第15話
「————ありがとう、守也君」
守也は返事の代わりに鼻をすすり、そのまま芳江のすぐ側に腰をおろした。
本当は横並びに座りたいところだが、涙を拭っている彼女のしぐさが月明かりで見えていたから遠慮したのだ。
芳江は弱音を吐かない女性だ。
ならば弱い部分は見せたくないだろうと。
砂浜から立ち上がることなく、まっすぐ前を見ている芳江の背中に守也は話しかける。
「――――今日は盆だべ?こんな日の砂浜で、ぼーっとしとったら、海の女神様に連れてかれるど?」
「—————なに、女神さまって」
芳江の声は涙声だった。
それに気づかない風を装って守也は話を続けた。
「もとは祈祷師の類だったらしいが詳しく何者だったかは分からん。昔、ここらが先住民の集落だったごろ、その女祈祷師がここらを支配してたのよ」
「祈祷師?」
北海道に移民が増え始めたのは明治の初期である。
なので、この話もそうそう昔の話ではない。
高度成長期と言われる昨今だが、ほんの100年前は原始的な生活をし、何事にも祈祷師の言葉を信じていたのである。
「占い師みたいなもんだ。その占い師によって集落の決め事が執り行われてたんだけど、なかなかあくどい人だったらしい。んで、後から新しく本州の方からこちらに人が流れ始めた時、この村に住んでた先住民と一緒に結託してその女ば追い出してしまったんだと」
「追い出す?」
「ああ、神の使いで祈祷していたはずなのに、自分はついには神だと言い出してな、やりたい放題だったらしいど?気に入った男がいれば所帯持ちでもその嫁や子を殺してでも自分のものにしてたんだと。んで、飽きたらポイだ。んなごと、何度も繰り返してれば、皆の恨みが募ってぐべ?んで、和人が開拓しに来た時にその話を知ってよ、集落の奴らと結託してあの島へ追いやったのよ。あそこはなぁーんもねえがらな、幽閉みたいなもんだべ」
「あの小島へ?」
今は暗闇で見えないが、浜から20キロは離れているだろうか?
そこには確かに誰も住まない無人島があるのだ。
「んだ。時々風に乗ってな、叫び声が聞こえてたらしい。随分と恨みながら死んでいったって話が残ってる。んだから、ここらの人は女を船さ乗せねえのよ。特に夫婦で乗るなんてもってのほかだ。女神が嫉妬して命取りに来るって言われてる」
「・・・・怖いわね」
「ああ、だから姉さんも子供たちも船に乗ったらいけねえど?」
「うん、覚えておく…。ありがとう守也君。————もう少し海を眺めたら帰るから、先に帰ってて?」
芳江のその言葉に守也が返事をすることはなかった。
まるで聞こえていないかのように動かない彼を不思議に思ったが、芳江は黒い海を見続けた。
守也も一緒にその海を眺める。
寄り添う訳でもないし、手を繋いでいる訳でもない。
でも、不思議なことに守也の心は満たされていた。
どんな女と一つになっても、心が虚しいだけだったというのに、こうして話すだけでもそれらを軽く超えてしまう幸福感が守也の中に芽生えていた。
そんな守也をよそに、芳江はこれからどう過ごしていけばいいのだろうと、頭を悩ませていた。
考えても答えはでない。
でも、一つだけくっきりとした部分がある。
自分を娼婦のようだと書き残していた正一。
そんな風に思っていた夫にしばらくは触れられたくない、と。
夫の気持ちを繋ぎとめるための努力は報われず、性欲盛んな女だと書かれたことがどうしても許せなかったのだ。
わたしのことを商売女みたいに思っていただなんて…怒りが沸々と湧いてくる。
もう二度と、正一に笑いかけない、慈しむこともしない。
いや、もうしたくない。
そうして、二度と自分に触れさせまいと。
芳江は苦悩の中で新たな誓いを立てるのだった。
「なんでそっちに行くんだ?芳江」
「・・・子供たちも大きくなりましたし、いくら大きなベッドでも、いつ落ちるか心配なのです」
「・・・んだら、ベッドしまって布団にするべ」
「いいですよ、嘉男君の部屋が空いてますし、そこに二組の布団を敷いて子供たちと寝ますから」
「おら一人であの大きなベッドで寝れっていうのが?」
「————狭い狭いって言ってたじゃないですか」
最後にそう言い渡し、ドアを閉めて鍵もかけた。
この家で唯一鍵のついている部屋を、芳江は新たに自分の寝床にすることにした。
もう二度と、あのベットでは寝ることもないだろう。
「おふとんだ!ゆづ、これしゅき!」
「うん!みづきも!ほらほら!こんなにコロコロしても落ちないんよ~~。みてみて、かあちゃん!」
「ふふふ、そうだね、落ちないね」
正一は暫くの間ドアの前で立ち尽くしていたのか、子供たちが騒ぐ中自分たちの寝室へと足音が消えていった。
それを聞いてざまあみなさいと思っている性悪な自分に気がつく。
そう思うのならば出ていけばいいのかもしれない。
正一を嘲笑う自分が、嫌な女に見える。
そんな気持ちを抱きながらも、ここを出ていかない理由は子供たちの為であった。
正一は結婚してすぐに言った。帰るところがなかったらいてもいいと。
ただ、それには長男を産んでからって条件ではあったが。
「じじ!おはよ~。あのねあのね!うえでね、よしおおいちゃんのへやでね、おふとんでねたの!」
「ふとんで?四人でねたのか?」
「ううん、かあちゃんと、ゆづとねたの」
「————そうが、布団すきだもな、良かったな~」
「うん!」
すぐバレるだろうとは思っていたが、こんなにすぐだと思っていなかった芳江は台所に立ち、背中に正則の視線が向けられているのではと落ち着かない気持ちになった。
「・・・芳江、おはよう」
「おはようございます。正一さん」
顔も見ないで返事をする芳江に正一は寂しくなり、後ろから抱き着いた。
いつもなら、身体をくねらせて恥じらうはずの妻は、包丁を置きその腕を解いて、出汁で煮た豆腐にみそを解くため、ガス台の前へと移動していった。
「お祭りの会合が夜7時よりあるそうです」
「—————うん、わがった。そんな時期だな」
「ええ」
芳江の顔は決して崩れることはなかった。
初夜を迎えた次の日のような、表情のない顔に正一は胸が苦しいほど悲しくなっていた。
それが自分のせいだと夢にも思わない正一は、癒しとして心の中に雪路を思い描く。
この台所に立ってるがゆきちゃんだったら、どんなに自分は幸せだっただろうと。
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