第2話 昭和と平成

 特に社会において、

「バブルの崩壊」

 というものが、

「社会全般をいかに変革させたのかということが分かる」

 ということである。

 社会というものが、どういうものなのか、高校時代であったり、大学生になってからというもの、そんなに簡単に分かるというものではないだろう。

「昭和レトロ」

 と言われるほど、社会は一変した。

 生まれは昭和だったが、赤ん坊の頃だったはずなので、分かるはずもない。

 親もすでに共稼ぎで、ちょうど自分たちの頃は、

「保育園問題」

 などがいろいろ出てきた

 時代だったのだろう。

 そんな時代になると、

「学校生活と家庭というものを、分けて考えたい」

 と思っていたが、

「そうもいかなかった」

 といってもいいだろう。

 その一つには、

「親の干渉」

 というものが大きかったような気がする。

 親というと、

「昭和時代に育った」

 ということで、親の学生時代というと、社会は、

「公害問題」

 などの社会問題が大きかったりした時代だった。

 そもそも、この時代というと、

「昭和39年における東京オリンピック」

 というものが、大きな機転となっていたといってもいいだろう。

 日本政府とすれば、

 東京タワーの建設の頃に、

「もはや戦後ではない」

 ということを打ち出し、さらに、

「戦後復興が終わり、完全なる独立国として再出発した日本というものを、全世界に宣伝する」

 ということでの一大イベントが、

「東京オリンピック」

 というものだった。

 このオリンピックが行われるということで、決定が決まってからは、急ピッチだった。

 直接的なオリンピックにかかわる建物の建造であったりするのは当たり前のことで、それ以外には、

「インフラの整備」

 というのが急務だった。

「道路や鉄道」

 と言った交通網の整理、当時は、

「三種の神器」

 と言われた、

「テレビ」

「電気洗濯機」

「冷蔵庫」

 などの一般家庭への普及。

 それらのためには、人海戦術が必要だった。

 交通網の整備は、

「国家プロジェクト」

 として行われ、三種の神器などの普及は、企業努力によるものだったが、そのために、

「田舎の学生の、集団就職」

 などというものが行われたり、農村からも、

「出稼ぎ労働者」

 ということで、東京に人が集まってきたりした。

 しかし、いくら職があるとはいえ、都会では劣悪な環境で働かされていて、

「戦後復興」

 といえば、聞こえはいいが、まるで、

「奴隷扱い」

 を受けていた人も少なくなかっただろう。

 それを思えば、

「社会の大変革」

 と言われ、

「高度成長」

 と言われた時代だったが、その後の反動というものをどれだけの人が分かっていたというのだろうか?

