第4話
騎士館の一室の扉を開いた。
「さぁ、どうぞ」
ネーリは部屋の中の燭台に火をつけてから、イアンを招き入れた。
絵には、布がきちんと掛けられていた。飾ってあるのかと思ったら違った。絵の側に、この部屋には少し釣り合わないような、立派な椅子が一つだけ置かれている。
「僕は知らなかったけど、宮廷ではこんな風に新作の絵を発表するって聞いたんだ。ここは宮廷じゃないけど」
ネーリが嬉しそうにイアンの手を取って、そこに座らせる。
イアンは緑の目を瞬かせていたが、椅子に座って、絵がよく見えるように燭台をネーリが側に寄せる姿を、やがて笑いながら見守った。彼が絵の側に立つと、拍手をしてやる。
「楽しみにしてたよ」
ネーリが芝居がかった仕草で会釈した。こんなことをして遊んだりする子なのだな、とイアンは初めて知った。微笑ましそうに彼を見ている。
「では、ご依頼の絵『陽の当たるスペイン船』です」
これより前に、あんなすごい森の絵を見なければよかったなあ、感動が薄れないか心配だ、などと思っていた自分の浅はかさを、イアンは反省した。思わず座っていた所から立ち上がる。近づいて行った。
風景を、ここに切り取って来たように、精巧だ。
間近に覗き込む。
船の、外装。
あれは木の芸術なのだ。一枚の木で出来ているのではなく、何枚もの木を精巧に繋ぎ合わせて海に浮かべている。あんなに巨大な木の集合体をだ。
父親に幼い頃、大型船に乗せられた時、イアンは感動した。あんなものが何日もの航海に耐えうることさえ、奇跡のようだというのに、海上の旅では様々な苦難にも遭う。海や風が、激しく襲い掛かる時さえあるのだ。海はただ優しく、船を浮かべるだけではないのである。嵐を起こし、船を痛めつける。
その、過酷な海の試練さえ越えて、進軍して来たフランス艦隊を父親の艦隊が撃破し、ア・コルーニャの港に入ってきた時、幼い少年だったイアンは飛び跳ねて喜んだ。
民衆の歓喜の声に迎えられながら戻って来た父王と、スペイン海軍の兵たちが、子供心に格好良くて、「俺はスペイン海軍に入る!」と祝宴の席で手をあげて宣言し、家族に笑われたものだった。
「お前は海軍に入るんやない。率いるんや」
兄がおかしそうに笑い、手加減して頭を叩いて来た。
船は長旅を耐えるだけでも驚きなのに、軍艦はそこに大砲を積み、敵と戦う。
国の為だ。
軍船に乗って率いるほど、かっこいい仕事はない、とイアンは少年時代に思って、それ以来、友達の貴族たちは芸術や、女や、流行りのものに浮ついていたが、イアンはずっと、海軍一筋で惚れこんでいる。
ネーリの描いた、この外装の木の、精巧さだ。木の板の一枚一枚の模様まで、写し取ったように、心を込めて描いてくれているのが分かる。
最初は笑っていたネーリも、間近に覗き込んで、真剣にイアンが見ているので、真剣な表情になった。いいと思ったのか、出来に不満があるのか、聞かせてほしかったけど、声を掛けられなかった。
(すごい……)
なんでこんな風に描けるんだ。彼は船のことを、そんなに詳しくないと言っていた。船を描くというなら、描き方は色々ある。イアンも色々な画家が描く船や海の風景は描いて来た。
ある画家は船を、海の上の飾りのように描く。偉大な海の上を彷徨う、玩具のように。
ある画家は船というものを描く、技術がない。
ジッと細部を覗き込んでいたイアンが動き、少し離れたところへ移動した。
遠目から見ると、港に着岸したその姿は、幼いころ、イアンが憧れを抱いた、偉大なスペイン艦隊の記憶とそのまま重なり、この地に来てから、何かずっと胸に巣食っていた、悪いものが、思い出を思い起こすことで、溶けていくように流れ出て行くのが分かった。
「イアンさん……」
ネーリは驚いた。イアンは椅子に腰を下ろすと、顔を両手で覆って俯いた。
彼が、泣いてるのが分かったので、どうしよう、と思う。
何か声を掛けようと思ったけど、その時、フェルディナントが以前、イアンは人前では弱い姿を見せられないのだ、と言っていたことを思い出した。
ネーリは、フェルディナントやイアンのように、多くの部下や、使命を背負っていない。
一人で気ままに生きているだけだ。
それでも、悲しんでいる姿を人に見せたくない気持ちは分かった。
ネーリの場合、慰めを受けてもその場限りのことだ。嬉しく思い、誰かに心を開いても、その人は自分とは生きてくれないし、生きれない。だったら優しさを受けた方が辛い。可哀想な人だと思われれば、慰めや施しはもらえるだろう。でもあまりにそれに慣れ過ぎると、一人で生きて行けなくなる。ネーリはそれが怖かったから、人前では明るくしていようと思うようになった。悲しいことや、迷いは日々あるけれど、それは自分でどうにかしないといけないものだから。
ネーリは自分の羽織って来た上着を脱ぐと、イアンの肩にそっと掛けた。
「どうぞ、ゆっくりご覧になって下さい。この絵はもう貴方のものですから」
ネーリはそう言って、一礼すると、部屋を出て行った。
鍵を掛ける音がして、気配が遠ざかる。
イアンはありがとう、と小さく呟いた。
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