第7話 もう一つの趣味

「もう一つの趣味」

 というものを模索するようになったのは、今に始まってのことではなかった。

 今までにも、

「何か、もう一つの趣味があればいいのに」

 と考えていたのだが、それが何かは、正直分からなかった。

 ただ。

「芸術的な趣味」

 であってほしいという考えは、ずっと持っていたような気がする。

「せっかく、小説を書くという趣味があるのに、なぜ、他の趣味というものを考えようとはしないのか?」

 ということであった。

 確かに小説を書いている時間にほとんどの、

「気力、体力」

 を使っているということで、

「他の趣味に使う時間があるとは思えない」

 ということであった。

 しかし、実際に他の趣味を模索してはみるが、どうにもしっくりと来ない。

 小説の時は、

「あれだけ諦めることもなく、真摯に向き合ったのに」

 と考えるのだが、実際に他の趣味というものを模索してみると、

「あの時ほどの気力はない」

 と感じるのだ。

 しかし、逆にいえば、

「今だったら。気楽に受け入れられるのではないだろうか?」

 と感じるのであり、

 実際に、他の趣味というものを考えた時、思いついたことはあったが、なかなか受け入れられるものではなかった。

 というのは、

「あれは、才能がなければできるものではない」

 と、最初から思っていたからだ。

 小説も、

「才能がいる」

 とは思ったが、それ以上に、

「才能がなければ、努力で補える」

 という感覚であった。

 ということは、

「新しく親しもう」

 と思っている趣味は、小説よりも、さらに、

「芸術的なことだ」

 といえるであろう。

 そうは思ったが、実際に感じたこととして、

「今の俺にならできることかも知れない」

 と感じたことであった。

 それが何なのかというと、

「絵画」

 というものであった。

 これは小学生の頃にすでに諦めていたことであった。

 芸術として考えるものとして、

「音楽」

 と、

「図画工作」

 というものであったが、

「音楽に関しては、楽譜が読めない」

 ということで、まったく才能がないと思い諦めた。

 絵画や、図工に関しては、

「平衡感覚や遠近感が致命的にダメだ」

 ということから、

 向いていないと考えるようになったのだ。

 だが、図工だけは、

「何もないところから作り出す」

 という意味で、しばらく

「あきらめきれない」

 という思いがあった。

 それでしばらくといっても、

「小学生の間」

 ということであったが、木工細工だけは続けていた。

 土曜も休みになっていたので。午後くらいから、庭で、木工細工にいそしんでいた。

 とはいっても、そもそも、設計ができるわけでもないし、遠近感や平衡感覚がないという致命的なものがあったことで、特に、

「立体的なものを作る」

 ということなどできるはずもない。

 それを分かっているはずなのに、できるわけもないだろう。

 そうは思っていたが、一応は、

「やってみよう」

 と考えたのだ。

 実際にできるかできないかということは分からなかったが、やってみると、

「もう少し続けてみるか?」

 と思えたのだ。

 この思いが、

「第二の趣味」

 ということで始めたことを、諦めずにできたということに繋がったのではないだろうか?

 そんな小学生時代のことを思い出していると、

「工作に関しては、無理だな」

 と考えた。

 そうなると、音楽と、絵画ということに絞られてきたのだが、音楽には、

「楽譜が読めない」

 というだけではなく、

「学期が弾けない」

 ということで、

「どうしようもないな」

 と思わせた。

 そこで、考えた挙句、結局残ったというのが、

「絵画」

 だったのだ。

 ただ。絵画の中にもいろいろと種類がある、

 その種類というのも、

「見えてくる角度によって、いろいろと変わってくる」

 ということも言えるのではないだろうか?

 というのも、

 まずは、種類として、

「水彩画」

「油絵」

「鉛筆デッサン」

 などというものがあるだろう。

 そしてもう一つは、

「被写体の種類」

 ということで、

「人物画」

「風景画」

「建物」

 などといろいろ種類があるといってもいいだろう。

 それを自分の得意とするかであるが、被写体の種類というものは、

「複数あっても構わない」

 ということで、子供の頃と違って、大人になってからの方が、

「結構いろいろと見ることができる」

 というものであった。

 小説の時もそうであったが、

「自分ができるようになるためには、何か、きっかけであったりするものを発見することから、極意のようなものが見つかる必要がある」

 ということである。

 小説の場合は、喫茶店などで書くことで、

「そのまわりにいる環境や、そこにいる人一人をターゲットにして、写生する」

 という感覚から書けるようになったのであった。

 そして

「最後の決め手」

 になったのが、

「話すように書けばいい」

 ということであった。

 つまり、

「朗読するように描写し、話をしているように、セリフを書く」

 ということであった。

 それが、

「小説を書く極意」

 ということであったのだが、これが絵画ということになると、違ってくるのであった。

 というのは、

「絵画で考えられることは二つある」

 と思えたのだ。

 これも、案外とすぐに思い浮かんだことなので、

「結構前から意識していたことなのかも知れない」

 と思った。

 というのは、その思いがあるからこそ、

「俺には絵画はできない」

 と思い込んでいたのだろう。

 何といっても、苦手だと思っていた、

「遠近感」

 というものが一つにはあるからだった。

 だからこそ、

「工作」

 というものができないということになるのであって、そこが、いかに、

「立体感を見せる」

 ということになるのかということであった。

 立体感というものは、

「工作」

 に大切なものであるが、絵画には、もっと重要かも知れない。

 何といっても、

「立体にあるものを、平面で描いて、それをいかに、立体的に見せるか?」

 ということが絵画である。

 ということからであった。

 そんな絵画であったが、もう一つの問題というのは、

「バランス感覚ではないか?」

 と考えたのだ。

 これは、例えば、

「空と海」

 あるいは、

「空と地上」

 というように、

「水平線」

 であったり、

「地平線」

 というものを見た時、

「その配分をうまく取れるか?」

 ということが重要なことではないだろうか?

「錯視」

 という言葉があるが、その代表的なものとして、

「サッチャー錯視」

 という言葉がある。

 これは、

「上下逆さまに見た時、そのバランス感覚であったり、上下での比率がいかに狂っているかということからきているともいえる錯覚」

 というものではないだろうか?

 そんな錯覚というものがどういうものなのかということを考えると、

「それを追求してみたくなる」

 といえるだろう。

 それが、

「絵画」

 というものに興味を持ったということであり、実際に描いてみると、

「思ったよりも描けている」

 と感じたのだ。

 それは、

「小説を書けるようになった時、自分の中で、芸術的な何かが芽生えたのではないだろうか?」

 という思いであった。

 さすがに、最初から、

「水彩画」

 であったり、

「油絵」

 というものには、ハードルが高いということを感じたのか、

「鉛筆デッサンにしよう」

 と考えるようになったのであった。

 鉛筆デッサンであれば、

「執筆の合間の気分転換でできる」

 と感じたからであった。

「そうだ、もう一つの趣味がほしいと思った原因の一つが、この気分転換という気持ちだったのだ」

 ということであった。

 そして、もう一つ理由があることに、その時は気づいていなかった。


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