シキの国
兎霜ふう
第1話 狭間のミドル
ヒガンの平穏で平凡で平坦な日々は、この日を境に崩れ去った。
「ヒガン! ねぇねぇ! 面白いもん拾った!」
二階の窓を開け放つと同時に明るい声が飛び込んでくる。ヒガンは思い切り顔を顰めた。高めの男の声が頭に響いた。額に手を添えて項垂れ、窓の外に向かっていつもよりも低い声で言い放った。
「テン、うるさい。こっちは寝起き」
「俺も寝起きだよ! あ、起きたのもう一時間も前だ」
階下にて悪びれたところもなくのたまう彼はテンという。ヒガンが営む宿屋の用心棒、ということになってはいるが、全くと言っていいほど仕事をしない居候である。
ヒガンは窓から身を乗り出し、宿の外の道を見た。宿の一階部分の屋根には、いつの間にか溜まった砂を足掛かりにして苔が生え、そこから短い草が茂っている。そのせいで視界は遮られ、テンの能天気な笑顔しか見えない。拾ってきたという言葉から彼が何かを持っていると思ったのだが、それらしきものは視界には映らない。ヒガンはそれでも、他に何か見えないかと視線を動かした。
ヒガンが眼を覚ましたのは十分ほど前のことである。そして、雨が止み、日が出たのはおよそ五分前のことだ。窓から入ってくる空気には湿ったものがあり、見下ろす街並みには薄暗い闇が蔓延る場所もある。海から吹いてくる風で払いきれていない朝靄が、広がる空と連なる屋根で構成される風景を紫がかったものにしていた。
街の気配はひっそりとしている。住民たちはまだ眠っている頃だろう。宿屋は街の中心地から外れた、海を見下ろすことのできる斜面の途中にあるものの、外で騒いでいるのが迷惑なことに変わりない。
ヒガンはテンに視線を戻した。
「とにかく入れ。靴の泥を落とすのを忘れるなよ」
「うん! りょーかい」
元気な返事。見下ろすテンの姿が消えた。ヒガンは一つため息を吐いて、窓から身を引いた。テンはいつもこんなふうに、厄介ごとを引き込んでくる。
薄手の寝間着から着替え、藍で染めた綿のシャツ、黒のズボンを身につける。頭に手をやり、髪紐で手早く髪を括った。
肩につくかどうかといったほどに伸びたヒガンの髪は青い。だが、そのほとんどは光のもとでないと黒く見えるほどに濃く、表面の一房だけが明るいツユクサ色をしている。癖のある、飛び跳ねたような毛先は色が抜けて真っ白で、この辺りではあまり見ない髪色になっていた。
ヒガンはシャツの袖を捲ると部屋を出た。部屋のドアは、長身のヒガンだと少し身を屈めなければ頭がぶつかってしまう。ここは宿屋の片隅にある従業員用の部屋なので、作りも簡素で狭いのである。
この日は宿の真ん中にある階段を使って下に降りた。普段は宿泊客と鉢合わせることを避けるために使わない階段だが、今客はいなかった。〝凪〟の時期が終わり、〝時化〟がやってくるこの季節に、『ミドル』に留まる人間は少ない。港町でもあり宿場街でもあるミドルの住民だけがぽつぽつと残る、寂しい季節なのだ。
「ヒーガーンー! 早くー!」
「早くってお前な……」
テンの声が三階建ての宿屋に響いた。いつもなら駆け寄ってくるのに、今日はなぜか宿屋のエントランス兼食堂で待っているらしい。こんなに行儀の良いテンは滅多に見れない。腹の中で虫が身動ぎしたようなざわめきが体を駆け巡った。嫌な予感がする。
「で? 拾ったって、一体何を」
階段を降り切って角を曲がり、テンと対峙する。
テンはヒガンよりも若い見た目をしていて、十代後半から二十代前半といったほどの青年だ。ヒガンとは対照的に光のように真っ白な、短い髪を持つ。それが今、ドアから射し込む朝日を浴びてほんのりと虹色に輝いている。容貌からは儚げな要素が見て取れるのに、彼が放つ雰囲気は『儚い』とはかけ離れていた。ただ立っているだけなのに、どこかうるさい印象を受ける。それは、忙しなく足を踏み替えたり、体を揺らしたりしていることが原因だろう。
