第14話
芳江が正一の密かな秘密を知ってしまったのは、盆入り初日の日。
急に
玄関先に訪れた訪問者に驚きつつも、すぐに申し訳なさそうに笑顔を浮かべる芳江。
数年前に熱燗を奢ってくれたにも関わらず、あの店には行けていなかったのだ。
いつか恩を返そうと顔を出したいと思ってはいたが、なかなか時間と金がないことも相まって行くことが出来なかったのである。
「お忙しいところ、急に来てしまいすみません」
「いえいえ、遠いところからお越し頂きありがとうございます。今は私しかいませんがどうぞ、こちらでございます」
工藤家の仏壇へお参りに来たのはこれが初めてだと話す奏は、今までの法事に来れなかったことを詫びていた。
最近になってやっとこの土地に来てみようと思ったのだそうだ。
「あんなに時間を空けずに会いに来てくれていた武翔君が、急にいなくなってしまうんだもの。しばらくは気持ちの整理がつきませんでした」
「・・・そうですよね、心中お察しします」
「いえいえ、そんなに気を使わないで下さい。——あ、そういえば、嘉男君がたまにお店に来てくれるのですよ」
「嘉男ちゃんが?」
「ええ、まあ元気に仲間を連れてワイワイとしてくれてます」
その言葉に芳江は不安を感じた。
嘉男はいい子ではあるが、いつも騒ぎの中心にいるような子供だった。
仲間を連れて、ガヤガヤと大声で話したり笑ったりと、他の客に迷惑をかけている様子が安易に想像できてしまう。
「すみません。なにかご迷惑かけていませんか?」
「いいえ~、迷惑どころか凄く楽しいんです。周りのお客だって近所から集まった顔馴染みばかりで、もともと騒がしいところですから、うちの食堂は。うちの働き手も楽しみにしているんですよ。―――――それにね、芳江さん・・・」
奏が言葉を区切って神妙な面持ちになったので、芳江も居住まいをただして彼女の言葉を待った。
「———不思議ですけどね?嘉男君はそれとなく雰囲気が彼にも似ているの。そんなことが関係しているのか、元気にご飯をがつがつ食べて、美味しい美味しいって言ってくれるとホッとするんです。武翔くんとは違うってわかってるんですけど、なんだか、彼が今でもそうしているように見えて、どこか救われたような気分になるんですよ」
芳江はそう言われて言葉に詰まる。
何も言葉を返せず唇をきつく噛むようにして耐えた。
そうでもしないと、不意の泪が出てしまいそうだったからだ。
恋人が急に逝ってしまう。
そのことが彼女をどれほど苦しめてきたのであろう。
やっと、ここに来る決心がついたのだ。
何年もの月日を費やして、やっとここのお仏壇に手を合わせることが出来るまで、彼女はいかほどの苦しみを耐えてきたのだろうか?
「ごめんなさい、困らせてしまったわね。では、失礼しますね?」
「はい…。次の十三回忌にはお知らせしますので、ご都合が良ければご参列お願いします」
彼女が帰った後、なんとなく仏間下の小さな引き戸を開けた芳江。
さっきのこともあったので、何年後に十三回忌を迎えるのか確認しておきたかったのだ。
仏間の置き床に仕舞ってある、武翔の香典帳を探る。
ただ、それだけのはずであったのに、いつかの夜に正一が置き忘れたものがそこから数枚出てきてしまった。
正一が書き溜めた絵や詩はこの数年間で膨大になっていた。
一つにまとめて隠しているつもりでも、書いてる途中で慌てて隠したりするとそのもの自体を忘れてしまう。
こともあろうか芳江が見つけてしまった一端のような破片は、俳句同好会に通い始めた時のものだった。
句を作るにあたり、まとめたいことを細かに書き留めている走り書きにすぎないのだが、芳江にはつらい言葉しかない。
正一の心の闇を解放するかのように、正直な気持ちをぎっしりと書き連ねたものが出てきたのである。
心のモヤモヤを葬りたい思いで、ことを大きく大げさに表現している部分もあるのだが、芳江はそんなことを知る由もない。
今の正一はそう思っていなくとも、過去にそう思われていたこと自体知らない芳江にとっては、とても見るに耐えない言葉ばかりであった。
控えめに笑う少女の肖像画が数枚。
それに加えて彼女に送ったであろう言葉と、それに反比例する芳江宛ての言葉。
穢けがれのない清楚な君を夢に見る。
今でも純白のままでいて。
雪路。会いたい。無性に。
今でも君を覚えている。
君の声、君の微笑み、君の涙。
全部色あせないまま僕の心に残ってるよ。
生涯をかけて愛したかった。
そうして君と一つになりたい願望は今でも消えてはくれない。
君の微笑みにいつも救われていたんだ。
僕は君と―――
芳江は続く言葉が怖くて急いで紙から目を離す。
でも、視界の端には見えてしまっていた。
―――君と家族になりたかった。
二枚目の紙は自分宛てのような文章が連なっていた。
僕の気持ちを理解していない妻のせいで僕はなんど気落ちしただろう。
よく笑う人だけど、自分だけにはその笑顔を見せないズルい人だ
夜になれば周到にからだを求めてくる娼婦のよう。
そうだ、かのようではなく、其の可能性あり。
初夜の夜、清血ナシ。
体で繋ぎとめようとしてくる、
そんなことをしても、無駄。
いくらあの人と身体を交わしても想いはかわらない。
僕の心は、僕の世界は色がついてないように虚しいだけだ。
じぶんはどこの世界に来てしまったのか?
