ノゾミとナナセ 謹賀新年

あおきひび

「たっだいまぁ~。あー、いい汗かいたわ」

 日課のジョギングを終えて、ナナセは肩にかけたタオルで汗をぬぐっている。身にまとったスポーツウェアは、白地に桃色の流線がかわいらしくもスタイリッシュなデザインで、ナナセもお気に入りだった。


「ノゾミぃ、シャワー使うけどいい?」

 ひょいと居間に顔を出して呼びかけると、ノゾミは誰かと電話している最中だった。こころなしか語気も荒く、時折苛立たしそうに左足を踏み鳴らしている。乱暴にほどかれたネクタイが床に落ちていた。

「何度も言ったでしょう、今年も帰れないって。……こないだの法事には顔出したんだからさ、勘弁してよ」

 ナナセは遠慮がちにノゾミの様子をうかがう。その視線に全く気づくことなく、ノゾミは眉をひそめて言いつのる。

「こっちにはこっちの生活があるんだから。分かってくれよ、母さん」

 しばらくの押し問答が続いた後、電話は向こうから切れてしまった。言いかけていた言葉が行先を失う。ノゾミは盛大に溜め息をつくと、手にしたスマホをソファへと投げ捨てた。そこでようやく、ドアの陰からこちらを見つめるナナセの姿に気が付いた。


「ノゾミ、またお母さん?」

「ああ、今年もしつこくてさ。帰らないって言ってるのに、正月くらい顔見せろの一点張りで」

 ノゾミは片手で頭を抑えて顔をしかめる。ナナセは「ああ、この年末も頭が痛いだろうな」と思う。

 それもしょうがない、何といってもノゾミはいいところのお嬢様だったんだから。とやかく言ってくるのも無理もないよ。大事な「一人娘」が心配な気持ちは嘘ではないんだろうな。でもねぇ、それが余計なお世話なんだってば……。

 ナナセの中でも、もやもやとした思いが渦巻いていた。うなじに張り付いた後ろ髪も気にかからないほどに、重苦しい空気が部屋にたちこめている。


 年の瀬は慌ただしく過ぎ、あっという間に大晦日の夜だった。

 二人はこたつの中でテレビを見ていた。小さなこたつは大人ふたりには手狭で、しょっちゅう互いの脚がぶつかるほどの近さだ。

 ノゾミはじっと動かないで、仏頂面でテレビの方を眺めている。見たいものもなかったから、なんとなく紅白歌合戦がつけっぱなしになっていた。人間を乱暴に赤と白へと分ける行事が、お決まりの展開で進行していく。


 ナナセは年越しそばをすすりながら、静かに考える。せめて、ボクの前でだけでも、ノゾミには笑っていてほしい。男とか女とか、そういうの忘れて、安心できる時間があってほしい。

 なにより、あんなにつまらなそうにして。辛気臭いったらありゃしない。もっと楽しく生きないと、人生損だ。


 そばのお椀をコトリと置いて、ナナセは決然とうなずいた。

 明日はお正月だ。新年幸先良いスタートを切るためにも、ノゾミの初笑い、ボクが勝ち取ってみせる。よし、がんばろう!

 ひそかな決意とともに、ナナセは酎ハイの缶を一気に飲み干した。

 こうして、ナナセの初笑いチャレンジが始まったのである。


 新年明けた一月一日。ふたりは近所の神社への道を歩いていく。揃いのダウンコートを着込んで、めいめい吐き出す白い息が、早朝の澄んだ空気に溶けていく。

 隣に並んで歩きつつ、ナナセは作戦を練っていた。とはいえ、ノゾミを笑わせるのはそう簡単なことではない。普段から表情があまり変わらないし、そもそも年末年始は微妙に不機嫌だ。家族との折り合いを気にしているのか、いつも以上に浮かない顔をしている。実際、さっき子供連れとすれ違ったとき、ノゾミは苦々しく唇を噛んでいた。一瞬のその変化を、ナナセは見逃さなかった。

 これは難題だぞ、とナナセは思う。生半可な気持ちではいけない。何がなんでもやってやるんだという気持ちで臨まなければ。


 そんな思いに反して、ノゾミの表情は変わらなかった。境内でお参りをした後、おみくじで大吉を引き当てた。しかしノゾミは喜ぶそぶりすら見せない。

「こんなところで運を使いたくなかったな」

などと涼しい顔で言うものだから、

「なにそれ、ボクへの当てつけなの?」

末吉のおみくじを握りしめて、ナナセは悔しがっていた。それはおみくじで負けたせいだけではなく、ノゾミがいまだ口角ひとつ上げないせいでもあった。


 肌寒い路地を抜けて帰宅すると、ナナセはすぐさまテレビをつけた。

「ほら、エヌワン優勝のネタやってるよ」

『新春初笑い!SP漫才ライブ』と銘打った番組は、ナナセが前々からチェックしていたものだった。しかしノゾミは興味なさそうにそっぽを向いて、「ナナセの好きなの観れば」とそっけなく呟いた。

