第5話 充実感

 まわりの人は、

「何が楽しみで生きてるんだ?」

 といっている人がいたが、山崎には、

「小説を書く」

 という趣味があった。

 この趣味は、高校時代の後半、引きこもりになった時期から初めていた。

 普通であれば、

「引きこもりといえば、ゲームばかりしているんだろう」

 と言われるかも知れないが、彼がゲームに手を出すことはなかった。

 というもの、

「山崎は、結構、面倒くさがり屋だったのだ」

 ゲームというのは、結構根気がいるものではないだろうか。

 一生懸命にやって、クリアしたとしても、何か物足りなさがあるような気がした。実際に、少しだけ引き籠った時にしてみたが、

「何か味気ない」

 と感じ、充実感も、満足感も何もなかった。

 しかし、引き籠る前、結構本を読んでいたので、引き籠った時、

「ゲームするよりも、本を読もう」

 と思ったのだが、本を読むだけでは、引きこもってしまった手前、それだけでは満足できない自分がいたのだ。

 引きこもりということに対して、

「よほど、何か充実感のあることをしていないと、自分で自分を苦しめる」

 ということは分かっていた。

 だから、

「充実感と満足感」

 そのどちらも味わえるだけの何かをしないといけないと感じていたのだ。

 そこで考えたのが、

「小説執筆」

 であった。

 これであれば、パソコン一台あればできるし、何よりも、

「引きこもりから出ていく必要もない」

 ということであった。

 それを考えると、小説執筆という趣味は、実にありがたいことであった。

 その頃からずっと書いていた。

 大学時代も、文芸サークルに入り、同人誌のようなものを作って、それを、

「フリーマーケットなどで、販売する」

 ということもやった。

 それはそれで結構楽しかった。

 ただ、

「プロになりたい」

 という意識はなかった。

 サークルの中には、

「プロを目指したい」

 と思って書いている人も、もちろんいて、彼らは、必死になって、いろいろな懸賞小説に応募したりして、入賞を狙っていた。

 その中には、

「新人作家への登竜門」

 と呼ばれる新人賞もあり、中には、

「最終選考に残った」

 という人もいたりした。

 さすがに、新人賞受賞というところまではいなかったが、

「最終選考に残っただけでもすごいじゃないか」

 と言われていたのだ。

 それを見て、さすがに、

「うらやましいな」

 という気持ちがないでもなかった。

 さすがに、

「プロになりたいとまでは思わない」

 と公言している以上、

「まわりの人に羨ましいと思っているということを知られるのはまずいのではないか?」

 と思っていたが、それでも、

「何も感じていないと思われる」

 というのも、何か嫌で、そういう意味で、自分の中に、

「ジレンマというものがあるのではないか」

 と感じたのだ。

 逆にいえば、そのジレンマがあるから、

「小説を書いている自分を見て、

「しっかり頑張っている」

 と感じ、継続することができると思うと、

「継続することが自分のモットーだ」

 と考えるようになると、

「このジレンマというのは、悪いことではない」

 と感じるのであった。

 小説執筆することが、毎日の充実感に繋がるということは、書き始めたことから感じていたのであった。

 ただ。満足感というところまでは至っていない。

「どうすればいいのか?」

 ということはその時には分からなかった。

 一つ思っていたのは、

「趣味として、充実感を味わうこともできて、継続もできているということは素晴らしいのだが、実際にやっていて、苦痛に思うことがある」

 ということであった。

 小説を書けるようになるまでに、かなりの時間と思考力を使ったような気がする。

「小説を書くぞ」

 と思っても、そう簡単に書けるわけではないのが、

「小説執筆」

 というものであった。

 これは、

「誰もが通る道」

 というものであり、最初から、

「執筆しよう」

 と思ってできるものではない。

 まず最初に、執筆をしようとすると、最大の敵は、環境であった。

 他の人がやっていたように、

「パソコンに向かってやる」

 ということはできなかった。

「じゃあ、原稿用紙に向かって」

 と思ったが、それも無理だった。

「なぜなんだろう?」

 と思ったが、その理由が分かった気がした。

「気が散ってしまうんだ」

 ということであった。

 引きこもって部屋の中だけにいるのだから、

「気が散るなんてないだろう」

 と自分に言い聞かせてみたが、実際にはそうでもなかった。

 気が散るのはこの部屋のせいだと思うと、この密閉された部屋が今まで、何とも思わなかったのに、急に、狭く感じられたり、湿気を必要以上に含んでいるように思えて、息苦しさを感じるほどになっていた。

