第五章 背徳の月明かり
第13話
家の新築計画が始まってから四年の歳月が過ぎ、正一と芳江の間には長女、美月(五歳)の他に、次女の唯月(三歳)にも恵まれていた。
後継ぎが生まれないことに対して、工藤夫婦に「気にするな、そのうち来る」と励まされることが続く。
近所の人や鮭共組の人にも同様に”頑張れ!励めよ!”とからかわれる中でも、芳江はどこかホッとしていた。
後継ぎの男の子が生まれないうちは、まだ正一に必要としてもらえるはずだと。
そういうこともあり、二人目の唯月が生まれた時、まだ大丈夫だと芳江は安心していたのである。
芳江は初夜の晩に言われたことをいつまでも忘れることはなかった。
”後継ぎさえ生んでくれたら好きにしてもいい。別れてもいいし、男を作ってもいい”
この結婚生活七年の中で気持ちが離れることは何度もあったし、お互いに不信感を抱くようなこともなかったとは到底言えない。
その中でも芳江なりに正一と共に”夫婦”を全うできていると思っているし、自分に対する情も感じることはある。
でも、そんな幸せも”後継ぎ”が生まれてくることによって終わってしまうのではないか?
そんな不安が消えてくれないのだ。
それに、心配な要素はもう一つある。
ユキジのその後を三四郎から聞いた時、同時に彼女の夫は年の離れた男だと知った。
ならば、その夫がいち早く亡くなったとなれば、自分は正一に離縁を言い渡されるのではないか?
未亡人となったユキジを新たに嫁として迎え入るから、すまんが別れてくれと言われそうで怖かった。
そう思えば不安に駆られ、いい妻を演じてまで夫に精魂尽くす芳江。
だがその努力も虚しく、正一はふらりとどこかへ出かけてしまう。
芳江はそのたびに悲しくなり、自分の行いは報われないと自覚するのである。
どこへ行っているのかは分からない。
ただ、自分に知られたくない何かをしに行っているのだろうと、芳江は妻の勘をはたらかせていた。
「なんか損した気分だわ、建ってがら二年も住んでねーのに。みんなずりいよな」
嘉男はこの年の春中等学校を卒業し、村から遠く離れた網元の若い衆として働くために家を出ることになった。
家を出る最後の言葉まで嘉男らしくて、芳江は笑いながら送り出したのであった。
正一はいづれは守也の家族ができても一緒に住めるようにと、部屋を仏間続きの和室も入れて六つも作った。
その他に、皆が集まる板間の茶の間や、台所や水回りやトイレまで家の中に設えた。
それはそれは大きな屋敷のようになり、近代的な壁模様も相まってモダンだねぇともてはやされた。
家を新築したり、作業場も広くしたりと何かと出費が重なった工藤家は、それぞれが持てる財産の一部を出し合いながら借金を返していかなければならない。
芳江は一人目こそ大事にしてもらっていたが、唯月の出産後はすぐに家事仕事をするなどして働けないことへの罪悪感を消していた。
60を手前にしても正則は出来る仕事を精いっぱい頑張り、息子夫婦や守也たちが仕事に集中できるよう、丘仕事や孫の面倒を積極的にしていた。
そんなこともあってか孫たちは正則によく懐いて、どこに行くにも後ろをついて歩くようになっていた。
「ジジとねる」
「美月、夜くらい爺ちゃん解放してあげないと疲れちゃうよ」
「いやーだ!ジジとねるの!」
芳江は溜め息をついた。
正則から
仕事が忙しく子供に構うことが出来ないのでどうしようもないのだが、やはり寂しいものがある。
「いいんだ、芳江。みづはジジと寝るもな~?」
「うん!」
正則が嫌がらずにそう言ってくれるのは、芳江は本音として有難くおもっている。
それくらい美月は一度決めたことは曲げない頑固な子なのだ。
でも、困ったことにそうなると、今度は唯月が黙ってない。
「ゆじゅも~~~!じじとねりゅ!」
「唯月、お布団にそんな入れないよ。母ちゃんと寝よう?」
「いやーだー!ジジと!」
「んだ、ゆづもジジと寝るもな!そしたら三人で寝るべ!」
「やったー!良かったね、ゆづ!」
「うん!」
二人は大声をあげて喜び、布団の上を飛び跳ねる。
お行儀が悪いと芳江が叱るも、二人は聞く耳を持たないようだった。
「すみません、お義父さん。」
「いいんだ、もう6月だし多少はみ出してもかぜひかねーべよ。それに、な?ほれ、今頑張ればよ―――」
”春に赤子が生まれるべ?”
