第4話

「ゲームセット!」

「うぉ、第二高校がやりやがった!」

球場が今日一番の歓声に包まれる。スコアボードには1対0の数字。第二甲府高校が東山大甲府高校を破った。2年連続の決勝進出。誰もが驚き、そして湧き上がる。

正直、今年の夏に第二甲府がここまで残れるとは、誰も想像していなかった。いや、俺自身もだ。大気が抜けた時点で、ベスト8にでも行けたら万々歳だと思っていた。

だが現実は甘くない。さらに追い打ちをかけるように、東が怪我で戦線を離脱した瞬間、チーム全体が沈んだ。希望という光が一瞬で掻き消されたような気がした。あの時の絶望感は、さすがにきつかった。

そんな穴を、予想もしなかった形で埋めてくれたのが、工藤光だ。5月、彼は親の転勤でこの町に引っ越してきた。初めて見た時の印象は、「なんだ、こいつはモデルか?」だった。長身で整った顔立ち、見るからに都会育ちのイケメンだ。

「ポジションはピッチャーです」

まさか、投手? 俺たちは半信半疑で、光とのキャッチボールに臨んだ。ボールを受けても最初は「まあまあ普通の投手だろう」と思った。だが、いざ座ってみると、驚いた。いや、鳥肌が立った。

球速は速くない。ボールのキレだって、突出しているわけじゃない。だが、その投球フォームが、あの、大気に瓜二つだったのだ。

「おい、ちょっと待て……」

声を漏らしたのは俺だけじゃない。高橋監督も、光のフォームを見た瞬間、息をのんだ。あの夏のエース、大気の姿がそこに重なったのだから。

周囲の後輩たちは大して気にしていなかったが、俺たち、いや、チームの主力だった連中には、その「再来」がとても印象的であった。

それから、光は驚異的な速度で成長していった。まるで新しいことを学んでいるのではなく、何かを思い出しているように。

彼は誰よりも早く学校に来て練習を始め、地道なトレーニングを着実にこなしていった。ただがむしゃらに身体を酷使する「筋肉バカ」ではない。最新の野球理論を伴い、必要

な技術をひとつずつ吸収していく姿は、大気とはまた違うタイプの選手だった。

だが、それだけに不安もあった。全体的に見れば、彼の努力は正直オーバーワーク気味だったからだ。俺も監督もその点は何度か注意をした。だが、光はどこまでも真剣だった。

「大丈夫です。これが今の僕に必要なことだとわかっています」

そう言い切る目には、揺るぎない決意があった。サプリメントやストレッチも含めた、自己管理の徹底ぶりも申し分なく、最終的に俺たちは彼を信じ、見守ることにした。

そんな彼の姿を見て、チームメイトたちも少しずつ変わっていった。周囲の選手たちも次第に光を「仲間」として認め、信頼を寄せるようになっていった。そして、親都合の転校という経緯もあり、高野連の規則には問題がないと判断され、光は控え投手の座を手に入れた。

しかし、どうだろう。今、このチームの実質的なエースは光だ。東が抜けてから、その穴を埋めるどころか、彼は新たな柱としての役割を果たしている。

正直、矢木にはその重責を背負う力はなかった。他にピッチャーらしい投球をできる選手もいない。そんな中で光は、ひとり淡々と投げ続けた。そのスタイルは、大気とは違う。大気のような球威でねじ伏せるタイプではないが、光には「安定感」という強みがある。コーナーを丁寧に突き、確実にアウトを取る。その堅実さが、チームに安心感を与える。

さらに、彼は配球の意図を正確に汲み取り、こちらのリードに応えてくれる。キャッチャーとしてこれほどリードしがいのある投手は他にいない。

そして、光が最も輝くのは、ピンチの場面だ。ランナーが得点圏に進むと、彼の集中力は一段と研ぎ澄まされる。まるでギアを一段階上げたような気迫を感じる。ベースの後ろから見ていても、その空気の変化は明らかだ。

今日の試合でも、光はその真価を発揮した。7本のヒットを打たれながらも、失点は0。抑えるべき場面ではきっちりと抑え、力を抜いてもいい場面では抜く。そのメリハリの効いた投球は、先発投手として非常に理想的だった。

