第3話
高校最後の学園祭は、何とも劇的な終わり方だった。
最後の結果発表が体育館で行われた時、私たち『ザ・1くみーず』は、まさかの最下位から2位まで大逆転を果たした。あまりにも映画みたいな展開に、会場が沸き立つ。隣で瑠璃が「やったね!」と飛び跳ねる瞬間、思わず手を広げて、互いに抱き合ってしまった。何もかもが、まるで運命のような気がして、まるで夢の中にいるみたいだった。
そして、優勝したのは、雪ちゃんたち2組。彼女たちが占いの館と焼きそば屋台の二本立てで攻めたのは、やっぱりすごかった。でも、悔しさよりも、むしろ楽しさが心の中で膨らんでいた。最終的には、どんな結果だって、この一瞬が青春そのもので、何もかもがキラキラしていたから。
その後のさらなるクライマックスがまた、予想外だった。最後のプログラムは、体育館でのバンド演奏。全校生徒のみんなでジャンプして、大声で歌って、感動のフィナーレを迎えるはずだったのに、まさかのハプニング。体育館の床が突然、真ん中から沈み、ガタンと音が鳴ると、会場全体が一瞬静まり返った。何が起きたのか、誰も理解できないまま。その後、どっと笑いが広がり、会場が爆笑に包まれた。2年前にも同じようなことがあったのに、どうして床の補強をしていなかったのか。それにしても、若者の力ってすごいなと改めて思った。
そして学園祭が終わり、気づけば来週からは野球部の県大会が始まる。
信二も本気モードに入って、きっとデートも当分お預けだろうな、なんて思っていた。それでも、その前に最後の練習が終わった後、時間を作ってくれた信二と、軽くデートすることになった。場所は、イオン。田舎の高校生にとっては、鉄板のデートスポットだ。
イオンのフードコートで軽くご飯を食べた後、クレープ片手に二人でウィンドウショッピングを楽しんだ。
あちこちの店を覗きながら歩く信二の姿は、意外とリラックスしていて、大会前の緊張感なんて微塵も感じさせなかった。むしろ、楽しそうに笑っている顔が印象的で、これが信二なんだって改めて思う。普通の一日だけれど、なかなか楽しい時間だと思った。
「いや、あの体育館、伝説級だったよな」
「ね。呪いじゃない?」
「呪いとか言うなよ。お前、ほんと千沙ってずれているよな」
「ちょっと! 私、ずれてないから!」
「いやいや、呪いとか、普通出てこないだろ」
「……それは言われてみればそうかも」
「ほら、やっぱずれている」
信二は笑いながら、私の頭を軽く叩いた。その瞬間、思わずムッとして「何よ、ふざけんな!」と肩を叩き返すと、彼はまた「あはは!」と笑った。彼の笑い声を聞いていると、自然とこちらも笑いが込み上げてくる。
普通に楽しいな、そんな感覚が胸を満たしていく。どこか遠くの星を見ているような、でも手のひらに届くくらいの温かさを感じる。でも、ふと思った。これがきっと、最後の、のんびりデートなんだろうなって。
私たち吹奏楽部も、今年こそ西関東大会出場を目指して、本気で挑むつもりだし、信二の野球部も同じように大事な大会を控えている。
「これから忙しくなるね」
「だな。でも、たまにはこうして息抜きしないとな」
「絶対勝とうね。お互い」
「当たり前だろ。千沙も負けんなよ」
信二の真剣な目が、私にまっすぐ向けられる。その目には確かな決意が宿っていて、私も自然とやる気が満ち溢れてくる。
「そういえば学園祭、他のクラス回った?」
信二が、ふと横を歩きながら聞いてきた。
「いや、あんまり。他のクラスどころか、私、自分の縦割りクラスすらまともに回れなかったよ」
「なんで?」
「瑠璃たちの係がさ、思ったより人が少なくて。ほら、『朱雀マジック』ってやつ? お互いのクラスオリジナルタオルを交換して、そのまま付き合っちゃうっていう、学園祭恒例の謎イベント。それでみんなデートに行っちゃって、係を放棄するのよ。瑞希たちも困っていたっぽい」
「それで人が足りなくなった、と」
「そう! 最後は私が手伝う羽目になってさ……ほんと、信じられないでしょ?」