正則はそうでも言いたげに芳江をみては、茶化すように表情を崩していた。
「悪いな、親父。ちょっと騒がしくなるけど、耳塞いでてけれ」
「ああ、ちゃんと耳栓してっから心配すんな」
そんな会話を交わす親子の神経が分からなくて、芳江はいち早く二階へと上がっていった。
正一の言葉の通り、皆が寝静まるとき、夫婦の声が家の中に響く。
あん!ああ、———んん―――しょう、いちさん、いいわ、凄くいい
この頃は芳江の声は大胆になっていた。
襖一枚だけで筒抜けだった前の家とは違い、一階と二階ではそうそう聞こえまいと安心していた。
大げさにでも感じてる”フリ”をして、正一の心を繋ぎとめたかったのかもしれない。
芳江が鳴けば鳴くほど正一が興奮しているのが分かる。
どうしたら夫の気持ちを繋ぎとめられるのか?
そればかりに意識を持っていかれる芳江は、行為に感じているのかが分からなくなっていた。
艶っぽい声を出すことは義務感に近いものがある。
というのも、正一のやり方は7年間変わらないのだ。
彼には決まった手順があって、その通りに”コト”が進む。
多少の変動はその時々にあれど、どこか新鮮味にかけるのが本音。
いつかあった湧き上がるような情熱は芳江の中からなくなってしまったのだ。
でも、それでも。
それを悟られないように喘ぐ。
感じないといけないと思えば思うほど、むやみに分け入ってくる正一を締め上げるのだ。
「ああ、芳江…。いい、凄く‥締ってるわ…、気持ちいいのか?」
汗をかきながら腰をふる正一に頷き、また喉の奥から甲高い声をだしていた。
”お願い・・・早くいって、正一さんそれでなければ――私は・・・”
正一はそんな芳江の願いが届いたのか、自身を強く打ち付け最奥にそれを流し込んだ。
渇きが来る前に無事果ててくれたことにホッとした芳江は、昼間の疲れもあってそのまま寝てしまった。
寝てしまった芳江に布団をかけ、頭を抱きそこに口づけを一つ落とす。
「・・・・おらは夫失格だな」
一つ呟いて、正一は階段を静かに降りていった。
「・・・・・どこに居ても丸聞こえだな」
夫婦の情事が終わったころ、守也は溜め息をつきながら寝がえりをうった。
守也もあれからそれなりに女と経験を積み、前のように過敏に反応することは無くなったが、どの女を抱いても心が満たされることはなかった。
どうしても頭から離れない女性が心の中に居続けているからだ。
そんなものは永遠に叶わぬ恋だといつも通り言い聞かせ、やっとのことで静かになった空間で寝に入ろうとしていた。
ギシ・・・・ギシ・・・・
その時、守也の耳に入ってきた静かな足音に再び目を醒ます。
息を潜め、耳を研ぎ澄ました。
もしかしたら…。
もしかしたら芳江が降りてきたのかも知れない。
”守也君・・・。正一さんじゃ足りないの・・・。あなたのこれで私を満たして?”
あるはずもない展開を想像するも、おおかた正則を不憫に思って唯月だけでも迎えに来たのだろうと思いなおした。
でも、その予想は外れ、足音の主は守也の部屋と襖で仕切られている仏間の方へと入ってきたようだ。
襖にはめられた細長い擦りガラスに映りこむ大きな影。
模様の加減で透明に見える小さなガラスから見えた人物は、芳江ではなく正一だった。
何となく、その姿がよく見えるように寝返りをうち、正一の行動に注視してしまう守也。
もしかしたら、武翔が生前残したノートを見に来たのではないか?
