第9話

山梨に戻ってから、胸の奥にずっと不思議な感覚が広がっていた。俺たちの夏は、初戦敗退という形で終わった。あの瞬間に全てが詰まっていたような気がして、今でもその感触が手の中に残っているようだった。

新幹線の中、信二は窓の外を眺めながら、ぽつりと「後悔はないよ」とつぶやいた。その横顔には、どこかすがすがしさがあった。たった一度だけでも、甲子園の土を踏めたことが、信二にとって何よりも大きかったのだろう。

そして、まさかあの日の千沙とのハグがこんなに話題になるなんて思わなかった。

「甲子園球児、彼女に慰められる」というタイトルでネットに写真が拡散され、顔は隠されていたものの、周りからは散々茶化された。

特に信二には「俺の彼女を奪ったな」なんて、冗談にもならない言いがかりをつけられて、死ぬほどりんやはじめたち、そして監督までにもいじられた。しかし、それも一週間もしないうちに収まり、今は静かな甲府のお盆の夏が広がっている。

練習もなく、課題があるのにやる気も出ない。

ぼんやりとベッドに寝転がり、天井を見つめる時間ばかりが増えた。妙な達成感と、何かを失ったような空虚感が心の中でせめぎ合っている。終わりが訪れたはずなのに、どこかで何かが始まっている気がした。そんな中で唯一の救いは、千沙とようやく心から繋がれたことだった。それだけが、俺を支えているような気がする。

「もう少しだけ、千沙と一緒にいられたらいいな」

そんなふうに思いながらぼんやりしていた時、スマホが軽やかな通知音を響かせた。画面に浮かぶ名前を見た瞬間、心臓が跳ねる。付き合い始めたとはいえ、やっぱり好きな人からの連絡は特別だ。

「起きているよ。今から出かける」

何の迷いもなく返信を打ち、俺は駅へ向かって家を出た。真夏の早朝、蝉の声が遠くに響いている。胸の鼓動は、どこか新しい始まりを告げているようだった。





「待った?」

駅前で声をかけられ、振り返ると、そこには千沙が立っていた。俺は思わず時計を確認した。15分前には着いたはずなのに、もう千沙はここにいる。

「全然、今着いたところ」

少しぎこちなく笑いながら返す。千沙は白色のワンピースに麦わら帽子という夏らしい装いで、駅前の観光客の群れの中でもひときわ目を引いていた。清里駅の観光地らしいざわめきの中、千沙の姿がまるで映画のワンシーンみたいに鮮やかに映る。いや、正直、かわいい。それ以上の言葉なんていらない。

「行こっか!」

千沙が無邪気に笑って手を引く。その仕草に一瞬ドキリとして、少し遅れて歩き出す。

私服デートなんて、考えてみれば初めてだった。これまで一緒にいたのは、部活帰りや学校の延長ばかり。付き合い始めてたった一か月で、離れ離れになった。でも、今こうして一緒にいるだけで、その空白がどこか埋まっていく気がする。

駅を出て、黄色の車体が特徴のピクニックバスに乗り込むと、車窓から見える高原の景色がだんだんと広がっていく。行き先は清泉寮。千沙が提案してくれた場所で、俺にとっても初めての訪問だ。

「二人だからこそ、改めて来たかったの」と彼女が笑う。その一言だけで、今日この時間が特別に感じられた。

バスを降りると、目の前には広がる牧草地と澄んだ青空。高原の風が心地よくて、まるでどこか海外の田舎町に来たみたいだ。千沙が少しはしゃぎながら振り返り、俺に手を振る。自然にその後ろ姿を追いかける自分がいる。

「うぉー、すげえな!」

清泉寮のテラスから見える壮大な景色に、思わず声が漏れる。遠くに見える富士山は、学校から見慣れたそれとは全然違う。標高の高さを感じる澄んだ空気と視界の広がりに、心が踊る。

「なんか、あれだね」

「何が?」

「大気って、子どもみたい」

千沙が俺の横でクスクスと笑う。その笑顔が柔らかくて、胸の奥がじんと熱くなる。ただ彼女が楽しそうにしている。それだけで、俺の心は満たされていた。

名物のソフトクリームを食べたり、ポール・ラッシュ記念館を見学したりして、次に萌木の村に移動する。そこで名物のカレーライスを頬張った後、その周りをブラブラと散歩することにした。

夏だというのに、不思議なくらい新緑の匂いが強い。風がそよぐたびに、木々の葉が小さな波を立て、光を細かく跳ね返す。その緑が目に映るたび、胸の奥からじんわりと何かが溶け出すような、そんな感覚を覚えた。