相手からすれば、「打てているのに点が入らない」という、ストレスの溜まる状況だろう。結果的に、今日の相手も焦り、自分たちのスイングができなくなり、自滅していった。相手にとっては嫌らしい。だが、俺たちにとっては、これ以上頼もしい投手はいない。

キャッチボールを終え、ベンチ裏に戻る光に向かって、「アイシングしとけよ」と声を掛ける。光は振り返り、「わかりました」と短く答えると、手早く道具を片付け始めた。その姿を見届けた俺も、自分の片付けに取り掛かる。その横で、監督がポツリとつぶやいた。

「いよいよだな」

その言葉に、思わず視線がベンチの奥に向く。掲げられた大気のユニフォームが目に飛び込んできた。今この瞬間、まるでそこから大気が俺たちを見ているような、どこか近くにいるような気がした。

そうだ。とうとう決勝だ。去年、俺たちが取りこぼしたものを取り返すときが来た。そして何より、天国にいる大気のために。





「お!」

明日の試合に備え、今日はいつもより早めの解散となった。暑さは残るが、日は傾いている。主力メンバー全員で校門へ向かうと、そこに千沙が立っていた。

「キャプテン~。奥方がお待ちしていますぞ!」

りんがニヤニヤしながら冷やかしてきたので、「うっせえ」と軽く睨み、適当に黙らせる。それでも肩を揺らして笑うりんたちを見て、緊張感が無いなと、俺も内心苦笑していた。

千沙とは最後のデートから、なかなか会えなかった。夏休みはお互いに忙しい。俺は大会、千沙はコンクール。どちらも大事な時期だと分かっているから、目の前のことに集中しようと決めていた。でも、こうして突然会えるのは、やっぱり嬉しい。千沙も気を遣って、こうして来てくれたんだろう。

「ほら、お前ら先に帰れよ。俺はゆっくり帰るから」

「キャプテン、明日がありますから、ほどほどにねー!」

はじめたちは「ぎゃははは」と下品に笑いながら、千沙に会釈しつつ校門を出て行く。千沙は笑顔でそれに応えながら、彼らが見えなくなるまで視線で追っていた。

「悪い、うるさいやつらで」

「ううん、全然。急に押しかけちゃってごめんね。それにしても、決勝進出おめでとう!」

「うん、ありがとう」

自然と顔が緩む。俺たちは並んで歩きながら、校門を出た。自転車には乗らず、夕焼けの中、ゆっくりと歩く。

「今日の試合、本当にハラハラドキドキだったね」

「いや、緊張感がすごかった。でも粘り強く戦えて良かったよ」

「本当にね。粘り強くヒットを繋げていたし」

今日はチーム全体で4安打しか打てなかった。そのうちの1本は俺の内野安打。久しぶりにヘッドスライディングを決めた。

「けど、正直ダサいヒットだったよな」

「そんなことないよ! あれは本当にかっこよかった!」

千沙が満面の笑みでそう言ってくれると、不思議と胸の中が温かくなる。何より、好きな人から褒められるのは特別だ。

「ありがとう。それも、千沙たちが応援してくれたおかげだよ」

「ははっ、どうもどうも(笑)。信二の応援歌、かわいいもんね」

千沙がクスクスと笑いながら言う。俺の応援歌は『ひみつのアッコちゃん』。キャッチャーの応援歌としては伝統らしいが、正直、自分で選んだわけじゃない。

「いやいや、俺が決めたわけじゃないんだよ。他のやつらみたいに自由に選べたらいいのに」

「でも素敵だと思うよ? それに、変わった曲を選ぶ人もいるじゃん。ほら、工藤君なんて『あまちゃん』でしょ? 今更ってか、あれ、めっちゃ面白い(笑)」

千沙が笑う。その笑顔を見ていると、ふと彼女がりんたちを見送ったときの、あの寂しそうな表情を思い出した。俺の胸の中にモヤモヤが広がる。

「信二、どうしたの?」

「いや、なんでもない。あいつ、ちょっと変わっているからさ」

自分でも驚くほど素っ気なく返してしまった。その瞬間、千沙は一瞬だけ眉を下げた。

「そうなんだ」と短く言った後、目を伏せる。

それからの帰り道、当たり障りのない話が続いた。スマホをちらっと見ると、時刻はすでに18時を回っていた。遠くで聞こえる蝉の声が、いつもよりやけに大きく感じた。





「ちょっとトイレ行ってくるね」

小瀬野球場は、真夏の空に包まれ、雲一つない快晴だった。太陽が照りつけ、観客席からの声援が響き渡り、試合の期待が会場全体に熱を帯びさせている。まるでこの日が特別な舞台だと告げるように、空気までもがピンと張り詰めていた。

