第四章 重ならない情愛

第9話

今期の最盛期は困難を極めた。


工藤家の人間は体が丈夫で病気知らずだったが、今期はさすがにそうもいかず。

それぞれが具合が悪くなり、寝込む日もあったが何とか切り抜けた。


村の秋祭りが終わり、十月の末になってくると昆布作業も落ち着いてくる。


後は、正則と芳江だけで手が回るようになるのだが、その年は正一の姿があった。


いつもなら二人で行く出稼ぎも守也だけ行くことになった。

というのも、正一が身重の芳江の代わりに鮭共組で働くことになったからだ。


芳江の代わりといっても女がする丘仕事をするわけではなく、大きな鮭船に乗船して『沖乗り』として勤めることになったのである。

鮭を扱う漁船に乗ったのは久しいことであったが、体はきちんと仕事を覚えていた。


この手の船にはあまりいい記憶はないが、仕方なく船に乗ることを決めた。

年末には妻の出産を控えているのだ。

どうしてもその瞬間に立ち会いたかったのである。



過去に自分が虐げられた網元の環境はとても最悪だったが、あのころから時代はだいぶ変わっている。


沖乗り達も人柄がよく、あの頃とはガラリと違うのでとても働きやすかった。



守也のほうにも変化があった。

いつもなら兄の正一と漁組の若い衆らと一緒に鰹節を作る工場に行っていたが、その年は東京の方へと働きに出ることになった。


最近では道路を広くしたり高速道路を構築したりと、オリンピック候補に入るためのアピールなのか、都市開発計画が盛んな東京。

下手をすれば今までの倍は稼げそうな働き口もあり、守也だけならばと一緒に行っていた男衆に勘弁してもらったのだ。



そんなこともあって正一は少し気持ちが大きくなっていた。


「これからよ、家を建てるか」

「家?!ほんとうか?!兄ちゃん!」


正一は守也がいない夕食の席で正則に相談していた。

けれども一番先に反応したのは嘉男だ。

騒ぎ立てる嘉男を無視する形で二人は会話を続ける。


「家が?」

「うん、最近は金の貯まりもいいし、今年は豊作で出荷率もよかった。おらも来年から東京の方へ働きに出ればよ、何とか支払っていけるんでないが?」

「・・・まあ、そんだな。隙間風入るここだらば、おら達はいいとしても赤子が病気になるがもな」

「おう、それによまた津波きたらおっかねーしな」

「ああ、んだ。あの時は運よく土間から上がることなかったけども、また起きてもおかしくねえしな」



芳江は何だか申し訳ない気持ちになってしまう。

この家が子供が生まれるということで借金を抱えようとしているのだ。


でも、確かに津波の被害はこの村でも相当あったと聞く。

海に近い家などは全壊して船まで流されたと聞いていた。


工藤家は少し小高い丘に家を構えている。

神社と同じ高さにある長篠商店から少し下ったところにあるのだ。

それでも波は襲ってきた。

幸いだったのは船が流されなかったことだ。

家の中もヘドロを掃除して事なきを得たが、あちこちに爪痕は残っていた。


そもそも柱軸が曲がっているのだ。

地震が多い地域でもあるので、いつ家が倒壊するのか危うい。

そんなこともあって正一はもっと頑丈な家をと考えるようになった。



「でもよ、そうなると銀行とか組合から金借りねえばなんねえべ?それが心配なんだよな」

景気のいい時代でも、銀行や組合は審査が厳しい。

間違いがないところにはドンと融資をするが、工藤家は曖昧なところでもある。


今期は良しとしても、それまでの実績がないのだ。

審査が下りるまで数年かかる場合もあるようだと正一は人づてに聞いていた。


「大工の奴らにも。三割くらいの金を見せねえと、難しいかもな」

「おお、んなの大丈夫だ、おらに任しとけ。みのる君に相談してみっから」