テンが身につけているのはヒガンと似た形のシャツにズボンだった。違うところとして、革の胸当てと小手を装着し、腰には短めの剣を佩いている。焦茶の革のブーツはそれなりに綺麗に磨かれていて、どうやらヒガンの言いつけを守ってきちんと泥を落としたようだった。
ヒガンと顔を合わせると、テンは髪と同じく色の薄い瞳を丸くし、顔を輝かせた。興奮しているのか、鮮やかな青の瞳孔が開き気味になり、色白の頬が内側から紅く染まっている。
「これこれー」
テンはくいっと顎を動かし、体をひねって、自身の背中を示してみせた。荷物のようなものの影が動く。
「お前……それ……」
ヒガンは絶句した。
ニコニコと笑うテンの背中、そこにおぶさった者がいた。
ひょろりとした頼りない腕、まだ小さな背中。艶のある髪は白みの強い藍色とでも言おうか。藍にしては色褪せていて縹色にしては深みがある。髪は綺麗に切り揃えられていたが、今は濡れた肌に張り付いている。彼は額をテンの肩に押しつけるように項垂れていて、頸の骨がくっきりと浮き上がっていた。その姿勢のまま身動きしない。意識がないことはひとめでわかった。
眼を見開いて何も言えないでいるヒガンに向けて、テンがあっけらかんと言い放った。
「男の子、見つけたから拾ってきた」
数秒の沈黙ののち、ヒガンは口を開く。
「テン、お前な、獣の子じゃないんだから、拾うだなんて」
「拾ったんだよ、落ちてたんだよー。本当だってば」
ヒガンの言葉を遮ってテンが唇を尖らせた。
「〝落ちて〟た、だって? 一体どこに」
ヒガンは眼を細め、鋭い光を浮かべてテンを見据えた。この街では子どもを外に捨てるようなことはしない。子どものほうでも、外で夜を明かすことはしないから迷子というわけでもない。
テンは少年をずらさないようにか慎重に、しかし大袈裟にひょいっと肩を竦めてみせた。
「崖の灯台」
ヒガンは脳内で街の地図を広げた。
「……てことは、まさか〈シティ〉から迷い込んできたってのか?」
「多分そう」
テンの答えはあっさりしたものだ。ヒガンはこめかみを手で押さえた。なんだか頭痛がしてきた気がする。もう早くもベッドに戻りたい気分だ。そうして、一日の始まりをやり直したい。
テンの言った崖の灯台とは、ミドルの端とも言える場所だ。そこではたまに、街の住民以外の姿が発見される。たまに、といってもそう言われているだけで、街の住民以外の姿を見たという話はここ百年あまりは聞いたことがない。
その灯台に落ちていたのだとすれば、少年は百年以上ぶりの外からの来訪者、或いは遭難者というわけである。
「元の場所に返すにも、意識がないのを置いておくにはな」
ヒガンは困ったように少年を見る。少年は雨よけのないところにいたのだろう。朝の雨に打たれて濡れているから、このままでは風邪を引いてしまう。こうなったら致し方ない。
ヒガンはテンを連れ、空いている客室の一つに向かった。簡単にベッドを整えるとヒガンの意図を察してテンが少年を下ろす。乾いたタオルで体を拭ってやっていると、少年が呻き声を上げた。ヒガンは手を止める。
「起きるかな?」
わくわくとした様子でテンが少年の顔を覗き込む。ヒガンもまた様子を窺った。
「ううん」
呻いて少年が眼を開けた。ぼうっとした、焦点の合わない顔をしている。しばらくその状態で視線が宙を彷徨っていたが、急に覚醒して飛び起きた。迫り来る少年の頭を、ヒガンとテンは軽く躱す。
「あれ、僕」
きょろきょろと辺りを見回して、少年は呟いた。それからはっと眼を見開く。
「うわぁっ、ここっどこっ! ていうか誰……っ!」