3塁スタンドの入口は、試合開始のかなり前にもかかわらず、第二高校の関係者や応援団で埋まっていた。その熱気を抜け出し、私はひとり、球場外のトイレに向かって歩いていた。暑さで飲みすぎた水分を何とかしないと。瑞希も瑠璃も心配してくれたが、流石に一人で行ける。

人をかき分けながら進んでいると、男子トイレから一人の人物が姿を現した。

「あれ? 工藤君?」

ユニフォーム姿の工藤君が、緊張した顔でこちらを見てきた。

「あ、こんにちは」

工藤君は短く答えると、どこか居心地が悪そうに視線をそらした。突然、空気が少しだけ気まずくなったのが分かる。どうしてこんなに話しづらいんだろう。沈黙に耐えられず、口から出た言葉は何の脈絡もないものだった。

「今日は、いい天気だね」

「あー、そうですね」

「雲一つないね」

「そうですね、はい」

「バーベキュー日和って思わない?」

自分でも、おかしなことを言っているのが分かっていた。でも、何か言わないと、この沈黙を埋められない。工藤君は一瞬眉を動かし、固まったような表情を浮かべた。

「先輩……」

「えっと、何……?」

工藤君はしばらく黙った後、ぽつりと口を開いた。

「同じこと考えていました」

「え? 嘘でしょう?」

「はい、嘘です」

その瞬間、学園祭で見た、あの不意打ちのような笑顔が浮かぶ。私は、心がほんの少しだけ安心した。

「何それ(笑)。でも頑張ってね」

「うす」

短い返事と共に、工藤君の瞳にほんの一瞬、真剣な光が宿る。その視線に、これから始まる試合への彼の覚悟を感じた。彼に、少しの尊敬と、胸の奥にわずかな感情を抱きながら、私はその場を後にしようとした。

その時だった。

「あの、もしかして工藤さん?」

背後から声がかかり、振り返るとユニフォーム姿の選手が立っていた。胸に「甲斐学院」と書かれたそのユニフォーム。今日の対戦校の選手だ。

「はい、そうですが」

工藤君は静かに答える。その声には試合前の緊張感が滲み出ていたが、次の瞬間、少しだけ眉が動いたような気がした。

「そうなんですね。私、甲斐学院の樋口といいます」

樋口君という人は爽やかに自己紹介をしながら、一歩前に出る。その姿は友好を示しているかのようだったが、工藤君は「どうも」と素っ気なく返した。試合前に相手校の選手と話すのはよくないことだし、ましてやトイレの前。

「私、工藤さんの投球映像をずっと見ていました。綺麗なフォームですよね」

「あ、ありがとう」

工藤君は少し戸惑いながらも、短く答える。

「本当に。まるで輿水大気さんを思い出します」

その瞬間、空気が一瞬で凍りついた。周囲の微かな雑音さえも消えたように感じる。工藤君の顔が一瞬で陰る。

「そうなんだ」

工藤君の声は低く、重みを帯びていた。それまで穏やかだった空気が一変し、場に緊張感が漂い始める。

「はい、自分は輿水さんを尊敬していて。だから、真似されるのは嫌なんです」

樋口君の言葉は鮮明に響いた。その視線は工藤君の目を真っ直ぐに捉え、離さない。

「真似?」

「はい、工藤さんの投球フォーム、輿水さんの丸パクリじゃないですか。そっくりです」

その瞬間、工藤君の表情が硬直する。

「そうかな。そもそも右左で違うと思うけど」

「いや、そっくりなんです」

工藤君は短く息を吐き、冷静さを保とうと努めながら言葉を紡ぐ。

「あ、そう。君が輿水君のことをどう思うかは知らないけど、ちょっかい出さないでくれないかな?」

その言葉には、明確な線引きがあった。しかし、樋口君は引き下がる気配を見せなかった。

「いや、私は本当に輿水さんのことを尊敬しているからこそ、嫌なんです。何せ、命を助けてもらっているので」

「ん?……。なんて?」

工藤君の表情が一瞬揺れた。その瞬間、空気が一層重くなるのを感じた。

「輿水さんって、去年事故にあったじゃないですか。その時、中学生を庇って亡くなったんです。実は庇ってもらったのは、私でして。だからこそ、輿水さんの分も頑張って、野球で活躍しないと。自分、輿水さんに託されているので」

