第6話 満足感

 小説を書くようになってから、

「大学でも、そのほとんどを小説に費やした」

 と思っていたが、大学を卒業すると、

「小説に費やした時間」

 というものがそれほどでもなかったような気がした。

 これは、

「充実感を味わっている時、時間の感覚が短くなる」

 という理屈ではなく、本当に、

「それほどの満足している感覚があったわけではない」

 と感じたからだ。

 つまり、

「大学時代において、執筆は楽しい時間であり、充実を味合わせてくれる時間ではあったが、満足できるものではなかった」

 ということであろう。

 小説家になるということは、最初から考えていなかったのは、

「小説家になってしまうと、自分の好きなようにできなくなる」

 ということを分かっていたからである。

 それは、テレビドラマで、あれは、漫画家になる人の話であったが、

「出版社のいいなりになり、原稿が上がるまで、監視され、そのために、気が散ってしまったりして、作品が、生みの苦しみになってしまう」

 というのを見たからだった。

「気が散る」

 ということは、最初に書きたいと思ってやってみた、

「図書館の学習室」

 のことを思い出すのだ。

 あの時の感覚は、

「二度と味わいたくない」

 と感じていたもので、それを通り越したにも関わらず、思い出すと、きつい感覚になる。それは、きっと、

「トラウマ」

 というものからきているのだろう。

 ということであった。

 だから、

「気が散る」

 ということは、執筆作業にとって、

「一番のタブーではあいか?」

 と考えるようになったのであった。

「小説を書くということは、集中することが一番であり、その天敵が、気が散ることだということが分かってくると、見えてくるものがあったことから、書けるようになった」

 といってもいいだろう。

 ただ、書けるようにはなったのだが、

「もう一つ味わいたい」

 と思っていたものに行きつくことができない。

 それが、満足感というものだったのだ。

 何とか就職できて、最初は、営業職をしっかり身に着けるというつもりであった。

 そのために、

「しばらくは、執筆活動から遠ざかろう」

 と考えていた。

 そうでもしないと、

「仕事に集中できないからだ」

 と思ったからだった。

 しかし、結局、

「自分には向いていない」

 ということから、部署が絵になった。

 その時、

「できるはずもない」

 ということは誰にだってある。

 ということで、

「自分には、営業は向かない」

 と考え。経理という部署に鞍替えということになり、最初は、

「正直、戸惑った」

 ということであったが、それも最初だけだった。

「住めば都」

 という言葉もあるが、そもそも、

「営業の仕事も不安でしかなかった」

 のである、

 何といっても、

「先が見えない」

 ともいえる仕事で、

「曖昧な仕事」

 と思っていた。

 高校時代までのような、

「答えが一つ」

 というものではなく、

「いろいろな方法で、相手とのコミュニケーションを図ることで、営業職をまっとうする」

 というのが営業だと思えば、

「俺にはできない」

 ということから、不安でしかないというのは当たり前のことであった。

 だが、経理部は違う。

 答えは決まっていて、

「それを数字で証明する」

 というのが、経理の仕事だといえるのではないだろうか?

