第8話
「さあ、5回まで終了しましたが、解説の安村さん。この試合の状況をどうご覧になりますか?」
「はい、当初の予想通りと言いますが、やはり大阪TI学園は強いですね。これまでにヒットは7本、打線がしっかりとボールを身体に引き寄せて、強烈な一撃を放っています」
「そうですね。TIカルテットと呼ばれる主力選手たちは、高校日本代表にも選ばれるほどの実力者。ここまで見事なヒットを打っていますが、それでも点数は2点止まり。思うように得点が伸びていません」
「その通りです。ここまで2点のみというのは、少し物足りないですね。優位に立っているはずのチームが、ちょっと焦りを見せているようです。まあ、こうなるとやはり、第二甲府高校のバッテリーに敬意を払わなければなりません」
「まさにその通りですね。第二甲府高校のピッチャーは工藤光、二年生です。そして、キャッチャーは三年でキャプテンの三浦信二。先輩後輩バッテリーという形です。特に工藤君、今年の5月に転校してきたばかりで、元々のエースの東君が故障で欠場していたため、急遽チームの大黒柱に任命されました。しかし、彼の投球はまさに圧巻です」
「そうですね。実は高野連の規定では、転校してすぐに公式戦に出場することはできないのですが、工藤君はその規定には引っかからなかったため、今回こうして登板しているんですね。これには何か運命的なものを感じます。回を重ねるごとに、工藤君の投球がまるで芸術作品のように洗練されていく様子が見て取れます。この後も楽しみですね」
「すごい」
甲子園という巨大な舞台に圧倒されながらも、それ以上に目の前で繰り広げられる死闘に心が引き込まれていく。信二も、工藤君、いや、大気も、全身全霊で戦っている。その姿は、ただの試合を超えた何かを感じさせる。けれど、今年の夏、どの試合よりも二人はイキイキして見える。
甲子園という夢の舞台、ただそれだけじゃない。二人は今、素直に向き合っている。自己矛盾を抱えず、ただ自分を全力で楽しんでいる。それが、こんなにも魅力的に映るんだ。
その二人のつくるデュエットは、どんどん球場全体を巻き込んでいく。相手チームも、それを感じているようだ。大気が打ち取ると、相手は悔しがり、逆に打たれると、バッターは子どものようにはしゃいで、大気は悔しさを露にする。損得や無駄な考えがすべてそぎ落とされ、ただ目の前の勝負に集中している。
私も、そんな風に全力で向き合っていた時があっただろうか。額を伝う汗の冷たさを感じつつ、自分の内面に引きこもった恥ずかしさが、じわじわと込み上げてくる。
「はい、次攻撃!」
瑞希の声が響き渡り、部員たちが次々と楽器を手に取って準備を始める。気づけば、もう7回の裏。大阪TI学園に2点を取られ、こちらはヒットゼロという厳しい状況。世代ナンバーワンエースを攻略するのは、やっぱり並大抵のことじゃない。
「はい、サウスポー!」
野球部のマネージャーがフリップに次の演奏曲を表示させ、瑞希に指示をする。観客席からのざわめきが少しずつ静まる中、アナウンスが続く。
「3番 ファースト 戸堂君!」
その瞬間、演奏が始まる。瑠璃も隣の雪ちゃんも斜め前の熊谷君も、みんな必死に楽器を鳴らしている。私はその音に身を委ねながら、それよりも何よりも、この広大な甲子園で演奏できることが本当に嬉しくてたまらなかった。今まで、総合芸術文化祭や大きなホールで演奏したことはあるけれど、ここはまったく違う。広大な球場、その中で大勢の観客がいる。圧倒的なその景色、迫力が、こんなにも異なるものだとは思ってもいなかった。
「あの二人が、私たちにこんな景色を見せてくれた」
それが、ただただ嬉しくて仕方なかった。
「うぉー!!!!」
松田君の雄叫びと共に、マネージャーが「ヒット!」のフリップを掲げる。戸堂君がついに粘り強くセンター前にヒットを放った。次は信二だ。
「おい、信二。そろそろ決めてくれや」
ネクストバッターズサークルに向かう前、大気がけだるそうに言ってきた。その口調に余裕を見せたがっているのが分かる。でも、俺はその裏に隠れた焦りと、そして楽しさも感じていた。内心では笑いたくなるが、そんなことを口に出すわけにはいかない。俺は黙って打席に立った。
