第5話

 外に出ると、風が冷たかった。

 思わず首を竦めると、「クゥ」と声がした。振り返ると、フェリックスがお行儀よく座っている。ついて来たらしい。ネーリは微笑んで、歩いて行った。

 彼の胴にくっつくと、温かい。それに風に当たらなくなった。

「倉庫に戻ろうか。きっと、フレディもイアンも、僕なんかには分からないような、大変な責任を背負ってるんだよね。弱ってる姿も見せられなくて……」

 フェリックスの胴から、温かい熱が頬に伝わってくる。

「君も、フレディが落ち込んでる時は一人にさせてあげるの? それともこうやって寄り添ってあげる?」

 長い首を折り曲げて、フェリックスがこっちを向いた。小首を傾げて来る。

 ネーリは笑って、額に触れてやった。

「……独りじゃないよね。ぼく、……僕の絵が、人にとって、どんな風に感じるかは決められないし分からないけど。確かなことは、一生懸命心を込めて絵は描き上げるってことなんだ。あのスペイン船の絵には、いっぱい心を込めたよ。僕が今、何か言うより、もっとたくさんのものを。だから、今は言葉はいらないよね?」

 クゥ、とフェリックスは応えてくれた。


◇   ◇   ◇


 深夜、薪の倉庫で毛布に包まって、フェリックスに寄り添って寝そべっていると、声を掛けられた。

「ネーリ」

「イアン」

 絵を抱えたイアンが入り口に立っている。ネーリは立ち上がった。

「もう冬に入って来とる。こんなところで開けっ放しで寝たら風邪引くよ」

 彼は、預かっていたネーリの上着を、肩から掛けてくれた。

「フレディにもよく注意される」

 明るい笑顔に、イアンは笑った。

「……。ありがとな。ネーリ」

「え……」

「一人にしてくれて」

 ヘリオドールの瞳が瞬いて、首を振った。

「いいんです。ぼくも……泣く時は一人がいいから」

「……そうなん? てっきり君は……フェルディナントの腕の中で泣くのが好きなのかと」

 もう一度ネーリは慌てるように大きく首を振る。

「フレディは色んな人を支えて、その人たちの為に大変な仕事をしてる。僕が泣いても、すごく心配させるから、そうしたくはないです」

 意外なことを聞いた、という風だったイアンが、入り口に寄り掛かって、笑った。

「それはそうかもしれへんけど。ええんや。他大勢と自分の一番好きなやつの涙の意味は違う。あいつかて、君が泣いてる時に自分の許に来てくれて、腕の中で泣いてくれたら、そら迷惑やとは思わん。『嬉しい』って言うんやで。そういうのは」

 ネーリが、少し頬を色づかせた。

「……そうかな」

 迷惑じゃないといいけど。


「…………あいつが羨ましいわ」


「え?」

 イアンがやって来て、ネーリの体を両腕で抱きしめた。

 スペイン海軍のすごい階級の青年だが、イアンは人懐っこい所があるので、確かに今までも頭を撫でてくれたりたくさんしてもらった。だがその時感じた抱擁は、もっと深い意味があるようにネーリは感じられた。上手く表現出来ないが、だけど、覚えもある。

 遠い昔、時々祖父がこんな風に、不意にネーリを抱きしめた。

 祖父もしょっちゅうネーリを抱き上げたり撫でたり抱きしめたりしてくれる人だったけれど、その時は何かが違うのだ。

 まるで、この世で一番大事なものを実感してるみたいに、そうしてくれた。

言葉にするとそういう感じだけれど、イアンにとって自分はそうではないから、多分彼は今、愛する母国を思い出しているのだ。ネーリはスペイン船を描いた。スペイン艦隊は母国をヴェネト王国から守る為にこの地に来ている。