 それを考えると、

「俺は、経理に来てよかったのかも知れないな」

 と思った。

 それは、数字に対して、不安というものを感じることはなかったからだ。

 そういう意味で、経理部の仕事も最初は、慣れるまでは大変ではあったが、慣れてくると、

「天職ではないか?」

 と感じるようになった。

 ただ。

「何もないところから新しいものを作る」

 ということに造詣が深かった自分からすれば、

「物足りない」

 ということであったが、

「何か心の中に隙間がぽっかり空いている気がする」

 という思いがあり、それがどこからくるものなのか、すぐには思い出せなかった。

 しかし、それが、

「執筆活動」

 ということが分かると、今度は、

「どうして、そんな単純な理屈が分からなかったんだ?」

 と、経理部に来て、理屈っぽい頭になったと思っていたことから考えると、

「皮肉なことだな」

 と思うようになったのであった。

 会社に入って三年目。ちょうど、年齢的にも二十代後半、自分の中で、

「何か人生の転機になってきたのではないか?」

 と感じてきたのだった。

 そして、また執筆活動を始めた。

「これだよこれ」

 ということで、それまで忘れていた、

「時間の感覚が早くなる」

 という充実感を思いだしたのであった。

 それが、

「感覚で思い出した」

 というよりも、

「身体全体で思いだした」

 ということで、充実感が沸き起こってきたのだ。

 しかし、それでも、満足感に至るほどではなかった、

 それを考えると、

「満足感というのは、充実感の奥にあるものだ」

 ということを、いまさらながらに思いだしたのであった。

「俺が、就職した時、仕事で満足感が得られるような気がするんだけどな」

 と考えていた。

 営業というものをそれだけ甘く考えていたのかも知れないが、実はその感覚は、間違っているわけではなかった。

 大学生の頃にも何度か、

「満足感というものに、近づけた」

 と感じた時があったが、それはまるで、

「夢を見た時、それを忘れないようにしようとしている感覚が思い出された気がしたのであった」

 というのは、

「夢というのが、目が覚めるにしたがって忘れていくというものだ」

 ということだからである。

「夢というのは、夢の中でしか存在できない」

 ということも言えるが、

「夢というものは、潜在意識が見せるものだ」

 ともいえるのだ。

 ということは、

「夢と潜在意識というものは、表裏のものであり、しかも、交わることのない平行線ということで、お互いに意識はできても、一緒に感じることはできない」

 ということになる。

 そう感じた時、

「果たして、夢と現実とでは、どちらが裏で、どちらが表なのか?」

 と、

「普通の人では感じることのない」

 というようなことを感じているような気がするのであった。

 それは、やはり、自分にとっての、

「気持ちの中での分岐点」

 といえるものではないだろうか?

 その満足感を感じることができるようになったのは、経理部に異動してから、五年くらいが経ってからのことであった。

 その時は、

「満足感の正体というのが、こういうことだったなんて」

 と思ったのだが、その正体を自分では、

「小説執筆の中から生まれてくるものだ」

 と思っていた。

 だから、

「充実感の中から、満足感が生まれるのだ」

 と思っていたということである。

 しかし、実際には、そういうことではなかった。

 もちろん、

「充実感が、まったく関係のないことだ」

 というわけではないので、間違いではないが、出来上がってくる方向が、いわゆる、

「明後日の方向」

 というところから出てきたので。考え方としては、

「本当は最初からそこにあったのに、気づかなかっただけだ」

 ということになるのではないだろうか。

 つまり、

「石ころのようなもの」

 という感覚である。

 石ころというものは、

「河原などにたくさんあるが、それは、あまりにもたくさんある」

 ということで、

「一つ一つを意識することはない」

 というものだ。

 もっといえば、

「こちらからたくさんの石ころを見ても、皆同じものとして見るか、あるいは、すべてを一つとして見るか?」

 ということになるだけで、逆の味方をすると。

「石ころからみれば、自分だけを見られているような気がして、石ころ全部が恐怖に感じている」

 ということになるのではないだろうか?

 もちろん、人間はそんなことは分からない。

 ただ、石ころに命であったり、

「不思議な力が備わっている」

 として、それが、

「保護本能」

 のようなものであったとすれば、

「石ころは無意識のうちに、人間に対して、保護色のような幕を張ることで、人間の意識を錯乱させ、自分たちを守っているのではないか?」

 とも考えられる。

 だから、人間というのは、まわりに対しての保護意識だけではなく、

「自分に対しての保護意識から、自分の中の分かるべきことというものを、見ないようにしているという本能を持っているのかも知れない」

 と感じるのであった。

 だから、

「曖昧なこと」

 であったり、

「ハッキリとしないもの」

 というものに、必要以上の恐怖心を感じるのではないだろうか?

