第3話「かけがえのない時間」

「そんな…いきなり…私、もう昔みたいには弾けないから…」

「きみが病気で動けないことも知っていた。だから、強引にも連れ出した。その結果どうだ?動いたろ?」

「確かに…今身体中のどこも苦しくない。でも私が弾いてたのは練習曲…つまり〈エチュード〉なんだよね。それも楽譜がないから、記憶を頼りにデタラメを弾いていただけなの。」

「いいじゃないか!例えそれがきみにとって陳腐な演奏だとしても、一人の心を掴んだのは事実なのだから。自分にできることを探そうよ。ね!」

それはあまりにも眩し過ぎる笑顔だった。


暫くしてルイは立ち上がり、ピアノを演奏し始める。

誰もが知るクラシックの名曲。私なんかでは到底敵わない、それはそれは見事な演奏だった。

ルイの美しい演奏が脳を蝕んでいく度、コンクールを諦めた自分自身の存在意義を見失いそうになる。

恵まれた家庭に人望。そして才能。…私の苦しみが分かるわけがない。


「さて、躍ろう。鐘が鳴るとこの部屋に沢山の人が集まる。」

ルイは動揺する私の両手を握り、舞踏を教えた。

数年振りに動かす私の肉体は筋肉の動かし方さえ忘れていたが、

徐々に慣れてきたのか笑顔を見せる余裕が生まれ、それを見たルイは安心したように微笑んだ。


鐘が鳴り、華美な衣装を纏ったお客さん達が続々と集まる。

不安で震える手。お粗末なクオリティのエチュードを披露すると、皆アレグロ〈軽快な〉のリズムで優雅に躍る。舞踏会は思いの外上手くいったようだ。

演奏が終わると温かい拍手。そして交流会。ワイン片手に貴族同士が和気藹々と話している。

「来てくれてありがとう。きみにお土産がある。よかったら食べてくれないかい?」

ルイがテーブルに用意してくれたのは手作りだというタルト・タタン。

病院に居た頃は何を食べても味がしなかったが、今なら美味しく感じられるかもしれない。

口に運ぶ。手術で傷ついた喉から出た血の味がタルト・タタンに染み込む。

ただ、「美味しい」。素直にそう感じた。

単に栄養を摂取する目的以外の「食べる楽しさ」を久しぶりに感じたかもしれない。

こうして怪しい少年との不思議な一日が終わった。


次の日もルイはやってきた。窓の縁に座りながら私を誘う。

「さすがにそんな変な場所から来るのやめて(笑)」

「ごめんごめん、さぁ。今日も行こうか!」

今日は舞踏会が無いので人生の中でなかなか行く機会のないお城の内部を散策することに。

真っ赤な絨毯に蝋燭の灯りは現代の空気を全く感じさせなかった。

「ここはコックの寝室で、ここが使用人の寝室、ここは…なんか、お偉いさんの部屋だね(笑)」

「詳しくないんかい!」「僕もちょっとよく分からない(笑)」

歩いても歩いても無数の部屋。「こんな場所、初めて見た。現実に存在するんだ…。」

突き当たりの部屋から甘い香り。「なんだこの匂い?」「入ってみる?」

扉を開けると暗い倉庫だった。棚を開けると見たこともない大きさの氷塊が敷き詰められた棚に大量の苺が保存されていた。これは…電気のない時代の冷蔵庫?

「美味しそうだね。食べるかい?」「怒られちゃうよ(笑)」

くだらないやり取りで笑い合う。

折角身軽になったので今度は城の周りを走り回ってみる。

満月昇る静かな城で子供のように鬼ごっこをして遊んだ。

身体が自由に動くって素晴らしい。

私達は日に日に仲良くなり、気付けば毎日ルイと会うようになっていった。

毎日毎日、長い時間を共有し、いつしかたった一人のかけがえのない存在になっていた。

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