ヒガンとテンを見て、びっくりしたように肩を震わせた。少年は混乱している。それがありありとわかる。頭に口がついていかないというような言葉の詰まり方だ。
ヒガンはタオルを小脇に挟み、両手を挙げて少年を宥める体勢を取った。
「まあ落ち着け。深呼吸しろ。息を吸って」
少年はヒガンに言われた通りに呼吸をする。どうやら素直な性格らしい。隣を見れば、テンもなぜか一緒になって深呼吸をしていた。
「お前は必要ないだろ。……少し落ち着いたか?」
ヒガンは少年に声を掛けた。ヒガンの声は抑揚が少なく、笑顔を浮かべないのも相まってぶっきらぼうに聞こえる。それで少年は少し怯えたように身を縮めたが、それでも頷いた。
「はい。あの、ここは?」
「俺の宿屋だ。お前にはいろいろと訊きたいこともあるし、お前だって状況を知りたいだろうが、その前に風呂と着替えだ。シャワー室に案内してやるから、起きれるようならついてこい」
「は、はい」
「テン、まだ深呼吸してないで手伝え。着替えの場所、わかるな?」
「うん。持ってくればいいの?」
「一揃いな。上下片方だけ、とかするんじゃないぞ」
「気をつける」
ヒガンは少年を連れて部屋を出た。宿の一階奥には客用のシャワー室がある。狭いが個別に仕切りがつけられ、掃除が行き届いている。栓をひねればすぐに温かな湯が出てくるのが自慢だ。少年にシャンプーなどの説明をし、個室に押し込んだ。テンが持ってきた着替えを前に置いておく。
少年はシャワーを浴び終え、髪を乾かして出てきた。雨に濡れていた状態では捨てられた子猫のようにみすぼらしい印象だったが、こうして見ると整った容姿をしている。温まったからか頬が上気し、健康そうな肌色に見せていた。
「濡れてた服は洗濯してやる。貸せ」
「お、お願いします」
差し出された衣服を受け取り、洗濯室に置いておく。それから、ヒガン、テン、少年の三人は、他に人のいない食堂の席に座った。ヒガンとテンが並び、その前に少年がいる。面接でもするかのような構図だ。
少年は緊張した様子でぴんと背中を伸ばしている。と、ぴょこん、という音が聞こえるような動きで頭を下げた。
「助けていただいたようで、ありがとうございました!」
その言葉と同時に、少年の腹が鳴った。少年は咄嗟に手を腹に当て、恥ずかしそうに俯く。ヒガンは立ち上がり、パンをレーズンのジャムを持ってきた。
「とりあえず、腹ごしらえしてからだな」
「あ、俺も食べていい?」
「お前、今朝も勝手に取っていってただろうが」
「あれは朝のおやつ。ごはんはまだ」
「ったく」
ヒガンがため息をつくと、テンが嬉々としてパンに手を伸ばした。こんもりとたっぷりのジャムを乗せる。それを見て、少年も遠慮しいしい手を差し出す。ヒガンは彼にスプーンを渡してやった。
彼らの食事を見守っている間に太陽が海から大きく顔を出し始めたようだ。温かく柔らかな光が指し込み、食堂の床を照らし出す。
「ごちそうさまでした!」
持ってきたパンは楕円形をしていて片手に余るほどの大きさのものだ。それを籠に山盛りに盛っていたのだが、少年とテンは手分けしてぺろりと全てを平らげてしまった。
「ねえ、食後のお茶は?」
屈託のない顔でテンが言う。ヒガンはため息をつきながらもお茶の用意をしてやった。あまり色も味も出ない安物の紅茶を淹れ、砂糖を小さじ一。さらにミルクを入れる。味がうんと薄くなり、微かに風味が感じられる程度だが、パンでかさついた喉を潤すにはちょうどいいだろう。マグカップになみなみと注がれた紅茶を、少年はふうふう吹き冷ましながら飲んでいた。テンはビールジョッキを傾けるが如く豪快にいっていて、少年の所作との差が激しい。
「落ち着いたか?」
少年がマグカップを置いて息を吐いたのを見計らい、ヒガンは声を掛けた。