 実際に、

「何とかオリンピック開催」

 というものにこぎつけたが、それまで、

「外国の来賓に体裁が悪い」

 ということで、それまでの風俗習慣と言われていたような文化が、いくつも失われていた。

 レジャーにしても、性風俗業界も、結構ひどい目にあったところも多かっただろう。

 また、国家事業ということで、

「土地開発」

 などというものが結構行われてきた中で、

「立ち退き問題」

 などというものから端を発して、社会問題に発展したものもあった。

 それが、探偵小説界において、その派生型として起こってきた、

「社会派推理小説」

 と言われるものであった。

 特に、社会問題が大きかった、オリンピック前の問題としては、

「ダム工事などで、その受注をめぐっての、談合などにおいて、社会的不正が行われている」

 ということが、裏で起こっているというところから始まり、さらに、並行して、

「ダム工事などにおいて、ゼネコンや、その下請けが、そこに住んでいる人の立ち退きのために、飴とムチを使っている」

 ということが行われていたりするのだ。

 飴としては、

「お金での買収」

 ということであり、それでもだめな時は、やくざを使っての、強引な立ち退き対策を行ったりしていた。

 結局、立ち退かざるを得なくなり、最後には、住んでいた村が、

「ダム湖の底に沈んでいる」

 ということになった。

 その二つを同時進行で絡み合わせることで、

「人情というものが、社会の仕組みに切り込む」

 という内容の小説が、一種の、

「社会派小説」

 というものになるのだった。

 昭和の、

「熱血根性」

 という発想も、

「根性論で、強引なところがあるが、その根底には、人情というものがあり、人情は、任侠にも通じる」

 ということで、そもそも、やくざの世界というのも、

「任侠」

 と呼ばれる、

「人情からきている」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、

「昭和は熱血根性のレトロだ」

 といってもいいだろう。

 それが、

「古き良き時代」

 と呼ばれるゆえんでもあるが、決して、平成以降に育った人間には、簡単に理解できるものではないだろう。

 特に問題だったのは、

「東京オリンピックが終わった後」

 ということであった。

 これは、今だからこそ、皆分かっていることであるが、

「何かのイベント」

 の前には、

「そのイベント特需」

 ということで、経済は大きく発展する。

 しかし、問題は終わった後で、

「今度は、せっかく作った競技場や。選手村と言ったものを、いかに運営していくか?」

 ということが問題になるのだ。

 最近でも、

「オリンピックを開催した国の、数年後」

 ということで、特集が組まれていたが、

「かつての競技場に行ってみると、まだ数年しか経っていないのに、競技場の観客席には、いたるところでヒビが入っていて、そこから、草が生えてきている」 

 というものであった。

 実際に、インタビューを受けている内容によると、

「まったく利用しようというところはなく、今では、整備するだけの金もないので、荒れ放題だ」

 ということであった。

 これは、東京オリンピックの後の日本でもいえたことであり、会場をいろいろなスポーツイベントや、リーグに照会してみたが、どこも、

「利用しよう」

 というところは出てこない。

 もちろん、

「この会場をフランチャイズに使う」

 というところもそんなにはなかったのではないだろうか?

 選手村などの跡地には、団地などが建てられたのだろうが、実際には、そこまで入居者があったのかどうか分からない。

 そもそも、建物がなかった時代とは違い、その頃に、

「住む家に困っている」

 という、

「戦後を引きずっている」

 という人はいなかっただろう。

 そんな中において、その時代、

「特需で湧いた産業」

 というものの、後遺症と言えばいいのか、

「想像もしていなかったであろう問題」

 が、巻き起こってきたのだ。

 それが、

「公害問題」

 というものだ。

「建設ラッシュ」

 であったり、

「インフラ整備」

 ということから、工場を休む間もないくらいに、フル稼働で、建設に走ったおかげで、

「工場の出す煙突からの煙など」

 の影響で、

「空気が汚染される」

 ということになり、

「光化学スモッグ」

 などというものが出てきたことで、公害問題が沸き起こってきた。

「流してはいけない」

 という危険なものを、廃棄物ということで、工場は、垂れ流す。

 それを魚が接種したりして、

「食するには危険な魚が溢れることになる」

 つまり、

「大気汚染」

 と、

「海洋汚染」

 というものが、原因で、工場がある地域で、公害問題が出てくるというわけである。

 しかも、問題は。

「工場は、廃棄が原因ということが分かっていながら、証明されていないということで、どんどん垂れ流すことになり、その問題が、長く後世において、争われるということになる」

