第11話
美月が生れて三ヶ月が経った。
冬の
冬生まれの美月が初めて迎える春。
父親の正一は、初めて勤めた共同の鮭組から、隣村合同のウニや帆立の稚貝を育成する仕事につき、それが終わった先月からは街の建築会社に短期で働いていた。
ここの仕事が終わった後に本業への準備が始まっていくのだ。
今働いている建設会社は、何年も勤めていることもあって仲がいい人が多かった。
それに甘えている正一は、毎日のように電話を借りて長篠商店へと入電する。
”あること”が仕事中も気になってしまうので、店主に確かめて欲しかったのだ。
「赤ん坊の横には正則さんがいるようだけど、取り次がなくて本当にいいの?」
「ああ、いいんだ。美月一人でながったら大丈夫だがら」
今日は父親の正則に子守をさせているようだった。
「明日はちょっと出かけていないからね、隣の三四郎に電話して確かめてもらってよ?」
長篠商店の店主はそう言ってため息交じりに受話器を置いた。
連日のようにかかってくる正一の電話が半ば迷惑になっていたのだ。
「・・・三四郎だば、何言いふらすがわがんねぇべよな」
正一も会社で借りた電話の受話器を本体におく。
ここ最近、街に働きに出ているが、娘のことが心配で仕事がままならないのだ。
まだそんなに動かないからという理由で海に入って昆布拾いをしているらしい芳江。
自分には正則が拾った昆布だと言っていたのに、近所の人から聞けば芳江本人が浜に来たのだという。
村の女たちは産後ひと月もしないうちに海に入っているが、それは姑や60代前後の大姑がいるからできることなのだ。
工藤家の大姑はだいぶ前に島で亡くなっていて、姑の民子も正則と離婚してここにはもういない。
正則がいくら美月を可愛がろうとも、赤子の世話は無知に等しいかった。
不器用ながらにもあれこれはしているようだが、どれも中途半端できちんとした身なりもさせられないのだ。
それに最近は大人しいが、なにがきっかけで元の”ろくでない”男に戻るのか分からない不安もある。
もしそうなってしまったら酒に酔って美月の存在など忘れてしまうかもと思えば怖くなる正一。
『それでも仕事を優先させるだなんて』と、美月の命を軽く扱っている芳江に正一は苛立ちを募らせていた。
「おお、藁人形復活だな。美月寝てるのが?」
「はい、少しだけでも仕事しようと思いまして」
「ああ、まだ赤子が動かねえうちは気晴らしにもなるしな、働いた方がいいわ」
産後ひと月くらいまでは正一にきつく禁じられてたこともあり、働くことに気が引けていた芳江だったが、さすがに三ヶ月も赤ん坊と一緒では体が鈍ってしまう。
この地域の人々はお産後ひと月で仕事復帰をする。
芳江もそんな母親たちを見習い浜に顔を出そうと決めたのはつい最近のことであった。
働くことは芳江にとっては特効薬のようなもので、自己肯定感を高めるにはいい薬だった。
”大丈夫、私は必要のない子じゃない、こうやって仕事をすることで誰かの役にたてているじゃないか”
義兄弟に忌み嫌われていた少女時代、そう思うことで自分の存在を否定しないようにと努力していたのだ。
そういうこともあって芳江は、赤ん坊の世話だけしとりゃいいという正一の言いつけを守ることが出来なかった。
正一は子供の心配をするばかりで、妻の心情を汲んで言葉を選ぶことができない。
芳江は芳江で正一の言いつけは自分にとって毒になりうるものとし、夫が不在ならばと自分のしたいように仕事をしていた。
二人とも、お互いの行動や言動には不満があった。
小さなすれ違いが起き始めていても、当の二人はそれに気づかないようにしていた。
春が過ぎて夏昆布の準備に忙しい初夏になるころ、村で不幸があり村民たちは寺に集まって手伝いに入っていた。
この村で起こることは皆で手を貸しながら乗り切る。