「なんだか、マイナスイオン感じる」

隣を歩く千沙がぽつりと言う。その声は小さかったけれど、風に溶け込んで自然に耳に届いた。

「確かに。夏なのに、何か涼しいね」

そんな他愛ない会話を交わしながら森の中を歩いていると、不意に目の前にメリーゴーランドが現れた。少し古びてはいるけれど、カラフルな装飾がどこか懐かしく、木漏れ日を浴びて柔らかく輝いている。

「なんでこんなところに……?」

思わずつぶやくと、千沙はにっこりと笑う。

「乗りますよ?」

まさかとは思ったが、どうやら拒否権は無いらしい。係員からチケットを買い、早速メリーゴーランドに足を踏み入れる。

「他の人、誰もいないんだな」

「うん、いいじゃん。貸し切り」

千沙が一番端の白馬にまたがる。俺も隣の馬に乗り、少しぎこちなく腰を下ろすと、突如として「ウィーン」という低い音が響いた。動き出したメリーゴーランドは、ゆっくりと回転を始める。

「森の中のメリーゴーランド、なんかエモいね」と、思わず口に出す。

それを聞いた千沙は嬉しそうに、「ね? なんか、不思議な感じするよね」と言った。

森の中のメリーゴーランド。回転するたびに、風景がゆっくりと流れ、緑の匂いと木漏れ日が交互に視界を満たす。足元の地面が動いているのに、心はまるで止まったように静かだった。

「こういうの、乗ったのっていつ以来だろう」

「小学生の時とかじゃない?」千沙が笑う。

「私も部活があると、なかなか遊園地なんか行けないよね」

彼女の声が、メリーゴーランドの柔らかな音に混ざって優しく響く。ふと横を見ると、千沙は目を閉じ、そよぐ風を楽しんでいるようだった。表情にはどこか無邪気な幸福感が漂い、胸がきゅっと締めつけられる。

「でも、俺は今楽しい」

つい本音が口をついて出る。

「うん、私も」

千沙がそっと目を開けて微笑む。その笑顔がなんとも言えず温かくて、この時間がずっと続けばいいのにと、心のどこかで願ってしまった。

回転するメリーゴーランドの上で、いつもより少しだけ近い距離で交わす会話。森の匂い、千沙の笑顔、そして静かな夏の空気。どれもが鮮やかで、どこか夢の中にいるようだった。





気づけば夕方、陽が傾き始め、空が茜色に染まる。その景色は、朝とはまた違った美しさで、高原全体を包んでいた。

「どうする? そろそろ帰る?」

「うん、そうだね」

千沙と並んでバスに乗り込み、駅へ向かう。そして小海線の電車に乗ったころには、すっかり夜の気配が漂い始めていた。

電車の揺れが心地よく、窓の外には、星がひとつふたつ瞬き始めている。沈黙の中で、千沙がぽつりとつぶやいた。

「本当はさ、こんなことをもっと早くしたかったね」

千沙が小さな声でそう言った瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。俺は千沙を、ずっと待たせていたんだ。その思いが込み上げてくる。

「ごめん。けどさ」

言葉を飲み込むようにして、俺は彼女に向き直った。周りの視線なんて気にしなかった。電車の中だろうが、どこだろうが関係ない。俺は千沙の両肩にそっと手を置き、その瞳を真っ直ぐに見つめた。

「俺はここにいる。もう安心して」

その言葉に、千沙の目がわずかに潤む。そして泣きそうな顔のまま、かすかに「うん」と頷いた。その姿を見た瞬間、心の奥底から強い決意が生まれた。

彼女をもっと笑顔にしたい。もっと幸せにしたい。残された時間がどれだけあるか分からないけれど、この瞬間から俺ができることを全部やろうと思った。それが、俺の中で揺るぎない事実となった。

だけど、ふと横目で見た外国人観光客カップルの「ワーオ」という驚いた顔に、一気に現実に引き戻される。千沙も気づいてしまい、頬を赤く染めてぷっと吹き出す。

「もう、恥ずかしいじゃん!」

「ごめん。でもさ、いい思い出になるだろ?」

二人で顔を見合わせて笑い合う。その笑顔が、今日一日で一番輝いて見えた。電車の揺れと共に、俺たちの夏は少しずつ、終りに近づいていく。





「一旦ストップ!」

 全体合奏の音がピタリと止む。土橋の指揮棒が空中で動きを止めた。指揮台から冷静な視線が各パートを見渡す。お盆明けだというのに、練習はまるで本番直前のような集中力だ。 