 それを考えると、

「満足感というものが、その曖昧なものであり、そこに到達するには、自分の保護意識というものを解除しないといけない」

 ということを考えたのだ。

 そう思うと、

「見え方が変わってきた」

 といえる。

 それまでは、

「執筆活動というものに、まだまだ苦痛が残っていた」

 といってもいい。

「今日は思っているだけの執筆ができるか?」

 ということで、それは毎日できているにも関わらず、

「今日からできなくなるんじゃないか?」

 という恐怖があるからで、それが、苦痛になってきているというメカニズムは、分かってきていた。

 それも、

「いまさらか?」

 と言われるかも知れないが、確かに、

「いまさら」

 といってもいいだろう。

 それだけ、

「何もないところから、一から生み出すということが難しい」

 ということであり、

「やりがいがある」

 ということであろう。

 それを思えば、

「今でも執筆を続けられている」

 ということが、

「奇跡ではないか?」

 さえ思えてくるくらいである。

 高校生の引きこもりから始めて、そろそろ30歳になるということなので、かなりの年月、ほぼ毎日のように書いているのだ。

 もちろん、会社に入ってから、1年くらいのブランクはあったが、それも、長い年月から見れば、微々たるものだと思えるほどになった。

「広がった傷口も、次第に狭まってくる」

 ということになるのであろう。

 山崎は、

「就職を、人生の転換期」

 と思っていたが、

「実際には、もっと別に転換期というものがあったのではないか?」

 と感じるようになった。

 それがいつだったのかということは今は分からない。それこそ、

「歴史が答えを出してくれる」

 というレベルではないかと思うのだった。

 歴史が答えを出してくれるというのは、昔見た映画にあったセリフであった。

 というのは、

「歴史が出してくれる答え」

 というのが、どういうことなのかというのであるが、

 あれは、

「軍事クーデターの話」

 ということであり、したがって時代は、

「大日本帝国の時代」

 というものであった。

 自分たちがやったことを、

「正しいことだ」

 ということで決起したのだが、実際には、

「反乱軍」

 として認知されてしまった。

 そこで、彼らは自決して、兵を戻すと考えたのだが、一人の将校が反対する。

 というのは、その将校は、

「最初は、決起に反対だった」

 というか、

「慎重派だった」

 といってもいいだろう。

 だから、決起に慎重派だったことで、まわりから説得されて、やっと決起軍に参加したのだ。

 つまり、少しでも、

「これは、成功しない」

 と考えたり、

「自分たちに正義はない」

 と思ったとすれば、参加はしなかったに違いない。

 それでも参加したということは、

「最初は迷っていたが、説得されたその言葉に正義を感じた」

 ということからであろう。

 その男は、

「決起を決めてからは、積極的だった」

 作戦にも、積極的に参加し、完全に、中心人物になっていった。

 しかし、実際に決起し、作戦を進めていくうちに、

「天皇に上奏してもらい、自分たちの決起が正当だと認めてもらったうえで、自分たちの意志と目的を伝える」

 と考えたが、これは、どう見ても、

「陸軍内部の派閥争いだ」

 ということは、冷静に見ていた人から見れば、

「一目瞭然だ」

 ということであった。

 つまりは。

「決起というのが、天皇のまわりで、自分たちだけが甘い汁を吸っている、君側の奸という連中を懲らしめる」

 という目的が、実は、

「派閥争いで、相手の派閥がこれ以上のさばると、自分たちの立場が危ない」

 と考えての決起だと言われても仕方がない状態だった。

 ただ、決起隊からすれば、

「これが正義だ」

 と思っていたということは、

「ひょっとすると、黒幕がいたのではないか?」

 とも考えられる。

 というのも、

「この決起に関しては、

「ずっと以前から、陸軍内部で言われていたこと」

 ということで、連絡を受けた陸軍上層部のほとんどが、

「ついにやったか?」

 ということを言ったという。

 それが、

「やってしまった」

 ということなのか、それとも、

「やってくれたか」

 ということなのかで、そのニュアンスが変わってくるというものだ。

 しかし、天皇が一番よく事態を分かっていたようで、

「やつらは反乱軍ではないか。私の裁可なしに兵を動かすというのは、憲法違反である」

 と言ったという。

 しかも、暗殺されたのが、自分が政治を裁可する時の相談役として、信頼していた人たちばかりということで、天皇が怒るのも当たり前だというものだ。

 そして、実際には、

「派閥争いで、邪魔になる連中ばかりが暗殺されている」

 ということは明らかだったので、天皇としても、

「許しがたい」

 と思うのも当たり前だというものだ。

 さらに、陸軍が、

「自分たちの部下がしでかしたこと」

 ということで、二の足を踏んでいたのを見て天皇がまたお怒りになり、

「お前たちがやらないのなら、この私が陣頭指揮に立つ」