 というものであった。

 そんな公害問題が、社会問題になった時代、映画でも、小説の世界でも、結構

「社会派推理小説」

 というものが問題作品として出来上がっていた。

 というのも、それまでの

「探偵小説」

 というものとして、

「探偵が登場し、起こった事件のトリックを、明快に解き明かし、事件を解決する」

 という、爽快な話であったり、逆に、

「耽美主義」

「猟奇殺人」

「異常性癖」

 などと言った、

「変質的な性格を持った犯人が、おどろおどろしい事件を計画し、実行する」

 というような話が、それまでの、

「探偵小説」

 と呼ばれるものであった。

 それが、社会が落ち着いてきて、発展期に入ると、それに伴って、

「人間の感情」

 というものと、それに反して、

「社会の構造」

 という、

「人間の感情によらない」

 というものがかかわることで、新しい問題が引き起こされるというのが、

「この社会派推理小説」

 というものである。

「社会派推理小説」

 というものであろうが、

「熱血根性もの」

 と呼ばれるものであっても、根底にあるのは、

「人情」

 ということでは変わりはないだろう。

「熱血根性もの」

 というと、何かのスポーツというものが必須だったりする。

 特に、これが、学園ものと結びついたりすれば、そうであろう。

 これは、やはり、

「東京オリンピック」

 というものの影響かも知れない。

「野球」

 というものを中心に、

「テニス」

「バレーボール」

 などが、テーマに上がったりしていた。

「あまりにも大げさな演出」

 ということで、中には、

「目が燃える演出」

 であったり、今では絶対に考えられないような、

「特訓のための道具」

 であったり、さらには。

「物理学に真っ向から挑戦している」

 というような、ありえないと思われる

「魔球」

 なるものを使ったマンガが、続々登場してくるではないか。

 以前であれば、

「魔球」

 などという方に、興味をそそられるということであったが、今の時代であれば、

「その魔球を開発するための、特訓というものがありえない」

 ということになるだろう。

 特に、

「プロ野球漫画」

 などで、よくあったのが、

「魔球」

 の開発ということであった。

 信じられないような特訓を行って、

「信じられない魔球を開発する」

 ということであるが、

「一歩間違えれば、死んでしまう」

 ということを平気で行い、文字通りの、

「血と汗と涙の結晶」

 ということで、魔球が生まれるということになる。

 生まれたその魔球というのは、

「普通の選手では打ち崩せない」

 というものであり、プロの中でも、

「天才」

 と言われているバッターが、

「その魔球を打つためだけに、特訓する」

 ということになるのだ。

 考えてみれば、非常におかしい。

 というのは、これが、

「プロ野球という設定で行われている」

 ということである。

 プロ野球というのは、球団と契約して、大まかな意味で、

「どれだけの成績を収める」

 ということから、年棒が決まるということである。

 だとすれば、

「何もそんなに必死になって魔球を作ったり、魔球を打つだけのために、特訓をする必要がどこにあるのか?」

 ということである。

 主人公は、確かに、

「魔球を開発しないと生きていけない」

 ということで、魔球開発に特訓が必要なのかも知れないが、魔球が完成して、実際にライバルと対戦した時、

「ライバルがきりきり舞いした」

 ということになり、

「主人公の勝利」

 ということになるだろう。

 しかし、敗れた選手は、

「そこで、チームを離れ、魔球を打つために、秘密特訓に入る」

 というのだ。

 確かに、

「プライドが許さない」

 ということもあるだろうが、

「プロの選手として、球団と契約をしている」

 ということであり、その契約には、

「魔球を打ち崩す」

 などというのが書かれているわけではない。

 つまり、

「魔球を投げる相手を打てなくても、その分、他のピッチャーから打てればいいわけであり、そんな投手は、一つのチームにしかいないだろうから、他のチームで打ち崩せばいい」

 ということになる。

 しかも、そのピッチャーは、毎試合投げてくるわけではない。つまりは、

「年間、300以上の打席があって、その中で魔球を投げるピッチャーと対戦するのは、多くても、20打席くらいではないだろうか?」

 それを考えれば、魔球を打てなくても、他の選手で稼げばいいだろう。

「魔球を打つための特訓」

 といっても、どれだけの時間が掛かるか分かるわけではない。

 だから、その分の打席に立てないということになると、

「300以上ある打席で、今年は200くらいしか立てなかったということになると。当然。年棒はぐっと下がる」

 ということになる。

「プロ野球というのは、何といっても、お金」

 ということで、プライドのために特訓するというのは、普通に考えれば、

「バカげている」

 といってもいいだろう、

 特に、

「監督、コーチが何も言わないのか?」

 ということである。

 本来であれば、そんな選手がいれば、

「輪が乱れる」

 ということになるはずだ。

 当然、他の選手も、

「なんであいつだけ」

 ということになるだろう。

 それを思えば、

「一人の選手のわがまま」

 ということになるわけで、その選手が、中心選手であればあるほど、問題が大きいのではないだろうか。

 何といっても、

「敵前逃亡」

 といってもいい。

 昔の軍隊であれば、

「敵前逃亡、銃殺刑」

 というのが当たり前だった。

 査問委員会に掛けられることも、裁判に掛けられることもなく、

「逃げているところを後ろから、銃殺にする」

 ということも無理もないこととして行われていた。

 これは日本軍に限らず、他の国の軍隊にも言えることであり、この問題というのは、

「輪が乱れる」

 ということが一番大きな問題だったのだろう。

 もっといえば、

「士気の低下」

 ということである。

 戦線離脱の兵が一人でも出ると、他の兵も中には、離脱を試みる人もいるだろう。

 そうなると、

「命令系統もめちゃくちゃになり、銭湯どころではなくなり、相手に攻められると、あっという間に全滅する」

 ということになりかねないということだ。

 それを防ぐために、

「敵前逃亡、銃殺刑」

 ということになるのだ。

 実際に、

「今まで一緒に、生死の境をかいくぐってきた仲間を、いきなり銃殺にしようというのだから、それこそ、泣いて馬謖を斬るというたとえになる」

 ということであろう。

 そんな状況を考えると、

「いくら魔球を打つため」

 ということであれ、中心選手が、

「いつまでかかるか分からない」

 という特訓のために、戦線離脱ということが、

「本当に許されるのだろうか?」

 ということである。

 そして、実際に、

「死ぬ思いの特訓を重ねて、戻ってきて、相手の魔球を打ち崩した」

 ということになれば、

「今度はお互いの立場が逆転する」

 というわけだ。

 打たれた投手は確かにショックだろう。

 しかし、この選手も、同じように、

「新魔球を開発する」

 といって、宣戦を離脱し、

「新魔球開発」

 というものに専念するということになるだろう。

 ただ、これも、

「ちょっと考えれば、おかしい」

 といえるのではないだろうか?