 芸人のボケに相方が秀逸なツッコミを入れて、ナナセは思わず吹き出した。それでもノゾミは顔すら上げず、黙々と年賀状の仕分けなどしている。

 ナナセはだんだん焦ってくる。このままじゃ、ノゾミの表情筋があの仏頂面のままで固まってしまう。そうなったら、職場の人にも友人にも愛想をつかされて、ただでさえ友達がいないノゾミはますます孤立するだろう。そんなこと、このボクが許してなるものか。ナナセは大分失礼な他者評価とともに、ズレた使命感を燃やしていた。


 その後もあれこれがんばってみたものの、ノゾミを笑わせることはできなかった。渾身のギャグを披露してみても、思い切ってくすぐり攻撃を仕掛けてみても、ノゾミの呆れた視線を受けるだけに終わった。

 

 そんなこんなで一月三日。三が日も今日が最後である。

 こたつの中でみかんをむきながら、ぼーっとテレビを眺めるふたり。駅伝ランナーが必死に走り、実況が声援を飛ばしている。その気勢に、ナナセははっと我に返った。いけない、こんなことでは、ノゾミの今年はお先真っ暗だ。ボクがしっかりしなければ。のんびりとおだやかな冬の朝だったが、ナナセはすっかり煮詰まって悶々としていた。


 テレビから視線を移さないまま、ふとノゾミが呟いた。

「駅伝なんてよくできるよな。僕ならあんなに走らされるのはごめんだよ」

(! そうだ。ジョギングに誘うのはどうだろう。走ったら気分も良くなるかもしれない。ものは試しだ、さあ!)

 ナナセはこたつから身を乗り出して、上ずった声でまくしたてた。

「ノゾミ、これからボクと走りに行こう!」

「は? 何でそうなるんだ、話聞いてたのか?」

 ノゾミの困惑顔を見て、ナナセはハッとして口元を押さえる。しまった、失言だったか。不安を押し切って、ナナセは次々に言いつくろう。

「いやさ、ボクだって走るのはキライだったよ。ほら、体育のリレーで、ボクだけ遅くって周りから冷たい目で見られるのとかサイアクだったし」

「あー、確かに僕も、そうだったけど」

「でもさ、美容のためにジョギング始めてみて思ったんだ、自分のペースで走るのって楽しいよ、アドレナリンだって出るからね。だからさ、ノゾミが良ければ、これから一緒にジョギングしようよ」

「え、今から?」

「今からだよ! 善は急げって言うじゃん。さあさあ着替えて。行くよっ」

 ナナセはこたつから抜け出て、ノゾミの腕をぐいぐいと引く。「あーもう、何だよ!」とノゾミはその手を振り払って、大声を上げた。

「どうしたんだよ、ここのところお前、なんかおかしいぞ」

「えっ? あ~……うん、そんなことないよ?」

 ナナセはじりじりと後ずさりながら、盛大に目を泳がせている。ノゾミは頭を抱えつつも、とりあえずナナセから事情を聞くことにした。


「なるほどな。僕を笑わせようとしていた、と」

「はい……」

 ナナセはこたつの脇に正座して、しおらしくうつむいている。ノゾミはその前で胡坐をかいて、腕を組んでナナセを見据えている。

「最近なんだか張り切りすぎだとは思ってたんだ。まさか、そんなくだらない理由だったとは」

「うう、くだらないとか言わないでよぉ」

 涙目のナナセを横目に、ノゾミはこともなげに言った。

「それに、僕の初笑いならもう済んでるぞ」

「ん、ぅえ?」

 思いもよらない台詞に、ナナセは素っ頓狂な声を上げる。ノゾミは顔色ひとつ変えずに説明した。


 曰く、大晦日の真夜中、つまり年が明けた直後のこと。ノゾミが酔っぱらったナナセをベッドに連行すると、ナナセはすぐにいびきをかきはじめた。その寝顔があまりに間抜けで、それがなんだかおかしくて、

「ふふっ」

 思わず笑ってしまったという。


「え~!? それじゃあボクがバカみたいじゃないか!」

「実際、馬鹿なんだから合ってるだろ?」

「も~~~っ!」

 ナナセは悔しそうに歯ぎしりした。それを見て、ノゾミはにやりと口角を上げる。

 あ、やっと笑った。

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