だけど、この試合、しんどい。相手がどれだけ強いかを肌で感じている。大阪TI学園。間違いなく全国トップクラスのバッターたちが揃っている。これだけ打たれながらも、どうにかこうにか点を取られずに来たのが不思議なくらいだ。
それでも、俺たちは戦い続けなければならない。去年の大気なら、もうとっくに崩れていたかもしれない。でも、今は違う。
大気。お前は、変わった。いや、成長した。ここまで精度を上げてきたなんて、正直驚きだ。今の大気の球速は、速いわけではない。それでも、しっかりと制球し、相手を一球ごとに追い込んでいく。お前の進化が見えるからこそ、俺も絶対に応えたい。けど、その分、プレッシャーもある。
「それでも、気合だけでこのピッチャーは打てないんだろうな」
思わずそんな考えが頭をよぎる。やはり、ドラフト有力候補の相手エースは、やばかった。
だが、何よりも今日は、それ以上に大気が別格だ。
「大気、頼むぞ」
その言葉を心の中で何度も繰り返していた。これが、この夏の最後かもしれない。おそらく、それは工藤光ではなく、大気にとってもだ。2年生のくせに、精神的には完全に3年生のような強さを感じる。
「キーン!」
戸堂の打球がしっかりと外野に飛んでいく。これでようやく、ノーアウト1塁だ。チャンスが広がった。
「よし、行け!」
大気の声が響く。その目には、明確な期待と、少しの焦りが見える。でも、焦りがあってこそのプレッシャーだ。それを力に変えなきゃならない。
監督を見ると、指示は「お前に任す」だった。
わかっている。こいつのスライダー、鋭くて、簡単には打たせてくれない。でも、あれが「遅い」球だってことは、俺は知っている。
「ストライク!」
外角低めにスライダーが決まる。少し息をついて、土を踏みしめた。こういう時、焦るとろくなことがない。冷静に、冷静に。こいつのスライダーを見逃すわけにはいかない。次の球をしっかり打つ。
「ゴンッ!」
バットがかすった瞬間、ボールが詰まった感触と共に、三塁側のベースラインにボールが流れていった。すぐに「出るな」と思いながら、無意識に一塁へ全力で走り出す。
足音が響き、グラウンドに響く歓声。振り返る暇もない、ただひたすらに足を運び続ける。その瞬間、後ろから「シュッ」と音を立てて送球が飛んできた。冷静に、ただ一塁のベースを目指して足を速めるが、送球の勢いが勝る。
「アウト!」
その声が響き渡る。ガクンと肩の力が抜け、ベンチに向かって歩き始める。仮にベースラインに残ったら、ノーアウト1塁、2塁。次のバッターが打ったら、最悪同点。ファウルの可能性もあったが、それならさっさとアウトにし、次を抑えればいい。相手のキャッチャーの考えだろう。
ちらっと相手のキャッチャーを見ると、ものすごい形相でこちらを見ていた。なるほど、大した自信だ。俺の相棒のピッチャーなら、次の打者も抑えるってことね。
けどもういい。ランナーを進めるという、俺の役割は終えた。大気。後は頼んだ。
甲子園。試合は佳境に入っていた。
大気の打順はそもそも一つ上がっていた。元々3塁を守っていた上野先輩を2番にし、打率の高いメンバーで上位打線に固めた。少しでも点が取れたらという狙いだ。しかし、そんな意気込みを抱えたまま、次に回ってくるのが自分だという現実。正直、面白いと笑ってしまった。
「次は俺か」と内心つぶやきながら、一礼して打席に向かう。
足元が少し震えるのが分かるが、それでも俺は進んだ。目の前のピッチャーに、甲子園の大観衆。確実に息を呑んでいるのを感じた。
その一瞬、全ての音が途切れたように感じた。ピッチャーの目にも、無駄な感情など一切ない。冷徹で、まるで未来のプロを見透かしているような眼差し。何かを語りかけてくるその瞳に、俺は思わず息を呑んだ。
「こいつは、プロに行くのか」
そう思いながらも、無意識に監督の方を見た。指示を求めての視線。監督は、何も言わずにただ静かに頷いた。
「好きに打て」