「はい。ありがとうございます。ごはんまで」
ヒガンはさっと手を振った。
「いい。それより、なんだって灯台にいたんだ?」
本題に入ることにする。少年は僅かに顔を曇らせた。ヒガンらに言っていいものかと悩んでいるようだ。少年からしてみれば、目覚めたら知らない人間に見知らぬ場所にまで連れてこられていたのだ。警戒するのも無理はない。だが、その警戒を解いてもらわなければ話が進まない。
「別に怪しい者じゃない。俺はヒガン。この宿屋の店主をしている。それでこっちは」
「テン! ここの用心棒!」
「のわりには働いていないがな」
「だってごろつきなんかいないんだもん」
「二人とも、このミドルに住んでいる。このテンが、灯台に落ちていたお前を拾った。テンの言葉を信じるんならな」
「本当だってば。ヒガンはすぐそうやって俺を疑うんだから。灯台の、岩のところに引っかかってたんだよ」
「灯台? 引っかかってた? あ、僕はハクランと言います。ハクって呼んでください。みんなそう呼ぶので。それであの、灯台って?」
少年──ハクがおずおずと尋ねた。
「灯台なんて知りません。そんなものがあるんですか? 僕はただゲートを越えて、それで……」
その言葉にヒガンは一人頷いた。
「〈シティ〉の人間だってのは確かなようだな」
聞き慣れない言葉だったのか、ハクが眉を寄せて首を傾げる。
「〈シティ〉?」
「お前が住んでいたのは、円形に広がるビル群がある町だろう」
ヒガンが言えば、ハクは頷いた。
「そうです。〈シティ〉って呼ばれているんですか? 町に名前があるなんて、思いもしなかった」
「なんも知らないみたい、ハクは」
頬杖をついてだらけた体勢のテンが言う。ヒガンはそれを窘めた。
「普通そうだろう。ミドルの連中でも灯台の先を知らないし、〈シティ〉育ちならなおさらだ」
「ミドル、というのも初めて聞きます。それが、ここの名前なんですか? 地図にはない、町なんですか?」
ハクがなにやら興奮し出した。先ほどよりも僅かに身を乗り出している。ヒガンは腕を組んだ。どう説明するか、頭を悩ませる。
この辺りの地形は少々複雑だった。
ミドルは斜面が続く町である。その辿り着く先はもちろん海だ。二枚貝の形のように扇形に広がっていく土地は、太古に流れていた河川が途絶えてできた扇状地とも似ている。だが実際のところ、歴史はまったく異なっている。
削られたのではなく、隆起した。海底だった部分が地殻変動で水上に姿を現した。その後、度重なる天変地異によって端から崩れていき、町の左右には切り立った崖ができた。なだらかに厚みが変化するケーキを切り分けてぽんと海の上に置いた、そんな形をしている土地なのである。
扇の要にあたる部分と斜面の中腹にひとびとは住んでいる。要と中腹と、二箇所に町があるわけだ。要部分は〈シティ〉と呼ばれている。
だが、それを知る者は案外少ない。これらの町は『ゲート』によって完全に区切られていることがその理由だ。
〈シティ〉は円形をした造りの街で、周囲をゲートと呼ばれる壁が取り囲んでいる。壁といっても実際に眼に見えるものではない。触ることもできない。特別な技術を用いて作られた防御壁である。どんな攻撃でも跳ね返す鉄壁の素材は、本来の用途とは違って、外と中を断絶するために使われている。
世界の真実を〈シティ〉の住民に知らせないために。
〈シティ〉市民はその街以外の存在を伝えられずに育ち、ミドルのひとびとも別の町を知ることなく過ごす。どちらも人口がそう多いわけではないから、生活に必要な産業は自給自足で成り立っている。そのために〈シティ〉の生活は〈シティ〉内で完結し、ミドルもまたミドルだけで存在している。