 ということを言い出したことで、陸軍も慌てた。

 そして、

「反乱を治め、隊を原隊に返す」

 という、天皇の命令である、

「奉直命令」

 が出たのだった。

 その時、

「反乱軍となってしまった」

 と分かった決起隊は、

「兵を原隊に返し、我々は自決しよう」

 と言い出したのだ。

 反対意見もあった。

「自決するのではなく、投降して裁判を受け、そこでやつらの悪事を暴露する」

 という考えであった。

 そもそも、

「投降する」

 ということに大反対だったのが、

「最後まで慎重だった将校」

 であった。

 彼は、

「何をいまさら、奉直命令だとか言っているんだ。俺たちの目的をあくまでも陛下にお伝えするのが、この決起ではなかったのか」

 という。

 それを皆がなだめようとすると。

「お前たちはそんな中途半端な気持ちで立ったのか? 俺は皆が、鉄の決意を持っていると感じたから立ったんだ。そんな簡単に投降するとか、自決するとかいうのであれば、最初から立たなければよかったんだ」

 といって、最後まで抵抗したという。

 それでも、一人が、

「俺たちはできることはすべてやった。だから、あとは、兵の命だけは救ってやろう」

 ということになった。

 それで、初めて、抵抗していた将校も、身体の力が抜けたのか、従うことになったのだという。

 その後、彼は自分の兵を、

「原隊に返す」

 ということで、演説をした。

「寒空の中をよく耐えてついてきてくれたことに礼をいう。だが、自分たちがしたことが正しかったのかどうか、いずれ、歴史が答えをだしてくれる」

 と言ったのであった。

 もちろん、決起に対しては、今では、

「歴史の一ページ」

 ということになり、

「正しかったのかどうか、まだ分からない」

 という状態であった。

 表向きには、

「決起軍が気の毒」

 ということで、まるで、

「忠臣蔵」

 のような、日本人特有の、

「判官びいき」

 という考えから、

「決起軍に同情的」

 というのは、ずっと言われてきたことだった。

 しかし、歴史を勉強していたり、

「研究者」

 のほとんどは、

「あれは、派閥争いから出てきたものだ」

 という意見が、主流を占めているといってもいいだろう。

 ただ、それも、歴史が進んできて、いろいろな何かが発見されたりすると、それまで言われてきた、

「事実」

 とされてきたことが

「あっという間に覆る」

 ということも往々にしてあるというものである。

 特にここ十数年の間に、

「歴史の常識」

 と言われてきたようなことが、

「実は違った」

 ということで、学会などで

「大いなる発見」

 として、発表されている。

 それを考えれば、

「歴史が答えを出してくれる」

 と言われる、

「歴史というもの」

 それは、

「一体いつのことなのだろう?」

 ということになるであろう。

 歴史というものが、

「本当に答えを出す」

 ということになるというのか、それこそ、謎であり、

「どこを切っても金太郎」

 と言われる。

「金太郎飴のようなものではないか?」

 といえるのではないかと考えるのであった。

「答えを出してくれるはずの歴史。それは流動的なものだと考えると、自分がこれから見つけようとする満足感も、本当にあるのか、あるいは、あったとしても、本当に明後日の方向から見えてくるものなのではないか?」

 と思えるのであった。

 実際には、

「明後日の方向にあるのではないか?」

 ということに気づいたからなのか、それとも、他に理由があるのか、

「何か自分でも最初から分かっていたのかも知れない」

 と感じるくらいであった。

 というのが、満足感というものの正体が

「その中にある」

 ということではなく、

「見えていなかっただけで、そのまわりに派生してくるものが、その正体だった」

 ということであった。

 それは、

「小説を執筆する」

 ということからの派生。

 つまり、

「執筆というものが、苦痛を伴うもの」

 というものがあったからだ。

 その矛盾ともいえることが、最後まで引っかかっていて、毎日続けることの原動力になっているという、一種のこの矛盾から、気が付いたものであった。

「矛盾が矛盾を呼ぶ」

 ということで、

「一回転してから、元に戻った」

 と言ってもいいかも知れない。

 そのことに気が付くと、

「充実感があるのに、満足感がない」

 というのは、

「反対側に行ってしまっただけで、こちらに戻って一周するための何かが足りない」

 ということではないか?

 と感じるようになった。

 それは、

「小説執筆と正対するものであってはいけない」

 と考える。

「正対するものではなく、相対するものであればいい」

 ということで、

「執筆活動以外に趣味を持ち、そっちでも充実感を感じる」

 ということになるのだろう。

 つまりは、

「能に対しての狂言」

 というものではないだろうか?

 ということであったのだ。


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