第3話
倉庫に明かりがついていた。段々寒くなって来たのだが、扉は開いたままだ。すぐに姿が見えた。一本の筆を咥えて、右手には二本の筆、左手に一本握り締め、真剣な表情で絵を描き続けている。出会った時から大らかな子だと思っていたが、今は真剣であり、必死に描き続けている。ふと、イアンはこういう表情もする子なのか、と少し驚いたほどだった。彼が死んだ人々に罪悪感を感じて涙を零すのを見た時も、意外な顔を見た気がしたが、これもそうだ。
彼からすると、画家などは難解な人間のように思えたが、今宵も何か、爪の一薙ぎで人間を真っ二つにしてしまいそうなほどの巨獣を傍らに、色で汚れるのを防ぐ為に、服の上から一枚羽織った白い衣が、まるで法衣のように見えて、不思議な光景だった。
ぴく、と首を休ませていた竜が気付き、身じろぐように翼を動かした。
ネーリ・バルネチアはそれで我に返ったようだ。入り口の訪問客に気付き、何かを言おうとして、咥えていた筆を思わず落としてしまった。
「イアンさん」
「ああ、ええよええよ。俺が取ったる」
イアンが笑いながら近づいて行って、踏み台になっている木の棚の上に転がった筆を拾い、側の机に置いてやった。
「すみません」
「いいんや。夢中で描いとったね。――……」
ネーリが向き合っていた絵を見上げ、イアンは言葉を失った。
「イアン?」
ハッとする。驚いたのだ。いや、ネーリがすごい画家なのは知っていた。作品も見て、同じように言葉を失ったこともある。イアンもそれほど芸術に目利きする方ではない。ただ、彼とフェルディナントの違いは、イアンは目利きがそんなにしなくても、自分自身の感性で、「いいな」と思う芸術作品を見る目はあるということだ。彼は好きならば「別にそんなに値が張らなくても好きやねん」という作品を買って城に持ち帰ったりすることもある。そもそも芸術作品というだけで、「あ、俺そういうの興味ないから」と心を閉ざす、彼の父親やフェルディナントとは、少しイアンは違うのである。彼は好きな芸術作品はあるのだ。
「……ネーリ……」
いつも朗らかに楽しそうに話してくれるイアンが自分の側で押し黙ったので、なにか変だったかな……という表情をしていたネーリが、呼ばれて少し首をひょこ、とさせた。
「……前に、絵を売ろうとしたことがあるけど売れなかったことがあったとかフェルディナントが言っとったやろ。なんの事情や不具合があったかは知らんけど……君の絵が売れへんなんて絶対そのオークション自体がおかしいねや。気にすることなんか全くあらへん。君さえその気があるなら、もう一回オークションに掛けてみたらええよ。良ければ俺がちゃんと君の絵にまともな評価付けるサロン紹介したるし。君の絵は……ちゃんと値が付くべき作品や。芸術なんか扱っとると、嫉妬とか、権力争いとかで、いい作品なのにつまらんことが理由で評価がつかへんこともある。そんなの全然気にしないでええ。君ほどの画家の作品なら、どんなにそんなつまらん妨害されても、見つけ出して評価してくれるまともな人間に出会えるよって。
もちろん、俺もその一人や。
俺は確かに、そんな立派な目利きが利く人間ってわけじゃないけど、小さい頃からちゃんとした芸術の中では暮らして来た。周囲にはそういう目が利く人間は多い。そういう人間に紹介する事なら、いくらでも、俺でも出来るから。……君はすごい画家や。今までもいいなと思った作品は見せてもらったけど、これは本当に大作やな」
ネーリの倉庫の絵は、一時期一面の真っ青だったが、そこからすでに、変化していた。
森を描いていると分かる絵になっている。木々の奥に湖があり、奥行きが出ている。大部分の配置は出来ていて、細かい所を描き込んでいる段階なのだろう。だが現時点でもすでに美しい絵だ。静かな空気、夜の気配に、うっすらと光が浮かんでいる。
「ありがとう」
イアンがそう言うと、ネーリが表情を和らげた。
「でも、オークションでは売れなかったけど、フレディが僕の絵を見つけて、買ってくれたから」
嬉しそうにそう言ったネーリに、イアンは目を留めてから、微笑む。
「そうやったな。あいつも芸術を見る目がない見る目がない言われてたけど、逆にもしかしたら相当芸術見る目があったんかもしれんで。本当に目が高くて、そこらのものじゃ感動出来ひんかったんかもしれへん。俺も感じとしてはそっちに近いわ。ネーリの作品はほんま色のついてないスケッチからも、すごい才能を感じるよって。これくらいの絵を何枚も見せられれば、そら俺でも君がどんなにすごい才能を持つ画家かは分かる……」
