第7話
「はーい、全員いる? では、行きましょう」
甲子園への応援のため、早朝、静かな高校に集まった。夜明け前の肌寒さが、どこか懐かしく感じる。この時間に来るのは修学旅行以来かもしれない。部員が多いため、いつものようにパートごとに自然に分かれていった。
バスに乗り込むと、早速、席の奪い合いが始まった。いつもなら、私もすぐにお気に入りの席を確保するために動き出すところだけど、その日は、正直そんなことがどうでもよくなっていた。周りの賑やかさも、何だか遠くから聞こえてくるように感じる。瑠璃たちは別のバスだったし、瑞希と人数確認の仕事もあるし、結局顧問の土橋の隣しか空いていなかった。別に嫌なわけではないけれど、心の中で何かが通り過ぎるのを感じた。
バスはゆっくりと動き出し、エンジン音と共に甲子園に向かって進んでいった。窓の外の風景がぼんやりと流れるのを眺めながら、私の心の中では色んな思いが交差していた。みんなは元気に話しているけれど、その言葉がまるで遠くに響くようで、ただ景色がどんどんと後ろに流れていくのを見ていた。
最初の1時間ほど、バスの中は賑やかだった。部員たちは甲子園への興奮で声を上げ、笑い合っていた。しかし、早朝の影響もあり、だんだんと静かになり、眠る部員も増え、バスの中は穏やかな空気に包まれた。
私は、そんな中でひたすら書類に目を通している土橋が気になった。無言で書類をめくり続けるその姿に、何かを抱えているような気がしてならなかった。そして突然、土橋が口を開いた。
「俺は、正直、お前に謝らないといけないと思っている」
その一言に、私は驚き、言葉を失った。土橋が誰かに謝るなんて、想像もしていなかったから。
「えっと、本当にいきなりですね」
「そうだな、こういう機会がないと、なかなか言えないからな」
しばらくの沈黙。バスがトンネルに入った瞬間、車内が暗くなり、土橋の表情が見えにくくなった。その沈黙が、逆に言葉の重みを増していく。
「今年の自由曲、正直、迷った。実は、お前たちが入学した頃から、この代でこういう曲ができるんじゃないかと思っていたんだ。その中で、去年や今年の自由曲、あえて難易度の高い曲を選んできた。それは、お前たちなら、曲に振り回されることなく、自分たちのものにできるって信じていたから。そして、何より、いい経験になるとも思っていた」
トンネルの中で、土橋の声が響く。私はその言葉に少し胸が痛んだ。土橋は私たちのために何度も考えて、曲を選んできたのだろう。でも、その選択が私にとっては、苦しいものだった。
「だからこそ、今年はバーンズで行こうと思っていた。正直、このメンバーなら、これ以上にベストな曲はないと思っていた。でも、あの事故の影響で、お前にとって、それは大きな苦痛になるかもしれないとも理解していた。そこまで考えたからこそ、定期演奏会のプログラムからも外し、本当に迷っていたんだ」
土橋の言葉に、私は何も言えなかった。確かに、その曲は私にとって、意味が重すぎた。私はあの事故の日を、今も忘れられない。それが曲の背景と少し似ているため、私はどうしても、正面から曲に向き合うことができていなかった。
「しかしな、俺的には、この曲の力も借りて、より前を向いて歩いていけるんじゃないかとも思ったんだ。今後、もし苦難があったとしても、お前自身がその経験を糧にして、踏ん張っていけるんじゃないだろうか。そんな期待をしていたんだ。いや、俺のわがままを、お前に押し付けるために、勝手に期待していた。だからこそ、本当に申し訳ないと思っている」
土橋が頭を下げる。普段、あまり本音を見せない土橋が、こんな風に素直に謝るなんて、私は本当に驚いた。そして、それが、余計に心に響いた。
「そうだったんですね……」
「いや、俺もこんなことを生徒に言うべきじゃないと思っていた。でも、お前が本当に苦しんでいるのを知って、もう居ても立ってもいられなかった」
(きっと、瑠璃や瑞希たちが言ってくれたんだろうな)
