第4話 パワハラ案件
父親の教育として、
「人とのかかわりがないといけない」
という考え方があるのだ。
それは、確かに、
「人とかかわるということが、人生において楽しい」
という、単純な発想からきていると思える。
それは、父親の時代にはなかった、
「苛め」
などというものが言えるのではないかと思うのだ。
確かに、
「昔であっても、いじめっ子、いじめられっ子というものは、存在した」
しかし、今の時代のような、
「苛め」
という言葉ではなかったのだ。
つまり、
「虐める子と、虐められる子」
という意識があったが、それが、
「苛め」
という行為ではないという感覚になるのだろう。
というのは、
「虐める側と虐められる側」
とに分かれて考えるということは、
「そのどちらにも、原因がある場合がある」
ということである。
つまり、昔の今でいう苛めというのには、
「虐められる側に、何らかの原因があるという場合が多い」
ということである。
つまりは、
「虐められる側に、自分も悪かったんだという気持ちが芽生えれば、そこで苛めというのが終わる」
という考え方で、そうなると、お互いに最初から友達として絡んだわけではないので、相手のことを、
「仲良くなる前から分かっていた」
ということもあって、逆に、
「深い仲になれる」
ということが言えるのではないだろうか?
ということは、
「昔の苛めというのは、ちょっとしたきっかけで、仲直りができるということで、一緒の喧嘩に近いというイメージなのかも知れない」
ということであろう。
逆に今の苛めは、
「虐められる側に、理由があろうがなかろうが、虐める側に、相手を虐めたいという気持ちがある」
ということで、これは、
「一方的な虐待」
というものに近いといえるのではないだろうか。
一方的な虐待ということになると、
「虐める側に、何か、理由があるのだろうか?」
とも思えてくる。
「ただ、虐めたいから虐めているだけ」
ということで、
「下手をすると、相手が誰であっても構わない。ただ、目の前にそいつがいたからで、虐めてみると、存外楽しかった」
ということであれば、
「虐める側にも、虐められる側にも理由は存在しない」
ということになり、
「仲直りも何もない」
ということになる。
ひょっとすると、虐めている側にも、
「自分がいじめをしている」
という意識など、最初からないのかも知れない。
昔の、
「学校に行かない」
という生徒のことを、昔は、
「登校拒否」
と呼んでいたが、今では、
「不登校」
という呼び方になっている。
といわれるが、それはあくまでも、
「元々の言い方が変わってきた」
という、
「元来は同じ意味」
という言葉ではなく、
「それぞれに、意味の違うもので、当然、今の時代も、不登校と呼ぶ事例もあれば、登校拒否と呼ぶ事例もある」
ということである。
登校拒否というのは、
「学校には、身体が健康で、登校できるだけの状態にありながら。気分が乗らない、行きたくないなどという理由で学校を休む」
という場合のことであり、不登校というのは、
「登校の意志はありながら、苛めなどの理由で、学校にいけない場合などのことをいうのだ」
ということである。
ということは、
「不登校」
ということが言われ出した時、
「苛めというのが出てきた」
ということであり。
「苛めというものは、不登校の原因」
ということになるのだ。
だから、昭和の頃の学生もまわりの人も、
「不登校」
などという言葉を聞いたことがない。
ということであり、もっといえば、
「苛め」
などという言葉も昔にはなかったということで、それこそ、
「いじめっ子」
「いじめられっ子」
という言葉で言われていたということである。
だから昔は、
「いじめられっ子」
というのも、
「あの子が弱いから」
と言われたりもしていた。
今の時代に、虐められて学校に行けなくなった子供がいても、その子に、
「無理矢理、学校に来い」
などということはいえないだろう。
もしそんなことを言ってしまうのであれば、それこそ、
「地獄に行け」
といっているようなものではないだろうか。
これは、
「人と、かかわりを持たないといけない」
といっていることと同じで、今の時代では、
「人とかかわりを持てない人に、無理矢理かかわりを持たせようとすることはしないのではないだろうか」
というのも、