 海を越えて、愛する者たちの為に。

 きっと彼は今、国に残してきたそういう人たちを抱きしめているのだ、と思った。

 ネーリはそう思って、そっとイアンの背を撫でた。

「はは……」

背を撫でられ、イアンは笑った。

 俺はスペイン艦隊総司令で、あいつらを率いらなければならんのに、ヴェネトの民間人に慰められちゃったよ、と思ったのだ。

 だが、そうしたネーリの優しさには、深く感謝した。

「そうやった。あかんな、このまま素敵な絵どうもありがとうで帰るとこやったわ。あの絵の値段決めとるん?」

「いえあれは……イアンには色々お世話になったからプレゼントしようと」

 ネーリがそんな風に言うと、イアンがギョッとした顔をする。

「あかんあかん! あんな格好いいスペイン艦隊を一生懸命描いてくれたのに金払わへんなんてスペイン艦隊総司令としてのプライドが許さへん。それにそんなこと俺がしたってどこかから伝わったら、芸術を愛するスペイン王妃が激怒してヴェネトまで艦隊率いて出て来よるで。だからあかん! 気持ちは有難いけどこれはタダではもらえへんわ。後日神聖ローマ帝国の連中がびっくりするような金貨を届けさせる」

 金貨? と分かってないように小首を傾げたネーリが可愛くて、イアンは彼の髪をくしゃくしゃとしてから、頬に親愛のキスを落とした。

 その瞬間、シャアアアア~~~~~ッ、という細い鳴き声がする。

 振り返ると、フェリックスがネーリの聞いたことのない声で鳴いていた。

 彼は驚いたが、イアンは軽く笑っている。

「怒ってんな。ほんまに君に懐いとる。君に無礼を働く奴は、絶対に許さへんねや。主に似て、騎士道精神の堅いやっちゃな。まあ騎士も、たまには悪くないわ。けどネーリ。神聖ローマ帝国なんぞ、皇帝から末端の兵まで堅苦しいのが美学みたいな連中が揃って、守られるのはともかく、恋人にすんのは絶対鬱陶しいで。人間もお国柄も明るいのが一番や」

 片目を瞑って、イアンはネーリの体を放した。

 フェリックスがもう一度攻撃的な鳴き声をして、倉庫の中で翼を広げ、尾を苛立つように払った。重ねていた奥の薪に当たって、崩れる。

「わっ! フェリックス!」

 イアンが大笑いしながら倉庫の外に飛び出す。

「ネーリ! 絵ありがとう。スペイン王家の家宝にするわ! どれくらい掛かってもいいからまた絵の依頼してもええかな」

「う、うん! 嬉しい」

「んじゃ描いてもらいたいテーマまた考えとくわ」

「イアン、帰る? もう遅いし……きっとフレディもうちょっとで戻って来るよ? 泊まっていかない? 良かったらぼく、竜騎兵の人達にお願いして部屋を借りるけど」

「ありがとう。けど今日は城に帰るわ! ここにおってそいつにガブーッ! って頭から食べられんの嫌やし!」

 倉庫から、とうとうフェリックスが出てきた。ネーリでさえ怒ってることが分かる声で咆えた。

 おー、怖! とケラケラ笑いながらイアンが駆け出していく。

「じゃーなー! ネーリおやすみ! 今度俺が来る時はそいつ鎖で繋いでおいてやー!」

 元気いっぱい駆けて行くイアンと、後ろで立ち上がって怒っているフェリックスを両方、慌てて見ながら、ネーリはフェリックスの首にしがみついた。

「大丈夫だよ、フェリックス、落ち着いて。いじめられてないよ。へいきだよ」

「わっ! ネーリ様! どうしましたか⁉」

 フェリックスの怒ってる声を聞きつけて、兵士がやって来る。

 ネーリはフェリックスの首筋をよしよし、と撫でて落ち着かせながら、去って行くイアンの後ろ姿を見る。

 一瞬見せた、不安げな、悲嘆に暮れたような気配はもう一切なくなっている。

いつも通りの覇気が戻って来ていた。

 あの絵が少しは役に立ったのかな。

(そうだといいな……)

 ネーリは小さく笑って、彼を見送った。


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