 というのも、

「撃たれたのは、一人の選手にであり、それも、特訓を重ねてやっと打ったというだけではないか?」

 今度は、ピッチャーからの立場で考えれば、

「打ち崩した相手は、その時たまたま打ち崩せたというだけのことである」

 つまりは、

「10割バッターなどはいない」

 ということだ。

 どんなに頑張っても、なれるとしても、年間、

「三割五分」

 くらいがいいところであろう。

 どんなに頑張っても、日本で四割を打った人はいない。

「つまりは、半分以上が、打ちそこない」

 ということになるのだ。

 そういう意味では、

「ピッチャー有利」

 ともいえるだろう。

 しかも、その魔球は、

「一人にしか打たれているわけではない。いくら特訓をしたとはいえ、その打席では、たまたま打てただけだ」

 ということになるのかも知れない。

 それを考えれば、

「何も、また新しい魔球を開発する必要などない」

 ということではないだろうか。

 前述のように、年間、

「20打席がいいところ」

 という対戦相手に、4割打たれたとしても、ヒット数は8本でしかない」

 ということになるのだ。

 他の選手には打たれていないので、魔球をウイニングショットにしている限りは、そんなに打たれるということはない。

 だから、わざわざ、宣戦を離脱してまで、必至になって魔球を開発する必要などないといえるのではないか。

 これが、いわゆる、

「熱血根性もの」

 という

「スポーツバージョン」

 といえるのではないだろうか?

 そもそも、マンガなのである、

 ストーリー性がなければ面白くないし、

「現実味がない」

 という夢物語の方が、読む人も、興奮するし、何よりも、

「読者がそれを求めている」

 ということである。

 昭和であれば、

「現実的ではない」

 という、そういう話がもてはやされた。

 しかし、それが、昭和ではない時代に入ると、今度は、

「揚げ足を取る」

 という人が増えてきて、

「今の話のようなものが生まれてくる」

 ということになるであろう。

 それが、

「昭和という時代の文化」

 であり、平成以降は、

「冷めた考えの時代だ」

 といってもいいかも知れない。

「冷めた」

 というと、語弊があるかも知れない。

 その冷めた考えで、

「昭和を罵る」

 というのが、当時の平成になった時代、いわゆる、

「バブル崩壊」

 という時代にマッチしていたのではないだろうか。

 特に、この時代では、

「バブル崩壊」

 というものが、

「神話の崩壊」

 ということだっただけに、余計に、

「夢物語が通用しなくなった時代に突入した」

 といってもいいだろう。

 特に、

「銀行は潰れない」

 と言われた神話が、

「バブル崩壊」

 とともに、最初に出てきたということが問題だった。

 もちろん、そこには、

「事業拡大すればするほど儲かる」

 ということだったので、銀行もその時代の余勢を買って、

「もっとたくさん融資しましょう」

 という。

「過剰融資」

 というもので、儲けようとしていたのだった。

 実際に、たくさん貸し付ければ、それだけ利子の分が儲けになるわけなので、謳歌るというのは当たり前だったのだ。

 しかし、皆が、

「バブル時代が永遠だ」

 と思っていたのであろうか。

 確かに、

「盛者必衰」

 ということはないと教わってきたはずなのに、肝心の時になって、誰もそのことに気づかないというのはありえないだろう。

 分かっている人がいたのだろうが、一人の人が、いくら経済学者だとしても、

「永遠ではない」

 といっても、あの時代の勢いを止めることはできないだろう。

 それを考えると、

「下手に騒ぎ立てると、余計な混乱を招く」

 ということになり、どうしようもない状態になるといっても過言ではない。

 確かに、

「今の時代だから、何が悪かったのか?」

 ということは、その後の検証で分かっているのだろうが、それでも、本当のことをどこまで皆が分かっているか?

 ということを考えると、疑問符が残るのだ。

 平成になり、

「夢まぼろしは、夢まぼろしでしかない」

 ということが分かってくると、昭和の、

「スポーツ根性もの」

「熱血根性もの」

 というものが滑稽であると言われるが、逆に冷静になって平成という時代を見ると、今度は、かつての昭和という時代が、

「古き良き時代」

 ということで、

「新鮮ではないか?」

 と見えてくるだろう。

 やはり、昭和の本質を知らない人が社会の中心にいるという時代になってきたからだといえるのではないからであろうか?


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