祝い事でも、突然襲う不幸でもそれは同じだった。
今回の故人は75歳まで生きたお爺さんで、大往生だったなと皆が褒めたたえる。
若い人の葬式は遺族が不憫でしんみりと執り行われるが、今回のような場合だと手伝いに入る人たちの気分も違う。
お祭りの集まりごとのようにあちこちでは話に花が咲き、寺の広間はにぎわっていた。
そんな中、ひときわ大きな赤ん坊の泣き声が寺の玄関に響きわたった。
皆が注目する中、そこには美月を抱きかかえる正則の姿があった。
「芳江ー!腹減ったみたいだわ、乳やってげれー」
その姿を見た芳江は、台所から前掛けを外しながら出てきた。
帳場にいた正一のほうが近いのだが、腰を浮かせる前に芳江が飛んできたのである。
「すみません、お義父さん。今一度帰ろうと思ってました」
「いいんだ、散歩だ散歩。なあ?ジジと散歩だもな~?美月」
ぎゃんぎゃんと泣く美月だったが、正則は終始笑顔だった。
あの気が短くて有名な正則が・・・である。
すっかり毒が抜けた正則に皆は驚いていた。
ましてやこんな場所へと顔を出すことはなかったというのに、美月が生れてからというものの、正則は急激にいい方向に変わりはじめている。
近所では多少知られているが、工藤家から離れて住んでいる村民たちは噂通りだと顔を見合わせていた。
「おじさん、すっかり好々爺でねえが!どうなのよ、あっちの方は?民子おばさんと別れてやりたい放題だべ?」
「いや、民子おばさんいてもやりたい放題だったべや」
「あっははは、そんだな」
村の中堅たちは正則からかうように話し出す。
酒に酔っているときはこんな小さなことでも腹を立てていたから、面白がっているのだ。
それに対し、正則の受け答えは普通のものだった。
「もういいじゃ!女なんて飽きたじゃ。おらは孫がいればそれでいいわ」
そんな会話が台所まで聞え、その端の方で乳をあげていた芳江は微笑んでいた。
「あんたのおかげて工藤さんが変わったんだ。たいしたもんだ」
「いいえ、私は何もしていませんよ」
いくら芳江を褒めたたえようが、彼女は決して肯定することはなかった。
台所で麦茶が入った薬缶と湯呑を取りに来た帳場の係員は女たちのそんな会話を盗み聞きしていた。
芳江の謙虚さに感心して、持ち場に戻ってすぐに仲間に見聞きしたことを伝えた。
「おいおい、お前んとこの嫁さんは謙虚でいいな。おらの嫁っこならば”そんだべ~”とか言ってでっけ―顔して威張るわ」
「んだ、いい嫁だ。大事にしねえばな、正一」
「————大事にしてるじゃ」
芳江のことは大事だ。
大事な嫁には変わりないが、正一の中ではどこかもやもやしたものが消えてくれない。
そのもやもやの原因は元恋人である雪路に間違いはない。
やはり、どうしても気になってしまうのだ。
もういっそうの事、雪路に会いに行ってしまおうかなんて馬鹿な事まで考えてしまうが、そんなことはできないのだ。
遠い昔に二人で約束したことがあったのだ。
『自分たちの気持ちはここに置いていこう。そうしてお互いに血のつながった家族を悲しませないように生きていこう』
『それでさ、どっちが長生きできるか競争しよう。どちらかが先に死んだとき――――』
あの時交わした約束で彼女は頑張れるかもしれないと泣きながらも呟いた。
どうか今でもその約束が雪路の生きる糧になっていますようにと願うのだが、あれから10年以上会っていないのだ。
いつか三四郎が話してた暗い表情の雪路を想像する。
もし、生きることを諦めてしまったら?
正一はそういう不安に駆られて気持ちに靄がかかる。
いつも元気そうに笑っている芳江のことなど、心配には値しないのも原因の一つでもあった。
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