〈シティ〉とミドル、そしてそれ以外の土地がどうなっているかを知っているのは、〈シティ〉の中に住む政治家の一部のみに限られる。ヒガンやテンはごくごく珍しい例外だ。大衆を相手に真実を明らかにすることは暗黙のうちに禁止されている。とはいえ、ハクに伝えるべきことは伝えないと、彼を家に帰すこともできない。
「……ここはミドル。洋の東西が交錯する、世界の高低の中央地。世界と世界の接点。この島の中腹にある町だ」
ヒガンはコップに水を汲むと指をつけ、テーブルの上に濡れた指で簡単な地図を記した。木製のテーブルに濃い茶色の染みが線を連ねていく。
「ハクがいた〈シティ〉はここ、ミドルはここ。あとは海が広がってる」
ハクは興味深そうに、テーブルにできていく地図を見守る。
「〈シティ〉を囲むゲートがこれだ。ゲートについては知っているようだな。ゲートの見た目は?」
「線です、ただの。地面に引かれた青と赤と白の線。みんな、線を跨ぐことなんてできないって言ってました。やろうとしても何かに足がぶつかるって。でも、僕はゲートを乗り越えて……」
「あぁ。お前はゲートを越えてしまった。〈シティ〉を取り囲むゲートは、誰も何も通さない。人間はもちろん、草木や動物なんかも阻まれる。風景も捻じ曲げられる。まともに通れるのは風や雨だけ。だが、万全のシステムじゃあない。何らかのバグをハクは踏んだんだろう」
「バグ」
「ゲートは所詮、旧時代の技術の有り合わせだ。突貫工事で作った割にはうまく働いている変異物だ。これまでバグが起きなかったほうが不思議なくらいなんだがな」
「ヒガン」
テンが遮った。
「喋りすぎ」
変わらぬ飄々とした表情の中、戒めるような色が瞳に兆す。ヒガンは口を閉じた。このやり取りをハクが不思議そうに見ている。
ヒガンは咳払いをした。
「とにかく、ゲートを越えることができてしまったお前は、ミドルの端、終わりである灯台へ出た」
「そう言えば、ゲートを越えた時に衝撃があって、その後景色が変わりました。何か大きな建物があったような……。それが灯台なんですか? 灯台って、船の目印になるという、あの?」
「そうだよー。灯台はゲートの側にある。岩が剣みたいに尖った場所。ミドルの人はぜーったい行かない灯台! だってそこは、高いところから落ちたら串刺しになっちゃいそうな岩石地帯! その岩の先っちょに、ハクは引っ掛かってたんだよ」
ケラケラと明るい笑みと共にテンが語った。ハクは風景を想像したのか、顔を青ざめさせている。テンが追い打ちをかけた。
「ちょっと落ちる場所がズレてたら、君は今頃グチャグチャの肉塊! 運がいいんだね!」
「テン、怯えさせるなよ」
「生きてるんだから、死に掛けたことなんてどうでもいいのにー。でも、怖くさせちゃったならごめんね?」
テンはよくわかっていない顔をこてんと傾け、謝った。ハクはまだ青白い顔をしている。
「で、だ。状況把握は済んだな?」
「は、はい」
「今まで、〈シティ〉からミドルへ迷い込んできたという人間の話は少ない。〈シティ〉とミドルの接点はほぼない。だが、〈シティ〉と連絡が取れないわけじゃない。窓口は一応存在しているし、俺はそれを知っている。だからすぐにでもハクを帰して」
「ダメです!」
ばん! とテーブルに手のひらを叩きつけ、迫力満点にハクが立ち上がった。
「帰るだなんてとんでもない! せっかく〈シティ〉から出られたのに! しかも〈シティ〉のすぐ外が海だったなんて! 灯台があるんなら船だってあるんでしょう? だったら僕は船に乗らなくちゃ!」
ハクは眼を輝かせていた。それを見てヒガンは顔を顰める。時化の予兆のような、耳がきーんとして空気の冷たさがやけに肌を指す、あの独特の感じがする。これは、一般的に言うならば『嫌な予感』というやつだ。テンがハクを連れてきた時から薄々感じていたものだったが、それがさらに大きくなっていた。