最近、仏間ができてからというものの、正一は夜中にその部屋に籠り、武翔が小さい時から大人になるまで書き溜めたノートを読み更けることがあるのだ。
高等小学校時代から、死ぬ前日までの記録が書いてあるそのノートを、悲しそうに呟きながら読み上げる時もある。
守也は物音をたてぬように起き上がり、その小窓から覗いたのだが、どうやらそれも違った様子であった。
身をかがめて何かを厚めの和紙に書いている姿がぼんやりと見えていた。
シャ、シャっとなる鉛筆使いの音を聞けば、文字ではなく絵を描いているように聞こえてくる。
そのうち階段からもう一つの足音がして、その人物が降りてくる様子に慌てた正一は、それらを仏壇下の置床に入れ、廊下に出ていった。
「———どうしたんだ?芳江」
「・・・唯月だけでも連れ帰ろうと思いまして――――。正一さんこそ、こんなところで何をしてたのです?」
「ああ。なんでもねえんだ、ちょっとタッケの香典帳を眺めてただけだ。奏さんが七年忌来られなかったって言ってたがら、次はいつだっだが、調べんのに――――」
夫婦の会話が遠くなり、芳江の言葉通り正一は唯月を抱えてきたのか、小さく文句を言う可愛い声がきこえ夫婦の笑い声が階段で響いていた。
やがては二階の部屋へとそれらも消えていく。
守也は静かに身を潜め、仏壇下の引き戸を開けてみた。
乱雑に押し込まれた紙は、数枚もあった。
「—————なんなのよ・・・これは・・・」
その中で、さっきまで正一が熱心に書いていたであろう厚紙には、まだ少女だった時代の雪路の肖像画が書かれていた。
その他にもつらつらと文字を書き連ねた文章まである。
それを黙読した守也は怒りに任せて苦言を呈する。
「兄貴よう、———おめえ、バカでねえのが?」
うっすらと微笑んでいる雪路の肖像画に向かって、守也はそう冷たく言い放っていた。
心の奥底から求めていないくせに、芳江を妻にしている兄に怒りを覚える。
自分は、こんなにもあの人を求めているのに、兄は未だに雪路を必要としているのが許せなかった。
これらを芳江に見せて、いっそうのこと正一の本性を暴いてやろうかと思いにふける。
そうして傷ついた彼女を、今度は自分が支え、生涯彼女を愛すことの出来るところへ連れ出してしてやろうか?
自分ならば、子供たちも芳江も一緒に家族として愛せるし養える。
そうだ、そうしたほうがきっといい。
暗闇の中ではそんな考えが正しく思え、自分こそは芳江を救える唯一の存在であると思えるのだが、朝が来るたび己の非力さに守也は絶望してしまう。
夜のうちはそう思うものの、明るくなれば到底出来やしないと思い知るのだ。
朝は暗闇よりも多くのものが見えてくる。
「おはよう守也君。今日も凪がいいよ、頑張ろうね!」
「————うん。頑張るが」
なにより芳江は今幸せそうに笑っている。
守也はそのことこそが一番重要だと気づかされる。
正一が上手く隠しているのか、芳江は何も疑うことなく兄とその子供たちに囲まれて、今も台所で可憐に笑っていた。
ならば、真実を突きつけて悲しませるよりも、この現状が続く方が彼女は幸せなのではないのか?
自分はそんな彼女の側に居るだけで幸せだったはず。
では自分が出来る事はただ一つ。
昨日見た兄の奇行は見なかったことにしよう。
守也は自分にそう言い聞かせ、またもや心に蓋をする。
もう何度自分の心を誤魔化してきたか分からないが、到底ほかの女などには心が開かないのだ。
ならば、手に入らなくとも、芳江のそばで見守ろうと改めて誓ったのだった。
しかし、そんな願いも虚しく、芳江がそれらを目の当たりにしたのは、昆布漁最盛期真っ只中の八月のことだった。
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