その言葉が耳に届いた瞬間、私の胸が詰まるような感覚に襲われた。あの事故の日、あの衝撃と混乱、そして胸を締め付けるような痛みが脳裏に甦る。

視界の端で、工藤君が私を気遣うように一瞥をくれる。そして、すぐに樋口君に向き直った。

「そうなんだ。輿水君のことは知らないけど、俺たちも彼の思いを背負っている。だからこそ、ベストを尽くすだけさ」

その声は落ち着いていたが、どこか鋭く、毅然としていた。樋口君は何かを言い返そうとしたが、その時、トイレから樋口君の先輩らしき選手が出てきたことで、会話はそこで中断された。

樋口君は一礼して去り、工藤君も無言でその場を離れた。振り返りもせず、静かに歩いていく背中を、私はただ目で追うことしかできなかった。

その背中が遠ざかるほどに、自分の中で言葉にならない思いが膨らんでいく。悔しさなのか、寂しさなのか、それとも別の感情なのか、はっきりとは分からない。ただ、胸の奥でざわざわと何かが渦巻いているのを感じる。

やはり彼は別人だ。大気とは違う。大気なら、もっと感情的に言い返すだろう。彼の冷静さが、ますますその違いを際立たせていた。それが事実であることを理解するたび、どこか残念な気持ちが湧いてきた。けれど、それ以上に不思議だったのは、心の奥底で微かな安心感が広がっていることだった。

「なんで……?」と自分に問い掛ける。答えは見つからない。ただ、その感覚が自分の中に確かに存在していることが、少しだけ心を軽くしている気がした。





(落ち着いてきたな)

今日の光は、少し乱れていた。ブルペンでの球は、思ったようには決まらなかった。それでも、その球には、良い意味で力が込められていた。気持ちが入っている証拠だ。だが、こういう時ほど、試合が始まると、荒れるものだ。信二はそれを心配していたが、マウンドの上の光は、すぐに冷静さを取り戻した。

「いいピッチャーだな」

打席に立った甲斐学院の3番、キャプテンの古橋が声をかけてきた。1年生から甲斐学院のレギュラーとして活躍し、今年の選抜では打率5割を記録した実力者だ。走攻守揃った外野手で、プロも注目する選手。

「ああ。甲子園を諦める気になったか?」

「はは、ふざけんな」

審判の「プレイ!」の声で、会話は途切れた。古橋の表情も一変した。試合の雰囲気が、急に変わったように感じる。ツーアウト、ランナーなし。まだ初回だ。慎重にいく必要はない。古橋は打率が高いが、一発がある選手ではない。慎重にやれば問題ない。

だが、今日は決勝だ。一つのプレイで、流れは一瞬で変わる。

内角低め、いきなりそのボールを要求する。古橋は初球から積極的に振ってくるが、今までのデータでは、外寄りの球に強いタイプ。意外にも、内角低めは得意ではない。いきなり初球から振ってくるリスクは少ないだろう。

光はミットの位置を確かめ、軽く頷く。投球モーションに入る。相変わらず、美しいフォームだ。全身の力を使い、指先に力を込めて放つ。その一球は、まさに狙った通りの軌道を描いた。

(いいコースだ)

その瞬間、古橋の目が鋭く光ったように感じた。いや、表情は見えない。しかし、そのオーラが一瞬、ニヤリとしたように感じた。次の瞬間、光の渾身のストレートが、ライトスタンドに消えていった。





「苦しいね、今日は」

瑠璃の言葉には、ただの暑さを超えた重みがあった。彼女が言いたかったのは、試合のことだと、すぐに分かる。野球に興味がない瑠璃だが、その言葉から彼女が感じ取ったものは、確かに試合の空気そのものだった。応援席に漂う緊張感や、選手たちの必死な姿勢が、彼女にも伝わっていたのだろう。