「————親父、あいつと仲いいのが?」

「ああ、よく”カフェー”で見かけたもな。仲いいど?」


「・・・・・そういうこったか」


正一はここで初めてみのるとひと悶着あった時、急に相手が折れて金を返してきた理由が分かった。

ああ、だからあの頃、父親である正則がカメラを片手によく出かけていたのかとも合点がいく。


「どうしたんです?お義父さんも正一さんもそんなに笑って」

「なんでもねえ、気にすんな」


またいつものように男にしか分からない冗談でも言っていたのであろう。

そう思い食べ終わった茶碗などを片付ける。


「なあ、姉さん、”カフェー”ってなんだ?」


おぼんをもって土間を歩いてる芳江は嘉男の問いかけに驚いて転びそうになっていた。

それと同時に二人が笑っている原因もわかった。


「嘉男ちゃんには関係ないところよ!」

「んだども、あと4、5年すれば、こいつも関係大ありかも知んねえぞ?」

正則が顔を赤らめる芳江をからかうようにいう。


「4、5年って。んだば、今の守にいには関係あるってことだべ?」


嘉男の言葉に正則と正一は腹を抱えて笑い出した。


「確かにな!あいづ、今頃東京のカフェーに行ってるがもな!」





なにはともあれ、工藤家には目標ができた。


芳江は元気な子を産むこと。

男衆は金を稼ぎ、家の支払いを十分にしていけると証明できるような基盤を作る事。


「んだらおらも!新聞配達ばして、半分金を入れるがら!」


嘉男までそんなことを言う始末。

赤子のことで仕事ができなくなってしまう芳江は再び申し訳ない気分になっていった。











「おらは芳江を悲しませる天才なんだべか?」

正一は芳江が風呂場に行ったのを見て、湯舟に浸かったころを見計らってから引き戸の向こう側から声をかけた。


「・・・・・・・・・・・」

「家建てるって言ったからか?金の不安あるのが?」

「いいえ」

「じゃあなんで嘉男みたいに喜ばないんだ?」


正一は芳江の態度がいちいち気になってしまう。

たいていの女は喜ぶはずだ。


新しい家をどういう間取りにしようかとか、台所の流しは大きいのがいいとか。

夫婦の部屋にやっと花嫁道具のタンスが入れられるだとか。


そういう話に発展するだろうと思っていたのに、暗い表情ばかりする芳江が気になってしょうがない。



「自分はなんの役にも立てないと思ってしまって」

「・・・・なんでよ。命かけて子供産むべ。それで十分だべよ」

「そうですけど」

あなたが真に求める存在ではないのに、そんなに大事に思ってもらっていいのだろうかと芳江は遠慮してしまう。



「・・・前にも言ったべ?浜のかかぁは笑ってねーどだめよ。そんでながったらおら不安になって船から落ちるじゃ」

「そ、それは、ダメです!!」

「ははは!んだべ?素直に喜んでくれや、あんた人前では笑うくせに、おらの前だら悲しそうだもんな」

「・・・・すみません。無意識でした」

「———まあ、明るく考えるべ。立派なの建てでよ、孫の代まで住んでもらうべし。なっ!」

「・・・そうですね」

「んだら、風呂上り気いつけれよ。先に寝でっからな」

「はい」



夢でゆきちゃんが勝手に出て来るだけで、正一が心の奥底から彼女を求めているとは限らない。


”病気みたいなもんなんだ。こまい時がらその人と結婚するって思っでだがら”



小さいころから潜在的に埋め込まれたようなものだろうし、知らずのうちに夢に出はするが、それから醒める頃には忘れているという可能性もある。




それが事実かもしれない。

そう証明するように優しくしてくれるし、ああやって自分の変化に敏感に気づいてくれるではないか。

それならば、自分が落ち込んでいてもどうしようもないのではないか?