 それを感じると、

「図書館にでもいくか?」

 ということにしたのだ。

 引きこもっているといっても、

「家族に顔を見せない」

 ということと、

「学校にいかない」

 ということだけで、それ以外は買い物も、自由に行けた。

 何といっても、塾には行っているのだ。

 親の方としても、

「大学受験への意欲はある」

 と思っているだろうから、それほど心配はしていないだろう。

 ただ、親の中での世間体などというものがあるからか、引きこもりが、

「困ったことだ」

 と感じているのは間違いないだろう。

 かといって、刺激するわけにはいかない。

 どこかに相談しているようで、ある時までは、

「出てきなさい」

 と何度も頻繁に声を掛けていたが、急に声を掛けなくなった。

 山崎も、親が、

「きっとどこかに相談して、その人から、相手を刺激しないようにしないといけない」

 と言われたに違いない。

 それが分かったので、時々表に出ても、何も言われないと感じたので、自由に出入りするようにしたのであった。

 そもそも、

「引きこもり」

 というものが、

「ゲームばかりしている」

 というわけではない。

 中には、部屋の中で瞑想したりしている人もいるかも知れない。

 山崎としては、

「人のことは分からない」

 と思っていたが、自分が、

「ゲームばかりしているわけではない」

 ということなので、それだけに、

「外出には、何らこだわりはない」

 と思っていた。

 引きこもりになったのは、学校での、

「苛めがあった」

 というのも、その理由の一つだが、その頃の気持ちとしては、

「あの親父から離れられる」

 つまりは、

「一定の距離を置くことができる」

 と思ってのことだった。

「近くにいると思うだけで鬱陶しい」

 と思う。

 最初は分からなかったが、

「これって、いじめをしている連中が、虐められる相手に感じることなのではないだろうか?」

 ということであった。

「そうか、訳もなく嫌がっているように見えるが、実際には理由があるが、それをうまく説明できない」

 ということで、

「いじめに走るかしない」

 ということなのかも知れない。

 確かに、

「理不尽な苛め」

 を受けるのは耐えがたいが、

「俺自身が、親父に感じていることを考えると、いじめをしている連中を憎むということはできないかも知れないな」

 と感じるのであった。

 それは、

「自分が親父を、言葉で説明できない理由で憎んでいる」

 と感じたからだ。

 だから、

「引きこもれば、さすがにまずいと思って何も言わなくなるだろう」

 と思っていたが、甘かった。

 最初の頃は、ずっと、

「出てこい」

 と、父親のパワハラが続いていた。

 相手も理由が分からないだけに戸惑っているということは分かった。

「出てこい」

 と言いながら、その理由は、あくまでもいい加減なものであり、こちらに通じるというわけではない。

 余計に苛立ちが募っていき、

「こんなことなら、引きこもりなどしなければよかった」

 と思ったが、ここまで来て辞めるわけにはいかない。

 何といっても、

「苛め」

 という問題があったからだ。

「こうなったら、やるしかない」

 と覚悟を決めて、

「俺は、もう何かに逆らうということはしない」

 と感じた、その、

「何か」

 というのは、

「自分の意志」

 だった。

 自分の意志に逆らわないということは、それがそのまま、

「まわりへの抵抗」

 ということになり、まわりが何と思おうとも、

「自分の意志に逆らっているわけではない」

 ということで、悪いことだとは思っていないのであった。

 それを考えると、

「俺は、間違っていない」

 と考えるようになった。

 その時、

「小説を書こう」

 と思ったのであり、そのための

「生みの苦しみ」

 というものを初めて味わっていた。

 確かに、部屋が狭く、湿気を感じ、息苦しさというものを味わってはいたが、それがずっと嫌だという感覚ではなかった。

 時々表に出ること。

 そして、小説を書けるようになるための、紆余曲折が、意外と、

「楽しいものだ」

 と感じられるようになるまでに、そんなに時間はかからなかった。

 最近まで、

「親の威圧やパワハラ」

 というものを、ずっと感じていたのだから、

「それにくらべれば、かなりマシだ」

 と思うようになったのだった。

 だから、小説を書けるようになると思えば、次第に毎日が楽しくなってきているということを感じたのだった。

 小説をどうすれば書けるようになったのか?