現在、5回の裏。0対3で、第二甲府高校は劣勢だった。

初回の相手のホームランから、3回、4回と1点ずつ失点を重ねていった。工藤君はランナーを出しながらも粘り強く投げているが、暑さと連投の影響か、明らかに疲労の色が見える。しかし、相手投手は好投しており、第二甲府高校はランナーを3塁まで進めることができていなかった。試合は、完全に流れを失っているように見える。

「うん。本当に苦しい」

試合の状況だけではない、そう感じる。今の状況を冷静に見ていると、その背後に、工藤君の苦しみが見え隠れしているような気がした。彼はマウンドで、どこか苦しそうだった。

信二が必死にリードをしているが、それ以上に、工藤君の内面には何かしらの葛藤が渦巻いているように思える。

投球のフォームは綺麗だが、今日はどこかしっくりこない。頭ではイメージできているのに、どこかで引っかかって、演奏が上手くいかないような。そんな気がしてしまう。そして、そんな焦燥感が、まるでそのオーラのように、チーム全体に広がっているようだった。

「おら! 第二高校! しまってこーぜ!」

その重い雰囲気に呼応するかのように、スタンドから松田君の声が響いた。

その瞬間、周りに笑い声が漏れる。少しでも明るい雰囲気を作ろうとする彼の声が、暗く沈みがちな空気を一気に変えた。そうだ、私たちは応援しているのだ。だからこそ、暗くなってはいけない。選手たちの気持ちが前に進んでいくように、私たちの心も前を向かなければならない。そんな気持ちが胸を満たした。

「チェンジだよ!」

指揮をする瑞希が声を掛けると、周りの部員たちは一斉に演奏の準備を始めた。次は6回。いや、まだ6回だ。試合は続く。楽器に手を伸ばし、汗を拭いながら、私たちも気持ちを引き締める。私たちも戦っているのだ。選手たちだけではない。応援している私たちも、全力で戦っている。





「よっしゃ、まだいけるぞ!」

外野から戻ってきたりんと、はじめが大声で叫んだ。その声は、まるでチーム全体にエネルギーを注ぎ込むようだった。確かに、まだ試合は終わっていない。絶対に諦めない。

「おっけい、おっけい、まだ行けるぞ!」

鈴宮もそうだが、何よりも東がその声に乗って、周りを盛り上げる。

今日は記録員を担当している東だが、彼の存在感はまるで選手そのもののようだった。先輩として、周囲に希望を与える。いつも冷静で頼りになる東が、こうして励ましてくれることが、どれだけ力になるか。

「光、水分補給しっかりしとけよ」

後ろから、監督の声が響いた。光は、東から手渡されたドリンクを一気に飲み干す。冷たい水が喉を通り、少しだけ身体が楽になったようだ。

「三浦、どう思う?」

監督が、険しい表情で後ろから話しかけてきた。信二は少し考え込む。チームの現状、試合の流れを瞬時に判断しなければならない。

「そうですね。結構苦しいですが、正直あの打線を3点で抑えられているのは上出来ですよ」

「甲斐学院の打線も、調子のムラがありそうだな。特にキーマンを抑えたら、あとは何とかなる」

監督はそのまま、黙り込んでしまった。その無言の重さに、信二はどこかしらで何かを感じ取る。そして、プロテクターを外しながら考える。とにかく打つしかない。ここで何かを打開しなければ、試合の流れを変えるのは難しい。

「カッキーン!」

金属音が響いた。りんがセンター返しをした音だ。心の中で、思わず「ヨシ!」と思う。ベンチとスタンドが一斉に盛り上がる。信二がプロテクターを全て外し終わると、はじめが次のバッターとして送り出される。監督の指示のもと、はじめは確実に送りバントを決める。 

 ワンアウト、ランナー2塁。次のバッターは3年生の戸堂だ。三塁スタンドからは、第二高校のチャンステーマが流れ出す。

信二はネクストバッターズサークルに入り、戸堂の打席をじっと見守る。相手投手は本格派というより、むしろ制球力に優れたタイプだ。ストレートとスライダーで組み立ててくるが、ウイニングショットはチェンジアップ。その球種の特徴を思い出し、監督と話し合った内容が頭に浮かぶ。