信二は吹き出して笑った。
「みんな不真面目だな。なんか、日本社会の縮図を見ている気分だわ」
「朱雀マジックの方がよっぽど社会問題だと思うけど」
「まあ、あれは伝統みたいなもんだからな。そういや、うちにもはじめっていう後輩がそのマジックで成功したらしいぞ」
「えっ、あのはじめ君が?」
驚いて聞き返すと、信二が意外そうな顔をした。
「あれ? はじめのこと知っていたっけ?」
「うん、2組の占いの館で、ちょっとだけ話したんだ」
「そうか。あいつ、放送部の子と付き合い始めたらしいけど……まあ、あれはすぐ別れるな」
信二がそう言ってクスクス笑う。その笑顔を見ているうちに、ふと工藤君の笑顔を思い出した。彼も誰かと付き合い始めたのだろうか。
「そういえばさ」
「ん?」
「野球部の転校生の工藤君って、どんな感じの子なの?」
「どうって、どういう意味?」
「いや、なんか2組で話したからさ、気になって」
「へえ、光と話したんや」
信二はちょっと意外そうな声を出してから、ぽつりぽつりと語り始めた。
「光はピッチャーとして、すごくいいよ。球速がめちゃくちゃ速いわけじゃないけど、こちらの意図を汲み取って投げてくれるし、何より努力家だ。背番号を勝ち取るために、本当に頑張ったと思う」
「努力家かあ……」
「いつも朝一で学校に来て、練習しているらしいよ。千沙も朝早いけど、グラウンドには行かないだろ?」
「ああ、確かに。朱雀会館は校門の方だしね……。でも一回彼とも校門の方で会ったけど、それ以降会ってないかも。何でだろう。私と同じ時間に来ているなら、一言くらい挨拶してくれたらいいのにね」
「お前、急にどうした?」
「えっ、いや、なんでもない!」
自分でも、何を言っているんだろうと思う。
「けどさ、あいつも大変だったと思うよ。転校生がいきなり背番号をもらうなんて、周りが簡単に納得するわけないだろうし。だから、行動で信用を勝ち取るしかなかったんだと思う」
信二の言葉はどこか重みがあって、私は黙って聞き入った。
「なんか信二、お父さんみたい(笑)」
「やめろって(笑)。……まあ、あいつってさ」
「ん?」
「いや、なんでもない。とりあえず俺たちは甲子園目指すから、吹部も全力で応援してくれよな!」
信二がにやりと笑い、私が持っていたクレープにいきなりかぶりついた。
「ちょっと、何しているの!」
「お前、食べるの遅いんだよ」
そう言いながら、信二は目を細めて笑う。その顔があまりにも幸せそうで、仕方なく許してしまう。
「まあいいけど……絶対甲子園行ってよね」
「当たり前だろ」
信二の自信に満ちた声を聞きながら、私も自然と笑顔になった。努力と信頼でつながる彼らのチームを思うと、応援せずにはいられない。
「じゃあ、それでは来週オーディションを行う。以上、解散」
顧問の一言で部活が終わると、部室に一瞬だけ静寂が訪れた。普段なら、そのまま賑やかな会話が始まるはずなのに、今日は何も言葉が交わされない。誰もが楽器を手にして、ただ自分の練習場所へと向かう。その姿が、なんだか普段と違って見えた。
放課後、私たちは貴重な時間を個人練習に費やしていた。楽器の音が校舎に響き、一つひとつの音符が私たちの努力の証しを物語る。下校時刻が近づくと、校内に響く音がますます増し、ひときわ集中した空気が流れる。
今年、私たちが演奏するのはバーンズの『交響曲第3番』だ。この曲は部員全員の多数決で決まった。今年の目標にぴったりだと感じたからだろう。ちなみに私は違う曲に投票したが。
この交響曲の中でも演奏するのは、第一楽章、第三楽章、そして第四楽章。それぞれが異なる顔を持ち、挑戦し甲斐のある部分だ。特にコンクールの制限時間に合わせるために、その各楽章の中でもどこを演奏するか、どんな調整をするかが肝心。今回は顧問と瑞希と三人で相談し、九州の名門校が全国大会で演奏した部分を参考にすることに決めた。
そして今回の曲のポイントは「表現力」。