「ハク。お前は自分の意思で、〈シティ〉を出てきたんだな?」
確かめるようにヒガンが問えば、ハクはぶんぶんと大きく首を縦に振った。首がもげてしまいそうな勢いだ。
「はい! 僕は外の世界に憧れていたんです! 生まれ育った──〈シティ〉と呼ばれる街の外に。この世界には海があるって、本で読んだんです。海の先には他の大陸というものがあるって。だから、僕はそれを確かめたくて──」
「無理だな」
「無理だね」
ハクの言葉をヒガンとテンは遮った。ヒガンは冷え冷えとした、テンのものは変わらず飄々とした声だった。
「え」
ハクが気圧されて瞬きをする。
「無理だ。お前の望みは叶わないよ」
「なんでですか!」
ヒガンの言葉にハクは憤った。声を荒げ、拳を振る。
「もしかして、もう誰かが外の世界を発見しているんですか? ここに船があるならおかしくない。でも、僕はそれを知らなかった! なら真実を隠している人たちがいるはずだ。真実を隠すなんて、そんなこと許せない! 僕は閉じ込められた街だけじゃなく、世界の本当の姿を知りたくて──」
ハクの言葉の途中で地面が揺れた。びりびりとした細かな振動。日頃から慣れている者にとってはどうということもないほどのものだったけれど、ハクは異変を感じ取ったようだった。
「なんですか、これ? 地震っていうのがあるんですよね? まさか、それ?」
「地震を体験したことがない……つまり、ゲートは地震すらも遮断するのか。大したもんだ。いや、地震じゃない」
「じゃあ?」
「ヒガン。ちょっと行ってくるよ」
「応援が必要そうなのか?」
「うん。時化前だからね、気が立ってる」
テンがいきなり立ち上がり、宿を出ていった。背中を見送るヒガンをハクが見上げる。
「テンさんはどこへ?」
ヒガンはこれには答えなかった。
「ちょうどいい。……ハク。世界の真実を知りたいと言ったな」
「はい」
「じゃあ、見に行くか」
「えっ?」
「真実とやらを見てみるかと訊いているんだ。それがどんなものでも、受け入れる覚悟はあるな?」
「は、はい」
ヒガンの言葉に困惑しながらも、ハクは頷いた。それを受け、ヒガンは黙って立ち上がる。ハクを手招き、宿を出た。
向かう先は斜面の上、灯台の方向だ。足早に進み、しばらくすると、地面が迫り出した高台に辿り着いた。大股に進んできたヒガンに追いつこうとハクは小走りだったので、立ち止まった時には肩で荒く息をしている。ヒガンはそんなハクを気に留めず、ぽんと筒状のものを放り投げた。ハクが慌ててそれを受け取る。
「ヒガンさん、これは?」
「双眼鏡だ。ここからなら遮蔽物がなくてよく見える」
ヒガンは自分用の双眼鏡を覗き込み、開けた視界を指差した。
斜面にへばり付くように広がった街並み、朝焼けに照らされた艶やかな屋根の並び。間を曲がりくねって通る道。それは先へ行くに連れて道幅が広くなっていく。
そう大きくもない船着場、接岸した船たち。それを浮かべる海原。サファイアブルーの水が水平線の彼方までを満たしている。上下左右に、予兆もなく揺蕩い、時折色を薄くする。覗いた双眼鏡の視界では、移ろう波間に反射する銀の光までもが見える。
「うわぁ……!」
ハクが歓声を上げた。生まれて初めて見る、切望していた海の姿に興奮している。ヒガンは指差す方向を僅かに変えた。
「いたな。あっちを見てみろ」
ハクがそれに従って体の向きを変えた。
視界に映ったのは、海の上を進む船だった。足場の少ない小型船の甲板には、五つほどの影がある。その中にはテンの姿も見えた。
「テンさん? なんでもうあんなところに? さっき出ていったばかりじゃ」
テンが宿を出ていった時間とヒガンたちが外に出た時間とはそう差はない。だというのにテンは既に町を駆け降りて船に乗っている。その不思議にハクが困惑する。