「前半はチェンジアップを見て、どう対応するか考えろ」

試合が進むにつれて、そのチェンジアップが少しずつ、投手のリリースポイントに影響を与えていることに気づいた。相手のチェンジアップのリリースポイントが明らかに低くなっている。甲府のこの夏一番の暑さが、投手にも少なからず影響を与えているのだろう。そのことに気づくと、信二の目が鋭くなった。

「ゴンっ」

戸堂の打球はサードゴロになったが、その間にランナーは3塁へ進塁する。次に、打席はついに信二に回ってきた。

まだ、夏は終わらせたくない。胸の奥から湧き上がる熱い気持ちが、信二の体を突き動かす。試合はまだ終わっていない。自分たちの力で、この戦いを切り開いてみせる。





「よっしゃ! ごら!!!」

松井君の声が、まるでスタジアム全体に響き渡るように大きかった。そして、すかさずヒットの曲が吹かれる。信二のタイムリーツーベースで、ついに1対3。六回の表、第二高校が1点を返した瞬間だった。

吹き終わった後、嬉しさのあまり、思わず「やったー!」と瑠璃と顔を見合わせてはしゃいでしまう。しかし、すぐに瑞希が鋭い声で「はい! 集中。またチャンステーマ!」と指示を出す。すぐに演奏モードに切り替えるが、それでも心の中は興奮で満ちている。

演奏をしながらも、やはり嬉しさが抑えきれない。一気に球場の雰囲気が変わったことが感じられる。塁上の信二も、明らかに嬉しそうに笑っている。そして、次のバッターが打席に入ると、再び演奏に集中する。

バッターは6組の上野君だ。この暑さもさることながら、相手の投手も疲れが見え始めたのだろうか。上野君は巧みにバットをコントロールし、粘って、粘って、粘った。そんな中、9球目のボールが、上野君の足に当たる。デッドボールで、ツーアウト、ランナーが1塁と3塁。打席に立つのはあの工藤君だ。工藤君は、どうしても何かを抱えているように見える。まだ何かに悩んでいるような、そんな重たい空気が感じられる。

 初球、工藤君は力強くフルスイングするが、全くタイミングが合わない。打ちに行きすぎている。あれだけのスイングをしても、打てる気配が全くしない。塁上から、信二が必死に何かを叫んでいる。声が届くはずはないが、何かを訴え続けずにはいられない。

ふと思うと、私って、工藤君のことを本当に知らない。いつも見ているけど、彼の心の中、何を思っているのか、何を悩んでいるのか、何が彼を苦しめているのか、全然分からない。会う機会は少なかったけれど、どうしてあんなに作り笑いで距離を取っているんだろう? どうして、いつもバリアを張るように接してくるんだろう? どうして、これ以上入ってくるなって雰囲気を作るのだろう? そして、どうしてあんな表情をして、私に気づいてほしいと思っているのだろう?

私はまだ、工藤君のことを全然知らない。それなのに、こんなにも応援しているのはどうしてだろう? ただ、彼を見守りたくて、少しでも力になりたくて。でも、今、こんな時にどうしてあげればいいのか、どう声をかければいいのか、私には全く分からない。ただ、もどかしい気持ちが胸に広がるだけだった。





「おい、光、聞いているか?」

マウンド上に集まった選手たちは、監督からの伝令を聞いていた。8回の裏、試合はもう終盤に差し掛かっていた。あの後、光が粘り強くライト前に落とし、その後続も続いて逆転に成功した。球場からは歓声と共に、期待が膨らんでいく。

