第三章 呟く名前

第6話

「母ちゃんどうしてかえってこないの?」


嘉男に問いかけられて芳江は返事に困る。

こんな時、紀子がいてくれたらと何度も思うが、紀子はもういない。

先月、内地のほうに上京していったのだ。


民子に上京資金の大半を使われてしまったが、芳江が貯蓄を補填する形で寮に入る手付金は支払うことができた。


その他、家族が付いて行って生活に必要なものを買い揃える予定だったのだが、そこまでの資金はなかったため、紀子が一人で行くことになってしまった。

民子の姉が、使い込みの金を随時支払いしていくことになってはいるが、最初の送金はまだされていないようだった。




民子が家を出る時、嘉男だけは連れていきたいと話していたが、正一がそれを認めなかった。


「家族を裏切ったやつに弟は渡さない」それをぴしゃりと民子に言い放ったのである。





「お別れくらいさせてあげたら良かったですかね?」

夜になって寝床につくころ、二人きりの部屋で芳江が呟く

「なんでよ」

「そうしたらお互いに諦めがつくでしょう?」


いろいろあっても母親なのだ。

嘉男にきちんとサヨナラをさせてあげたかったと思うが、正一は鼻を鳴らして笑うだけだった。


『そんなことしても余計に悲しませるだけだべよ』

いつもならこう言って会話を続けるかもしれない。


でも、正一は一笑するだけでその話題を終わらせた。

もうどちらにしても、民子は道北の方へと帰って行ったのだ。

今さら何ができるんだ、と。

そう思うだけで、正一の中では後悔など無いに等しい。



「それより、麻井(実)のところに行って金返してもらわねーと。まさか泣き寝入りするわけでねーよな?」

芳江は色んなことが起こってしまった今、それが億劫に思えてしまってた。


確かに三万のお金をネコババされたのは腹立たしいが、みのるが飄々と知らないふりを通すつもりでは苦戦するのが目に見えている。


「ごめんなさい、私の管理が至らなかったせいでご迷惑かけます」

「・・・誰が迷惑だって言った?」

「え?」


「俺はお前の夫なんだぞ?妻が金とられたってのに、黙ってる亭主がどこに居るんだ?」


それを聞いて何も言えなくなる芳江は、暗がりの中で光る正一の目が怖いと感じていた。

なにより、訛りがない起り口調はどこか冷たく感じる。


「———こっちこい」


手を引かれて外へ出る。

連れて来られたのは昆布倉庫だった。


雨避けで使う藁を編んだ敷物の上に芳江を寝かせると、いつかのように乱暴に分け入っていく。

最近は丁寧に口づけを施してくれてたのに、初夜のような扱いを受けていた。


冷たい板の上にむしろを数枚ひいただけのそこは、正一が身体を打ち付けるたびに腰が痛む。



でも、男を覚えてしまった芳江のそこは、正一を十分に迎え入れていた。

「・・・なんだよ、ここは素直なのに…。何でおめえは‥‥俺を頼らねえんだよ…。————夫婦でねえが」

「んんん…———ああ!」

「そうだ、声出せもっと、もっとよ・・・」


正一はそれからも芳江を泣かせ続けた。

自分の頭から何かをかき消すように。




「—————ゆきちゃん」




芳江がその呟きを聞いたのは床に帰って暫くしてからだった。

顔を覗けばしっかりと寝ている。


悲しそうに顔を歪めて呟くその名前が、芳江の頭の中で何度も木霊する。

彼女に負けたくないと無意識に思う自分は、この人を愛してるのだと自覚する。


でも、この人が心の奥底で求めているのは自分ではない。

それが悲しくて、声を出さずに泣き出す芳江。


彼女は朝方まで枕を濡らし泣いていた。


小さくすすり泣くその声は正一には届かない。


でも、唯一、守也の耳には届いていた。







「ねえさーん!オヤジー!こっちだこっち!こっちにいっぱい昆布よってるわー!」


朝一番の砂浜に守也の声が響き渡る。

元気に声を上げたあと、二人を待たずに海に入っていく。


頭から打波をかぶりながらも、漂う昆布へと向かっていく守也。


「張り切りすぎて溺れんなや!」

それに並んだ正則が息子に張り合う。


「親父こそ、もう50だべ?無理すんなや!!」

「言ったなコノヤロ、オメーより昆布取るかんな!」

「ハハッ、んなの無理だべ!!」


春の陽気に包まれた浜で、兄弟みたいに張り合う二人を、芳江は微笑みながら見ていた。




正則は妻を失ったことで落ち込むと思いきや、逆に心が少し軽くなっていた。

民子はもう自分の知っている人ではなかったのだ。


ここの地に初めてたどり着いた時、涙を流しながら自分に抱き着いて泣いていた民子はもう居ないのだ。




「正則さん、家族を守ってくれてありがとう。生きてたら何でもできるよ、大丈夫…。んだから――――あの人らの分まで一生懸命に生きようね」


