第18話

「おい、何してんだ?」


「―――後片付けです」


”んなごとしなくていいじゃ、もうゆっくり休め”


正一はそんな労いの言葉をかけてやりたかったが、思うように口が開かない。

後ろを振り返りもせずに言葉を返してくる彼女の言葉に温度がなさ過ぎたからだ。


チラリと自分のことを見もせず、淡々と皿を洗う姿にに何も言えなくなってしまったのだ。



「姉さん、いいってば、おらが茶碗洗うから、茶の間でゆっくりしてろ?病み上がりなんだよ?」

「————もう、十分とゆっくり休みましたから、でも、ありがとう」


自分と対応が違う。

恐らくは同じ空間に居たくはないのだろう。

そう思い居間から正一は出ていった。


その予想が当たったように、その後も芳江が夫婦の部屋に来ることはなかった。





「とうちゃん、さみしくないの?」


ある晩、美月が一人で部屋に入りそうな正一に話しかける。


「————寂しくねーど?一人ででっけ―ベッドでデーンとしてんだ。いいだろう?」

「ええーズルい!みづもデーンとする」

「ゆづもゆづも!」


子供らに不安を与えてはいけないと楽しそうに話したはずが、困ったことになってしまった。

正一は芳江に視線を向けるが、彼女は目線を避けるだけ。


それが気まずいのか、さっと子どもたちのそばに来て視線を合わせるように膝を折り話しかける。


「お父様は連日の漁で疲れているのです。あなた達がいたんじゃゆっくりと身体を休めませんよ?」


「————そんだぞ。でも、ベッドでデーンしていいど?父ちゃんは下の仏さんの部屋で寝るから、お前たちここで寝れ」


正一は子どもたちを不安にさせないように言ったつもりだった。


だが芳江は、今にも階段を駆け下りそうな正一の服をとっさに掴まえた。


「・・・なんだ?芳江、どした?」

「わざわざ、下に降りなくても、嘉男くんの部屋で寝たらいいじゃないですか?」

「なして?」


芳江は言葉に詰まる。

仏壇の下にしまっているあの紙にまた文章が増えていきそうな気がしてならない。


正一はその存在自体を忘れているというのに、芳江はそのことを知らず、また新たな言葉を見た時の自分を想像しては悲しくなる。


「———布団を余計に使われたら、敷布を洗濯しなければならないからです」


正直に言うことのできない芳江は、そんなことを言って誤魔化していた。

「————そうか、わがった」


芳江の言葉に素直に従う正一。

その態度の変わり様に芳江はびっくりしていた。


『洗濯機買ったんだもの、それで洗うからいいべよ』


またそんな類の嫌味を言われるだろうと予想していたからだ。


そんな正一の弱々しい態度に芳江は狼狽えてしまう。


優しく接してくれていた中で、あのような自分を罵る言葉を書き残していた人間だというのに、あれが本当に正一が書いたものかと疑いも出てしまうが、間違いなく正一の字なのだ。


正一は漁師にしておくのがもったいないくらいの達筆の持ち主であった。


少年期までは、祖父によって会社を継ぐ社長へと育てるべく、大事に養われていたからである。


祖父が去った時、まだ幼かった守也と比べれば、その差は歴然なのだ。


芳江は正一が憎いはずであった。

見返してやりたかったし、もっと傷つく顔が見たいとも思っていた。


でも、確かにそう思っていたはずなのに、正一は傷つくというよりはどこか違ったようになっている。




後悔を通り越した男は、毎日に絶望していた。

自分は女という存在を、悲しめることしかできぬ愚かな存在なのだと。



「兄貴!何してんだや!ブレーキだ!止めろって!」


船まき機械の前で、ワイヤーを巻き上げるレバーを握ったままぼうっとしていた正一は、慌ててクラッチを切ってブレーキをかけた。


「危ないわ、しっかりしねーば」

「———ああ、んだな。悪い」



正一は注意力が散漫している状況を自覚していないようで、何度も守也に注意されていた。




いままで一家の長男としてしっかりしていたはずなのに、ここ最近は何かを思い詰めたように肩を落としため息を吐くばかり。


その危なかしさに、家族は命の危険まで感じてしまう。



「————ごちそうさん・・・」

「なんだ、正一。もう食わねってか」

「ああ、なんか食欲なくてな。————おい、ちょっと寄合所いくわ。話し合いがあっから」


「—————はい。行ってらっしゃいませ」



ズルい。

自分だって酷いことをしていたくせに、少し拒んだだけであんなに落ち込むだなんて。

怒りと罪悪感が混じったような自分の感情に芳江自身も戸惑っていた。



「兄貴、最近変だな。」

「—————んだな。———芳江もそう思うべ?」


正則は何もかもを見通した眼差しで芳江を見つめる。


彼は責めているつもりはないと分かるのだが、その罪悪感のせいで”お前のせいだ”と言われているように感じていた。




その日の夜中、子供たちが寝た後、芳江は夫婦の寝床に顔を出した。

正一は仰向けになり、天井をぼうっと見つめていた。


寝ていないことに驚いた芳江が目を見開くと、ゆっくりと視線を彼女に向ける正一。



「・・・・なしただ?」

「————今日は、その・・・」

「————うん?」

「だから、・・・その・・・」

「・・・ムリしなくていい。俺のこと嫌いだべ?」


悲しみに満ちた目でそう問われると、芳江の胸は苦しくなる。


元気のない正一に対して同情で憐れんでいるのではない。やはり、自分はまだこの人に恋心があるのだと自覚しだしたのだ。




恋心があるからユキジに嫉妬をする。

その女に心を囚われていることが許せなかったんだと、自分の気持がようやく分かってきた。


時々、あんなに乱暴されるというのに、芳江はやはり初心を忘れることが出来なかった。


「今が子が宿りやすい時期なんです」

「————そうが」


後継ぎを生む為。その為だけの行為が始まる。


口づけを交わすこともなければ愛の言葉を囁くこともない。

お互いの目線が合わないようにと、正一は芳江を後ろ向きにして責め立てる。


お互い大きく喘ぐこともなければ余計に触れることもない。


しかし、正一の触れ方が今までにないほど軟らかなものだった。

あの時、乱暴にされた時とは正反対な優しさが、芳江を高みへと導いていった。


「あ・・ん・———んん・・」


小さく声を出しながら腰を震わせれば、正一もつられたように最後を迎える。


「悪いな――――。もう終わったよ」


遠慮がちな言葉づかいに、芳江の心は寂しくなっていく。


いつも、終わった後は正一が布団ごと抱きしめてくれていたが、今は目線を合わさず着替えて一人ベッドに寝転がるだけ。


見惚れるほどの色気を放ち、自信に満ちた目で見つめていた男は、その影をみせず、静かに背中を向けて寝入るだけ。



芳江にこれ以上嫌われたくない男はこうするしか術がなかった。


一度固まってしまった男の心は、簡単には溶けそうもない。


芳江もまた、二人には大きな溝ができてしまったと思う瞬間であった。

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