起きているうちは誠実なのだ。

妊娠中に夫婦生活がまともになくとも、違う女を抱いている様子もない。


それならば、幻みたいな存在に妬いてもしょうがない。

浮気をしている訳ではないのだから。


風呂場から見える月を眺め、芳江は一つの誓いを立てていた。









「こんばんわ、お兄さん」


「こ、んばんわ」


「カワイイ子ねぇ?————本当に初めてなの?」


「———初めてなんです」



守也は働きに来て早々、勤め先の先輩たちに連れられて夜の歓楽街に来ていた。

東京は高いビルが立ち並ぶ大都会になっていた。

いつか見ていた絵葉書の中の浅草とは全然違う都会的な雰囲気に、居るだけで酔いそうになる。


鰹節工場は地元と似たような漁村にあったので、こんなにビルが立ち並ぶ光景には慣れていなかった。


しかも、出稼ぎ先の先輩たちの計らいで、密室に女と二人きりになってしまったのだ。


今まで兄の正一と出稼ぎに来ていた守也は、飲み会から色街に流れていく男衆を見送るだけだった。

結婚する前は正一もその流れに乗っていったとよく聞くが、自分と行くようになってからは芳江と結婚していたので一度も見たことがない。


そういう事もあって、守也がその方面へと足を踏み入れたのはこれが初めてだった。


「そいつ、初めてみたいだから、教えてやって」

先輩方々にからかわれ、一人の女が微笑みながら守也の手を取り、この部屋にやってきたのだ。


個室には大きな洋風なベッドがあり、明かりはキャバレーみたいに控えめかつ、魅惑的な色を放っている。


そのフカフカなベッドに座る自分の足元に正座している女も、部屋の雰囲気に相まってどこか艶っぽく見えてくる。



「いいのぉ?こんなところで。好きな子いないの?」

「いるけんど、ダメなんだ。———好きになったらいけない人なの」

「・・・・そっかぁ、じゃあおねえさんが慰めてあげる。———手を出して」



素直に手を出せば小さくて柔らかい手が、ゴツゴツとした守也の手を包んでくれた。

その柔らかさに緊張が解れていくのか、顔を緩める。



「・・・やわけいな」

「「やわけい」ってなにぃ?」

「柔らかいってこと」

「そうなんだ、やわけいって言うんだね?どこの人?」

「北海道。東のほう」

「ふ~ん」


女は手をさするだけで何もしない。

守也は何をすればいいのかわからず、女に問いかけた。


「おら、やり方もなんも知らねえんだけどさ、どうせば女の人は喜ぶの?」

「そんなの簡単よ、あなたがしたいようにすればいいの」

「・・・・本当に?おらが知らないからってからかってるべ、お姉さん」

「本当だよぉ。あー、でもね、相手によるかなー」

「相手?」

「うん、好きな人だったらね、なにされてもいい気分になるよ?ああこの人は私の身体で興奮してるんだ―って嬉しくなるしね。逆に嫌いな人なら何されても濡れないわ」

「本当が?女はこここうしたら誰でもよくなるんでないの?」

「あ、んん・・。なるけどね、最後までは難しいかな」

「じゃあ、あんたみたいな商売人はどうしてんのさ」

「そりゃあ、一人前の娼婦だもの、上手くできるわよ」


握っていた手にキスをされると唇の柔らかさにドキリとした。



「口づけもしたことないの?」

「なんで、わがるの?」

「だってぇ、もうこんなになってるもの…。口でしてあげようか?」

「く!口でぇ?口でなにすんの」


怯えたように声を張り上げる守也に娼婦は笑いが漏れた。


こんなに顔つきの良い男の子なのに、これを使って遊ばないだなんて…。



よほどその想い人に気持ちを囚われていると同情した娼婦は、そのゴツゴツとした男らしい手を自分の胸へと導いた。


「・・・人の身体がこんなにやわけいことある?」

「うふふふ、きもちいい?」

「うん」