島から本土に着くまでの間、助けられなかった命の終わりを何度も見てきた民子はそう呟いていた。


だが、命があるものの、今まで上の立場で指示していた人間が誰かの元で働くことは難しい。

どうしても企業の社長だった時の見栄が抜けきらないのだ。


あの時代、あちこちから引揚者や徴収兵たちが本土に帰ってきて人が溢れていた。

身寄りの無い者など、雇用を求めて北海道に移住することも珍しくなかったのである。

そんな時代風景の中、多くある仕事と言えば体力的にも精神的にも辛い仕事ばかり。


当時40を迎える正則が10代の若者のように木枠で出来た重いモッコを背中に背負い、その中にニシンやイワシを入れて船から荷揚げすることなど無理に近いが、そういう仕事しかなかったのだ。


そればかりか、少し名の知れた正明も正則を置いて地元に帰ってしまった。

島では缶詰工場の社長だったと言っても、表仕事をサボっていたこともあり、知名度がない。

それにより、身元が知れないというだけで偏見の目があり、より一層に何処かの職に定着することは難しく、引き揚げて数年は食べることもままならないほど生活が苦しかった。



そんな背景もあり、先にくじけたのは正則だった。

父親に見捨てられ、仕事も上手くいかずに逃げ出した。


酒を煽っては息子たちや民子に手を出した分際で妻を責めることは出来ない。


でも、それでも商売人の女は買っていたが、違う女と恋などしていないし、貢いでもいない。


男の勝手な解釈かも知れないが、その辺がどうしても正則は許すことが出来なかったのである。

真相が明らかになって、やっとけじめをつけることが出来たのだ。







質のいい昆布をいっぱい採ったのは守也で、2番目は正則。

でも量だけでいったら芳江が一番だった。


浜に上がれば少しだけ心落ち着く。

あとは採ってきた昆布を干せばいいだけだ。


「正一は、今日行ったんだべ?」

「はい」


正則はみのるが以前から身の丈に合わない買い物をしているところを何度か見かけたことがあった。

色街で女を買う前に手土産まで用意して入っていくのも何度か見かけていたのだ。


もうすぐ子供が生まれるというのに羽振りが良すぎる。

もしかしたら、なんて推測をたててはいた。

芳江とみのるが喫茶店で金のやり取りしている様子も見たことがあるからだ。


もしやと思うこともあったが、親戚になってつき合いもあまりない分、よく知らない相手にそう思うのは良くない。

芳江にはそれとなく忠告まがいなことをいったが、全くその通りになってしまうとは…。


自分の居場所を作ってくれた嫁を悲しませたくはなかった正則だったが、結局は何もしてやれなかった。




正一は組合に行って紀子に仕送りしたり、夏から始まる昆布漁の準備に忙しい。

それに加えて、みのるのところにも通っていた。


『おら一人で行く。お前はしんどそうな顔してるから休んでおけ』

あまり乗り気じゃない芳江を気遣う正一の言葉は優しかった。


でも、どこか裏があるのではと勘ぐってしまう自分を芳江は恥じる。


意識のないところで求めている人に嫉妬してもしょうがない。


そう自分にいいかせるようにしていた。



「もう櫓も撤去したし、もうすぐで棹前昆布漁も解禁だな」

「今年は二人いないから、大変かもな」

「そんだなー、紀子がいねーのは痛手だな」


ここら辺の子供たちは、時期になったら学校を休んで昆布作業をさせられる。


嘉男も余程仕事が落ち着く九月ごろまで、学校を休みがちになる。



これは、ここの地域だけで黙認されてきた歴史があり、学校の教師たちもそれについて強く抗議や反対をしてくることはなかった。


昆布の仕事は家族でするものと決まっていたため、想像以上に多忙を極める。


それに加え少し前までは、授業の半分は”運動”の授業として、グラウンドを切り開くこともさせられていたのだ。


この時代、子供らがそれらしく過ごす権利など、どこにもなかったのである。


同時に子供の教育という部分を軽視されてきた。


親が子を想う気持ちが薄れてしまうほど、皆が生活に困窮していた時代であった。


「芳江さんもだいぶ慣れたし、頑張るべやな。」

「はい!」


悲しいことがあった一家は、夏に向けて新しい一歩を踏み出そうとしていた。






一方その頃、前に進むことができない男は、一つに事に固着していた。


麻井みのるを勤め先の銀行から近くにある喫茶店に呼び出し、テーブル越しに向かい合う。


正一はまだ諦めていなかった。



「あなたもしつこいな、知りませんって言ってるでしょう?」


「おめぇも大概にしとけよ。ここに買い取り伝票あるんだど?これと照らし合わせれば七万くらいの貯蓄があってもおかしくねーんだ。————いい加減白状しないと、警察につきだすぞ」