作曲者の個人的な悲しみを強く反映させたこの曲は、愛する娘を失った悲劇を背景にしている。つまり、どれだけ感情移入できるかがカギとなる。よって、部員全員で話し合った結果、各楽章に自分達なりに物語を加え、イメージの解像度を上げることに決まった。
まず第一楽章。ティンパニーの力強いソロから始まり、すぐに全楽器が一体となって激しい演奏が繰り広げられる。この楽章の重く圧迫感のある音楽は、私たち全員に「混乱」や「絶望」といった感情を呼び起こした。だからこそ、この楽章は、大切な人を突然失い、その痛みで立ちすくむような瞬間を描くことにした。
次に第三楽章。この楽章は、対照的に静かで美しいメロディーが特徴的だ。音楽が流れるたびに、思い出の断片が浮かび上がり、懐かしさと温かさが胸を締めつける。そんな情景をみんなで共有した時、私は無意識に大気のことを思い出していた。
大気と付き合い始めたのは11月15日。それから一か月後、12月15日に突然の別れが訪れた。短く、そして濃密な時間だった。
大気は野球部員で、普段は練習や試合で忙しいはずなのに、オフシーズンに入ると、私たちの時間をたくさん作ってくれた。朝練の前に顔を見せてくれたり、週末には一緒に遊びに行ったり。私たちが行く場所はいつも限られていたけど、愛宕山にある小さなプラネタリウムで見た星空の夜は、今でも鮮明に心に残っている。
大気は普段、自転車で通学していたけれど、私と一緒にいたいからと、わざわざ電車に乗るようになった。たった一駅だけの距離。それでもその短い時間が、私たちには宝物のようだった。学校での些細な出来事を語り合うだけで、心が満たされていった。バーンズが第三楽章を書いたとき、彼もきっと、娘との思い出の中でそんな風に感じていたのだろう。
そして第四楽章。悲しみを乗り越え、前へと踏み出すような明るくドラマチックな楽章が始まる。パーカッションが心臓の鼓動のように響き、生きる力が湧き上がる。音楽が新たな一歩を踏み出す勇気をくれるかのように、前向きなエネルギーが感じられる瞬間だ。
ストーリーが完成した瞬間、胸の奥がずんと沈むのを感じた。
瑞希からこの曲の話を聞いたとき、どうしても大気を思い出さずにはいられなかった。特に第一楽章と第三楽章の部分は、自分の経験と重なり、どうしても心がモヤモヤしてしまう。瑞希や瑠璃、そして他の2、3年生も私の過去を知っているせいか、その気まずさに気づき、どこか遠慮がちな態度を見せるのも分かる。
でも、もう私は大丈夫だ。大気とのことにはちゃんと折り合いをつけられた。だからこそ、この曲を通じて前を向こうと決めた。そのことを瑠璃にまず伝え、瑞希とも相談した。二人とも心配してくれたが、最後は私の意志を尊重してくれた。
「先輩~!さっきの合奏の時の音、めっちゃ良かったです!」
またそんな過去のことを考えていると、雪が抱き着いてきた。
「ちょ、やめてよ、雪ちゃん!」
「えー、だってほんとにすごかったんだもん! カッコいい先輩にはこうやって褒めないと!」
その無邪気な笑顔に、いつも救われる。でも、正直に言うと、この曲は思っている以上に難しい。特に第三楽章と第四楽章のメリハリ。過去の儚い思い出と切り替えた喜び。これをどう音色で表現するか。
「よし、もうちょっと練習していこう」
そうつぶやきながら、朱雀会館を出て、いつもの練習場所へと向かう。
譜面台の前に立ち、汗を感じながら楽器を構える。グラウンドの方からは、野球部の掛け声が響いてくる。それが、まるで心地よいサントラのように耳に届く。放課後のこの時間、音楽に囲まれて過ごすこの瞬間が、私の青春そのものであると改めて感じた。
「只今より、石和工業高校対第二甲府高校の試合を開始します。双方礼」
私たちの最後の夏が、ついに始まった。
毎年、野球応援は全校応援が基本で、特に夏の試合は熱気と興奮が最高潮になる。松田君は「野球部ばかりずるい」って怒っていたけど(笑)。
でも、そんなことより、試合に信二がいるから、心の中でドキドキしていた。もちろん、楽器を吹くことも楽しいけれど、今日はやっぱり彼の姿が気になって仕方ない。