この文章は信じがたいが、全て正一が書いた筆跡で間違いがない。
この見事な字体を読めない馬鹿な人間だったらどれほど良かったか。
少しだけ学がある自分が疎ましく感じる芳江。
誰もいない家の中で、それらを淡々と仕舞いはじめる。
出来るだけ考えないように、この一日をやり過ごそう。
それ以外のことは何も考えられなかった。
「ただいま!かあちゃん!」
「———おかえり、美月」
「ねぇねぇ、なんでおかあちゃんは、おはかいかないの?」
「誰か一人残っていないと。お客様がいらっしゃるかも知れないでしょう?」
「ふうん。そうなんですねぇ」
「クスクス、ええ、そうなのですよ」
子供と会話することで気を持ち直す芳江。
けれども、そんな会話も正一は気に障るかのように茶々を入れる。
「そんな言葉遣いすんなや、美月は浜の子なんだから。そんなお高くとまってるしゃべり方だったら、近所の子らに馬鹿にされるわい」
「すみません」
「兄貴、なんもそこまで言わなくてもいいべ」
「別に、注意しただけだべよ。芳江がかってに深刻にしてんだべ?」
一生懸命に気丈に降るまおうとしても、夫の正一は芳江への愚痴を辞めなかった。
毎年この日は気が荒れるのだ。
急に逝ってしまった弟と、連れ出してこれなかった妹の遺骨が島に置き去りになっている現実に直面して、過去の自分の判断の甘さにイラ立ちが止まらなくなってしまう。
「———お墓参りに行ってきます」
「おお、早ぐ行っでごいや」
正一は涙が滲み始めている妻の顔をみもしなかった。
「芳江・・・」
夜になって昼間のことを詫びたいのか、正一は優しく抱きベットへと倒そうとした。
「———今は出来ません」
「————なんだ、あの日が?————んだら、しゃあねえな」
正直に言う芳江の言葉を月のものと勘違いした正一は、そのまま不貞腐れたように横になり、背中を向けて寝てしまった。
ゴーゴーといびきがうるさくなってから、芳江はそっと部屋から抜け出した。
そのまま、寝間着のままで浜の方へと歩いていき、波打ち際の少し手前で座り込む。
芳江はそこから見える黒い海を見ていた。
どうどうと浜に打ち付ける波音を聞けば涙がしたたり落ちてくる。
ここならば、誰にも見られることはない。
そう思えばまた涙が遠慮なしに流れてきては、いつかもこんな悲しく思う夜があったことを思い出す。
変わっていなかったのだ。
正一はあの頃から何ひとつ変わってなどいない。
何を期待していたのだろう?初夜の晩に言われたではないか
生涯忘れることが出来ない人がいると。
それなのに長く一緒に居ることで、自分を真の妻に迎えてくれるかもだなんて、そんな思いを期待をしてしまった自分が憎かった。
自分のバカさ加減に悲しくなり、次から次へと流れる涙で月が歪んで見えていた。
「どうすれば、いいの?」
この海に入る?———そうすれば、情けない自分をもう見なくても済む。
でも、そんな勇気はなかった。海に入って人生を終わらせる勇気など、芳江の中にはなかったのだ。
”急にいなくなってしまうんだもの”
その日聞いたばかりの言葉が芳江の頭の中で反芻される。
残される者の気持ちをイヤというほど知ってしまっている芳江には、自分で時間を止めるだなんて、到底無理な話。
では、どうしたらいいのだろう?
家を出るにしても、子供たちと正則を離すのは可哀そうだ。
ならば…自分だけここから離れようか?
でも、子供たちと離れたくはない…。
考えても考えても答えは出て来やしなかった。
少しの砂を蹴る音がしたかと思えば、ふわりと肩が温かくなる。
「風邪、ひくど?」
その言葉と共に、自分の肩にかけられたのは、冬用のジャンバーだった。
暗い浜でもそれの声の主が誰だか芳江にはわかっていた。
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