 という具体的な話としては、まず、

「場所を図書館に変えてみよう」

 と思ったことだった。

 図書館の学習室に行き、原稿用紙を出して、

「そのマス目に、文字を埋めていく」

 という作業をするのが、小説執筆だと思って書いていたのだが、

「どうやら、そういうことではない」

 と感じるようになってきた。

 明らかに、

「気が散っている」

 ということが自分で分かるのであった。

 その時初めて、

「執筆の天敵は、気が散ることだ」

 と感じた。

 気が散るということは、集中できないということで、それが、

「まわりの環境によるものなのか?」

 あるいは、

「執筆活動ということに対して感じることなのか?」

 ということが分かっていなかったのだ。

 しかし、

「図書館の学習室というところが悪い」

 ということだけは分かった気がした。

 何といっても、

「静かすぎる」

 ということであった。

 確かに、小説執筆には、音がしていたりすると、集中できないということは分かってきたのだが、静かで静粛なはずの図書館の学習室が、

「落ち着ける場所」

 であり、

「集中できる場所」

 ということではないということは感じるのであった。

 その時に感じたのは、

「違和感のある音がする」

 というものであった。

 例えば、神がすれる音であったり、鉛筆やシャーペンによる、

「カリカリ」

 という音。

 普段であれば、気にもならない音が、

「小説を書く」

 ということになると、

「雑音でしかない」

 と感じさせるのであった。

 となると、

「図書館ではダメだ」

 ということなのかと考えていた。

 そうなると次に考えることは、

「どこかのカフェであったり、ファミレスなどはどうだろう?」

 と考えた。

 実際に、都心部の喫茶店などに行ってやってみることにしたが、

「図書館よりはマシかな?」

 と思った。

 確かに、喫茶店やファミレスなどは、うるさいのは間違いない。ただ、

「図書館よりはましだ」

 とは思った。

 それだけ、図書館には、

「他にはない特殊な雰囲気があるのだろう」

 と思ったのだ。

 もちろん、カフェであったも、そのままではまったくうるさいだけで、作業がはかどるとは思えなかった。

 そこで薬局で、

「耳栓」

 というものを購入して、耳にはめたままで執筆にいそしむことにした。

 すると、少しはできるような気がしたのだが、何かまだ違和感があった。

 その違和感の正体はすぐに分かったのだが、それが、

「原稿用紙」

 というものだった。

 どうしても、

「縦書き」

 ということと、さらに、マス目がきっちろしていることで、一文字書くのに若干の時間が掛かる」

 つまりは、

「考えたことを忘れてしまう」

 ということになるのだった。

 そこで考えたのが、

「ノートやルーズリーフであればどうだろう?」

 と思ったのだ。

 しかも、原稿用紙で書いていると、まわりの人の視線が何となく気になるというものであり、

「別に気にしなければいいじゃないか?」

 と言われればそれまでなのだろうが、自分では、

「許容範囲を超えている」

 と思うことで、

「原稿用紙ではダメだ」

 と感じたのだ。

 そこで、少し小さめのノートを購入し、

「ノートを少しずつでも、手書きで埋めていく」

 というのが楽しかったのだ。

 ノートがどんどん埋まっていくのを感じると、それまで感じたことのなかったような充実感が味わえるようになった。

 ただ、それにしても、今までであれば、

「数行書いただけで、書くことがなくなってしまった」 

 と感じていたはずのものが、

「どうして、こんなに話が続くようになったのだろう?」

 と考えるようになった。

 執筆というものが、楽しくなったから」

 ということであれば、苦労もしないというものだった。

 次第にそれが分かってきたのは、

「分からなかったのが、それだけ集中していたからだ」

 という、

「逆の発想をしてみたからだった」

 というのは、

「喫茶店やファミレスでは、無意識のうちに、まわりを観察するようになっていたからだ」