「ねー、千沙。今日暑くない?」
瑠璃が顔をしかめながら声をかけてくる。夏の応援は本当に暑い。吹奏楽部にとって、この時期は「暑さとの戦い」。毎年何人かが倒れるのが、第二高校吹奏楽部の夏の風物詩となっていた。
事前に瑞希とも相談し、「今年は一人も犠牲者を出さない」と決めたが、実際どうだろうか。また、倒れなくても、肌が焼けるのも困りもの。だからこそ、日焼け止めや帽子、冷却スプレーを準備するのが重要になる。
「ねー、瑠璃。大丈夫?」
「今年は倒れたくない。本当にそれだけ願う」
瑠璃が冗談混じりに言うけれど、かなりきつそうだ。そんなことを考えているうちに、試合はどんどん進んでいく。
1回の表、石和工業がいきなり2連打で1点を先制。その後、信二がマウンドに行き、二年生の矢木君を落ち着かせるシーンに、思わず息を呑む。信二は普段の練習でもチームをしっかり見ているけれど、こういう時に頼りにされる姿を見ると、私の心は少し熱くなる。
しかし、矢木君は抑えきれず、1点をさらに失点。すぐにベンチが動き、ピッチャー交代。4組の東君がサブマリン投法で見事に相手打線を抑え、第二甲府は流れを取り戻す。その後、裏の攻撃では信二をはじめ、クリーンナップが爆発。あっという間に2対3の逆転となり、応援席にも歓声が響き渡る。しかし、その後、相手がエースを投入し、試合は均衡状態に突入する。
「千沙たち、大丈夫?」
指揮をしていた瑞希が、みんなの様子を確認しに来た。試合が少し停滞しているから、私たちも楽器を吹かず、座って休む場面が増えてきた。だから、割とみんな元気。
でも、私にとっては信二が出ているからこそ、どうしても緊張してしまう。信二がどんな表情で試合を進めているのか、この後どうなるのか、つい気になってしまう。そして、7回。事件が起きた。
(思ったより、見極められてきたな)
信二は相手バッターを見つつ、冷静にそう感じた。
東は確かにいいピッチャーだが、スタミナに問題がある。疲れてくると、スクリューのコントロール精度が落ちてくる。それに、矢木が思った以上に踏ん張れず、東が初戦からロングリリーフをすることになってしまっている。もっと声を掛けて、矢木を落ち着かせられたかもしれない。心の中で反省しつつも、今は目の前のバッターに集中しようと心を決める。
東がモーションに入る。信二の要求通り、内角低めにボールが決まり、バットが空を切った。
「ストライクアウト! チェンジ!」
審判の声が響き、選手たちがベンチに戻る。信二はすぐに、次の攻撃で追加点を挙げて東に楽をさせたいと考えながら、東に「ナイスピッチ!」と声をかける。その瞬間、東が乾いた笑みを浮かべて答えた。
「いや、思ったより見極められるな」
「うん。でも初回は外角を攻めた分、内角を上手く使って組み立てていこう。東のボール、まだ走っているぜ」
「はは、だったらさっさと追加点欲しいぜ。頼むよ、女房」
東は少し笑って水分補給をし、打席に向かう準備を整える。信二がその姿を見つつ、背後から監督の高橋が声をかけてきた。
「どう思う、三浦?」
「そうですね。今後のことを考えたら、そろそろ工藤にスイッチすべきですが、この均衡状態では難しい判断ですね。ただし、個人的には、次回の試合を見据えて、東には少し休んでもらいたいと思っています」
「うん、そうか。この回で点が取れたら、スイッチするか」
「了解です」
信二はうなずきながら、ふと自分のことも気にかける。まだタイムリーヒット1本。そろそろ、相手のエースを攻略しなければならない。その思いが重くのしかかる。その時、グラウンドでひときわ大きな声が響き渡る。
「お!」
信二の視線が自然と打席の3年、鈴宮に向かう。鈴宮が久しぶりに長打を放ち、ノーアウトで2塁。チャンスだ。試合の興奮が高まり、スタンドからチャンステーマが響き渡る。応援の熱気が一層盛り上がり、信二はその声援を背に、さらにテンションが上がった。