「いっぱい触ってもいいんだよ?———吸ってもいいし好きにして」



女が守也の上に跨いで座ると、上半身の薄い下着をまくり上げ、大きく実った乳房を彼に差し出した。


ツンと上を向く頂だけを見れば芳江のそれによく似ていた。


薄目になった守也が色っぽくそれを口に含むと、初めてとは思わせないほどの光華を放つ。

舌を上手に使って転がし始めた。



「・・・ああ、うん…気持ちいいよ。凄い、男前な顔つきだ」


「合ってる?」


「合ってるも何も、その顔だけでいってしまいそうだわ」


「顔のことはいいから、もっと教えてよ。どうしたら気持ちいいの?」



素直な守也に娼婦もたまらなくなって頭を抱いた。彼の希望通り手取り足取り教える。

本来なら女が男に尽くす場所なのに、ここの空間だけは反対になっていた。



「————ああ・・・もうだめだ・・・こんなすぐ」

「いいのよ」



思ったよりももたない自身に落ち込めば、女がそこを綺麗になめとってくれた。

覚えたての感覚に、また疲れを知らずに大きくなっていく。


「ああ、ごめん!まだ足りねえみたいだわ、放してけれ」

そういうのに、女は咥えたまま守也を見上げる。


光悦に微笑んだ表情をされて、もう一度彼女の喉奥に欲望を放つ。


息を切らせてベッドに倒れ込む守也を、女は優しく包み込むように抱いていた。



どこか守ってあげたい気になってしまうのだ。

女にとっても客に対してそんなことを思うのは初めてのことだった。




「———名前は?」

「しずる」

「偽名だべ?」

「ううん、私は静留なの。———また来てねおにいさん。わたしあんたのこと気に入っちゃった」

「おらも。———また来るわ。今度はもっと頑張るから」




ウブな言葉に静留は微笑んだ。

本当は頑張らなくても、こうやって話していたほうがいいのにと心の中だけで思う。


「そう、楽しみにしてるね」


初めてを経験した守也は、これでどこか正一と対等になれるような気がしていた。













十二月の雪が降る夜。



街にある産科医院で芳江は赤ん坊を生んだ。

陣痛が始まった朝から二晩もかかったが、在中している産婆と医師の手助けもあり無事に産むことが出来たのである。


汗まみれな芳江は、元気に泣く自分の子に安心して涙を零しその子を胸に抱く。

初めて自分の乳房を咥えようとする仕草が可愛くて、両親である正一と芳江は顔を見合わせてほほ笑んでいた。


芳江がその子を恐々と正一に手渡すと、手慣れた手つきで自分の子を抱き上げる。


「よくやったな、よく頑張ってくれた。——元気な女の子だじゃ・・・。めんこくて泣けてくるな」


正一は今までないくらいの優しい眼差しを向けながらその子を抱いていた。

雪が降っていたはずなのに、産まれたらぴたりと止み、綺麗な月が顔を出した夜。


そんな夜に生まれてきた女の子は「美月」と名付けられた。





出産から五日目になって産院を出た芳江と美月。

迎えに来た正一と一緒に家に帰れば、待ちわびたように嘉男と正則が飛んできた。



「うわ~!めんこいな!おらこんな小っちゃくてめんこいの見たごとないわ!」

「おおう~、本当だな~!いや~ジジだど~?わがるが~?」


家の中は一気に明るくなるようだった。

芳江も赤ん坊の性別が女とあって、自分の味方が増えたように思えていたのだ。




女手がいない産後は大変なことになると予想していたが、近所の女たちがそれを見越して手伝いに入ってくれた。

姑がいないうえに実家にも里帰り出来ない芳江は”非常時”であると判断してくれたのだ。


炊事や洗濯などを自分の家のように請け負ってくれ、帰り際には赤ん坊を抱いていく。

その愛らしい顔つきに皆が夢中になっていた。




「わ!三四郎!!何しに来ただ!おめー、芳江さんの乳見に来たんだべ!」