その言葉が、耳元で響く。言葉通りだろうが、あまりにも温かく、そして頼もしいその一言が、気持ちの中で力をみなぎらせていった。監督の目には、もう何の焦りもなく、ただ信じる眼差しがあるだけだった。その信頼に、胸が熱くなる。
甲子園の熱気と喧騒の中で、ふと過去のことが頭をよぎる。
あの日、たまたま練習が休みになったから、俺はいつもより早く帰れた。それが、結果的に「死に繋がった」。その言葉が、頭の中に流れ込む。ひどく不意に、その記憶が胸を締め付けるように現れる。血の気が引く感覚が、甲子園の暑さとは裏腹に、冷ややかに全身を包み込んだ。
その後、ニュースで聞いたことがあった。監督自身が、責任を感じてしまっていることを。バツイチで一人暮らしをする監督にとって、余計に、自分が引き起こしたことを背負ってしまっているんだろうか。
「プレイ!」
その声が、まるで自分の心を引き戻すかのように響く。試合は進行している。目の前のピッチャー、観客の視線、全てが現実として迫ってくる。けれど、さっきまでの冷徹な感覚がまだ消えずに、胸の奥でずっと痛みを感じている。
でもさ、どう考えても、俺を殺したあのチンピラが悪い。あいつがいなければ、こんなことにもならなかったと思う。怒りが込み上げるが、その思いはすぐに振り払い、バットを構える自分に集中する。
「ボール」
でも、なんだろうな。こうして今、甲子園に立っている自分が不思議で仕方ない。あの出来事が無かったら、あの未熟な俺はここに立つことも無かっただろう。
「ファール」
あの時、少し天狗になっていたかもしれない。練習はきっちりしていたけど、少し停滞感を感じていた。でも、全てを失って、初めてわかったんだ。どれだけ俺が恵まれていたか。
「ボール」
今の家族にも、感謝している。そして、野球部のみんなにも。みんなが支えてくれたから、俺はここに立てているんだ。そして、千沙。お前が幸せでいてくれることが、今の俺にとって何よりも嬉しいことだ。本当に、ありがとう。俺は幸せだよ。
「ファール」
けど、だからこそだ。俺はもう、いなくならなきゃいけない。この身体を、しっかりと工藤光に返さないといけない。死者には、もう居場所なんて無いんだ。世の中は、自分がいなくても、勝手に進んでいく。
「ファール」
けど、この試合だけはわがままをさせてくれ。この試合が終わったら、俺はもういなくなっていい。今まで本当の親にも何もできなかったけど、これが親孝行になるんだろうか。今はただ、思いっきりプレイして、それだけで親孝行ってことで許して欲しい。
「ファール」
今の家族にも、心から謝りたい。ごめん。工藤光の身体に取り付いてしまって。でも、それでもこうして、家族のように接してくれて、本当にありがとう。
そして光、身体を使わせてごめんな。せっかくイケメンだったのに、あんまりその強みを活かせてなかったかも。お前にとって大切な17歳を盗んでごめん。けど、人生って楽しいって思わないか? だから二度と、自殺なんてするなよ。
「ファール」
そして、野球部のみんな。もう一度チャンスをくれて、ありがとう。信二以外にも薄々気づいている奴もいると思う。でも、監督もみんなも黙っていてくれた。それが、一番嬉しかった。
「ファール」
信二、お前ともう一度野球をできて、俺、悔いはないよ。お前、いい奴だな。変な女には気をつけろよ。そして、幸せになれよ。
「ファール」
最後に千沙。あんまり話せなかったね。最後、一方的に打ち明かしてごめん。けど、お前なら分かってくれるだろうし、もう俺は記憶がなくなっていくだけだ。そんな俺に構わず、幸せになってくれ。千沙には未来もあるし、幸せになる権利があるんだ。空から、ずっと見守っているからな。
「ボール」
「うぉ~!」
球場全体からどよめきが起きる。
もう少しだ、見えてきたな。相手もムキになってきている。ストレートばっか。ここでスプリットはやめてくれ、頼むよ。マジで。
でも、どうしてもついていくだけで精一杯だ。もっとカットして打たなきゃいけない。そうだ、少年野球の時のように。でも、あれ? 俺ってカット打法をするタイプだったっけ?