「いいから。始まるぞ」
ヒガンは注意を促した。ハクが何かを言いかけたところでそれは始まった。
小船の先の海原が動いた。
広げた布を下から突き上げるかのように、水面がぐわりと盛り上がる。鋭利に盛り上がったそれは真ん中から割れた。水飛沫が四方八方に飛び散る。白の泡が視界をいっぱいにする。
泡が皆水面へと戻った時、そこにいたのは山のような生き物だった。体は鱗に覆われている。真ん丸に見開かれた眼は水晶玉のように透き通り、瞬きもせずにじっと一点を見つめる。細い髭が生えていて、重力の法則に逆らいながら風に靡いている。突き出した口には牙があり、波間の泡と同じ白をしていた。胴体は細長い。といっても遠くから見ているからそう感じるだけで、実際にすぐそばで見れば丸太よりも太い体なのだろう。小さな腕が付いていて、鋭い鉤爪を備えている。
それは龍と呼ばれる生き物だった。人間の何倍も大きい、船を一飲みできてしまいそうなほどの大きさの
ヒガンは双眼鏡から顔を離し、ハクの様子を窺った。ハクは口をぽかんと開けている。
双眼鏡に顔を戻す。
龍を前にした船の人々は狼狽えてはいなかった。一人が甲板を蹴って宙に飛び出したのを合図に、残りの人々もまた飛び出ていく。彼らは手にそれぞれ武器を携えていた。
ある者は銃を、ある者は斧を、そしてテンは短めの刀身の剣を握っている。
銃弾が龍の顔に打ち込まれた。龍が怯んだ隙に斧で切り付ける。テンがのたうつ龍の体に飛びついた。鱗を足掛かりにして駆け上がり、剣を閃かせる。ただ宙を切ったようなそれだけの動きなのに、一拍遅れて龍の首から血がぷつりと染み出した。
テンが龍の後頭部を蹴る。ずるりと龍の首がずれ、海へと落ちていった。首が水飛沫を立てる。胴が力を失い、倒れ込んだ。激しい波が発生する。龍が消えた後ろに、オパールのような光のきらめきが見えた。それは渦のようにも靄のようにも思われる。真ん中には影が映り込んでいる。浮かんだ陸地の影だ。それは、このミドルの土地を海から見た時ときっと同じような形をしている。
渦の中心に向かって龍の体ごと海水が注ぎ込む。それにとらわれないよう、テンたちが戻った小船は急いで旋回し、岸を目指した。
「わかったか?」
ヒガンはハクに声を掛けた。ハクの返事はない。
「あれが真実だ。世界のな」
「……」
ハクの体が小刻みに震えていた。ヒガンは言葉を続ける。
「あの化け物、龍がやってきたのは異界。この地球とは異なる世界だ」
「……い、異界…………?」
「ここはミドル。そしてこの島はセントラル。世界と世界の接点。異世界との交点、狭間。地球ではない〝どこか〟を惹きつける土地」
「じゃあ、海の向こうは……」
「全て異界と繋がっている」
「じゃあ! 大陸は!」
「そんなものは存在しない」
ヒガンは冷たく言い放つ。ハクが怯えた眼でヒガンを見上げる。
「存在しなくなった、というべきじゃない?」
空から声が降ってくる。ハクがばっと上を見た。テンがスキップでもするかのように宙を飛び、ヒガンの横に降り立った。ハクの口が驚きにがばっと開く。
「教えちゃうことにしたの? 鑑賞までして」
テンがヒガンに尋ねた。ヒガンは頷く。
「自分の眼で見ないと納得しなさそうだったしな」
「じゃあ、もういいか。大陸は」
テンがハクを見下ろし、変わらぬ口調で言う。
「飲まれて消えたよ、永い年月の間にね」
何も言えないでいるハクに向かって、ヒガンは残酷な真実を告げた。
「世界はとうに滅んだ。この島を残して。──これが、お前の知りたがっていたことの答えだ」
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