 という思いからであった。

 確かに喫茶店もファミレスも、

「人間観察にはもってこい」

 である。

 しかも、最初は、

「雑音でしかない店内の喧騒とした雰囲気を耳栓を買ってでもして遮断したのだから、視線を上げないようにするというのも、必須だったはずだ」

 ということであった。

 しかし、実際には、時々視線を上げて、店の雰囲気を感じていたのだ。

 会話まで聞こえるわけではないが、逆にそれが、好奇心というものを掻き立てることで、いい雰囲気を醸し出しているということであろう。

 だから、いつの間にか、想像力も豊かになっていき、ある程度までは、スラスラと書けるようになっていたのであった。

 あとは、慣れてくることで、どんどん執筆量を増やすということであった。

 喫茶店での執筆を大体、毎日、

「一時間くらい」

 と決めていた。

 そして、あとは家でも書こうと思ったのは、

「どこでも書けるようにしておきたい」

 と考えたからであり、そのもう一つの理由は、

「最終的には、パソコンで書けるようにしたい」

 というのがその狙いだったのだ。

 何といっても、手書きでは、明らかな限界がある。

 次第に手がしびれてきて、字もまともに書けなくなるだろう。

 しかも、手書きに比べて、パソコン打ちでは、れっきとしたスピードに違いがある。

 それを考えると、

「とにかくスピード」

 と考えるようになったのだ。

 実際に、その頃から、

「執筆というのは、質よりも量だ」

 と思うようになったのだった。

 確かに、

「いい作品を書きたい」

 というのは当たり前のことであり、

「実際にその作品がいい悪い」

 というものを判断できるだけの実力があるわけではないということであった。

 そういえば、昔、プロ野球選手で、

「俺はスランプだ」

 といっていた選手がいて、なかなか不調から抜け出せない人がいたというのだが、その時、監督がかけた一言で、その選手はスランプから脱出するきっかけをもらったというのであったが、その言葉というのが、

「スランプというのは一流選手が口にすることで、お前くらいの二流や三流の選手が感じるものではない」

 ということであった、

 それを聴いたその選手は、

「目からうろこ」

 というものが落ちて、

「練習あるのみ」

 ということで、スランプを脱出したということだ。

 要するに、

「余計なことを考えず、目的を達成するためにすることというのを、謙虚な気持ちになってやっていれば、答えは出る」

 ということなのだった。

 その言葉を覚えていたので、

「集中さえしていれば、スピードを生かして書くことも、ダラダラ書いたとしても、その結果はあまり変わらないかも知れない」

 と感じたことだ。

 特に、

「ダラダラしていると、考えていることを忘れてしまう」

 というところがあるだけに、

「スピードは命であり、生命線」

 とまで思っていた。

 だとすれば、スピードをつけても、書けるようにさえなれれば、それに越したことはなということである。

 一生懸命に書いていると、小説執筆のスピードも上がってくる。それが、充実感に繋がるんだろうな」

 と思った。

 しかし、この充実感を感じるようになって分かってきたのは、

「スピードが速くなってくる」

 というのは、

「実は、早くなったわけではなく、同じように、時間の経過も早くなってきた」

 ということであった。

 それだけ、

「集中している時間は、普段であれば、十分くらいだと思っているとしても、実際に時計を見れば、一時間経っていた」

 ということである。

 もしそれが、

「時間の無駄遣い」

 ということであれば、本当に無駄なことであるが、

「充実していて、さらに、決して無駄に使われた時間でないのであれば、精神的にも、まだ余裕がある」

 ということになり、決して悪いことではないといえるだろう。

 小説を書くということは、

「そういう充実感と、余裕のある毎日、そして感覚を味わうことができるという素晴らしい趣味だ」

 といえるのではないだろうか、


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