「次もチャンステーマで!」
マネージャーの声が、まるで雷鳴のように響く。瑞希がその声に応えて、すぐに指揮をする。観客席からも、一斉に応援の声が高まっていくのが感じられる。今日初めて訪れたこのチャンス、今しかない。この瞬間を逃せば、次に繋がるものは何も無いかもしれない。観客席からは、必死で叫ぶ声が重なり合い、まるでひとつの大きな声になってこちらを包み込む。
「ボール」
その音が、まるで時間が止まったかのように響いた。球場全体が一瞬、息を呑む。ベンチから応援席まで、全員が同じように感じている。今、この瞬間が運命を決める。思わず背筋が伸びる。観客席の熱気がこちらに届き、胸が熱くなるのがわかる。次に何が来るのか、誰もが注目しているその瞬間。
その時、ふと目を向けた先で、マネージャーと瑞希が小さく耳打ちをしているのが見えた。焦る気持ちが、少しだけ伝わってきた。これは、ただの応援じゃない。全員がこの試合を心から信じている証だ。
その直後、マネージャーの手元に視線を移すと、カンペには次の曲の指示が書かれていた。
観客席は一つになり、エネルギーがうねりを上げて、次のプレイを待っている。選手たちは、そんな応援を背に感じ取り、次の瞬間に向かって心を燃やしている。
「やべえ、もう時間か」
記憶がだんだんと曖昧になってきて、頭がクラクラする。
無意識にバットでヘルメットを数回叩く。審判が見ていたら、変な奴だと思われるだろうな。でも、あれ? こんな仕草、前にもしたことあったっけ? 俺、何か変だ。やばい、やばい、焦ってきた。どうにかしてこの打席を乗り越えられるのか?
その瞬間、ピッチャーがモーションに入った。
「やばい」
瞬間、冷たい冷や汗が全身を駆け巡った。それと同時に、耳だけが鋭敏に働き出し、普段は気にも留めないはずの遠くの音を捉えた。
「パーパラッパー パーパラッパー パララーラーラー」
「!」
千沙の音だ。確かに、千沙の音だ。胸の奥で何かが弾け、心の中が一気に澄み渡った。その瞬間、体が本能的に動き、目の前のボールに食らいついた。
「ファール」
思わず3塁スタンドを振り向く。『必殺仕事人』のテーマが響いていた。あれは、俺、そう、大気の応援歌。確かに、あのトランペットの音も覚えている。毎朝、耳にしていた音だ。千沙が奏でていた、あの音。
目を閉じて、深呼吸を一つ。静かに心を落ち着ける。今、俺がやらなければならないのは、目の前のピッチャーだけだ。
中学の時も、こうだった。試合中、どんなに騒がしくても、自分の世界に入って、集中する。打席に立つたびに、必ず戻る感覚があった。
ピッチャーは二度首を振る。その表情には焦りもあったかもしれない。だが、最後に頷いたその時、俺はその動きに確信を持った。
俺も覚悟を決めて、ピッチャーの投げた球を、目で追い、頭で計算して、無心で打ち返す。「うぉ~!!!」
打った瞬間、俺の体の細胞が叫んだ。胸の奥から、全てを出し切るような声がこだました。今日一番の叫び。俺は夢中で一塁に向かった。
「安村さん。今日の試合はいかがでしたか?」
「スコアとしては、3対1。大阪TI学園が勝利を収めましたが、これがただの結果だけでは終わらない、素晴らしい試合でしたね」
「序盤から終始緊迫した展開でしたが、やはりカルテットの活躍が目を引きました。特に、ダメ出しのホームラン。あれはもう、言葉が出ないほどの見事な一発でした。そうすると、今日のMVPはカルテットの一員、千国君ということになりますか?」
「もちろん、千国君の活躍も素晴らしいですが、今日は間違いなく第二甲府の工藤君ですね」
「工藤君ですか?」
「はい。大阪TI相手に、あのように粘り強く投げ続けた工藤君の姿勢は、正直、言葉に尽くせないほど感動的でした。守備の堅実さや三浦キャプテンのリードも光りましたが、それ以上に工藤君のピッチング。あのタイムリーヒット、そしてあの一球一球には、心からの拍手を送りたい」
