第六章 心が動くとき
第17話
暫くの間、顔を覆って泣いていた芳江は、なんとか起き上がり身を整えた。
立ち上がって砂を払い、涙で濡れた顔を砂だらけの手で拭う。
余計に汚くなってしまった自分が惨めで、誰にも見つからないよう裏口から入り、ぬるくなってしまった湯船の水で自分を清めた。
砂だらけの顔や体を洗い流し、着ていた服についてしまった砂も一緒に冷えてしまった水でながす。
夜中にボイラ―を炊けば誰かが起きてしまうかもしれないと考えたとき、自分の情けない姿を誰にも見られたくはなかった。
それに、わざわざ自分のためだけに燃料を使う気にはなれなかったのだ。
でも、それが良くなかったのであろう。
この時期の夜は日に日に冷え込みが酷くなる。
元々冷えていた体を冷水で流す行為は、十分に体を壊す原因となる。
それから薄暗い中で二階に行くことも躊躇い、下の茶の間の長椅子の上で寝ることにした。
色々と考えることはあったが、普段の溜まった疲れが芳江を睡魔へと誘う。
夏に着ていた薄着の寝間着姿で、寝入ってしまっていた。
朝になり洗濯干し場から衣服を用意して、着替えを済ませたあたりでふらつきを覚えた。
熱が出てしまったのだろうと自覚しつつも、そのままフラフラしながらも台所に立つ。
その時を待っていたかのように後ろから声をかけたのは正一だった。
「よしえ、昨日は・・・悪がったでや・・・」
正一は朝になってから悔いていた。
多少、酒が入ってたとしても自分のしたことが許せなくなり、朝一番になったら芳江に詫びようと、誰よりも早く起き、茶の間で寝ていた芳江が起きるのを、階段に座り込みながらじっと待っていたのだった。
ただただ謝りたかった。
きのうの自分はどうかしていたと。
自分の謝罪に対して返答がない。
最近はこんなことばかりだ。
少し待っていればなにか言葉をくれるだろう。
そう思って再び言葉を待つ正一だが、芳江の反応はなく、ボーっと立っているだけであった。
「・・・・・・・」
「知らねえふりしないで聞いてくれや、なあ」
「・・・・・・・」
「おい、芳江ってばよ!」
遂に声を荒げるも、すぐに後悔してしまう。
彼女は無視している訳ではなかったのだ。
意識が遠のきそうな様子で、立っているのがやっとだったのだ。
「よしえ、大丈夫が?」
異変に気付き彼女を抱きかかえたのは、そばに居る正一ではなく正則だった。
正則は夜中に芳江が冷えてしまった湯船の水で体を洗っている音を聞いていた。
ボイラーも焚かずに寒いだろうと心配していたのだ。
「あや、すんごい熱だわ、おい車さ運べ!診療所さ連れてくべ!」
「あ、え?——おう!」
状況がつかめていなかった正一が彼女を抱きかかえようとすれば、彼女は必至にからだをよじって抵抗する。
遠くなる意識の中でも、昨日の今日で正一に触れられるのがイヤで仕方なかった。
「あだだ、なんだや、苦しんだべか?———あ、守也!手伝ってけれや、正一おまえ車を家の前にまわせ」
車を運転できるのは正一しかいない。仕方なくその言葉に従う。
「かあちゃん?」
「かっちゃん!!」
正則の部屋からタイミング悪く子供たちも起きてしまい、運ばれる芳江に飛びつく勢いで走ってくる。
「親父、子供ら頼むわ。おらと兄貴で病院さ連れてっから」
「おう、頼むど」
守也は、そのまま芳江の腕を自分の肩にまわし、膝裏に腕を入れて抱きあげた。
その状態で外に出てきた二人に、正一は放心したように見る事しか出来ない。
「兄貴!何してんだや!早くドア開けてけれや!」
「お、おう!」
守也の叫び声に我に返った正一は、ドアを開け、二人が乗り込むと同時に車を走らせる。
「大丈夫か?姉さん?いま医者さ連れてっからな?頑張れよ?」
正一は守也の言葉を聞き、少しだけよそ見をする。
兄を怒鳴りつけた表情とは正反対な優顔で芳江を励ます守也を視界の隅に入ってきた。
彼女も安心したように頷いている様子も見えてしまった。
――――さっきは、おらの手を払いのけたくせに…。
なんで、守也にはあんな安心しきった顔をする?
