第5話 ニコロの決断

 一拍、理解に要した。

 自身が身の振り方を考える原因になった男。画壇に現れた本物の天才。

 胸の奥でどす黒い淀みが生まれて、ニコロの眉を動かした。歪みが顔全体の皮膚を引きつらせるより先に稚い2つの声が弾けるように転がって来る。


「パァパ、マァマ! おゆはったよ!」

「ふく、どろだらけだねぇ。いたそう」

「ほんとだ、しもやけチンチンだねぇ」

「……子どもたちもこう言っている。せめて、シャワーで温まって、服を冬服に着替えていきなさい。そのままでは風邪をひく」

「ハッ、お人好し」


 ステラは緩慢な動作で立ち上がると、脇腹を押えながら廊下を歩く。


「シャワールームへの行き方は分かるのか?」

「ちびっ子2人のどっちかがシャワールームから来たことなら分かる」

「掃除の手間が増えると私が妻にどやされるんだ。着いてきなさい」


 シャワールームに先導しながら、ニコロは考える。

 4年に1回の芸術の祭典『マエストーソ』があったのはつい1か月前だ。どんな放埓な生活を送ったとしても賞金は使い切れる額ではないし、第一『ステラ』には多くの仕事が舞い込んだはずだ。パン屋の窯に張り付いて暖を取ろうとする行動と、ステラ人気が合致しない。


「服はこちらのカゴに入れておいてくれ。石鹸とシャンプーは自由に使ってくれて構わない」


 説明するニコロの前で、ステラは無造作にスウェットをめくり上げた。

 ニコロは瞼を縮めて、大きくなった目でステラの背中を見る。ステラの日の光を知らない雪白の肌に赤褐色の丸い傷跡が無数。背中をびっしりと埋める傷跡は根性焼きの痕だ。


「児相!!!!!!!!」

「うっさいよ。……うちの親、マフィアとつるんでるし無理じゃない?」

「その傷を見せれば一発だ!」

「そうかな? 誰でも命は惜しいもんでしょ」


 ステラの声には諦めしかない。立ち尽くすニコロを「早く出てってよ。それとも下も見るの?」とステラはせせら笑う。「いいや、少し驚いただけだ」と言って、扉を閉め、ニコロはその場にうずくまった。

 悪い想像ならいくらでもできる。そもそも、ステラの仕事量自体半端なものではないのだ。それが、もし、望んで取った仕事ですらないのであれば。


「……コケにしおって」

「ニコロ、ステラさん大丈夫そうだった?」

「クリスティアナ……」

「ニコロあなた、ひどい顔色」


 頬を挟む白魚の指にそっと手を重ね合わせる。

 余裕などあるはずもない。自分のことで精いっぱいだ。それでも――。


「クリスティアナ、私がつま先立ちすることを許してくれるかい?」

「なぁにそれ、なぞかけ?」

「そうだね、でもとても大切なことだ」


 座り込んだニコロの頬を、クリスティアナが愛おしそうに撫でる。そのつま先の、淡い桜色。


「よく分からないけれど、あなたが決めたことならわたしは精一杯応援するわ」

「そうか……。今のうちにモンテベッロさんへ電話をしておこう。次の冬越し祭ドルミーレ・オルソでやりたいことがあるんだ」

「そう。大丈夫よ、ニコロ。お金ならまだ蓄えがあるし、わたしだって働いているんだもの」


 ニコロはほろ苦く笑った。

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