガンの元に駆け寄ってきた。
「ヒガンの炎は時間が掛かるから」
そういってヒガンの傷口に身を屈めて口を寄せる。ヒガンを取り囲む炎が強まった。雪を解かしはしないその炎がヒガンの傷口をみるみる塞いでいくのがわかる。
「俺たちじゃ相手にできないね」
テンは立ち上がり、剣を捨てて一角獣に駆け寄った。
「わあッ!」
一角獣の耳元で叫ぶ。一角獣が驚いて飛び上がり、一目散に逃げていった。
ヒガンの炎が収まり、立てるようになる。
「大丈夫?」
「ああ。お前は?」
「俺も平気」
ヒガンはハクを振り返った。ハクは青い顔をして震えている。
「怖かったか。悪いな。だが、見ての通り問題はないぞ」
ヒガンは、すっかり元通りになった自分の体を示した。ハクが僅かに体から力を抜く。
「あの、ヒガンさん」
おずおずとハクが言った。
「なんだ?」
「その髪は……」
「髪?」
首を傾げると、何かがさらりと頬を撫で、視界を遮った。頭に手をやる。どういうわけだか髪が伸びていた。腰に掛かるくらいの長さになっている。
「なんだ、これは?」
「ありゃ? おかしいな?」
剣を回収したテンが首を傾げた。
「回復させすぎちゃったみたい。いつも通りにやったのにな?」
どうやら、復活する際の力が強すぎたせいで髪が伸びてしまったということらしい。ヒガンはテンに手を差し出した。
「なあに?」
「貸せ」
「剣? 何に使うの?」
「切るに決まってるだろ、髪を」
「えっ切っちゃうの?」
テンが残念そうな声を上げる。ヒガンはテンから剣をむしり取った。長く伸びた髪を一つかみにして根元に剣を当てる。そのまま一切の躊躇いなく、剣に力を込めた。ぶちぶちと手のひらに髪が千切れる触感がして、剣がすぱっと通り抜ける。頭が軽くなった。切れた短い毛先が辺りに飛び散った。
手の中に残った髪を見下ろしながら、ヒガンは剣をテンに押し付ける。
「あー、もったいなーい」
テンが心の底からがっかりしたような声を出した。
「せっかく綺麗だったのに。髪の白いところが伸びてくるんてしてて。彼岸花みたいで可愛かったのに」
「邪魔なだけだろう。しかし困ったな」
掴んだ髪をどうするべきか悩み、とりあえずポケットに突っ込んだ。ここに置いていくと発見された際に何らかの事件だと騒ぎになりかねない。
落ちていた火山灰の袋を担ぎ上げ、ヒガンはテンとハクを見る。
「さあ、戻るぞ」
山を降りきれば、そりが待っていた。獣人は帰ってくるヒガンたちの足音を聞きつけていたのか、既に準備をしていた。
「お帰りなさい。あれ、なんか雰囲気変わりました?」
「いや、別に」
そう誤魔化し、そりに乗る。
「そうそう、待っている間、変な生き物が通って行ったんですよ。ものすごい速さで全然追いつけなくて、それどころか姿もはっきり見えなくて。あれ、なんだったのかなー」
そういう獣人に、ヒガンたちは曖昧に返事をした。
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