「人にはいろいろいて、わざと相手が困ることをしてみたり、自分がいじめられているからということで、弱肉強食のような気分で、相手を虐めようとする」
と考える人もいるだろう。
例えば仕事などにおいて、
「接客業」
をしている人がいるとしよう。
その時、相手が、クレーマーということもあるだろう。
「販売員は、絶対的に、客には逆らえない」
ということから、
「何を言われても、はいはいといって、逆らってはいけない」
という、
「業務マニュアルが存在している」
とすれば、相手のすべて言いなりになり、他の人と同じようにこなさなければいけない仕事があっても、クレーマーにでも引っかかったからといって、相手に、
「私には仕事がありますから」
といって、逃げていいものだろうか。
相手は、余計に腹を立て、
「何様のつもりだ」
といって、余計に文句をいうだろう。
そうなると、
「客と同僚の間でジレンマに陥り、精神的に病んでしまう」
という人だっているかも知れない。
だからこそ、
「精神的に強い人で、ストレスをあまり感じることなく、相手をやり過ごす気持ちで対応できる人」
ということでないと、接客業は務まらないということになる。
それを考えると、
「あの人は接客業失格だ」
というレッテルを貼られてしまうことだろう。
人には、
「向き不向き」
というものがあり、それを無理に押し付けてもいいのだろうか?
接客業が苦手な人が、
「自分は苦手だから」
といって、それ以外の、例えば、
「コツコツする仕事を望めば、それができればいいのではないか?」
と思えるのだが、違うだろうか。
確かに、昔であれば、
「会社の命令は絶対で、逆らえば、クビ」
ということもあった。
今も確かに、就業規則では、そうなっているだろう。
例えば、転勤を命じられ、
「断ることができない」
ということが就業規則に明記してあれば、それは、
「断れば、クビ」
と同意語と考えてもいいかも知れない。
そして、理由を、
「家族に介護が必要な人がいる」
であったり、
「子供が転校しなければいけない」
ということになるのが困るということであれば、それが理由になるのか?
というと、凡例では、
「それは転勤を断る理由のはなからない」
と言われている。
というのは、
「単身赴任」
という方法であったり、
「他の家族に、介護をお願いしたり、介護士を雇うなどという方法があるだろう」
ということで、この場合は、
「やむを得ない」
という理由にはならない。
ということである。
つまり、就業規則にも、
「やむを得ない理由がない限り、転勤を断れない」
と明記していることだろう。
だから、問題は、その
「やむを得ない理由に当てはまるかどうか?」
という解釈になるわけだ。
だが、
その人が、その仕事に、
「向き不向き」
というものがある場合、そこには、
「やむを得ない事情」
などというものがあるわけではない。
それなのに、
「人とかかわりたくない」
ということが、まるで、
「わがまま」
であり、
「本当は、皆人とかかわる社会でなければいけない」
などというのは、今の時代ではありえないという、
「ただの理想論」
というものを、押し付けているだけなのだ。
それが、いくら
「学校の先生」
であっても、
「親」
というものであっても、
「会社の上司」
であろうが、今でいうところの。
「パワハラ」
といってもいいだろう。
その人の立場を利用して、相手に押し付けることは許され合い。
だから、今の時代に、親子関係であっても、
「子供の虐待」
であったり、
「子供が親を殺す」
という事件が頻繁にあるのだ。
だから、親子であっても、
「相手のプライバシーであったり、性格的な面を知ろうともせず、無理矢理自分の教育論を押し付けたり、自分の経験を押し付けることは、反発を招くことになり、特に親子関係のように、
「決して、切っても切り離せない仲」
ということであれば、
「どうすることもできない」
ということになるのであった。
実際に、
「親が子供に押し付ける」
というのは、平成の頃にはあったかも知れない。
「昭和の時代に育った父親が、平成の時代に育っているのだから、相当の違いを持っているに違いない」
といえるだろう。
実際に、今でも、
「人とかかわれない」
というのは、ダメなことだ。
といって、子供に押し付けようとしている親もいるだろう。