私は静かに納得した。
「そうだったのですね。素直に気遣ってくださるだけでも、本当にありがたいです。でも、事実、あまり吹けていないのも確かですし、難しいです」
「だろうな。正直、それは見ていて分かる」
「はい、どれだけ第四楽章で明るい音をイメージして、出せるか。そういう練習が必要だとは分かっています」
「違う。練習ではない」
「え?」
トンネルの出口が見え、バスの中が再び明るくなった。土橋の顔が、ほんのりと光に包まれるように見えた。
「練習する必要もない。考える必要もない。喜びは、人間が本来持っている感情だ。ただ、それを、素直に出せばいい」
土橋のその言葉に、私はしばらく黙っていた。彼が言った通りかもしれない。喜びを素直に感じて、それを表現すること。それが、もしかしたら今、私に一番必要なことなのかもしれない。
日の光を浴びた土橋の顔は、普段よりも柔らかく、優しく見えた。
「大気、行くか」
「ああ」
試合前の投球練習を終え、ベンチに向かう。ここが、甲子園か。案外小さいな。そんな風に思うのが、ちょっとおかしい気もする。でも、それでも心はワクワクしていて、昨日は興奮しすぎて寝られなかったし、今もあくびが出そうだ。
「大気、昨日寝られてなかったのか?」
「まあね」
「おい。しっかりしろよ。大丈夫か?」
信二は心配そうに見つめてくる。あいつは高校生になってから、ちょっと知的なキャッチャーになったみたいだけど、根っからの心配性は変わらない。まるでお母さんみたいだな。だけど、そんなふうに昔のやりとりができるのも、やっぱり嬉しくて、どこか懐かしい気持ちになる。
あの日、信二にすべてを告白したとき、信二は完全に信じていなかった。それもそのはずだよな、だって死者が蘇るなんて、まるでゾンビみたいだもん。でも、信じてもらわなきゃ困る。だから、翌日の練習前に信二に日記を渡した。そして、その日の夜、近くの公園に呼び出された。
「読んだ」
「おー、そうか」
俺はブランコに揺られながら、適当に相槌を打った。
「本当に大気なんだな」
「まあね。そうっぽい。今は」
信二は昨日より落ち着いているみたいだった。
「何でもっと早く言ってくれなかったんだ」
ああ、そっか。落ち着いているっていうより、怒っているのか。信二の顔は、暗くてよく分からなかった。
「分かるでしょ。ノートの通りだよ」
「なら、なぜ今告白した」
「それもノートに書いてある通り」
信二はまだ納得いってないみたいだ。でも、それ以上にどうすればいいのか分からないようで、ただ黙り込んでしまった。その姿が、ああ、やっぱ信二だなって思った。優しいな、こいつ。
「まあ、ごめんな。けど、何かもう、あんまり記憶も忘れてきているし、きっといつか工藤光になるんだと思う」
俺は言い訳をするように、説明を続けた。
「いやー、俺も調べたんだ。オカルトとかは興味ないけどさ、たまにこういう事例があるらしいんだ。無念で死んだ人が、他の人の身体に乗り移って、生前の関係者の前に現れるって。でも、数ヶ月もすれば、だいたいその記憶が消えるらしい」
俺は、信二に反論の隙を与えないように続けた。
「だからさ、正直こうやって、甲子園決められて。最高だよ。もしかしたら甲子園当日まで残るか分からないけど、でも行けると思ったら、めちゃくちゃ楽しい。そして、何よりも、また信二と野球ができるし」
暗闇の中、俺は信二に向かって心からの笑顔を向けた。それは確かに本音だった。でも、信二は何も言わず、ただ黙っていた。その沈黙が次第に心に重く響いてきて、俺も言葉を失った。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。遠くから近づいてきたバイクのエンジン音が、二人の間に染み込むように響いた。バイクのライトが信二の顔を照らし、その表情を浮かび上がらせる。やっぱりな。険しい顔だ。まるで何かを飲み込もうとしているような、苦渋に満ちた表情だった。