こんな時にでさえも正一は、少しの不満を募らせる。
それが恋情からくる嫉妬や独占欲なのだと気づかない男は、ハンドルを握る手に力を入れてしまう。
芽生えた怒りに任せて荒っぽく運転したい気分だった。
でも、息を切らせて苦しそうにしている芳江を見れば怒りが沈んでいく。
自分のせいだ、自分が昨日あんなことをしたから・・・。
謝りたいのに謝れないもどかしさに正一は焦りを募らせる。
謝ったところで芳江の熱が下がる訳でもないというのに、そればかりが頭の中を支配していた。
「今朝がた熱出たのか。んだら、ちょっと二階のベッド空いてるから、ここで休んで様子見るか。いよいよとなったら市立に連れてくから、誰か一人付き添って下さい」
「んだら俺がそばに居るわ。兄貴しか運転できねえし」
自分が先に残ると言いたかったが、今日も仕事がありそうな朝晴れを見てしまった正一はそうもいかないと諦めた。
明日から雨が降りそうなのだ、帰って仕事をしないと何日か分の昆布がダメになってしまう。
ただでさえ出費が重なっている状況なのに、そんなことはできない。
「———ああ、そんだな。んじゃあ、なんかわかったら連絡くれや」
「————こんな時に、あんなかかぁでもいればな、少しは役に立ったのがもな」
「・・・そんだよな。あんな馬鹿たれでも・・・な。」
正一はその日、沖へ行くことを諦めた。
漁師はどんなことがあっても船を漕ぎださなければいけない。
重々承知ではあったが、その日はさすがにそんな気にはなれなかったのだ。
漁師にとって雑念こそが敵である。
モヤモヤと何かを纏ったまま船を漕ぎだせば、注意散漫になり、怪我をしてしまう。
丘では他愛もない間違いで笑いになりそうなことも、沖ではほんの少しの不注意で命を落としかねないのだ。
そんなちょっとした間違いのせいで、今まで幾多の命たちが、冷たい海の中で消えていった。
正則と二人、子供たちを世話しながら昆布の丘仕事に励む。
乾燥しきれていない昆布を平たんに伸ばし、砂浜へと並べて乾燥させる。
そのうち子供らが母親を恋しがって泣き出し、正一は美月を、正則は唯月をおぶって作業に励む。
”工藤の家の嫁さんが倒れたらしい”
噂は回れど、手伝いに来てくれる人らはいない。皆は自分の家の昆布を腐らせないようにするだけで精いっぱいなのだ。
正一は今朝がたの様子が頭の中にチラつくも、家族がどれほど大事なのかを改めて思い知った。
嘉男や紀子や民子が去った今、どんなことがあろうと守也や芳江は”大事な家族”なのだと。
「正一君!嫁さんの熱下がったようだよ!夜にでも迎えに来てくれと」
夕方、長篠商店の店主がわざわざ知らせに来てくれた。
その一報を聞くなり、長篠商店の店主に返事もしないままトラックに乗り込み、粗々と砂を巻き上げながら走り去っていった。
病院に付き、すぐにでも階段を上って病室に行こうとしたとき、半ばぐらいで肝っ玉が据わっていそうな看護婦に呼び止められる。
「先生が、お話あるみたいだがら!それに保険証明書持ってきました?私だだじ、もう帰っから、お金、先に払ってけさいね!」
「―――――はい、わがりました」
さっきまでの勢いとは反対に、正一は渋々ながら階段を降りていく。
受付のガラス向こうでは職員たちが帰り支度を始めていた。
普段、午後三時で診察終了してしまうここの診療所にとって、午後7時は長すぎる残業のようだ。
「やーやー良かった、工藤さん。一時期はどうなるかと思いましたけどね、何とか長引かずに熱は下がりましたよ」
「ありがとうございます。一時は危なかったんですか?」
「水分がうまく取れなくてね、吐いたりしてたんです。寝ていてもうなされるように夢から覚めてくるしそうで。んでも、頑張ってくれました、脱水になったら怖いしさ、そう思って市内の大きい病院行くかって話してたんです。ここには点滴も痛め止めぐらいしか揃っていないし。でも、芳江さんは絶対行かないって」
「行かねって?」
「はい。これ以上迷惑かけらんねぇって。おそらくだけど、なにか心配だったんではないのかな?」
「そうですか・・・」
そのなにか・・・はきっと金のことだったのであろう。
自分の命と引き換えに金を使い惜しむ妻。
正一はなおさらに情けなく思った。
階段に足をかけて二階へと上がれば、すぐ側の部屋からふたりの会話が聞こえてくる。
ふだんはあまり使われることがない部屋は、もちろん二人だけしかいなかった。
何となく会話が途切れることに遠慮した正一は、暗い廊下で静かに頃合いを見計らっていた。
「何にもなかったらよかったけどさ、ちゃんと検査してもらわねえとダメだべさ」
「大丈夫よ。そんなことしたら、治療費がいくらかかるか分からないわ。それに、こんな忙しい時期にそんなことをしてられないわよ」
「んだども、悪い病気だったらどうするの?」
「ちょっと疲れただけよ。子供が出す知恵熱みたいなものだもの」
「そんな呑気に構えて。またバッタリ倒れても知らねっがらな」
「————もう、大丈夫よ。こんな風になるのはこれきりだわ」
「んなこと言っても、心と体は繋がってねえんだと?こんな非力な身体つきでは説得力ねーな」
「まあ、酷い。これでも体力に自信があるのに」
クスクスと笑う二人はとても穏やかそうで、顔を見なくともどんな表情をしているか想像できるほど。
頃合いも過ぎたころなのに、正一はその廊下の隅に立ち、ぼうっと廊下をみつめる。
こころを空っぽにしなければ、今にも壊れてしまいそうだった。
「なんだ、兄貴。来てたのか?どうして入ってこないのさ、こんなところでぼうっとして」
「———ああ、悪い」
「立ちながら寝でだんでねえのが?」
守也は上機嫌であった。それもそうだろう。
芳江はとりあえずは難を越し、そのうえ半日以上一緒に過ごせたのだから。
「旦那様が迎えに来たど」
さっきの会話の延長とばかりにおどけていた守也は、グイグイと正一の背中を押して芳江の前へと押し出す。
「・・・・・・・・」
そこにはやはり、俯いて目を合わせようとしない芳江がいた。
――――こうなることは分かっていた。分かっていたけど、正一の胸がチクリと痛む。
「工藤さーん!!お薬忘れてますよ」
「あ。忘れでだ」
「いいよ、兄貴。俺が取ってくる。ついでに、先生たちに挨拶してくっから!」
守也にしてみれば、何かを話せと言うことだと思うが、今の二人には普通の会話も難しい。
「—————帰るど」
「—————はい、ご迷惑おかけしました」
「そんなごど言わんでもいいじゃ」
「————すみません」
二人は言葉を交わすも、こんな会話しかできないのだ。
もう、何もかも手遅れだと正一は思い始めていた。
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