「ジャイアントキリングが起きるのか!」という声が響き、逆転劇の兆しになりつつある。こういう雰囲気は、こちらにとっては絶対に有利だ。

「ええ、大丈夫です」

光は相変わらず、素っ気ない返事をした。

「おっけい。とりあえずみんな、このピンチを抑えて試合を終わらせよう。大気のためにも」

「おう!」

内野の選手たちは素早く守備位置に戻り始め、信二は光にボールを渡すために、より近づく。残りのイニング、全力で行くしかない。

「残り、全力で行こう。本当に大丈夫か?」

ボールを光のミットに入れると同時に聞く。光の目は、少し遠くを見つめるような、でもしっかりとした眼差しだ。

「ええ。いけます。何か今、」

「どうした? 不調か?」

信二が心配していると、光が突然吹き出す。

「おい、何で笑う?」

「いや、そういう真面目なところがキャプテンのいいところだと思って(笑)」

「なんだそれ」

「でも、今めちゃくちゃ楽しいっす。このまま全力で行きたいです」

「ああ、そうだな」

光のその言葉に、心の中で思わず頷いた。光が楽しいと言っているのなら、もう何も心配いらない。その余裕が、この試合を勝ちに導く力になるんだろう。

そのままホームベースの方に戻りかけると、

「信二、ありがとう」

その瞬間、驚きと共に身体が反応した。思考が追いつく前に、顔を戻してみると、光がクスリと笑って、「冗談ですよ(笑)」と軽く言ってきた。その余裕に、信二は苦笑いを浮かべつつ、少しぞっとした。

しかし、これだけの余裕を持ちながらも、光は冷静に試合を進めている。彼が短期間でどれだけ成長したのか、実感できた瞬間だった。

審判に一礼すると、プレイはすぐに再開された。

ツーアウトでランナーが2塁に。しかも同点のランナーだ。バッターは甲斐学院の1年セカンド、樋口。1年生でレギュラーを掴む実力者だが、今日は打撃が冴えていない。その中で、この重要な場面でも代打ではなく、こう送り出されたのは、監督やチームからの信頼があるからだろう。その若さで重責を担っている姿を見て、信二は改めてすごいと感じた。

その影響か、光の表情もいつも以上に集中していた。だが、バッターとの勝負に飲まれることなく、冷静さを失わずに対応している。その冷静さは、経験の差であり、能力だけではない精神力が光っている部分だ。

「ボール!」

初球、ストレートがわずかに外れた。8回の終わりが近づいているが、光の球にはまだ力が感じられる。いや、今日はこれまでで一番いい球が行っているかもしれない。光は、まるで何かが吹っ切れたような表情を浮かべていた。その余裕が、このまま試合をひっくり返す力になるだろうと感じていた。





「よーし。よーし。いけるぞ!!」

松田君の声は、応援団のどの声よりも大きく響き渡る。しかし今は、誰もが固唾を呑んで、第二高校のナインを見守っていた。9回の裏、甲斐学院の攻撃。ツーアウト、ランナーが1塁。打席には、ホームランを放った甲斐学院のキャプテンが立っている。

「ストライク!」

審判のコールに、観客席から自然と拍手が起きる。どうやら、第二甲府高校は球場全体を味方につけたようだ。しかしその中でも、打席に立つバッターは、まったく気を抜かず集中している。その姿勢に、素直に尊敬を覚える。

しかし、それ以上に今、マウンドにいる工藤君の姿は、まるで絶対的な存在のようだった。あの1年生の樋口君との打席の中で、何かが吹っ切れたようで、投球に生き生きとした躍動感が現れた。それはまるで、少年が友達と野球をしているかのように、楽しさと力強さが感じられた。

「ファール!」

その投球を見守る信二も嬉しそうだ。2人でどこまで行くのか。まるで工藤君の投球は、芸術作品のように美しい。見る者を引き込むその投球に、打たれるなんてシナリオがあるわけがない。しかし、そんな確信がある中でも、一球一球に妥協はない。どの球にも、今という全ての思いが込められている。

「ボール!」

相手のバッターも冷静に見極めている。その目の先には、すべてをかける思いが感じられる。彼も必死だ。この瞬間が、今までの努力をすべて意味づける瞬間だと感じているのだろう。でも、何のためにこんなにも必死になれるのか。リターンを求めるだけなら、ここまで必死にならないはずだ。

「ファール!」

そうだ、リターンなんかじゃない。ただ、今を必死に生きるために戦っている。それがプレイを通じて、何となく伝わってくる。

人生だって、そうなのかもしれない。今を必死に生きる、その瞬間の輝きが美しい。リターンを求めることなく、純粋に今を生きる。それが一番大切なことなのだろう。

工藤君が「最後」のモーションに入る。すべてをかけた一球が、今、決まる。そんな気がしたその瞬間、彼の球はいつものように、まっすぐ美しい軌道を描く。あの美しい線が、命の輝きのように感じられる。