県大会の演奏が満足のいく出来ではなかったことが、土橋の厳しい眼差しからひしひしと伝わってくる。

「ペットのファースト!」

「はい!」

 先生の視線が私を捉えた瞬間、背筋がピンと伸びる。

「第四楽章、良くなった。この調子でいこう」

「はい!」

 抑えきれない喜びが込み上げる。心の中で小さくガッツポーズを決めた。前を見ると、瑠璃が微笑みながら私に親指を立てている。その瞬間、練習の辛さも全て報われたように感じた。

「千沙先輩、今日の音、本当に最高でしたよ!」

 合奏が終わるや否や、雪ちゃんが声を弾ませて駆け寄ってきた。その無邪気な笑顔に、私もつられて頬が緩む。

「ありがとう。でもね、今日は調子が良かっただけかもしれない。ちゃんと練習して、この感覚を忘れないようにしなきゃ」

 それでも、本当に嬉しかった。悩みを自分で大きくしていたのかもしれない。そんなことを考えていると、突然後ろから肩を叩かれた。

「ねえねえ」

「瑞希、どうしたの?」

 振り返ると、瑞希が相変わらず真剣な表情で立っている。

「土橋先生が職員室に来てってさ」

 そう言われて指揮台の方をちらっと見るが、土橋の姿はもう消えていた。

「何で職員室……面倒くさいね」

 だるそうに言いながら歩きだすと、隣を歩く瑞希の表情がふっと和らぐ。

「まあね、何か大事な話かもよ?」

 朱雀会館を出ると、相変わらず甲府の熱風が体にまとわりつく。もうすぐ8月の後半になるというのに、この暑さは一向に収まらない。

「でもさ、千沙」

「ん?」

「やはり音が良くなったね。全然違う」

瑞希が少し照れくさそうに言う。その一言に、思わず足を止めそうになる。彼女は普段、めったに人を褒めない。それはきっと、自分に厳しいから。他人に対してもその基準を持っている。でも、だからこそ嘘をつかない。私は思わずニヤニヤしてしまった。

「え? 何?」

「いや、瑞希が人を褒めるって珍しいなって」

「いや、本音だよ?」

 瑞希は少しムッとした表情で振り返る。でも、その顔がなんだかおかしくて、また笑ってしまった。





「和田、橘、すまんな。職員室まで来てもらって」

職員室に入ると、土橋が立ち上がり、職員室の隣の会議室を指さした。どうやら誰にも聞かれたくない話のようだ。

会議室に入ると、瑞希と私が並んで座り、その反対側に土橋が腰を下ろした。少し緊張しながら話を待つと、予想外にいい話が飛び出してきた。

「本当に急だが、明後日に渋谷のホールでプロの吹奏楽団の演奏会があってな」

土橋は淡々と話を続ける。

「そこで、バーンズの3番もフル演奏される」

その瞬間、瑞希と私は思わず顔を見合わせた。

「たまたまその楽団に、俺の教え子がいてな。気を遣ってチケットを2枚くれたんだ。俺はその日、部活や職員会議で忙しいが、お前ら、ちょっと行ってみないか?」

明後日の日中は練習と夏期講習の予定しかない。受験勉強もやばいと思いつつ、心が踊った。

「正直、甲子園の後からお前らの演奏のレベルが上がっている。曲に振り回されるんじゃなく、必死に食らいついている感じがする」

土橋の声は冷静だったが、その中に熱さが滲んでいた。

「ただな、お前たちならもっと上に行ける気がする。だから部を代表して二人で行ってきて、何か掴んでこい。夏期講習は俺から先生たちに言っとくし、交通費も出してやる」

土橋は厳しい先生だけれど、時折こうして心遣いを見せる。だから卒業後も慕う生徒が多いのだ。

瑞希と私は顔を見合わせる間もなく、即答した。

「是非、行きます!」





当日、甲府駅で瑞希と待ち合わせ、特急あずさに乗り、まずは新宿を目指した。

「お茶飲む?」

隣の瑞希は私服で、部活の時よりもリラックスした様子だった。

よくよく考えると、瑞希とこうやって出かけるのは初めてだ。普段は瑠璃たちと遊ぶことが多かった。別に瑞希と仲が悪いわけではないが、なんとなく、友達というより、身内とか、仲間って印象が強かった。