次はピッチャーの東が打席に立つ。相手ピッチャーは本格派だが、この暑さと試合の緊張で、疲れが見え始めている。球には違いがないが、明らかに表情が険しくなっているのが分かる。信二はその微妙な変化に気づき、次第に焦りの感情が湧き上がる。
高橋監督がサインを出す。東はバントの構えを見せ、相手の内野が前進して3塁への進塁を阻止しようとしている。
「ボール」
次の1点の重みが、どれほど大きいかは誰もが感じていた。
二球続けて外れたボールを受けて、相手キャッチャーがタイムを取る。キャッチャーはマウンドに上がり、ピッチャーの肩を叩き、強く何かを言っている。その姿に信二は強く共感する。
この最後の夏、負けたら試合が終わるという恐ろしい現実。だが、信二はその仕組みが嫌いではなかった。むしろ、この仕組みがあるからこそ、全てを出し切れるのだ。こんな興奮を、今しか味わえない。もっと、もっと感じたい。信二は心の中でそう思っていた。
「プレイ!」
審判の掛け声とともに、緊張感が再びグラウンドに戻る。
「あ!」
相手ピッチャーのフォームが崩れ、ボールが抜けた瞬間を信二は見逃さなかった。
(チャンスが来た!)
その瞬間、信二は心の中で声を上げた。しかし、次の瞬間。
「ゴンっ」
ボールが東の左腕に直撃した音が、静寂を破るように響き渡る。
「デッドボール!」
審判の声が響き、東は痛みでその場にうずくまる。信二は無意識に叫んだ。
「東!」
監督が我先にベンチから飛び出し、東の元へ駆け寄る。
「東、大丈夫か? どこが痛い? どこに当たった?」
東は苦悶の表情で答えることなく、ただうなずく。そのまま裏へ下がると、スタンドから不安の声が漏れ始める。
エースの不在。それはこのチームにとって、二度と起きてほしくない現実だった。だが、現実は常に非情だ。信二の胸に、重く冷たいものが押し寄せた。その胸の中で、何かが崩れそうな気がした。
「いや~、すごかったね、野球部」
高校への帰り道、荒川沿いを自転車で走りながら、瑠璃は他人事のように呟いた。
「そうだったね。結構劇的だったけど、東君が心配」
東君はあの後、笑顔で戻ってきた。その瞬間、球場全体が拍手と歓声に包まれた。そして後続が続き、見事に1点をもぎ取ることができた。2対4。
「そうだよね。でも、その後のあの子がすごかったじゃん、イケメンな、名前なんだっけ?」
東君が降板し、予想外のピッチャーがマウンドに上がった。それは、あの工藤君だった。
「工藤君でしょう?」
「そう! 工藤君。私、ファンになっちゃったよ。凛々しいというか、オーラがあるというか。あんな子がうちの学校にいるなんて、驚いちゃうよね」
私も驚いた。それは東君が降りたこともあるけれど、それ以上に工藤君の立ち振る舞いが印象的だった。マウンドに上がる時の姿勢や、守備位置の確認。その一つひとつに、何か特別なものがあった。
かつて、大気が夏に登板した姿を見たことがあるが、あまり意識して見てこなかった。しかし、大気と付き合ってからは、インターネット上の特集動画などを見て学んだ。大気は「何か恥ずかしい」と言っていたけれど、そのおかげで、仕草の一つひとつに気づくようになった。
だからこそ、工藤君が似たような振る舞いをすることに驚いた。
「そうね……驚くよね……」
私は、なんとなく適当に返事をした。しかし、試合中、さらに驚くべきことが起きた。
大気は左投げだったけれど、工藤君は右投げ。それでも、あのフォーム。スリークォーター気味に投げる姿勢、投げた後の手の上げ方、落ちた帽子の拾い方。どれも驚くほど一致していた。
もちろん、球速や変化球のレベルは大気の方が速くて上だったけれど、打たせないオーラという点では、あの夏の大気を思い出させるような、絶対的なエースだった。
私はいつの間にか、演奏そっちのけでその姿に見とれて、心の中で混乱していた。
「ちょ、千沙聞いている? もしかして惚れた?」
「い、いや違うわ。それはない」
「だよね~。カッコよかったけど、何よりあんたにはいい旦那がいるしね」
