第6話

2017年2月23日。

とりあえず、今日からこの日記を書き始める。状況を整理するために、まず自分が何を考えているのかを記録しておきたい。頭が混乱していて、どこから話せばいいのかも分からないけれど、とにかく書き留めておこうと思う。

俺、輿水大気は、死んだはずだ。

この言葉を書いているのに、自分で全く実感がない。でも、事実だ。信じられないが、これが現実だ。あの事故の記憶が確かにある。車が突っ込んできた瞬間、間違いなく俺は吹っ飛んだ。痛みも覚えているし、周囲の叫び声も思い出せる。それから病院に運ばれ、意識が遠のいた。そして、終わった……はずだった。

なのに。

目を覚ました時、まず目に飛び込んできたのは、見覚えのない天井だった。そこには病院特有の白い蛍光灯が静かに光っていて、何とも言えない違和感が体中に広がった。立ち上がって窓から外を見た。そこに広がるのは見慣れないビル街。自分の家や地元とは全く違う景色だった。

そして、鏡を見た。

……そこに映っていたのは、俺じゃない。

いや、どう考えても違う。目線の高さからしておかしい。背が高いし、筋肉が無い。鏡に映ったのは、俺が生きていた時の面影すらない、全く別の青年だった。顔立ちは正直、悪くない。むしろ整っている。でも、俺じゃない。それが何より恐ろしくて、吐きそうになった。

その時、病室の扉が開いて、一人の女性が飛び込んできた。

「光!」

そう叫びながら、目に涙を浮かべた女性は、俺が生きていた時には全く知らない人だった。その女性、いや、この身体の「母親」だと言う人の話を聞くうちに、少しずつ分かってきた。この身体は、工藤光という高校生のものだ。そして、どうやら俺はその工藤光の身体に入ってしまっているらしい。

訳が分からない。本当に訳が分からない。

さらに追い打ちをかけるように、光の過去が次々と明らかになった。どうやら彼は、部活の先輩たちから執拗ないじめを受けていたらしい。そして、その末に自殺未遂を図り、この病院に運ばれてきたそうだ。

俺は誰かの身体を借りて生き返ったのか? それとも、何かもっと得体の知れないものに巻き込まれているのか?

頭がぐちゃぐちゃだ。今、俺は工藤光として生きていくのか? そもそも、俺にそんな資格があるのか? でも、こうして日記を書いている以上、これは夢じゃない。現実だ。

工藤光が何を思っていたのか、彼の人生がどうしてこうなったのか。それを整理しないと、この身体に居場所なんて作れない気がする。まずは、冷静に考えよう。焦るな。少しずつでいい。

でも、心のどこかで叫びたい。どうして俺が、こんな目に遭わなければならないんだ?





2017年3月25日。

病院の先生から、「もう大丈夫だ」と言われた。工藤光が大量の風邪薬を飲んで自殺を図ったこと、そして、発見が早かったおかげで身体には何の問題もなかったことを聞かされた。 

母親らしき人、俺にはそうとしか言いようがない人は、安心しているようだった。その顔を見て、なぜかほんの少しだけ嬉しいと感じた自分がいた。この身体を持つ工藤光の命は、確かに救われたのだろう。

だけど、それは「俺」じゃない。

病院を出て、工藤光が住んでいたというアパートに戻った。正直、どうしていいか分からなかった。見慣れない家具、知らない匂い。自分のものではない空間に座っていると、ますます自分が誰か分からなくなる気がした。ただ、新しい身体に慣れることが最優先だと思い、気を紛らわせるように身体を動かし始めた。

まずはランニングを始めた。東京の街並みは、俺の記憶の中の甲府の風景とは全く違う。大きなビルや人混みの中を走ると、どこか現実感が薄れていく気がする。

区営のジムを見つけては筋トレをしたり、夜はストレッチを欠かさずに行ったりした。工藤光の身体は背が高く、元々体格は悪くないけど、筋肉が足りないし、驚くほど身体が固い。このままじゃ野球なんて無理だ。だから、少しずつでも鍛え直していくしかないと思った。

同時に、頭の中を整理するために野球の勉強も始めた。本屋や図書館で新しい戦術や理論を学ぶ。それまでは、信二に口酸っぱく言われても、正直どうでもいいと思っていた分野だ。でも、いざやってみると、面白い。知らないことがまだまだたくさんある。それが、唯一、今の俺に目標を与えてくれるものだった。

週末には河川敷で草野球をしているおっさんたちに混ざり、感覚を取り戻そうとした。彼らと一緒にプレイしていると、少しだけ「生きている」実感が戻ってくる。投げて、打って、守る。その瞬間だけは、過去も未来も忘れられる気がした。

だけど、夜になると、どうしようもない不安に押しつぶされそうになる。

本当の両親や家族は、俺がいなくなってどうしているんだろう。信二たちは、きっと甲子園を目指して練習を続けているんだろうな。あいつらの顔を思い浮かべると、胸が苦しくなる。でも、一番気になるのは千沙だ。俺がいなくなって、どうしているんだろう。一人で泣いていないだろうか。そればかり考えてしまう。

だけど、この世界には、俺を知っている人なんて誰もいない。孤独だ。とてつもなく空虚だ。

俺は一体、どこにいるんだろう?

そして、これからどこへ行けばいいんだろう?





2017年4月5日。

母親という人から突然、引っ越しの話を聞かされた。来週、山梨県に引っ越すことになるらしい。祖父母の家がある場所だと言われたけど、その裏に感じたのは、きっと俺を田舎で落ち着いて育てたいという母という人の願いだろうと思う。それを理解すると、むしろ俺としては嬉しかった。そして何より、山梨に戻れる。家族にも会える。もしかしたら、あいつらにも会えるかもしれない。

でも、一番は千沙だ。しばらく会っていないし、どうしているのか、どんな顔をしているのか、全く分からない。あんなに身近に感じていたのに、急に距離ができたような気がして、どうしても会いたくてたまらなくなった。

山梨という場所は、確かに俺にとって懐かしい。生まれ育った場所だから、戻れることにどこか安心も感じている。でも、それよりも何より、千沙に会いたい。彼女がどうしているのか、それが気になって仕方ない。

俺は今、どんなに懐かしい場所に戻ろうとも、心の中で千沙のことを考えている。





2017年4月13日。

祖父母という人たちは本当に温かい人で、引っ越し先は以前住んでいた場所からそう遠くない。竜王駅近くの静かな町は、生前と変わらず、どこかホッとする空気が漂っていた。見慣れた風景が目に入ると、安心感と共に、少しだけ懐かしい気持ちが湧いてくる。

しかし、それ以上に嬉しかったのは転校先が第二甲府高校だということ。俺にとってこれは夢のようなチャンスだ。あの頃、工藤光として過ごした日々を思い返すと、こんな幸運が待っているなんて信じられない気持ちでいっぱいになる。

でも、心のどこかで引っかかっていたことがあった。それは、本当の家族のことだ。甲府の家はそう遠くなく、自転車で行ける距離だ。あの家で、みんなどうしているんだろうか。何かが気になって、ずっと不安に思っている。

新しい場所で新しい生活が始まる中で、そんな不安が消えない。毎日が新鮮で、目の前のことに集中しようと努力しているけど、家族のこと、そしてあの家での生活が、どうしても頭から離れない。

そしてやっぱり、千沙が気になる。





2017年4月15日。

今日は祖父母という人たちが観光に連れて行ってくれた。正直、俺は小さい頃からずっと野球一筋で、地元を観光した記憶がほとんどない。それでも、祖父母という人たちの温かい心遣いに応えるべく、昇仙峡に向かうことになった。

「こんな場所が山梨にあるんだ」と驚きながらも、自然の美しさに心が和んだ。空気が澄んでいて、山々の緑がどこまでも広がっている。その景色に触れて、少しだけ心が軽くなった気がした。

最後に、金運アップの神社があるという話を聞き、昇仙峡の奥にある神社に向かうことになった。しかし、予想外の混雑に驚いた。土曜日だからというのもあるだろうが、最近全国のテレビ番組で特集された影響もあるのかもしれない。

「しょうがないね」と、祖母という人が言いったが、祖父という人が「こっちでいいじゃん」と言った。近くに別の神社があったからだ。

その神社に向かう途中、心の中でなぜか少しだけ不安を感じていた。どうしても過去のことが気になって仕方がなかったからだ。

階段を登っていくと、特別目立った特徴はない普通の神社だった。しかし、その神社の名前が少し変わっていて、興味を引いた。

「ふうふぎじんじゃ」

と書かれているのを見て、何かが引っかかった。

普通の神社かと思いきや、社務所にいたおばあさんから「中もどうぞ」と勧められ、神社の裏側に連れて行かれた。その時、また何かが引っかかった。

裏側に案内されると、そこには巨大な木の一部が建物に安置されていた。「あ」と、何かを思い出す瞬間があった。断片的な記憶が、ふっと頭をよぎったのだ。あの事故の後、確かどこかで見た気がする。あまりにも急で、整理がつかない思いが胸を締め付けたが、それでもその瞬間、何か大事なことを思い出した気がした。





2016年12月15日。

今日は、どうしても書き残さなければならない気がして、こんな変な書き方をする。あの日、病院で、俺は死んだ。信二たちの前で、まるで眠るように静かに。何も感じず、ただ静寂に包まれて、目を開けた時、そこはまるで別の世界だった。

周りは靄に包まれていて、視界はほとんど奪われていた。足元には薄い水が張っていて、その水面が微かに揺れている。まるで温泉施設の中にいるような感覚だった。怖さもなく、ただ心地良さだけが広がっていて、異空間に身を委ねているような不思議な気分だった。

しばらくその場所に立っていると、突然、視線が引き寄せられた。目の前に、神社で見かけた巨大な木が立っていた。直感的に、この木がただの木じゃないことを感じ取った。近づいて触れた瞬間、全身に冷たい震えが走った。これが、人間の世界の物でないことを確信した。その瞬間、温かかった気分が一瞬で凍りつき、恐怖に変わる。

目を背けたくても、体が動かない。何かに引き寄せられるように、どうしてもその木から目を離すことができなかった。その時、頭の中に、まるで自分の思考ではない声が響いた。

「かわいそうに」

その言葉は、耳の奥から直接伝わってくるようだった。驚きながら、それが自分の声ではないことに気づく。そして、その言葉は繰り返し響く。

「かわいそうに、かわいそうに、かわいそうに」

頭が割れそうで、意識が崩れそうになる。「あーーーーーー!」と叫びながら耳を塞いでも、声は止まらなかった。その言葉が、頭の中に響き続ける。

そして、突然、声が変わる。「機会を与える」と、今度は冷徹な声が響いた。その瞬間、靄の中から、一艘の小さな木製の船がゆっくりと現れた。船には提灯が灯っていて、その光が妙に不気味だった。

船が俺の前で止まると、また同じ言葉が繰り返される。

「機会を与える」

船を覗くと、知らない人が寝ていた。いや、寝ていたというか、今思うと、それは工藤光の肉体だった。だが、その肉体には生気がなく、魂が抜けているような気がした。

「機会を与える」

その言葉は繰り返されるばかり。意味がわからず、ただ絶望と不安が膨れ上がる。靄がますます深くなり、視界は完全に遮られ、ただ恐ろしい記憶だけが浮かんできた。

気づけば、その後は何も見えなくなり、すべてが曖昧なままで記憶の中に消えた。





2017年4月21日。

久しぶりに第二甲府高校の校門をくぐった。胸がいっぱいになる。校舎の窓越しに見える景色、校庭のベンチ、どれもこれも懐かしい。授業中だからか、校舎内は静まり返っていて、それがまた高校らしくて落ち着く。

あの日、昇仙峡の巨木の前で色々と思い出した。事故で死んだからこそ神様がチャンスをくれたのだと信じ、そのことを「ラッキー」と考え、気持ちを前向きに切り替えた。人生をやり直すなんて、普通じゃありえない。けれど、その楽観的な気持ちはすぐに崩れてしまう。

新しい家に引っ越してから、暇を持て余してランニングを再開した。体を動かすことで、余計なことを考えなくて済むからだ。甲府の河川敷では、おっさんたちが草野球をしている光景も見かけない。だから、少しずつ走る距離を伸ばし、ある日ついに実家の近くまで行ってみた。ひんやりとした早朝の空気の中、久しぶりに見る近所の景色が新鮮で、走りながら思わず笑みがこぼれた。やっぱり、この雰囲気が好きだ。

でも、実家に近づいた瞬間、胸の鼓動が速くなった。懐かしさよりも、言葉にできない感情が込み上げてきた。玄関のドアが開いて、父が出てきた。その姿を見た瞬間、俺は立ち尽くした。父は前よりずっと老けて見え、背中が丸く、足取りも重たそうだった。そして、父を見送る母の姿も目に入った。母の表情は、以前の元気なものとは違い、どこか悲しみを抱えているようだった。

その瞬間、死んだという事実が冷たく胸に突き刺さった。俺がいないことで、家族にどれだけの痛みを与えているのか。その現実を目の当たりにして、足が震えて動けなくなった。 

そして次の瞬間、何も考えずにその場から逃げ出していた。家族に会うことがこんなにも辛いなんて、思いもしなかった。だから、今日は正直、怖かった。第二甲府高校に戻ってみても、みんながどう思うのか全く分からないから。

職員室のドアを開けた瞬間、いくつもの視線が一斉にこちらに向けられるのがわかった。知らない先生もいるけれど、どの顔も好奇心か警戒か、はっきりしない表情を浮かべていて、思わず息を呑んだ。

「はじめまして」と、新任の先生が声をかけてきた。その明るい笑顔に、少しだけ肩の力が抜けたけど、それでも胸の中で不安と緊張がぐるぐると渦巻いていた。

一通りの説明を受けて、校門を出ようとした時、ふと気づくと、もう放課後になっていた。慌ただしく走り去るバスケ部やサッカー部が見え、その中で校門近くの朱雀会館へ向かう吹奏楽部の姿が目に入った。その中に、千沙がいた。

その瞬間、心が跳ね上がった。千沙だ! 千沙だ! まさに、自分の中の歓喜が爆発しそうなくらい嬉しくて、今すぐにでも走り出したい気持ちでいっぱいになった。

でも、今はまだその時じゃない。転校が正式に決まったら、また会えるはずだし、今日は無理して会わなくてもいい。何よりいきなり声を掛けたら迷惑だし、びっくりするだろう。そう思い直して、胸の中の高鳴りを少し抑え、家路についた。

あ、そうだ。今年の千沙の誕生日も祝ってないことに気づいた。そのことを思い出して、また少しだけ気持ちが沈んだ。でも、また会えるその時まで、今日のことを大事に覚えておこうと思う。





2017年5月17日。

(やっぱり、いい。このマウンドは)

久しぶりに、みんなとの練習に参加して、自然と笑顔がこぼれた。ここは、俺が何度も立った場所。高校の土の感触が、なんだか心に染みる。

でも、やっぱり前の身体とは違うから、投げる球に違和感がある。俺がしっかりとした練習から離れていたせいもあるけど、前の身体のほうがもっといい球を投げられたと思う。それでも、この新しい身体には新しい良さがある。スピードが足りなくても、コントロールを意識して丁寧に投げることを覚えた。それに、もともとの工藤光は利き手が違う。だけど、前のフォームがまだ頭に残っていて、自然と近い投げ方になっているはずだ。

初めて信二に座ってもらって投げたとき、高橋監督と信二が驚いた顔をしたのが忘れられない。「どんなもんじゃい」って思いながらも、内心ちょっとホッとしたのを覚えている。自分の感覚がまだ生きているって実感できて、嬉しかった。

それでも、りんややはじめ、他のチームメイトの中には、俺を快く思っていないやつもいるみたいだ。転校生がこんな時期に来るなんて、受け入れにくいのは当然だよな。しかも、同じクラスだけど、ほとんど話してない。なんだか、疎外感が募って胸がちょっと苦しくなる。

また部室に入るたびに目に入る、壁に飾られた前の俺のユニフォーム。名前が刺繍されたその布地を見るたび、心がぎゅっと締め付けられる。前の自分、前の仲間、もう戻れない現実を思い知らされる。

(俺って、やっぱり孤独だな……)

ぽつりとつぶやいたその言葉が、甲府の青空に吸い込まれていった。





2017年6月2日。

6月に入り、練習試合が増えてきた。グラウンドには夏の匂いが漂い始め、チーム全体に少しずつ緊張感が走る。今年のエース、東さんはさすがだ。どんな場面でも落ち着いて投げ、きっちりとチームを引っ張っている。その姿に、やっぱり頼もしさを感じる。

一方で、問題は控えだ。矢木は急遽ピッチャーにコンバートされたらしい。俺がいたときは外野手だったけど、球筋自体は悪くない。でも、試合中に見せる小さな動揺が気になる。 

で、他にも1年生のピッチャーがいるけど、まだ軟式上がりで、実戦では通用しない部分が多い。だからこそ、信二も監督も俺を戦力としてカウントしているんだろう。

練習試合では、徐々に実戦登板の機会が増えてきた。でも、正直、あまりいいピッチングができていない。以前のように自由に投げられないもどかしさがある。でも、できることはひとつ。とにかく練習を重ねることだ。隙間時間を全部使い切る勢いで、朝は誰よりも早くグラウンドに出て、夜は家に帰ってからもシャドウピッチングを繰り返した。

その姿を見てからだろうか。りんややはじめたちが少しずつ話しかけてくれるようになり、昼休みには一緒に弁当を食べるようになった。気づけば、以前のように仲間と笑い合う時間が増えてきた。そして、いつしか、俺が「工藤光」であることさえ忘れそうになる瞬間があった。

加えて今日、俺は昼休みに担任のもとへ課題を提出しに行く羽目になった。練習ばかりして授業中は爆睡、そのせいで課題が溜まりに溜まっていたからだ。この第二高校の課題地獄、本当に嫌いだ。北館に向かう足取りも重くなる。でも、そんな憂鬱な気持ちは、次の瞬間、消し飛んだ。

廊下の向こうから、賑やかな声が聞こえてきた。その中に信二の声が混じっている。だけじゃない。その隣に、千沙がいた。

心臓がドキッと跳ね上がる。千沙だ。転校してから、こんな近くで彼女を見るのは初めてだった。自分でも驚くくらい、視線が釘付けになる。彼女の笑い声、髪を耳にかける仕草、そのすべてが目に焼き付くようで、まるで時が止まったみたいだった。

これまで、俺はずっと遠くから彼女を見守っていた。朝早くグラウンドに行くとき、ちらりと朱雀会館の方を見て、彼女の姿を探すのが日課になっていた。でも、それ以上のことはできなかった。声をかけたくても、転校してきたばかりの俺に、そんな勇気はなかった。そもそも何て自分のことを説明すればいいのか、それすら分からない。

「いつか、何かきっかけがあれば」

そんな風に思いながら日々を過ごしていたけれど、今日、その「きっかけ」が訪れたのかもしれない。

信二に軽く返事を返しつつ、ちらりと千沙に目を向ける。彼女の視線が、一瞬だけ俺と交わったような気がした。

その一瞬で、俺の心はもうどうしようもなく乱れてしまった。手が震えそうなくらい高鳴る鼓動を隠すのに必死で、でも、どうしても目を離せない。彼女は微笑みながら信二と話していて、俺のことなんて気にしていないかもしれない。でも、そうだとしてもいい。

だって、俺の中では、たった一瞬の目線が交わっただけで十分だったんだ。

「認知された、たぶん。」

そんな小さな期待を胸に抱きながら、俺はその場を通り過ぎる。

今日の昼休み、ただの課題提出のはずだった時間が、こんなにも特別なものになるなんて思わなかった。北館へ向かう足取りはいつの間にか軽くなっていて、胸の奥で広がるこの気持ちは、たぶん幸せっていうやつだ。





2017年6月5日。

練習が終わり、部室では2年生を中心に学園祭の話題で盛り上がっていた。この時期、山梨県内の高校は学園祭が6月に集中するらしい。それにしても、野球部の大会スケジュールには邪魔以外の何ものでもない。だが、そんな事情はお構いなしに、りんやはじめを含め、みんな楽しそうに話している。

「いやね、皆の衆。今年の朱雀マジックに俺は全てを賭けているわけよ。だって華のセブンティーンよ?」

「はじめ、お前が言うとマジできもい」

「おい、それ言うなって!」

りんのツッコミで部室は笑いに包まれた。朱雀マジック。そういえば、そんな学校伝統の恋愛成就の儀式があったな、と俺はぼんやり思い出す。はじめがそんなロマンティックなことを真顔で狙っているのは面白いが、俺も。いや、待てよ。サプライズ的に、それで千沙に近づくのも悪くないかもしれない。最近、朝練前にちょっと話せたし。けど、何か気まずくなってすぐ逃げたが。

「あーでもいいよな、キャプテンは。そういうのしなくても余裕なんだから」

「え、そうなの?」

俺は思わず声を上げてしまった。え、信二の奴、まさか彼女がいるのか? キャッチャーで、キャプテンで、打席が4番で、しかも彼女持ち? なんだそれ、化け物かよ。

その反応を見て、はじめがにやりとした顔で突っ込んできた。

「あら~、気になるの? 光くん」

「うっさいわ。でもデートしているとこなんて見たことないけど?」

「そりゃそうだろ。千沙さんも吹部で忙しいからな」

(え?)

俺の頭が一瞬フリーズする。千沙。千沙って、もしかして橘千沙のことか? 頭では理解しているのに、意味がまるで腹に落ちてこない。動揺を隠せない俺に、はじめが嬉しそうにさらに続けた。

「あ、光は知らないよね。橘千沙先輩のこと。吹奏楽部のエース的な存在で、めっちゃ美人。校内でも超人気あったんだけど、部活に集中したいからって、ほとんど振ってきたらしい。でも、今年の4月くらいだったかな? キャプテンと付き合い始めたんだよね」

頭の中が真っ白になる。千沙が、信二の彼女? 冗談だろ。いや、そうじゃない、はじめは本気で言っている。俺は顔が熱くなるのを感じながら、何とか言葉を絞り出した。

「へ、へえ~」

ぎこちなく返事をすると、はじめたちは俺の反応が面白かったらしく、腹を抱えて笑い始めた。ピュアかよって。でも、俺は笑えなかった。何も考えられなかった。

その後、部室をどうやって出たのか、家に帰ったのか、全く覚えていない。ただ、千沙と信二の名前が頭の中で何度もリフレインして、心の中に、もやもやとした気持ちが広がっていくのだけは、確かだった。





2017年6月8日。

数日間、ずっと悩み続けた。信二と千沙が付き合っている。その事実が、何度も頭の中を駆け巡る。あの日、廊下で偶然すれ違った二人の笑顔も、今になって鮮明に蘇る。信二と千沙は、本当に楽しそうだった。

「そうか、そうだったんだ……」

千沙は今、幸せなんだ。

それなのに俺は、どこかで千沙が俺のいない現実に寂しさを感じているはずだと、勝手に思い込んでいた。俺が突然姿を消したことで、きっと彼女は悲しんでいる。そんな自己中心的な幻想を抱き、いつか俺が再び現れたとき、彼女は驚き、喜び、あの頃のように笑ってくれると思い込んでいた。

でも、現実はそんな甘いものじゃなかった。

俺がいない間に、千沙は前を向いて歩き出していた。俺が過去に取り残されている間に、彼女は新しい幸せを見つけていたんだ。

「ここには、もう俺の居場所なんてないのかもしれない……」

その思いが頭を過ぎるたびに胸が締め付けられる。俺はただの幽霊みたいな存在だ。死んだ人間が過去に縋っても、生きている人たちは進み続ける。それが当然なんだろう。それでも、心が割れそうなほど痛む。

「俺がいなくても、千沙は平気だったんだな……」

それを認めたくなくて、でも認めざるを得ない自分がいる。練習終わりに、俺は自転車を漕ぎながら、溜息を吐いた。



風呂上がりに居間に降りると、祖母がテレビに釘付けになっていた。最近退職して暇になった祖母は、地元の図書館でビデオを借りて観るのが日課らしい。今日の映画は『ルパン三世 カリオストロの城』。

「一緒に見る?」って、祖母がにっこり笑って誘ってきた。明日も早いし、正直すぐ寝たい気分だったけど、断る理由がなかった。結局、つい最後まで観てしまった。

小さい頃に一度観たことがあったけれど、大人になってから改めて見ると、印象が全く違う。特に心に残ったのは、ラストシーンだった。

ルパンに助けられたヒロインが、彼に惚れ込んで「泥棒の仲間にして連れて行ってほしい」って懇願する場面。あの本気の顔、ルパンに対する純粋な想いが伝わってきた。ルパンもきっと、彼女のことが好きだったんだろうけど、それでも彼は少し悩んだ後に「君には君の人生がある」みたいなセリフを残して、さっさと立ち去る。ヒロインの後ろ姿が切なくて、心にグッと来た。

映画が終わり、エンドロールが流れる中、祖母がポツリと呟いた。

「ルパンって、かっこいいね」

「なんで?」と俺が尋ねると、祖母は画面を見つめたまま、少し微笑んだ。

「本当に大切な人だと思ったらね、その子の未来を考えてあげるのよ。自分の気持ちじゃなくて、相手にとっての一番の幸せをね」

その言葉を聞いた瞬間、胸がザワついた。まるで心臓に直接響くような、強烈な感覚だった。

帰ってきた母に「まだ起きてるの?」と怒られ、慌てて自分の部屋に引っ込んだ。布団に入った途端、祖母の言葉が再び胸を突いた。まるで刺すように心の中をかき乱す。

「俺は……千沙の幸せを、本当に考えてあげられているのか?」

その問いがぐるぐると頭の中で回る。千沙のことを考えているつもりでも、結局それはただの自分のエゴじゃないか。自分が会いたいから、会いたくて仕方ないから、ただそれだけなんじゃないか。

でも、それだけでは済まない。簡単に諦めきれるほど、千沙への想いは軽くない。

「それでも、俺は……」

心の中で何かが叫び続ける。無理にでも想いを押し込めようとしても、どうしても胸の中からあふれ出る気持ちを抑えきれなかった。だけど、同時に気づく。それでも、彼女が幸せなら、それを壊す権利は俺にはないんだ。それが俺の本当の答えだった。

「大好きな人が幸せ」って、それだけでもう十分じゃないか。

そう思いながら、ようやく自分の気持ちに蓋をすることができた。けれど、布団の中で、涙が頬を伝った。言葉にはできない何かが、溢れ出てきた。

「俺にできることは、甲子園に行くことだけだ」

千沙が一度だけ、「いつか甲子園で演奏してみたい」って言ったのを思い出す。おそらくその時は、ただの夢のような願望だったんだろう。でも今、俺ができる唯一のこと。それは、信二や千沙たちを甲子園に連れて行くことだと気づいた。

だから、俺は死に物狂いで頑張るしかない。

泣き疲れて目を閉じた時、心のどこかで微かな覚悟が生まれていた。それが、今の俺の生きる力になる気がした。





2017年6月12日。

少しずつ、身体がこの環境に馴染んできた。最初の頃は疲れすぎて動けなくなる日もあったけれど、最近では驚くほどスムーズに動けるようになった。オーバーワーク気味ではあるけれど、幸い怪我もなく乗り越えている。

おそらく、ここでの練習だけじゃなく、転校前から続けてきた一人でのトレーニングが、今ようやく結果として表れてきたんだろう。その実感がただただ嬉しかった。

毎日の練習は決して楽なものではない。でも、少しずつ成長している実感がある。昨日よりも今日、今日よりも明日。成長の手応えが、たまらなく嬉しい。

「いいね、光。特にこのスライダー、試合でも使えそうだな」

信二が笑いながら言ってくれた。思わず俺も笑みがこぼれた。転校してきたばかりの頃、手探りで始めた新しい変化球、スライダーとスプリット。特にスライダーは、自分でも驚くほどしっくり来ていた。元々投げていたカーブは、今の身体にあまりフィットしなかったけど、このスライダーは、なぜか体が自然に覚え込んでくれた。おそらく、工藤光自身も投げていたのだろうか。

「工藤、次の紅白戦でも使ってみろよ」

監督の言葉が胸に響く。認められたことが素直に嬉しかった。このチームに必要とされている気がして、何だか力が湧いてくる。これが今の俺の一番の励みになっていた。

あの決心をしてから、千沙のことを考えないようにしている。自分でも、それが簡単じゃないことくらいわかっていた。それでも、野球に打ち込むことで、少しずつ彼女のことを頭の隅に追いやることができるようになってきた。

そうしているうちに、思ったよりも「工藤光」としての今の生活が悪くないことに気づいた。高校生活、やっぱり楽しい。グラウンドで汗を流す日々は、決して簡単じゃないけれど、それでも充実している。信二やチームの仲間と目標に向かって進んでいく感覚は、どこか懐かしくて、温かい。何よりも、この身体が喜んでいるみたいで、その実感が嬉しい。

「このまま、工藤光としてやっていくのも、悪くないかもしれない」

そんな気持ちが、少しずつ胸の中に芽生え始めている。

それでも、胸の奥底では、千沙を完全に忘れることなんてできていない自分も分かっている。彼女のことを思い出すたびに、心がざわつく。それでも今は、前を向くしかない。このチームの一員として、そして工藤光として、俺がやるべきことに全力を尽くす。それが、今の俺にできる唯一のことだから。





2017年6月24日。

大会前、最後の練習試合だった。相手は西東京の強豪、片山高校。特に1試合目は相手のレギュラー陣が揃っており、俺たちは打ち込まれて敗北した。悔しさが胸に残る中で迎えたダブルヘッダーの2試合目、監督から「光、行けるか?」と声がかかる。

「はい、完投します」

そう言い切ったものの、正直なところ不安はあった。この体で、最後まで投げきれるのか。何度も心の中で自問しながら、俺はマウンドに立った。

序盤は緊張して球が浮き、何度かピンチを迎えた。それでも、キャッチャーの信二がしっかりリードしてくれたおかげで、徐々に調子が上がってきた。特に新しく取り入れたスライダーが冴え、要所で相手打線を封じ込むことができた。

そして試合終了。9回を投げ抜き、1点差で勝利を掴んだ。

「ナイスピッチング、光!」

チームメイトが駆け寄り、笑顔で背中を叩いてくれる。相手はベストメンバーではなかったとはいえ、初めての完投勝利。俺は思わず拳を握りしめた。この勝利が、少しずつ自信に繋がっていく気がした。

その一方で、クラスでも来週に迫った学園祭の準備が本格化してきた。男子とはすっかり仲良くなり、冗談を言い合いながら装飾や大道具を作る日々。しかし、女子はやっぱり苦手だった。何かと固まっているし、どうしてあんなに会話が速いんだろう。元々俺自身も苦手であったが、身体の反応的に、確実に工藤光自体も苦手だっただろうと思う。

そんな中、吹奏楽部の田中雪が話しかけてくれた。

「工藤くん、この看板、ちょっと持ってもらえる?」

「あ、うん、いいよ」

彼女のさりげない頼みをきっかけに、少しずつ女子とも話せるようになってきた。雪は千沙と同じ吹奏楽部で、よく一緒に行動しているらしい。話の流れで千沙の話題が出ることもあり、俺はどこかぎこちない笑顔で返事をしていたけれど。

クラスの学園祭企画は、1日目のダンスパフォーマンスと2日目の模擬店だ。ダンスの練習風景は圧巻だった。男子も女子も全員が一つになって息を合わせ、ステージに向けて本気で取り組む姿は、見ているだけで胸が熱くなった。

模擬店の占いの館の準備も着々と進んでいる。壁一面にペンキを塗ったり、看板にイラストを描いたりと、みんなで手を動かしている時間が楽しい。俺も率先して重い資材を運んだり、力仕事を任されたりするのが嬉しくて仕方なかった。

「高校2年生の学園祭が一番大変だけど、一番楽しいって本当だな」

誰かがそう言って笑った。俺も心の中で頷いた。野球部の練習とクラスの準備で忙しい毎日だが、不思議と疲れは感じない。むしろ、この瞬間を全力で生きている実感が嬉しかった。この日々がずっと続けばいい。そう思えるほど、俺は今、青春のど真ん中にいる。





2017年7月1日。

学園祭2日目。今日は「占いの館」でのシフトがある。準備をしていると、はじめが大きな声で自慢げに話してきた。

「なあ、聞いてくれよ! 昨日朱雀マジック決めたんだぜ!」

「お前、本当にやったのかよ……」

りんと俺が呆れ顔で返す。

「まあ、どうせすぐに別れるさ。そういうの、去年も5人見たから」

「りんが言うと説得力あるわ」

朱雀マジック恐るべし。俺も昨日、違うクラスの女の子から「タオル交換しようよ!」なんて言われたけれど、全部断った。正直、ちょっと嬉しかった。でも、今はこれでいい。恋愛より、こうしてみんなと過ごす毎日が楽しい。俺って、元々そんなに恋愛に興味ないタイプだったな……なんて、ふと思い出す。

そんな風にのんびり構えていた矢先だった。

「千沙先輩! こっちです!」

教室に入ってきたのは、千沙だった。雪が嬉しそうに声をかけている。俺はその声を聞いた瞬間、反射的に教室の隅に身を隠した。

(どうして……)

どうしてここに千沙がいる? ああ、そうか。雪の直属の先輩が千沙だったんだっけ。そう思いながら、バックヤードへ逃げ込もうとしたその時だった。

「光にやらせようぜ!」

「は?」

りんとはじめが勝手に役を押し付けてきた。やめてくれ、普通に嫌だ。せっかく心を整理したのに。けれど、千沙の視線が一瞬こちらに向けられる。少し困ったような顔をしていた。結局、俺は断ることができなかった。

千沙が、目の前に座る。

「お願いします」

少し緊張したような声が響く。その瞬間、心臓が跳ね上がる。やっぱり、かわいい。髪型は変わらずショートだけど、少し伸びた前髪が大人っぽさを増している。まつ毛が長くて、目元が柔らかい。俺と付き合っていた頃より、少し雰囲気が変わった気がする。あの頃の千沙と今の千沙、どちらも魅力的で、俺の心はどうしてこんなにも揺れ動くんだろう。

占いのアプリを開きながら、どうにかポーカーフェイスを保たなければ。一度気合を入れ直し、千沙に振り向く。けど、心の中ではドキドキが止まらない。こんな風に話すのはどれくらいぶりだろう。占いなんてどうでもよくなってきて、無意識に占い結果を少しだけ自分に都合のいいものに仕立ててしまう。

(気づいてほしい……なんて、俺、何を期待しているんだ)

一瞬、千沙の目がこちらを見つめる。その瞬間、息が止まりそうになる。けれど、すぐに彼女は視線をアプリに戻した。やっぱり、俺なんかにはもう興味ないんだろう。千沙は信二と一緒だし、きっと幸せなんだ。

占いが終わり、少しだけ意地悪をしながら、千沙は軽く微笑んでお礼を言って席を立った。その背中を見送りながら、胸がぎゅっと締め付けられる。

(なんて、俺は浅はかなんだ)

彼女の幸せを願うって決めたのに。こんな風に自分の気持ちを押し付けるなんて、最低だ。暖かさと切なさが胸に残って、心がざわついたまま、教室の喧騒が戻ってきた。





2017年7月4日。

背番号が一つひとつ呼ばれる。

「11番、工藤」

俺の名前が呼ばれると、足が震えるのを感じながら急いで監督の前に行き、番号を受け取った。その手をポケットに突っ込み、震えを隠すように深呼吸を一つ。緊張が体の中を広がっていく。でも、胸の中には、嬉しさがじわじわと湧き上がってきた。

東さんがエースで、矢木が10番。ベンチ入りは確定しているが、11番という背番号がどれほどの意味を持つのか、今はまだ実感が湧かない。ただ、自分がこのチームにいるという事実を受け入れ、その重みを感じている。

その時、信二が静かに言った。

「勝つために、ベストを尽くす。それが俺たちのやり方だ」

その言葉に、みんなが頷き、心が一つにまとまる。その瞬間、初めて、このチームの一員として戦う覚悟が決まった。自分がどれだけ小さな存在であろうと、チームの一部として、みんなと共に戦うことができる。そう思うと、心が熱くなる。

そして最後に、信二がひときわ大きな声で言った。

「大気のために」

その言葉を聞いたとき、何も言わなくても、みんなが同じ気持ちを抱いていることがわかった。全員が力強く頷き、心を一つにした。転校生の俺が、こんなにも真剣に受け入れられ、ただ一つのチームとして進んでいくことが、こんなにも誇らしいと感じる瞬間は、今までなかった。

その時、覚悟した。俺はこのチームで工藤光として戦うんだ、と。





2017年7月8日。

初戦が始まると、予想外の展開が待っていた。

正直、出番なんてなかなか来ないと思っていた。だけど、相手が予想以上に粘ってきた。うちのチームを徹底的に研究しているのが丸わかりで、こんなに本気で戦ってくるとは思わなかった。去年の県内準優勝チームだし、当然だよな。でも、それでも勝たなきゃならない。

そして、東さんにスイッチしてから、ようやくチーム全体の雰囲気が落ち着いた。あんなにガンガン攻めてきていた相手も、東さんの投球に圧倒されて、少しずつ動揺し始めた。だからこそ、俺は冷静に肩を作りながら待つことができた。

でも、アクシデントは起きるものだ。東さんがデッドボールを食らった瞬間、胸に衝撃が走った。心の中で「来た……」と確信した自分がいた。すぐに、その確信が体に突き動かす力となって、俺は動き出した。出番が来たんだ。何年ぶりだろう、この感覚。驚きと同時に、嬉しさが胸に込み上げてきた。

自分の変わった身体に、少し戸惑いながらも、それでも、この感覚が好きだ。あの球場の空気、グラウンドに立つ重み、すべてが心地よく響く。アドレナリンが全身に流れ、緊張と興奮が入り混じった状態で、マウンドへ向かう。

信二が心配そうに「大丈夫か?」と目で問いかけてくる。俺はその目を見返すと、力強く答える。「大丈夫です」と。その瞬間、全てが自分のものになるような気がした。この舞台で、俺を全うする。それだけで、心が燃え上がった。

あの時のヒリヒリした感じ、久しぶりに感じる高揚感。この瞬間を待ちわびていたんだ。誰にも邪魔されず、この一瞬を思い切り生きるんだ。全てを賭けて、俺はマウンドに立った。そして、心の中で深呼吸を一つ、全てを出し切った。





2017年7月17日。

調子は上々だった。2回戦、3回戦も順調に突破し、チームの一員として、そしてピッチャーとして活躍できることが本当に嬉しかった。

試合後、クラスでも少しずつ人気者になれている気がする。みんなの期待に応えるために必死に投げている自分が誇らしい。家でも、母が喜んでくれて、心から幸せを感じていた。「昔の光に戻ったみたい」と言って、安心している母の顔を見ると、さらに力が湧いてくる。

確かに、昔は少年野球の都大会に出ることが楽しみで、勝つために全力を尽くしていた自分がそこにいた。その感覚を久しぶりに取り戻している。あの頃の自分を、再び感じることができているのが本当に嬉しい。

ただ、思わぬところで厄介な問題が発生した。期末テストが学園祭の後に控えているというのが、どうしても納得いかなかった。学園祭でクタクタになっているはずなのに、その後で勉強なんて本当にきつい。なんでこんなタイミングで期末があるのか、スケジュールがどうしてこんなに狂っているのか。愚痴の一つも出そうになったけど、もう仕方がない。

それでも、意外にも得意な科目があった。それが日本史。小さい頃に新宿の本屋で母に買って貰った日本史の漫画を何度も読み返していたおかげで、他の科目に比べて点数が高かった。でも、あまりにも良い点を取ったから、日本史担当の高橋監督から「カンニングしているのでは?」と疑われる始末。それも今となっては、良い思い出だ。どんなに苦しい状況でも、少しの嬉しさを見つけられる自分が、なんだか誇らしく感じられた。





2017年7月19日。

東山大甲府との試合で、今年一番のピッチングができた。決勝進出を決めた瞬間、心の中で喜びが爆発したけれど、それと同時に強く思ったのは、「絶対に決勝は勝ちたい」という気持ちだった。勝利の達成感は素晴らしかったが、それ以上に、次に繋がる試合で自分がどうなっていくのかという期待が膨らんでいった。

信二も嬉しそうに「忘れ物を取りに行くつもりで頑張りたい」と言っていて、その言葉を聞いた俺は決勝に向けて全力を尽くすと心に誓った。

部活が終わり、帰り道でいつものメンバーと歩いていた。そんな中、校門前で女子が一人待っていた。それが千沙だと気づいた瞬間、りんややはじめは嬉しそうに騒いでいた。でも、俺はその瞬間、心の中で急に恐怖を感じた。

どうしてこんなに野球に没頭してきたのか、今自分が何を目指しているのか、急に疑問を感じた。確かに、野球を頑張ってきたのは勝ちたいからだけど、千沙のためだったんじゃないのか。あの「甲子園で吹きたい」という千沙の言葉が、どれだけ今の自分を突き動かしていたのか。それに気づかずに、いつの間にか千沙を完璧に忘れていた。そして、完璧に工藤光になりつつある自分に動揺した。

その後、動揺がさらに強くなった。信二と千沙だけを残して、俺たちはその場を離れて帰っていった。東さんが冗談交じりに「やめろ、カップルを見るな。目が潰れるぞ」と言いながら、振られたばかりのはじめを慰めていた。けれど、俺はその場面をどう受け止めるべきか、悩んでいた。

家に帰る道を歩きながら、日が沈み、夕暮れ時の薄明かりの中で、自分の存在がどこかぼやけて見える気がした。空はまだ夕焼け色を残していて、風は少し冷たくなっていた。家に着いてから、この日記を読み返した。数か月前に書かれた言葉が、まるで遠くから見ているような気がして、胸が痛くなる。自分は一体、何者なんだろう。

本当の両親の顔を思い浮かべると、ふとその顔さえも忘れてしまいそうになる。どこか自分がぼんやりとした存在になっているようで、どうしていいのか分からなかった。そして、何のために野球をしてきたのか、その答えを見つけるのが怖くなった。自分の中にある目標や思いが、次第にあやふやになっていく感覚に襲われていた。





2017年7月20日。

試合前のプレッシャーが、体を重くし、心を乱していた。

昨夜、寝ようとしても眠れなかった。目を閉じるたびに浮かぶのは、試合のこと、そして自分が何者なのかという不安ばかり。工藤光という自分が、この場にいる意味が分からなくなる瞬間があって、その度に眠れなくなる。でも、試合は迫っている。考えている暇はない。気持ちを切り替えなければ。

今日は暑くなりそうだから、水分補給もしっかりと。やるべきことを一つひとつこなしていくしかない。自分にできることを全力でやって、結果を出すだけだ。そんなことを繰り返して、試合に挑む準備を整える。

球場に着いて、準備を進めるうちに、妙に体が緊張しているのがわかった。何だか落ち着かなくて、すぐにトイレに行きたくなった。さすがにひどいなと思いながらも、どうしても気になって、またトイレに駆け込んだ。用を足しても、またすぐに行きたくなって、りんに「便秘か?」とバカにされたけど、そんなこと言っていられない。気持ちを落ち着けるために、何とかして自分を整えた。

三回目のトイレから出ると、なんと千沙がいた。え? ここに千沙が? 予想外の出会いに一瞬動揺した。頭の中で、彼女がいることが全然想像できていなかったから、心臓が跳ねるような感覚が走った。

千沙は少し驚いたような顔をして、こちらを見ていた。風に髪が揺れ、暑さにも関わらず、どこか涼しげに見えた。何も言わずに目が合う。俺は慌てて目をそらすが、どこかで安堵も感じている自分がいた。この緊張感の中で、千沙に会って会話して、少しだけ心が軽くなった気がした。

その時、後ろからふいに声を掛けられた。振り向くと、すぐに分かった。樋口だ。中学の時に一度だけ対戦したことがある奴で、俺のことをやたらと慕っていた。懐かしさと面倒くささが入り混じった。あれから何年も経ったのに、あいつは全然変わらない。

その瞬間、ふと気づく。あれ、あの時の事故で助けたのが樋口だったんだ。完全に忘れていたけど、髪を伸ばしていたから、あれが樋口だとは気づかなかった。でも、よくよく考えると、あんな変な奴を助けてしまったな。

樋口は相変わらず、やたらと絡んできて、面倒くさい。こっちは試合前の緊張と向き合っているっていうのに、全然お構いなしだ。なんとか適当に返事をしながら、早くこの場を終わらせたかった。でも事故の話に触れると、千沙がすごく悲しそうな表情をしているのがわかった。その瞬間、胸が痛くなった。ああ、そうだ、今は俺と千沙が向き合うべき時だったのに、樋口がこんなことして、余計な心配をさせてしまったんだ。

その後、トイレから出てきた樋口の先輩のおかげで、なんとかその場は解散となったけど、俺はその間ずっと千沙の顔が気になって仕方なかった。何も言えないままでいる自分が情けなくて、焦る気持ちだけが募った。試合前なのに、全く集中できていない自分に、また一つ余計な悩みが増えてしまった。

みんなのところに向かう途中、千沙のことをずっと考えていた。あの悲しそうな顔が頭から離れない。何か嫌なことを思い出したのだろうか。それとも、ただ、俺のことを思っているのか。好きな人が悲しそうな顔をしているのを見るのは、本当に辛い。何より、千沙には笑顔が似合うから、あの表情が余計に胸に刺さった。



試合前の緊張感に包まれながら、ふと樋口のことを思い出した。あいつのおかげで、あの日のことがまた蘇ってきた。そういえばあの時、最後に信二に向かって、千沙のことを頼んだって言ったな。

信二は、千沙のことを好きだったけど、俺と付き合ってからはすぐに引いてくれた。信二は本当にいい奴で、だからこそ、もしも俺が死んで千沙が悲しんでいたら、信二がきっとフォローしてくれるだろうって思っていた。信二なら、千沙をしっかり支えてくれるだろうと。

そして先ほどと今までの様子から、千沙は事故で悲しみを感じたが、しっかり信二がフォローをしてくれたのだろう。さらに予想を超えて、二人は付き合い、信二と一緒に幸せになったと分かった。つまり、今の状況として、俺の願い通り、いや、それ以上の結果になっていたと分かった。

不思議だ。こんなにも幸せな気持ちになれるなんて。大好きな人たちが幸せになっている。それだけで胸が満たされるなんて。だからこそ、俺が今できることは何だろう。そう、やっぱり、この試合で勝つこと。そして、きっぱりと自分の役割を終えることだ。信二と千沙の幸せを見届けて、俺は彼らからフェードアウトする。それだけが、今の自分にできる最良のことだと思った。

自分でも分かっていた。少しずつ、俺は輿水大気ではなく、工藤光になってきている。それが、なんだか不思議だった。工藤光として生きることが、もう自然になってきている。振り返れば、輿水大気の記憶は、まるで夢のように遠く感じる。きっと、工藤光の中に輿水大気の記憶が乗り移っていただけだ。だから、これでいいんだと思う。成仏しよう。全てを終わらせる時が来たのだと、心のどこかで感じていた。

試合中、そんなモヤモヤを抱えていたが、段々と自問自答し、自己解決していった。もちろん悲しみはあるが、これが運命として受け入れるしかない。そして最後に、信二と純粋に野球を楽しもうと考えた。もう、これでいい。未練なんてないはずだった。

そして、試合が終わった。ぎりぎりだったけど、最後まで粘り抜いた。さすが古橋さん、全打席が恐怖でしかなかった。でも、あの試合は本当に良い試合になった。3塁スタンドの盛り上がりが予想以上で、球場全体が一つになったような感覚があった。

俺は真っ先に千沙を探した。無意識に、あの笑顔がどこかで俺を待っている気がして。見つけた瞬間、千沙がとても幸せそうに笑っていた。それを見た瞬間、俺の中で何かが静かに終わった気がした。甲子園出場も決めたし、もう千沙にとって、もう俺の役割は終わったと思った。

でも、案の定、千沙と目が合った。彼女が手を振ってくる。胸が締めつけられるようだった。やばい、また成仏できなくなる。そんなことを瞬間的に考えて、思わずその場から逃げ出した。

千沙に向き合って、笑顔を受け入れたら、また俺が工藤光として生きる意味を見失ってしまう気がした。もう、俺は退場すべき人だ。輿水大気じゃない、工藤光だ。だから逃げ出した。しかし、信二に捕まった。そしてその時、もういいかなと思ってしまった。

だから、とうとう信二に全てを話した。今まで何度も自分の気持ちを隠してきたけど、これ以上は無理だと思った。信二がどう思うか分からなかったけど、もう言わなきゃいけない。





 私が日記を読んでいる最中、信二はしばらく黙っていた。月明かりが彼の顔にかすかに照らされ、その影が揺れていた。静かな夜の中で、蝉の声が一層大きく響くような気がした。まるで、夏の終わりを告げるかのような音が、私たちの間に広がっていた。

信二はゆっくりと息を吐き、目をそらした。その一瞬を、私は見逃さなかった。信二が心の中で何かを決めて、言葉にするのを躊躇っているのが分かった。そうだよな、こんなことを言うのは、きっと簡単なことじゃない。

「だからさ、俺たち、もうお互いに……違うんだよ」

信二の声は、思ったよりも小さかった。彼自身もその言葉に重みを感じているのだろう。

その一言が、私の胸に刺さるようだった。心の中で何かが引き裂かれる音がした。でも、その痛みが、なんだか分かっていたような気もして。信二の言葉が、まるで昔からずっと知っていたことのように響いたからだ。

「でも、どうして?」

私はその言葉を口にするのが精一杯だった。自分の声が、あまりにも小さく、震えていることに気づいた。信二の顔を見ようとするけれど、どうしても目を合わせることができない。恐らく、彼も同じ気持ちなのだろう。

「ごめん。俺ってさ、やっぱりせこい奴だよ」

信二は、何度も自分の言葉を噛みしめるように、ゆっくりと続けた。

「正直、大気が亡くなった日、大気から最後に千沙のことを頼まれた。それって付き合えってことじゃなくて、支えてやれって意味だと分かっていた。けど、俺的に無意識に、これで千沙と付き合えるかもって思ってしまっていた。だから不純だよな。親友が死んでいるのに。親友の最後の願いなのに、それを踏みにじって」

信二は少し黙ってから、視線を地面に落とし、息を吐きながら続けた。

「実はさ、光が転校してきた時、すぐに、もしかしたら大気かもって思った。おかしいくらいに、大気に似すぎていたもん。でも、その情報を敢えて千沙に言わなかった。光自身がイケメンってこともあったが、千沙が光と会ってしまうと、そのまま取られちゃうんじゃないかなって。でも結果的に、二人はさ、段々と距離を近づけていった」

信二はそのまま続ける。

「千沙に会うと、よく光の話をしていたもんね。俺自身、気が付いていたのに、自分のエゴで、ひたすらせこい真似ばかりをしていた。千沙のこと、何も考えていなかったと思う。今もさ、コンクール後で落ち込んでいる時なのに、めちゃくちゃせこいと分かっている。けど、これ以上、自分に嘘はつけない。ごめんなさい」

その言葉は、まるで彼がずっと抱えていた重荷をようやく下ろしたかのようだった。

 その信二の言葉は、まるで重い鉛のように私の胸を打った。心の中で何かが崩れ落ち、同時に無数の思いが交錯していった。信二がこんなにも自分を責めていたこと、私は一切気づいていなかった。ただ、彼がひとりで全てを抱え込んでいたその痛みだけが、痛いほどに伝わってきた。

「ごめん」という言葉が、どこか遠くに響いた。信二の声があまりにも切なくて、その重みが私の胸に圧し掛かった。親友の死後、私を支えようとしたその思いが、彼にどれほどの苦しみを与えていたのか。信二の一言一言が、私の胸を締め付けるように痛んだ。でも、私はその痛みをどうすることもできなかった。ただ、信二がどれほど自分の気持ちに正直で、心の中で悩み続けていたのかを考えると、何も言えなくなった。

「本当に、今までありがとう。大好きだよ。またね」

信二がそう言い残して、ゆっくりと去っていった。その背中がどんどん遠くなっていくのを見て、私は一人取り残された。

舞鶴城の夜、冷たい風が吹いていた。その冷たさに包まれると、ふと信二が言ったことが頭をよぎった。彼は、最初から気づいていたのだろうか。転校初日から、工藤光が大気である可能性に。だけど、それを言わなかった理由。千沙が新たに誰かを好きになってしまうことを恐れていたこと。そして、信二は無意識に、でも確信を持ってそれを感じていたのだ。

私の心の中で、感情が溢れそうになった。悲しみや悔しさ、そして少しの安心感。それは、信二が私を思って行動してくれていたことが、ほんの少しだけ理解できたから。でも、その理解が、すべてを終わらせてしまったのだとも気づいた。

舞鶴城の静けさが、私の心をそのまま反映しているようだった。信二の言葉が耳に残り、涙が頬を伝った。彼が去った後、私はどうしていいのか分からなかった。ただ、夜風の中で一人、信二に感謝し、彼が抱えていた痛みに心を寄せた。おそらく、今感じているのは、信二が最後にくれた優しさなのだろう。それでも、涙は止まらなかった。


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