【2】「すり減っていく日常の中に」

「久保寺先生……」

海東かいとうさん」


 図書室の扉を開いて、図書室の中にいる久保寺先生に声をかける。

 恐る恐る扉を開く必要なんて、どこにもない。

 誰かに叱られるわけでもないのに、私は図書館に隣接している部屋の扉をゆっくり開ける。

 久保寺先生は私の到着を待ってくれていたかのように、大歓迎という言葉通りの笑みを浮かべてくれた。


「隣の教室、使っていいよ」

「……ありがとうございます」


 図書室の扉を閉め、図書室に隣接している教室に足を運ぶ。


(今日も、来てるかな……)


 恐る恐る扉を開く必要なんて、どこにもない。

 誰かに叱られるわけでもないのに、私は図書室に隣接している部屋の扉を静かに移動させる。


(あ)


 中には図書室仲間の同級生がいて、彼女は広げた弁当に手をつけずに読書に夢中になっていた。


「お疲れ様です、音宮坂おとみやさかさん」

「……海東かいとうさん、お疲れ様」


 私が部屋に入ってきたのを確認すると、音宮坂さんは部屋の奥の席へと移動した。


「気遣ってくれて、ありがとうございます」

「貴重な読書仲間だから、気にしないで……」


 貴重な仲間という響きが嬉しくて、きっと自分の顔は他人から笑われてしまうくらい綻んでいるのかもしれない。


「今日もお邪魔します」

「どうぞ」


 音宮坂書架おとみやさかふみかさんは、私と同い年の女の子。

 窓から差し込む太陽の光が当たって、肩までの長さの柔らかな黒髪は艶やかさを増して輝く。

 スタイリッシュな黒縁眼鏡の向こうには、芯の強さを感じられる大きな瞳。

 同い年には思えない落ち着きを兼ね備えていて、同じ学校の制服を着ているはずなのにどこか違いを感じてしまう。

 月とすっぽんという言葉の意味を噛み締めながら、本に夢中になっている音宮坂さんに視線を注ぐ。


(今日も、かっこいいな)


 持参したお弁当を机の上に広げる。

 けど、お昼ご飯に手をつけることなく、私はお弁当と共に持参した書籍を手に持って読書を再開しようとする。


「最新刊?」


 手にしていた書籍の表紙が視界に入った音宮坂さんが、私に話しかけてくれた。


「はい」

「私、まだ書店に寄れていなくて……」


 感情が表に出ることが少ない音宮坂さんだけど、あからさまにがっかりとした態度をとる。

 普段見ることのできない音宮坂さんの一面を見ることができて嬉しい。


「音宮坂さんも好きですか?」

「中学のときから」

「私もです」


 音宮坂さんに、手にしていた書籍を差し出す。


「どうぞ」

「少しだけ……少し読んだら返すから」

「気にしなくていいですよ」


 音宮坂さんが書籍に夢中になっている姿を、ずっと見ているわけにもいかず。

 昼休みは昼休みらしく、お昼ご飯を食べて午後からの授業に備えなくてはいけない。


(音宮坂さんと一緒にいると、自然と口数が増える……)


 放課後になると、クラスメイトたちは部活に行ったり、遊びに行く約束を交わし合っている。

 私は誰とも話すことなく、自分の席で帰り支度をする毎日。友達と話すクラスメイトを羨ましく思いながらも、見て見ぬふり。


(友達を作ったら、難聴が再発したときに迷惑をかけちゃうから……)


 読書に夢中になる音宮坂さんと、黙々とお弁当を食べ進めていく私。

 言葉が存在しない世界だけど、その静かな時間こそが心地いい。


「今度」

「はい!」


 本に夢中になっていた音宮坂さんに話しかけられると思っていなくて、驚いて大きな声を出してしまった。

 ほとんど笑うことのない音宮坂さんが、私を見て笑っている。


「すみません」


 私に対して失礼にならないように配慮してくれているのか、音宮坂さんは声を抑えながら謝罪の言葉をくれた。

 でも、その笑顔もすぐに消えて、元の寡黙でクールな印象の音宮坂さんへと戻ってしまう。


「驚かせるつもりじゃなくて……このシリーズのアニメ映画化が楽しみだなって話をしたくて」

「あ……ニュースで見ました! 有名な芸能人が声を担当するって」


 アニメーション作品で声優が声を担当しないことに違和感はあるものの、偉い人たちが作品をより良くするために話し合った結果だと言い聞かせる。


「このシリーズを美しいアニメ映像で観られる日が来るなんて、うれしすぎて……でも」

「海東さん?」


 会話に勢いがなくなる。

 音宮坂さんに心配をかけているのは理解していても、希望を語ることができなくなった私は現実を受け入れる。


「難聴の再発が怖くて……映画館は難しそうだなって」


 喜んでいたのも束の間。

 急におとなしくなってしまう。

 それでも、音宮坂さんに落ち込んでいる姿ばかりを見せたくない私は明るく振る舞えるように心がける。


「配信待ちになるから、音宮坂さんと感想を話し合うのは先の話になりそうなのが残念です」


 気にしないフリをして、お弁当を食べ進める。

 なんだか急に味がしなくなって、気にしないフリを続けるのも難しそうだった


「大音量の環境下は、耳に悪い……?」

「ううん、一応は完治しているから大丈夫です。でも……」

「再発の可能性が高い病気、ですよね」

「……はい。病気になる前と同じ生活に戻ることもできるんですけど」


 耳鼻科医院の帰り道。

 交差点に立って、周囲を見渡した日のことを今でも覚えている。


陽咲ひさき?』


 信号が赤でもないのに、立ち止まった私を気にかけてくれた母親。


(音が聞こえづらい世界を生きるのは)


 思考が現実へと戻ってくる。

 視線を音宮坂さんではなく、お弁当や本が置いてある机に向ける。


「怖くて……」


 音宮坂さんの言葉が聴覚に届くと同時に、視線を戻す。


「ごめんなさい、せっかく楽しい話で盛り上がってくれたのに……」

「こっちこそ、配慮が足りなくてごめん……」

「音宮坂さんが謝ることなんて何も……」


 気まずい空気が流れることに焦りを感じる。

 でも、この場の空気を変えるための言葉も話題も、出てこない。


「試写会のチケットがあって……」


 そんな私を気遣うように、音宮坂さんの優しい声が再び聴覚に届く。

 この声を聴くと、安堵の気持ちが生まれてくる。

 それと同時に、音宮坂さんの優しさがありがたくて涙腺が潤んでくる。


「せっかくの劇場アニメ化だから、記念に」


 映画の試写会のチケットを差し出してくる音宮坂さん。


「デジタルの鑑賞券もいいけど、紙の鑑賞券もいいなと思って」


 試写会のチケットを受け取る。


「……音宮坂さん! ありがとうございます」


 試写会のチケットを入手するには、それ相応の苦労が伴う。

 そんな苦労があったにも関わらず、音宮坂さんは私にチケットを譲ることを選んでくれた。


「あー、なんで感謝の気持ちを伝えるのって、ありがとうの5文字しかないんでしょうね……」


 自分の笑顔に感謝の気持ちを乗せてみようと思うけど、上手く笑う自信がない。


「海東さんに喜んでもらえて、良かった」


 ふと顔色を伺った音宮坂さんの口角が少し上がっているような気がして、ありがとうの気持ちが伝わっていることに安堵の気持ちを抱いた。

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