「ストライクアウト!」

「うぉ!!!!!!」

球場全体が響き渡る。その歓声が、すべてを包み込む。ナインがマウンドに駆け寄り、工藤君と信二が抱き合う。私も楽器を持ちながら、瑠璃や雪ちゃんと大はしゃぎしていた。歓喜の中で、第二甲府高校は甲子園出場を決めたのだ。





「おい、整列をしっかりしろ」

信二は、興奮を抑えつつも、しっかりと指示を出す。勝利の余韻が漂う中、全員が素早く整列し、試合を終わらせる準備を整えていく。

「双方、礼!」

サイレンの音が鳴り響き、試合が終了した。目の前に立つ甲斐学院の古橋から、「おめでとう」と一言が送られる。彼の表情には、どこか寂しさが感じられるが、満足した様子が浮かんでいた。

校歌斉唱後、選手たちは三塁スタンドへと向かい、仲間たちと共に優勝を分かち合う。

「うぉーーーーい!」

相変わらず、松田の声は響き渡っている。周りの空気に溶け込むような、元気な声だ。

しかしその後ろから、千沙の姿を見つけた瞬間、胸が熱くなった。あの応援がちゃんと届いていたのだ。そして、手を振りながら彼女に伝えた。「ありがとう」と。それと同時に、改めて自分たちが勝ったことを実感し、喜びが込み上げてくる。甲子園に行けるんだ。大気も、千沙も、みんなが喜んでいる。こんなに嬉しいことはない。

「おい! あそこにキャプテンのご婦人が!」と、りんやはじめがはしゃぎながら叫ぶ。その姿に思わず笑ってしまう。隣にいた吹奏楽部の後輩が「私には??」と文句を言っている様子が、そんなやり取りも微笑ましい。

「おい、光も手を振れよ」と、りんが促す。その声が届いたのか、千沙は元気よく手を振ってくれた。しかし、光はそれを一瞥しただけで、「いいや」と一言。あっという間にベンチ裏に下がっていった。

その瞬間、千沙の顔が一変する。見たこともないほど、悲しそうな顔をしていた。それが何とも言えず心に残り、思わず感情が湧き上がる。何かが引っかかっていた。やりきれない気持ちを抱えたまま、俺はベンチ裏に向かって光を追いかけた。





「おい、光、待てよ」

「何ですか?」

光の冷たい返事が、すでに彼の機嫌が悪いことを示していた。言葉を受けて、信二の胸が少し締め付けられる。いつもなら冷静に接することができるのに、今はどうしてもそうできなかった。

「せっかく皆さんが応援してくれたのだから、しっかり挨拶やお礼をしろよ」

「いや、しましたよ。普通に」

光はあっさりと答える。その言葉には、まるで何も感じていないような冷淡さがにじみ出ていた。優勝の喜びに包まれている中で、この態度がまた何とも言えず腹立たしく感じられた。

今まで、光が転校生であることから多少ぎこちなさを感じていたのも事実だった。でも、今日はそれを超えて、彼の態度がどうしても許せなかった。

「してない。しっかりやれ」

「しました。アンダーシャツの汗もひどいので、すぐ着替えたいです」

その一言に、言葉が詰まった。普段の冷静さを保とうとしても、どうしても沸き上がる怒りを抑えることができなかった。

「おい、そんな失礼な態度、許されると思っているのか?」

「失礼? しっかり挨拶はやっていましたよ」

その言葉に、さらに怒りが込み上げる。

「さっき、千沙が手を振ったら、返さなかっただろう」

光は一瞬沈黙した後、冷ややかな声で返した。

「それって、今怒っているのは、千沙先輩に返さなかったってだけですよね?」

「お、何言っているんだよ?」

俺は思わず声を荒げるが、光の目はどこか冷ややかで、心のどこかで確信があった。

その瞬間、光は言葉を飲み込み、しばらく沈黙した。その後、深いため息をついて、ようやく口を開いた。

「先輩って、あれですよね?」

「何?」

俺は思わずその言葉に反応したが、光は一度目を伏せると、再び黙り込む。やがて、彼の視線が少しだけ動いた。そして、少し遅れて、ようやく言葉が紡がれる。

「お互い、そろそろ本音で話そうぜ。なあ、信二」

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