「ああ!!いでいで!なにすんだよ、赤子の顔見に来ただけでねーが、やきもちやくなじゃ」

「誰がお前なんかにやくかよ」


年頃の娘は三四郎の耳たぶを思いっきり引っ張り上げ、授乳中の芳江が見えないようにと襖を急いで閉めた。



「なんだってよ、おらはこの干し芋持って来ただけだど?」

「おう、悪いな三四郎!」

「なんだや、正一が俺に笑って礼いうのなんか気持ちわりーな」



工藤家は連日のように客がきて、その都度に祝いの金や祝い物を置いていく。




この日は左隣の三四郎が客人で、右隣のハナが手伝いに入っていた。

正一は客人である三四郎と茶の間で干し芋を食べながら談笑していた。


ハナが気を利かせて、授乳中の芳江にも干し芋とぬるめの番茶を淹れて、小さく開けた襖から差し出した。


「ハナちゃん、ありがとうね」

「ううん、うるさくしないように見張っておくからね」

「うるさくてもいいのよ。この子は人の話し声がする方が安心するみたい」

「本当だ、気持ちの大きい子だね。じゃあ芳江さん、わたし晩御飯の支度したら帰るからね」

「ありがとう、いつも悪いわね」

「ううん、お互い様だから~」


昆布の仕事と違い、気軽に手伝いに入ってくれる近所の人達に芳江は感謝していた。

この時期は年末年始を控えているだけで、これと言って急ぎの仕事はどの家にもない。


なので婦人部の女たちは各々、時間が空いた時に家事を手伝ってくれるのだ。


民子は居ないし女将の義母が来るはずもないから、と入院中は不安だったが、その不安は退院一日目で安堵に変わった。



簡単なおかずを作り、最後にガス釜の炊飯スイッチを押したハナが家に帰ると、三四郎も腰を上げた。


「んだら俺もかえるわ。—————ああそうだ、おめえんとこ家建てるって?」

「随分情報はえーな、嘉男だべ」

「んだ、ここら辺みんな知ってるわ」

「まだ決まったことでねえけどよ。守也にも相談してねえし」

「守也にが、————あいつも可哀そうだな」

「仕方ねえだろう、守也をここに繋ぎとめてるように見えるかもしれんが、あいつもここに居るって言ってくれてんだ。いづれはあいつの嫁っこも一緒に住める家になればいいと思ってる」

「————ははは、そんな意味じゃねーんだがな。まあ!お前らしくていいわ!」

「なんだよ、なんか違う意味があんのが?」

「いやいや、ないない」


逃げるように引き戸を開けて出ていく三四郎を、追いかけ外に出た正一はなおも問い詰めようとしていた。


そんな正一を振り払うかのように違う話題をふった三四郎。


「あ!そいえばよ、あいつ、みたど。あの子だ・・・分かるべ?」

それはかつての婚約者だった雪路で間違いがないと悟った正一は、何となく引き戸を閉めて声を潜めるように先を促した。



「…雪ちゃんが?———どうだった?元気そうだが?」

「ん、暗い顔してたけどな。何とか生きてるんでないか?子供連れて街の神社に来てたわ」

「神社?———そうが」


「袴着てんのが童だったがら、五つの祝いだべな。姉ちゃんっぽいの二人もいたど?んで、手ぇひいでるおんた(オス)と背中におぶってたのはどっちがわがんね。———まあまあ、大した子だくさんだったでや。嫌々嫁に行ったわりには旦那とやる事やってんのな」


「————そうが…。でもいがったべよ、子供沢山出来て」


「いやあ、どうなんだべか?幸せそうに見えるのは隣にいる旦那だけでよ、その旦那がまだ白髪交じりのじじいなんだわ。雪路とは逆に晴ればれとした顔してたわ。あれだら本当の嫁奴隷みたいなもんだもな」


「”嫁”奴隷?」


「ああ、あんましいい男に見えないもんな。顔がタコみたいで口が尖っててよ、アレだら嫁も来なかったんだべ。んでも金はあるさな、若海松の隅ったら大きい網元だもの。金に困んねえのは、いがったんでないか?」