「ありがとうございます」

ついついかしこまって答えてみると、瑞希は少し笑いながら「何それ」と困惑した様子だった。その表情を見ながら、つい、3年前のことを思い出す。

元々県内の公立高校では、あまり吹奏楽推薦という形はなかった。ただし、個人的に吹奏楽の顧問が、来て欲しい中学生に声をかけること自体は、たまにあることだった。

私は中学からトランペットを始め、中学三年生でたまたま西関東大会に行けた。正直そこまで思い入れはなかったが、なんとなく淡々とやっていた。本番のソロも深く考えず、なんとなく吹いて、終わった。感動もあったが、そもそも熱意に欠けていた三年間であったと思う。

そして同じ山梨県代表校として、瑞希のいる中学の演奏を聞いた。それは圧巻だった。音の響きの違い、そして何より瑞希のクラリネットソロが印象的だった。正直中学生離れしていた。しかし表彰式、私たちの中学校は銅賞であったが、瑞希たちは全国大会へ行けない金賞、通称ダメ金だった。その時の会場のどよめきを今でも覚えている。

そしてその場で、たまたま私たちのソロの演奏を聴いていたのが、土橋であった。

部活を引退した後、地元の高校に通うつもりで、なんとなく受験勉強をしていた。部活もほどほどに、アオハルも楽しめればいい。そんな軽い考えだった。

でも、ある日、土橋がわざわざ学校に来て、私を勧誘してきた。あの真剣な眼差しと熱い言葉が印象的で、気づけば第二甲府への入学を決めていた。

第二甲府の部活動体験に参加したとき、一番驚いたのは和田瑞希がそこにいたことだ。噂では、彼女は福岡の名門校に進むと聞いていたからだ。ただその場にいるだけで驚きだったのに、演奏を聴けばさらに衝撃を受けた。成長した、圧倒的な実力。そして、どこか近寄りがたいストイックな雰囲気。それが彼女と周囲との微妙な距離感を生んでいた。

そんな中、一年生の冬が近づく頃、瑞希が急に声をかけてきた。

「ソロコンテストの伴奏、お願いしたいんだけど」

正直、なぜ私? と思ったが、断る理由もなかった。

そしてそれがきっかけで、少しずつ距離が縮まっていった。瑞希の演奏に触れるたび、彼女のようになりたいと思うようになり、自然と個人練習の時間が増えていった。

とはいえ、瑞希とはプライベートで遊ぶような関係ではない。瑠璃のように気軽にふざけ合う間柄とも違う。でも、大人でいうビジネスパートナーみたいな、尊敬と信頼で成り立つ関係。それが瑞希との独特な距離感だ。

「そろそろじゃない?」

瑞希の声にハッとして窓の外を見ると、新宿のビル群が目の前に広がっていた。





 渋谷のオーチャードホール。その壮麗な佇まいに圧倒されたが、演奏が始まると、そんな外観すら霞むほどの感動が押し寄せてきた。

『交響曲第3番』が、今回は全カットなしで演奏されると聞いていた。もちろんカット無しの演奏はユーチューブで聴いたことはある。しかし、完全版の、そして生の迫力は想像を遥かに超えていた。

特に心を打ったのは、音の表現力だった。プロの音の色彩は驚くほど豊かで、同じ楽器でこんなにも違う音が出せるのかと圧倒された。第三楽章が進む中、ふと周囲を見ると、涙を拭う観客が何人もいた。その音楽が人々の心の奥深くに響いていることが、ただ座っているだけで伝わってきた。

そして迎えた第四楽章。華やかで希望に満ちた楽章だが、ただ明るいだけではなかった。どこか感傷的で、優しさに包まれた前向きさがそこにはあった。心の温かさが、旋律のひとつひとつに宿っていた。それを聴いて気がついた。私たちの演奏する第四楽章は、ただ「元気」で「勢い」だけだったかもしれない。第三楽章からの流れは、単なる気持ちの切り替えに終わっていた。そこには感情の連続性や、物語のようなつながりがかなり欠けていたように思う。

この違いは何なのだろう。私たちは楽譜をなぞるだけで、まだまだ何もできていないのではないか。そんな問いが胸に浮かんだ。そして、それを考えさせられるほど、この演奏は私にとって特別なものになった。

 会場を後にして、渋谷駅に向かう途中、瑞希は終始黙っていた。それは感動したからというわけではなく、おそらく今の自分たちの演奏に足りなかった部分が明白になったからだろう。私はその様子を伺いながら、ひたすら人口灯に溢れる渋谷の街を歩き続けた。

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