もう一度、絵を見上げた。
「そうや。途中の絵勝手に見てもうたわ。嫌じゃなかったかな?」
ネーリは首を振る。
「平気だよー。駐屯地のみんなも絵が出来上がっていく過程がすごく面白いみたいでよく窓から見てくれる。途中で見られるに関わらず、完成する絵は変わったりしないから」
なんとなく後ろを見ると、フェリックスがお行儀よく座って、小さく首を傾げてみせた。
ぶふーっとイアンが吹き出している。
「こいつ、ずっとここにいるん?」
「そうなの。不思議なんだよ。この倉庫、元々フェリックスのお家として使われてたけど、この子建物の中は嫌いみたいで、いつも外の木の下で休んでたのに、僕がここの中で絵を描くようになったら、中に入って休むようになったの。絵を描いてるのを、見てるみたいなんだよね。僕が一番最初にこのキャンバスに色を塗った時もそこにいたけど、塗った瞬間に『クゥ!』って絶対嬉しそうな声出したんだ。色が付く、ってことは分かってると思う」
一生懸命フェリックスの説明をしているネーリに、イアンは声を出して笑った。
「こいつら頭はええって言うからなあ。ほんなら竜も絵を品評出来るんかな? ネーリの絵にそんなに喜ぶんなら、俺の絵を横に飾ったらこいつらなんやこのつまらん出来の悪い絵は言うて怒って食べるんちゃう?」
イアンがそんなことを言ったので、ネーリも笑ってしまった。
「そうや。フェルディナントから手紙もらったよ。俺が依頼した絵、ホンマに描いてくれたんやね。ありがとう。今日見に来たんや」
「顔料も乾かしたかったから新しい騎士館の方に掛けてあるよー。案内するね」
待っててね、とフェリックスの額に触れて、倉庫を出て、騎士館に向かって歩き出す。
「森の絵やったなぁ。どこかの森なんかな?」
「ぼく小さい頃に神聖ローマ帝国にある、竜の森を訪れたことあるんだ。おじいちゃんに連れて行ってもらって、僕もまだ幼かったから、その時はあれが神聖ローマ帝国だったことも分からないくらいだった。でもフレディに、竜の棲む森は神聖ローマ帝国にしかないってことを聞いて、そうかあれば神聖ローマ帝国だったんだって分かって……。
なんとなく、描いてみたいなあって思ったの。それまで、あんまり思い出すことも無かったんだけど。ぼく今、この駐屯地でお世話になってるし……イアン、僕の絵を本国に送りたいって言ってくれたでしょ? ヴェネトでスペイン艦隊がどんな風に過ごしてるのか、本国の家族に伝えたいからって。あんまり僕依頼を受けて絵を描くってことしたことなかったから、すごく楽しかった。絵を受け取る人のこと考えて、どうしたら伝わるかなって……。
僕自身記憶をはっきりさせるために、竜の森の絵は描いてみたかったけど、竜騎兵にとってやっぱりあの森は特別な場所みたいだから。ここにいる人たちも、一週間後に帰れるような暮らしというわけじゃないでしょう? だから、竜の森の絵を見たら、懐かしいなあって、少し元気になってもらえるかなあって」
イアンは微笑む。
「そら、なるわ。嬉しいやろうな。自分の国の、とても大切な場所の絵を、大好きな画家が描いてくれるんやから。遠い異国で頑張ってる、その慰めになるわ。んじゃ、あの絵もぜひ買い取りたいなあって俺は思ったけど、買って横取りしたら神聖ローマ帝国の連中が全員でぷんぷんするんやろな」
可愛い声でネーリが笑った。
「あれはフレディにあげようと思ってるの」
「ええなあ。フェルディナントばっかり君を独り占めしてズルいわ」
イアンが苦笑している。
「ネーリ、ヴェネトをもし出るんやったらほんまにスペインにもぜひ来てな。俺の国もすごく綺麗な景色たくさんあるよって。海も綺麗やし、山やって綺麗や。街並みも、城も、君の好きな教会もいっぱいや」
イアンが身振り手振りをしながらそんな風に言うと、聞いているネーリの瞳がワクワクしたように輝いて来る。イアンは嬉しくなった。
そうだ。彼は今でも素晴らしい才能を持った画家だが、まだ十代の青年だ。まだ見知らぬ世界は山ほどあるだろうし、見ていない景色も、知らない感情すら、山ほどあるだろう。
それを知った時、この瞳が輝く。そしてまた、彼は筆を取るだろう。嬉しさや、感動を、描き留めたくて。
(見てたいなあ)
その表情を、全部。
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