「本当に、私も鳥肌が立ちました。その瞬間、球場全体が一つになったような気がしました。そして試合が終わった今でも、こうして拍手が続いていますね。試合は終わっているのに、この温かい拍手は、まさに工藤君をはじめ、選手全員の頑張りに対する賛辞です」
「ええ、勝った大阪TIも、負けた第二甲府も、どちらも素晴らしいチームでした。両チームともに、試合後にそれぞれの観客席に向かって挨拶をしています。その姿が、また観客を感動させているのでしょう。今、両方の観客席からの拍手が、どんどん大きくなっていっていますね」
「本当に、試合が終わった後でも、まるで終わりなき戦いのような余韻が残っていますね」
「そうですね。今の拍手こそが、選手たちに対する最大の賛辞です」
「うぉ!!! 感動した!!!」
その声は松田君だと思ったが、振り返ると、それはあの担任だった。まさか、あの先生がこんなに盛り上がっているなんて。負けたのに、全員がこれほどまでに熱くなれるなんて、信じられないほど素晴らしい試合だった。
「ほら、下に行こう!」
瑠璃に手を引かれて、選手たちの元へと近づいていく。瑞希の隣を通る瞬間、声をかけてみた。
「一緒に行こう」
彼女は笑いながら、私の隣を歩き、階段を降りる。ふと、気になって聞いてみた。
「何でさっき、あの曲にしたの?」
「いや、野球部のマネージャーから頼まれてね」
「そっか。びっくりしたよ」
「もともといつかここぞというタイミングでやりたいって言われていたし。千沙ならいきなりでもいけるかなって」
「ははは、きついよ、さすがに。でもありがとう」
「けど、あれね」
「何が?」
「千沙、あの音は喜びに溢れていたよ」
瑞希はそう言って、先に降りて行った。あれ? 私、喜んでいたんだろうか。少し考えながら、瑠璃たちと一緒に野球部のみんなに手を振る。
「お前ら好きだぞ!!!」
一瞬、松田君の声だと思ったが、振り向くと、号泣しているのはクラスメイトの須賀君だった。あれ? こんなキャラだったっけ。
信二とも目が合った。お互い、何だか不思議な気持ちで、穏やかに手を振った。まるで、昔の友人に戻ったかのように、自然と。安心感が広がっていく。
でも、次に目が合ったのは工藤君。いや、大気だ。その瞬間、大気が見せたのは、今まで見たこともないような笑顔だった。
それは、まるで輿水大気そのものの笑顔。工藤光の笑顔ではなく、そこには確かに輿水大気がいた。すべてが一瞬で、心の中に深く刻まれた。
「記憶が失われていくなんて、嘘だ」
その瞬間、私は心の中で強くそう思った。どんなに記憶が薄れていったとしても、この瞬間の感情や大気の笑顔、そして私たちの繋がりは決して消えないんだと、強く確信した。
そして、気づいたら、私は球場の外に向かって、走り出していた。何かが心から叫んでいる。どこかへ、何かを追いかけて、走らずにはいられなかった。身体が自然と反応し、胸が熱くて、足が止まらない。
あの日の自分を超えて、これから向かう未来に向かって、私は走り続ける。大気も、信二も、そして仲間たちも、私の心の中に確かに息づいている。
それは、決して消えない、大切なものだ。
「おい、光のやつ、ベンチ裏に走っていったな」
はじめがその声を上げた瞬間、周囲の空気が一瞬で変わった。信二は軽く肩をすくめ、まるで何事もなかったかのように、しかし少しだけ照れくさそうに言った。
「うんこやばかったらしいぞ。荷物の片づけ、やってやれ」
その言葉に、場の空気が一気に和らいだ。みんなが思わず吹き出し、笑顔が広がる。しかし、信二の表情はどこか照れ隠しで、どこか嬉しそうにも見えた。その背中から伝わるあたたかさが、周りを包み込んでいく。
「ああ、お二人さん、お幸せに」
そんな言葉が、自然に心の中に浮かぶ。まるで、信二が本当にその幸せを願っているかのように、心からの温かい笑顔を浮かべている。そして、その笑顔に引き寄せられるように、周囲の空気も心地よく、安心したものへと変わっていく。
訳が分からない。こんなにも急いで、どうして走っているんだろう?