「そうが・・・」


正一があからさまに落ち込む様子が面白くて、三四郎はなおも続ける。


「女の子は雪路に似てムスって顔してるし、息子たちは親父そっくりだったわ。いけねーって思うけどわらわさるもな」


「———んなごというなや、意地悪いな」

「ああ?なんだ?雪路のかた持つのが?まだあいつに未練あんの?あんな気立ての良い綺麗な嫁っこ貰っといて、そりゃねーべよ!」

「うるさい!声が大きいわい・・・やっと帰れや」

「嗚呼こわこわ。昔から雪路の話になったら正気じゃない目するもな。今でもそんな目で睨むんだな?」


そう言われて正一は目を反らし家に戻ろうとして引き戸に手を掛けるが、三四郎は追撃の手を止めない。

普段から馬鹿にしたような発言をしてくる正一に仕返しをしたくて堪らないのだ。

窓に影が見えたような気がした。


きっと壁に芳江が張り付き、聞き耳を立てていると三四郎は予想していた。



「おめえ、夏の間あの島を眺めてぼうっとしてるべ?」

正一はその言葉に固まる。


「よく雪路と行ってたもんな。乳揉んだり吸ったり、———ここを擦り付けたりよ!」

後ろから正一のいちもつを握った三四郎は笑いながら自分の家へと走って逃げていった。


「うっせーな!!早ぐ帰れや!!」

「あははは!いまでもあいつの乳が恋しいのが?!ああ?」


こんな会話を芳江に聞かれたら大変だと焦るが、乳をのませた後はいつも赤子と一緒に眠っているから大丈夫だろうと気を取り直す。


だが、そう思う時に限って芳江は起きて土間に立っていたのだ。

引き戸を開けた瞬間、悲しそうに眉を寄せる芳江は今にも泣きそうな表情をしながら、焚けた白飯を”かまかして”いた。


「寝てなかったのか?」

「ええ、ごはんが焚ける音がしましたので・・・・」

「三四郎の話、気にすんなや。あいつはまったぐ、どうもなんねぇな」

「————べつに、気にしていませんよ。気にしているのは正一さんでしょう?」

「———ああ?」


最近は産後の疲れもあって芳江は心の中で我慢できずに口に出てしまう。


言った後に後悔するも、正一の耳にはしっかりと聞こえてしまった。


「おぎゃ~おぎゃ~」


間合いよく泣いてくれた美月に芳江はほっとして、また寝床に戻って行く。






「・・・・なんだっていうのよ」

正一は普段はしない晩酌をしながら、三人の帰りを待っていた。


今日は守也が出稼ぎから帰ってくる日であるため、正則と嘉男が駅まで迎えに行っているのだ。


雪路のその後を聞いて、気持ちのざわつき治まらなかったのと、今でも心に残ってる密かな想いを芳江に気づかれたようで落ち着かなかった。

そんなこともあって自ずと酒の量が増えていく。



「なんだよ兄貴、酒呑んで。そんなんで芳江さんほったらかしてんでないべな」


正一が酒に潰れて寝ていると、いつの間にやら帰った守也がまじまじと中腰で覗き込んでいた。


「―――たまたまだ。いっつもこんあことしてねぇわ」


すぐに弁解したが守也はそんな返事を聞くことなく、美月を抱っこしている芳江の元へと駆け寄っていく。


「あー!いやいや、めんこいな!!芳江さんそっくりでねーが!おい!美月、守也おじさんだど!お土産持って来たからな、後で母ちゃんに着せてもらえや」


「ありがとう、守也君」


「いやいや~、なんもだー。それにしても、親父はなにしてんだ、酒かっくらってよ。しっかりしねーばだめだべや」


「うるせいわ、ほっとけじゃ」



自分には微笑まないというのに、守也の前で満面の笑みを浮かべる芳江。

正一はその光景を見たくなくて目を閉じる。

そうしたら、瞼の裏に昔の記憶が映し出されてくるのだ。

雪路が正一によく見せていた恥じらいの混じった笑顔だ。


芳江は誰の前でも幸せそうに笑う。

だから自分じゃなくても良かったのではないか?


そうなれば、自分だけに尽くしてくれていた存在を正一は脳裏に思いだしては過去に浸る。



三四郎の話では、今でも悲しい顔をしているという。


やはり、そうだった。

雪路を幸せそうに笑わせられる男は、この世でただ俺一人だけだった。

俺ならば、そんな祝いの日に暗い顔などさせなかったのに。


子供らと雪路を楽しませ、一生に残る思い出を作ってやることができたのに。

なんで、なんで、そんなタコみたいなじじいにとられなくちゃいけなかったんだ?


愚かな男は酒に酔い、そんなバカげたことを考えては自分の生い立ちを責めるように酒を呑み続けた。

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