瑠璃は高笑いしながら、私を追い越していった。空は夏らしくエモーショナルな色に染まり、荒川はその色を優雅に着飾っていた。まるで私の心と反対のような、綺麗な景色だった。
「はい、じゃあ今学期もこれで終了。だけど、みんな勉強家だから、夏期講習にはちゃんと来てね。以上」
担任が教室を出ていくと、瞬く間に教室内はざわめきが広がった。
高校生の夏休みと聞いて、多くの人が思い浮かべるのは、プールやキャンプ、祭り、そして恋愛。それに関しては誰もが期待を膨らませているだろう。しかし、違った。
我が第二甲府高校は、『自称進学校』としての誇りを胸に、時代錯誤とも言える課題の山を生徒に押し付ける。生徒たちの青春を削ぐことに情熱を注ぐ先生方の、いわば温かい思いやりのようにすら感じられた。
でも、正直に言うと、3年生になるとそんなことを言っている暇もない。大学受験がだんだん迫り、みんな静かに課題に取り組み始めるのが当たり前になってきた。そのせいか、教室の雰囲気も去年とはまるで違う。今年は、どこか落ち着いていて、少し静かな空気が漂っていた。あの頃のように、笑い声が飛び交うような、無邪気で楽しい空気はもう感じられない。
「このあと、どうする?」
瑠璃の声に反応して、今日は午後から部活動があることを思い出す。
「そうね、一旦お昼を食べてから、練習に行こうか」
「おっけい!」
瑠璃は相変わらずマイペースというか、どんな時でも自分らしくて、素直にそれがいいなと思う。今日は好きなサンドウィッチの具を見て、朝からテンションが上がっていた。そんな瑠璃のように、何でも楽しむことができる自分にはなかなかなれないなと思いながら、ちょっとだけ高校生になりきれていない自分を感じてしまう。
「ではでは、この楽しみにしていたサンドウィッチを……」
そう呟いた瞬間、
「あの、山見さん、ちょっといい?」
瑠璃に見とれていたせいか、隣にバスケ部の楠君が立っていることに気づかなかった。
「お、くっすー。どうしたの?」
「ちょっと、話したいことがあるんだけど」
「んー。今ここじゃまずい?」
「うん」
「あ……。ごめん、お昼食べたらすぐに部活だから」
「なら、部活終わりとか、ちょっと時間ないかな?」
「あー。ならいいけど」
「了解! 17時過ぎに駐輪場で待っているね」
そう伝えると、楠君はちらっとこちらを見てから、教室を出ていった。
「何よ、その顔」
「いや~、瑠璃はモテるなって」
「いやいやいや。くっすーはいい奴だけど、うん、って感じ」
「そう? 結構カッコいいと思うけど」
「いや、私も友達として好きだし、嬉しいけど、このコンクールとか、夏期講習の直前だし、さすがにちょっときついかなって。振ったとしても、夏期講習とかで会っちゃうじゃん? その時気まずくて、受験勉強に集中できないのは嫌だし」
「へー」
「え、何?(笑)」
「瑠璃もそういうこと考えるんだって思って(笑) 大人になったね、瑠璃。ママ嬉しいよ」
「おい、バカにしないで! でも本当にそうだと思う。もちろん嬉しいけど、自分の気持ちを押し付けられるだけだと、結構される方は辛いし、色々考えちゃうもんね。
特に今は、自分の将来が決まるタイミングだし。コンクールも、三年間の集大成だしね。だからこそ、今やるべきことに集中したい」
その瑠璃の言葉に、少し心が刺さった。いや、瑠璃自身は、私を傷つけるつもりでは言っていない。
ただ、現時点で私はコンクールのメンバーに選ばれたものの、部活動には十分に集中できていなかった。特に、瑞希からも「最近集中できてないね」と指摘されてしまった。最近は、何となく後ろめたさを感じることが多くなってきていた。
「やめ」
顧問の土橋の一言で、演奏がぴたりと止まる。
夏休み2日目。コンクール直前の猛特訓が続いていた。だが、3年生は夏期講習も重なり、練習の合間に出たり入ったりするのが常だった。大学受験を目指しながらの練習。それが、この時期の第二高校吹奏楽部の夏の風物詩その2だった。
土橋は腕を組み、静かに私たちを見渡す。その視線が集まると、教室内が一瞬で静まり返り、息をのんだ。背筋が自然にピンと伸びる。