頭の中がぐるぐるして、何も整理できない。体はただひたすらに前に進んでいる。何かに引き寄せられているような感覚、無理にでも進まなければいけないような気がする。最初は、ただの疲れからかもしれないと思った。でも、違う。心の奥底から湧き上がる強い衝動が、体を動かしている。
耳に入る係員の必死な声。しかし、それすらも遠くに感じる。足は止められない。無理やり体を前に押し出し、出口を目指して走り続ける。
出口が見えた瞬間、心臓が一気に跳ねた。そこには、千沙がいるはずだ。
出口から外に出ると、客席の出口近くから出てきた千沙と目が合った。お互いの目が重なった瞬間、世界が止まったように感じた。周りの喧騒も、風の音も、足音さえも、何もかもが消えたような気がした。静寂の中で、ただ千沙と俺が繋がっている瞬間だけが、この世界のすべてになった。
心が震える。この瞬間を、どうしても忘れたくないと思った。目の前の千沙は、まるで夢の中の存在みたいに美しくて、何もかもが現実だと信じられなかった。
「千沙……!」
言葉なんていらなかった。お互いの存在を感じるだけで、すべてが伝わっていた。千沙の目に映る俺、俺の目に映る千沙。その視線が交わった瞬間、何もかもが繋がったような気がした。あの日から、ずっと求めていたものが今、ここにある。
俺は足を速めて、千沙に向かって走り出した。全身が熱くなり、心臓が鼓動を速める。どうしても、どうしても彼女に触れたくて、気持ちが抑えきれない。どんなに息が切れても、体が重くても、ただ一つだけ、千沙に向かって走り続けた。
そして、ついに彼女の元にたどり着いた。立ち止まることなく、体がそのまま千沙を引き寄せる。何も考えずに、ただ強く抱きしめた。彼女の温もりが、俺の全身に染み渡り、心の中で何かが溢れるように感じた。
「千沙……」
その一言が、もう全てを伝えていた。言葉なんて必要なかった。目の前にいる彼女を、この腕で、心で感じることが、今、何よりも大切だと思った。
「私も……」
千沙の声が、まるで夢の中のように優しく響いた。その言葉一つが、俺をさらに引き寄せる。二人だけの世界が広がっていく。その瞬間、時間がゆっくり流れるような感覚になった。
どれだけ時間が経っただろうか。
周りのざわめきも、声も、もう全てが遠くなった。二人だけの時間が、無限に続くような気がした。
息が荒くなり、体中が熱くて、それでも心は落ち着いていた。今まで感じたことのない感覚、でも確かな感覚。自分の心の中に深く染み込むように、この瞬間が大切だと感じた。
「ありがとう」
何度も言おうと思ったけど、言葉が出てきたのは一言だけだった。それでも十分だった。伝わったから。
「いい音だった」
俺のその言葉に、千沙がゆっくりと顔を上げ、笑顔を浮かべた。その笑顔に、俺の胸が熱くなる。
「そうでしょ。誰かさんが喜びを運んでくれたから」
その一言に、もう何も言うことはなかった。千沙の目が、優しさと愛情で満ちているのが分かった。お互いが、相手の気持ちを全部知っている。言葉なんて、もはや必要ない。それでも、心は繋がっているから。
この瞬間、すべてが完璧だった。何もかもが交わり、心が一つになった。周りの人々がどう思っているのか、声を上げているのか、それすらも気にならない。ただ、この瞬間が、二人だけのものだから。
手を放すことはできなかった。離れることが怖かった。強く、強く抱きしめた。千沙も、俺を離さないように、しっかりと腕を回してくれる。俺たちだけの世界。
そのまま、二度と離れたくないと強く思った。今、この瞬間が永遠に続けばいい。
「このまま、ずっと……」
心の中で願う。言葉にすることが怖いくらい、今の幸せが壊れてしまいそうで。でも、そんなことはない。二人だけの世界が、この瞬間には確かにあったから。
これが、俺たちの未来。どんな困難も乗り越え、どんな道でも進んでいける。何も怖くない。俺たちは、ここにいる。そして、ずっと一緒だ。
そして、俺たちの笑顔は、互いにとって最高の宝物だった。
心から愛おしいと思える相手と、こんなにも近くで感じ合えることが、こんなにも幸せだとは思わなかった。
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