「・・・・へぇ、そんなことしていいんだ?こんな事、言いたくないけどさ———、おたくさんだって金に困ってるんでしょ?」


「ああ?」


「あなたの母君様がせっせと大野家へと足を運んでいたみたいですよ?金の催促されるとか女将が愚痴をこぼしていたみたいですけど?」


「………それとこれは話が別だべ。みんなそれぞれ財布持ってんだ、あいつの金と芳江の金は別勘定だから」


「でも、そんな話が一般的に通じますかねー?どう見たってあなたのお母さんが怪しいっしょや」


「———いい加減にしないと、お義父さんを交えての話し合いにするど?いいのが?」


「別に、いいですよ僕は。そもそもあなたの家がごたごたしているから、芳江ちゃんは僕を頼ったのでしょう?なのに酷い言い草だ」


相変わらずみのるは悪びれもなく正一をバカにしていた。

いよいよとなってもそのくらいの貯蓄はあるので金を返すことはいつでも出来る。

だけど、どうしてもこのいけ好かない男の情けない部分を晒してやりたかったのだ。


色男なだけであとは何も無い空っぽ男だという事を。


それをどうしても妻の幸恵に見せつけて見返してやりたかったのである。


「また今日も来たんだよ。懲りない人だ」


「————本当に正一さんがそういうことするの?そんなゆすりみたいなこと」


「そうさ、漁師なんてものはチンピラみたいなものと変わらないんだよ。芳江ちゃんが哀れだね」


「————私の前で芳江の話なんかしないでよ」


「ごめんごめん、気に障ったかい?」


「聞くだけでもイライラするの、————本当に目障りな子」




幸恵は芳江を嫌っていた。

いきなり妹だと紹介された時からよく思っていなかった。


それもそのはず。

自分の母親が悲しむ原因が芳江の母が原因だと知っていたからだ。


父が時々いなくなる日は、母が寂しそうに泣いている事を幸恵を始め大野の弟達は知っていた。


もう一つの妻と子がいる家庭を父親が持っていたことで、母の涙の意味を知った幸恵。


いつしか芳江には知りもしない恨みが募り、負けたくないと思うが為の対抗心が芽生えていった。


年頃になると自分は次期女将としての修行が始まったが、なぜが仲居として下っ端で働く芳江の方が人望が厚く皆に慕われていた。


そればかりか、近所でも有名な色男に恋した時も、その男は芳江を好いていた。



”あの子は妾の子で、母親にそういう商売のまねごとをされていたみたい”