「低音パートは、もっとフォルテのところは出すように。しかし音が割れるようにせず、楽器を響かせて、音が遠くにいくように意識すること」
「はい!」
「クラ、フルートは、ここのブレスするところをパートで確認してある? 音が途切れないように、パート練でもう一度確認して」
「はい!」
「そしてトロンボーン。セカンドとサードのピッチが悪い。あとでチューニング確認してから終わって」
「はい!」
土橋は、厳しい指導で知られる。かつては数々の大会で第二高校を勝ち上がらせた名将だ。しかし近年、県内の私立校の台頭に苦しんでいる。だからこそ、彼の目には、上を目指す強い熱意が宿っている。
「そして最後に、ペット。特に橘。オーディションで言ったところ、まだ改善出来てない。楽譜通りには吹けているが、第四楽章に相応しい音の色とは何か。第三楽章とのメリハリを意識して。以上」
「起立、きょうつけ、礼」
「ありがとうございました」
練習が終わり、時計を見ると18時を過ぎていた。
「あー、疲れた」
練習後、瑠璃がふうっと息をつきながら、私に向かって笑顔を見せてきた。
「今日はホルン、何も言われなかったね」
「そうよ。オーディションの後から、死ぬほどパートで第四楽章の練習したもんね。カッコよくしたかったしね」
瑠璃は誇らしげに語っていた。
「まあ、そのおかげで大変でしたが」
「お、我が後輩の熊谷君、生意気言うじゃないか」
ホルンパートの二年生、熊谷くん。実力はあるけど、ちょっと不真面目なノッポくんだ。
「だって、先輩はしつこいですよ。何度ここを練習したと思っているんですか」
「いや、めちゃくちゃやったよね。だから、誰も音を外さなくなった」
「それはそうですが」
「つまり、結果オーライってことよ。分かる?」
「はい……」
二人のやりとりはいつもこんな感じだ。お互いにぶつかることも多いけれど、それがまたいいコンビネーションを生み出している気がする。
「話は変わりますが、千沙先輩。第三楽章と第四楽章の切り替え、うまくいってないですよね」
「ちょっと、いきなり千沙に対して何を言っていんの?」
瑠璃がすぐに声を荒げた。
「いや、本当のことですので」
熊谷君は、どこか他人事のように淡々と答える。
「いや、そうなんだよね。意識しているつもりでも、なかなかできてないんだよね」
私は言い訳をするように答え、肩をすくめた。
「なんか、技術以外の問題じゃないですか?」
熊谷君が静かに続ける。
「え? どういうこと?」
私は少し驚きながら問いかけた。
熊谷君は、私の疑問に答えるように、少し考え込みながら話し始めた。
「詳しくは分からないですけど、これが明るい第四楽章だと思っていても、何かが引っかかっていて、全然明るくなりきれないというか。なんか、先生に怒られた後で、いきなりカラオケ大会やろうってなって、サンバを楽しく歌えって言われて、楽しく歌っているつもりでも、どこかで心が引っかかっている、みたいな。」
「あー、なるほどね。」
その瞬間、あの日のことがフラッシュバックして、心の中にモヤモヤが広がった。
「ねえ、何言っているの?」
私たちの会話を聞いていた雪ちゃんが、顔を真っ赤にして熊谷君を睨みつけた。
「いや、アドバイスを言ったつもりだけど」
熊谷君は、まるで何も悪いことをしていないかのように答えた。
「だからって、あんたにはデリカシーないの?」
雪ちゃんが声を荒げた。
「え? 俺悪い?」
熊谷君がわざと驚いた顔で聞き返すと、無表情の瑠璃がじっと黙って見ているのに気づき、慌てて口を閉じた。
「いやいや、いいのよ。雪ちゃん、ありがとう。熊谷君の言う通りだと思うし、もうちょっと考えてみるね。」
私は瑠璃にもアイコンタクトを送り、練習行ってくるね〜と、夕日の見える外へ逃げるように走っていった。正直、悔しくて、痛くて、恥ずかしかった。
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