そして、信二はぽつりと言った。
「なんで」
「なんでって何が?」
「もちろん甲子園はそうだけど、なんで?」
「なんでって?」
俺は、察しがついていたけど、敢えてしらばくれた。そして信二がついに、怒りを爆発させた。
「何で、千沙のことに触れない!」
その一言は、予想していたけど、胸に突き刺さった。
「いや、それもノートの通りで……」
「俺のこと、バカにしているのか?」
暗闇の中でも、はっきりと分かった。信二が完全に切れている。その息遣いすら、怒りで荒れているのが伝わってきた。次の瞬間、彼は無言のまま一気に近づいてきた。逃げる間もなく、首元をがっちりと掴まれ、無理やり立たされる。
「お前、死ぬ間際だって千沙のこと気にしていたよな。ノートにも、千沙のことばっかり。それなのに、今のままでいいのか?」
冷静にならなきゃいけない。でも、言葉がどんどん感情が溢れて、コントロールができなくなる。そして、つい反論してしまった。
「そりゃ、千沙のことを真剣に考えたさ。でもな、今お前と幸せそうにしているじゃん。俺のこと、すっかり忘れて、いい意味で楽しんでいるじゃん。なら、それでいいだろ。お前だって千沙が好きだし、千沙もお前が好きなんだろ。死人が入り込む隙間なんてないよ」
「だからって何だよ。お前、本当に千沙が、お前のことを忘れたと思っていんのか? 本当にそれでいいのか?」
「だったら、どうすんだって言うんだ。死んだけど、生き返りました。今更付き合ってくれってか? しかも、実はもうすぐ成仏するつもりだって? そんなクソみたいなこと、できないよ」
「馬鹿野郎。お前、だからって、このままでいいはずがない。お前が死んでから、千沙がどんな思いをしたか、知っているか? 未だにお前のことを忘れられずに、どう思っているか。千沙の悲しみを考えたことあるのかよ。自分に酔って、自己完結するなよ」
信二と本気でぶつかり合ったのは、去年の夏以来だろうか。あのときも、何か大事なものを賭けて、二人で、全力でぶつかった。そして今も変わらない。やっぱり、俺たちはバッテリーだ。言葉を超えて、相手の気持ちが痛いほど伝わる。
気づけば、頬を伝う涙がこぼれ落ちていた。止めようとしても無理だった。視線を上げると、信二も泣いていた。強がりで涙なんか見せない信二が、静かに泣いている。その姿を見て、俺の涙はさらに溢れ出した。
二人、何も言わずにその場で泣き続けた。ただ涙だけが、俺たちの心の中にある言葉を語っていた気がする。どれくらいの時間が経ったのだろう。ふと気づくと、空気が少しだけ静まり返っていて、遠くから虫の声が聞こえてきた。
「大気。俺、千沙と別れる」
「は?」
突然すぎる言葉に、驚いた。
「俺も千沙が好きだ。世界一愛している。でもな、だからこそ、大好きな人には幸せになってほしい。大気、千沙に本音を話してこいよ」
その言葉が、胸に響いた。
「けどさ、今更って」
「大丈夫。千沙なら分かってくれるよ」
「けど、完璧に俺の意識が消えるかも」
「なら、早く言わなきゃダメだろ」
「でも、いきなり言ったら、理解できないかも」
「大丈夫。このノートを渡しておく」
信二は、すべてに反論してきた。俺は観念したように、そして、嬉しく思い、
「ありがとう」
そう、ただそれだけを信二に伝えた。信二は嬉しそうにしていた。こいつこそ、カッコいいルパンだな。
「おい、試合前だぞ、寝ぼけんな!」
信二に叩かれた。やべえ、感傷に浸っていた。だせえ。
「うっせいわ」と、嬉しそうに返す。
信二はそれを満足そうに見て、ベンチ前にいるみんなに、
「さあ、行こう」
そう叫んだ、サイレンの音と共に。
この試合、あとどれだけ俺が俺でいられるか。9回か、5回か、1回か。それとも、今すぐか。まあ分からんけど、どうでもいいさ。さあ、甲子園。俺を見ていろ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます