第5話

西関東大会への出場が決まった。長年の夢が、とうとう現実になった。

なのに。

部内は静まり返っていた。期待していた高揚感はどこにもなく、薄暗い空気だけが広がっている。コンクールの県大会後、朱雀会館に戻った私たちは、無言で土橋の審査員コメントを聞いていた。

「次の審査表のコメントを伝える。課題曲は丁寧に演奏できていた。楽譜通り忠実だ。しかし、自由曲には、悪い影響を与えている。結論として、曲に振り回されている。コントロールが不十分だ。以上」

その言葉に、誰もが胸の奥を突かれた。自覚があったからだ。

野球応援の後、あれだけ喜びに沸いた私たちは、どこか浮き足立っていた。練習でも集中を欠き、細かいミスが目立つようになった。土橋や瑞希の厳しい声にも、気持ちを引き締めきれず、そのままコンクール当日を迎えた。

そして本番。演奏は、最悪だった。

課題曲までは何とか集中できたけれど、自由曲では完全に崩れた。私はハイトーンを外し、瑠璃や雪ちゃんもミスを重ねた。それでも、なぜか私たちは勝ち進んだ。

今年、A部門に出場した学校はたまたま少なかった。また、他校も調子が悪かったらしい。私たちは運よく、最後の枠で代表に選ばれた。まさにおこぼれ代表だ。

目標を達成したという嬉しさはある。それでも、心の奥に引っかかるものが消えない。

「これが、私たちの『成功』?」

その問いに、誰も答えられなかった。

「最後の審査員コメントだ。課題曲は素晴らしい。しかし、自由曲の解釈が弱い。今年なぜ、この曲を選んだのか。この曲で何を伝えたいのか。特に金管、特にトランペット。よく考えて、もう一度イメージし直した方がいい」

その言葉を聞いた瞬間、部員たちの視線がちらっとこちらに向けられるのを感じた。けれど、もうどうでもよかった。

今年の審査員には有名なトランペット奏者がいる。それくらいの指摘が来ることはわかっていた。それでも……。

胸の奥で、何かがざわつく。

「とりあえず、皆。今年は野球応援もあって大変だったな。でも、3年生、念願の西関東大会出場おめでとう」

土橋のその言葉は、空々しかった。私たち3年生の心には、何ひとつ響かなかった。だから、私たちも素直に喜ぶことができなかった。ただ、うなずくことさえできずにいた。

やがて土橋が1、2年生に声をかけた。

「帰る支度をしなさい」

朱雀会館には、3年生だけが残された。静かな空間に、言葉にできない思いだけが漂っていた。

「とりあえず、3年生、お疲れ様」

土橋が口を開く。少し間を置いて、続けた。

「さっきは1、2年もいたから流したが、どうする? 来週からは甲子園の応援で吹奏楽部もついていくことになる。お前たちは大学受験も控えている。何より、今、部活を引退することもできる」

その言葉が落ちた瞬間、朱雀会館の空気が凍りついた。

「引退」

まさかそんな選択肢がここで示されるとは。

私たち3年生は顔を見合わせることもできなかった。ただ、胸の奥で何かが折れる音がした。

「正直、今日の演奏。最悪だったな」

土橋は苦笑しながら続けた。

「俺自身、たぶん一昨日の野球部のことで浮かれていたかもしれない。それは悪かったと思っている。でも、それにしても、今日のあの演奏はなんだ? 技術どうこうじゃない。ただ、ふわっとしている。それだけのものだ」

静寂が部屋を支配する。先生の言葉が容赦なく響いた。

「こんな状態で、西関東大会に出たらどうなる? 正直、惨めな思いをするだけだぞ。もちろん、思い出作りって意味なら出場してもいい。ただし、それに本当に意味があるのか?」

心に突き刺さる言葉だった。

土橋が私たちのことを思って言ってくれているのは分かる。でも、何も言えなかった。悔しい。だけど、声にならない。

不完全燃焼。これでいいのか? どうすればいいのか?

野球部の勝利後、あれほど感じた興奮や喜びが、今はどこか遠い世界のもののようだった。





その日、私は朱雀会館をいつもより遅く出た。

コンクールが終わったはずなのに、胸のモヤモヤは晴れない。気づけば無意識に自主練をしていた。西関東大会への出場が決まったのは嬉しい。でも、今の私たちのままで大会に出ても、本当に意味があるのだろうか?

自由曲。あの演奏の出来がどうしても悔しかった。考えれば考えるほど、進むべき道が見えず、足元がふわふわと不安定になる。

校門に向かってトボトボ歩いていると、不意に視界の先に人影が見えた。

信二だった。

まるで待ち構えていたかのように立っている彼は、嬉しそうな顔をしていた。

「よお、西関東大会おめでとう!」

信二の明るい声が響いた。とびきりの笑顔。その笑顔が、なぜか胸にじんと響いた。

「あ、ありがとう。なんとかね」

つい、そっけない返事をしてしまう。嬉しさよりも、心の中のモヤモヤが勝っていて、素直に喜ぶ気になれなかった。

「いや、なんか暗いね」

信二の言葉にハッとした。どれだけ暗い顔をしていたのか、自分でも気づいていなかった。

「え、そうかな?」

無理に笑ってみせる。でも、その笑顔が自分でも不自然に思えて、余計にぎこちなくなった。

「土橋から説教でも食らった?」

信二が冗談っぽく言うと、私は思わず笑ってしまった。ほんの少しだけ、胸の重みが軽くなる気がした。

「あはは、まあね。思ったように演奏できなくてさ、それで……」

声に出してみると、少しだけ気持ちが和らいだ。でも、まだ足りない。演奏の失敗が頭から離れない。

信二はそれ以上何も言わず、ただ隣で歩いてくれた。無言だけど、寄り添ってくれる優しさがありがたかった。

しばらく歩くと、信二がふと顔を上げた。何か言いたげな表情のまま、口を開く。

「なあ、ちょっと舞鶴城に行かない?」

突然の誘いに驚いた。でも、不思議と嫌な気はしなかった。今の私には、何かしらの気分転換が必要だと思っているからだ。

舞鶴城公園。静かな場所で、自分の気持ちを整理できるかもしれない。

「うん、行こう」

そう答えると、信二と並んで歩き始めた。

心の中に広がるモヤモヤは、まだ完全には消えない。それでも、少しずつ、確実に軽くなっていく気がした。



ここに来るのは、久しぶりだった。

1年生の時、パートの先輩たちと花見をした記憶がよみがえる。あの頃はただ楽しくて、明るい場所だった。でも、今日は違う。

夕方の静けさが胸に染みる。

舞鶴城公園、通称甲府城公園は、すっかり暗くなり始めていた。人影もまばらで、空は深い青に溶けていくよう。遠くからセミの声だけがかすかに聞こえる。その静けさが心地よかったはずなのに、今日はほんの少しだけ心細く感じた。

「はい、ジュース」

信二が自販機から戻ってきて、コーラを手渡してくれた。冷たい缶が手に触れた瞬間、素直にありがたいと思った。

「ありがとう」

そう言いながら、ふと感じた。こうして信二が隣にいることが、なんだかとてもありがたいことのように思える。

二人で夜空を見上げながら、しばらく無言だった。静寂の中、信二がぽつりと口を開いた。

「なあ、ちょっと話飛ぶけどさ、いい?」

突然の言葉に、私は少し驚いた。けれど、その声の調子が妙に気になって、自然と返事をした。

「なになに? いきなり?」

ぼんやりと雲を見上げながら聞き流すように答えたけど、信二の声には何か含みがあった。それが、私を妙に引き込んだ。

「千沙ってさ、死者が蘇るとか、信じる?」

その一言で、私の思考は一瞬止まった。死者が蘇る? それはホラー映画の話? それとも……。何とも言えない違和感と不思議な感覚が胸をよぎる。

しばらく黙っていると、信二が同じ質問を繰り返してきた。

「どう思う?」

「えっと……何の話? 壺は買わないよ?」

とりあえず冗談を言ってみたけど、信二の目は真剣だった。その視線がまっすぐで、何かを必死に伝えようとしているのが分かった。でも、言葉にするのが難しい。そんな表情だった。

「いや、そういうことじゃなくて。実際にどう思う?」

私は少し考えてから、慎重に答える。

「うーん。映画とか小説なら、そういうのもアリだけど、現実にはないよね……多分」

「だよな。うん、そうだよな」

信二はうなずきながらも、どこか納得しきれていない表情をしていた。そして再び訪れる沈黙。この沈黙が、なぜか妙に重く、長く感じられる。

耐えきれなくなって、私は口を開いた。

「えっと……何かあったの?」

信二はしばらく黙ったままだったが、ふっと息をついてから口を開いた。

「いや、ごめん。うまく言えないんだ。でも……」

彼の声がかすれていた。信二の迷いが、その表情に浮かんでいる。何か大事なことを言おうとしている。そう感じた私は、それ以上言葉を重ねず、ただ待つことにした。

しばらくして、信二は意を決したようにリュックから一冊のノートを取り出し、私に手渡してきた。

「これ」

私はノートを受け取り、静かにページをめくった。名前もタイトルもない無造作なノート。中にはびっしりと手書きのメモが、日にちとともに記されていた。それは、誰かの日記のようだった。

ページをめくる手が止まる。

「それさ……光のノート」

信二が小さな声で言った。その言葉に、私の心が大きく揺れた。

光。信二が言う「光」……。それは、工藤君のことだろうか?

胸の奥にざわめきが広がり、私は言葉を失った。

そんな私を見て、信二は、静かに何があったのか、教えてくれた。





あの日、甲子園出場が決まった瞬間、歓声と拍手の中で私は妙に息苦しかった。胸が締めつけられるような、嬉しさよりも切なさが先に立つ感覚。あの場所で、私はただ一人、浮いているような気がしていた。

その始まりは、工藤君に手を振ったときだった。たった一瞬。それなのに、私の心の中で何かが壊れる音がした。いつもなら作り笑いでも返してくれる彼が、その日は違った。工藤君は明らかに嫌そうな顔をして、視線をそらしたのだ。その冷たい仕草が、まるで刃物のように私を傷つけた。

「なんで……?」

ただ、みんなと一緒に喜びたかっただけなのに。その思いは、彼の視線によって粉々に砕かれたようだった。

後で知った話だが、その場面を見た信二が工藤君に注意をしに行ったらしい。でも、そこで予想もしなかった出来事が起きた。信二が話してくれた内容に、私は耳を疑った。

「工藤がさ……自分は、輿水大気だって言ったんだ」

その言葉を聞いた瞬間、私の頭は真っ白になった。

信二自身も最初は何を言われているのか分からなかったと言う。でも、そこから少しずつ話が進んでいき、信二は工藤君、いや、輿水大気の抱えてきた重荷を知ることになる。

大気。名前を口にするだけで、何か大きな波が押し寄せるようだった。

「最初は嘘だと思った。でも、話を聞いていくうちに全部が繋がったんだ」

信二の言葉にはどこか震えが混じっていた。彼が感じた驚きや困惑がそのまま伝わってくる。そして、信二は黙って、私の持つノートを指さした。

「これ、しっかり読んでみて」

ノートをしっかり確認すると、大気がこれまでどんな思いを抱え、なぜ自分を隠してきたのか、その理由が細かく書かれていた。その文字からは、彼が背負ってきた孤独と葛藤が、痛いほどに伝わってきた。

私はノートを抱えたまま、言葉を失った。この真実が、どうして今のタイミングで私の前に現れたのか。その理由を考える間もなく、心が揺さぶられていた。


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