それこそ、
「虐待に近い考え方」
といってもいいだろう。
かくいう山崎も、
「そんな親に育てられた口であった」
実は、山崎には、
「高校時代に、不登校の経験」
というものがあった。
その頃は、苛めというものの正体がだいぶ分かってはきたが、実際に、虐める方も、巧みになってきて、
「先生や大人には、決して分からないようにしている」
という状態でもあり、さらに、
「学校側も、そんな面倒なことにかかわりたくない」
とでも思うのか、下手をすると、分かっていても、
「見て見ぬふり」
というのをしているのかも知れない。
というのは、
「教育委員会に知られて、委員会から、対応しろと言われても、どうしていいか分からない」
ということになり、それなら、
「知らなかった」
ということにして、何もなかったことにできればそれでいいと、
「学校側での隠滅」
ということもありえるのだ。
実際に、学園ドラマなどで、
「それが原因で、事件が起こる」
などという話も結構あるではないか、
最悪、
「虐められていた生徒が、自殺してしまった」
などということになると、学校は、
「絶対に隠滅」
ということになるだろうし、
「死んでしまったのだから、死人に口なし」
ということで、すべてを、
「学校とは関係ない」
ということにしたいということで、
「知らなかった」
ということにしてしまえばいい
ということで、徹底的に逃げようとするだろう。
それは、
「自分たちに、罪はない」
ということで、
「罪の意識がない」
ということになるからだろう。
もっといえば、
「大人の世界であれば、なかったことにしようと思えばできる」
ということになるのであろう。
自分の考え方を押し付けるのは、今の社会のそういう複雑な構造を分かっていないのか、それとも、
「悪いことを考える人がいない」
という、
「お花畑的な発想」
というものか、あるいは、
「自分の息子なんだから、自分にできたことができないはずがない」
という、
「思い上がりも甚だしい」
ということからきているのか、
その考え方に、弁解の余地は、どれをとってもないだろう。
それこそ、
「相手は子供ということで逆らえない」
ということが根底にあるのか、
「完全なパワハラ案件だ」
といえるのではないだろうか。
しかし、さすがにずっと引きこもっていると、父親も何も言わなくなった。
というよりも、
「何も言えない」
と言った方が正解なのかも知れない。
下手にこれ以上何かを言って、
「自殺でもされたら?」
という思いでもあったのか。
ただ、不登校になったからといって、塾には通っていた。先生とも連絡だけは取っていたので、大学受験をすることはできたので、何とか大学に入ることはできた。
大学に入れば苛めなどもなく、高校時代までがまるでウソのように人生が明るくなった。
しかも、地元の大学ではなく、都心部の大学ということで、
「父親の呪縛から逃れることができる」
というわけであった。
実際に、都心部の大学に行けたことで、今までの人生が、ゴロっと変わった気がした。それがよかったのか悪かったのか、そこに油断があり、結局、
「就活や卒業」
というものに苦労することになった。
結局、地元に戻ってくるしかなかったが、それでも、会社に入社すると、少し離れたところでの勤務となったので、結局は一人暮らしということになり、家に帰ることはなかった。
「一人暮らしも一度すると、実家に帰るのが嫌になるわな」
と感じていた。
学生アパートに比べれば、就職してからのアパートは少しはいいところに住めた。会社の給料は決していいとはいえなかったが、それでも、他で贅沢をするわけではなかったので、これでよかったのだ。
一番、お金を浪費しないわけとすれば、
「車を持っていない」
ということか。
都心というわけではないが、それでも地方では一番の大都市、政令指定都市で、地下鉄もあるところなので、車は必要はなかった。
そういう意味で、家賃に駐車場代もいらないし、税金や車検代、ガソリン代などがいらないと、月々、数万の倹約ができる、これは大きかった。
さらに、山崎には、
「これと言ったお金を使う趣味はなかった」
酒もタバコも、昔からやらない。
パチンコや公営ギャンブルもやらない。
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