そう言ったらその男は芳江を諦めていたけど、だからといって自分を見てくれはしない。


その時感じた悔しささえも芳江のせいにしてしまう幸恵は、芳江への劣等感を感じながら大人になっていった。


しかも夫のみのるは何かと芳江を気遣う。


妊婦の妻を置いて、同僚たちと頻繁に飲みに出かけるくせに、たまに見かける芳江が顔色が悪いだの、痩せてしまってだの、一々心配するのだ。

みのるからしたら、夫である正一が妻を養えていないと幸恵に知らしめたいだけだったが、幸恵にはそういうふうに伝わってはいない。


妊婦の妻の体調不良より、芳江の生活の苦しさを心配している風にしか見えなかったのだ。


それ故幸恵は、その差は何なのかと苛立ちが募っていた。








「今日もあいつにあったけどな」

正一は寝床で力なく話す。


「なんだがよ、バカにしてくるだけで真面目に話そうともしないわ」


「そうでしたか」


「しかもあの母親ババが大野の家へ通って金の相談していたらしい。」


「———もう、いいのですよ?私の管理が甘かったせいですし、勉強代ということにしませんか?」


「———諦めるなや、もう一回行ってみる。んでよ、それでも応じなかったら父さんに声をかけようって思ってるんだ」


それを聞いた芳江は不安になる。

もしそうなったら、女将や幸恵の耳にも入るはず。


ますます彼女らに忌み嫌われそうな予感がしたのだ。


でも、夫が自分の為にしてくれると言い聞かせた。


「・・・正一さん、ありがとう。いつもこんなことが起った時は諦めてばかりだったけれど、正一さんが頑張ってくれて心強いわ、私」


「んなことねぇよ、あんたが逃げ出さねえで頑張ってるからよ、おらもなんかしてやりてぇって思うんだってば。———散々な両親ですまねがったな」



芳江はそう労わってくれたのが嬉しかった。段々と正一という男が分かってきた気がする。


いつも他人にはいい顔ばかりしかしないが、妻の前では自分の気持ちに素直なのだ。良くも悪くも。


言葉を交わせばその人物像が見えてくる。

異性との付き合いがなかった芳江にとってそれは新しい発見だった。


ふすまの向こうで正則はその会話を聞いていた。


自分たちのせいで、息子夫婦にも迷惑をかけてしまった。


民子の異変に気付きつつも、それを放っておいたせいだと。








「芳江さん、今日も家借りていいか?」


「はい、また行くのですか?」


「うん、最近は街も変わって来たからの。今のうちにあちこち撮れば価値も出るだろう」



正則は次の日から、夜の街にカメラを持って出かけるようになった


夕方に出て、朝のバスに乗って帰ってくる。


そんな日を続けて10日目の夜、ようやく正則が狙っていた”標的”が色街に現れた。



手にしているカメラは、島から持って来た古いものだが、それでも東京から取り寄せた一等品のもの。


正一や正則がきちんと手入れしていたそれはちゃんと記録をとることが出来る。


正則は待ち構えていたものに向かってカメラを構えた。


みのるが仕事帰りに色街へと寄っていたのだ。


妻には『お得意さんの接待がある』と嘘の電話を入れていた。


先日、男の子を出産した幸恵は寝不足になりながらも頑張っているのにと思うが、仕事では仕方がないと諦め、出来るだけ早く帰るように返事をした。


夜中に少しだけでも抱っこして夜泣きの辛さを分け合ってくれたらいいのに、実は息子の泣き声が聞こえないかのように熟睡するばかりだった。


実の行き先は妻に話していた呑み屋街ではなく、女を買える色街だ。今日もお気に入りの女を指名できるように、芳江の金を使い宝石店へと寄り、ルビーのイヤリングを買う。


今回奮発したのはもうこれで金をすっかり使ってしまいたかったのと、ここへと足を運ぶのはこれで最後だにしようと決めていたからだ。


幸恵が出産したとなれば夫婦生活も戻るだろうと。

なので、今まで”世話”になった女へと感謝する気持ちを込めて高価な贈り物を選び、それを手に店へと向かう。


店先で出迎えてくれた商売女にそのイヤリングを見せている時だった。


パシャっと音がして、何かが光ったのだ。



「おーおー…これはこれは、麻井さん!お久しぶりです!」


みのるは一瞬固まった。

手にはルビーのイヤリング、腕には商売女が絡みついている。




その状態でカメラを構えた正則にシャッターを切られたのだ。



無論あの角度じゃあ色街特有の艶っぽい看板も入っているだろう。

そういう位置に正則は立っていて、シャッターを切ったのである。


「いやあ、この辺も最近ビカビカと電気の看板が目立ってきたでしょう?特にこの辺は凄く派手で見栄えするんですよね~。私も息子も写真が趣味なんですよ~。”記録”に残しておこうと思いましてねぇ。ほら、さっきもね○○宝石店の立派なビルも撮ったんですよ?そうしたらあなたが入っていくところでねえ、出てくるときも偶然撮れました。————写真が出来たら、麻井さんの家か女将のいる旅館に持っていきましょうか?」


「———…やめてくれ」


みのるは力なく言葉をこぼす。



そんなことをしたら幸恵に何を言われるか分からない。せっかく息子も生まれたというのに、離婚を突きつけられるのもまっぴらだし、娘を溺愛している女将にやっとのことで気に入られているというのに、そんなことがバレたら何もかもを失うだろう。


大野旅館の資産のおおむねを、自分が勤めている銀行に移し替えてもらったばかりなのだ。


それにより昇格もしていたみのるは、その写真の重要性が痛いほど身に染みていた。


「————ああ。そうですか…。では、また息子があなたに会いにいくような話をしていたので、どうぞよろしくお願い致しますね。————いい土産話が息子から聞けるといいのですが…」



正則は至近距離まで詰め寄って凄んで見せた。

頭一つ分背が低いみのるに向かって睨みをきかせる。



「———わ、わかった、分かったから、それ、か、勘弁してくれよ!!」


みのるはそう言ったかと思うと慌てたように走り去っていった。




「————客が減っちまって悪かったな。俺が代わりにアンタを買おうか?」


「ええ!いいのかい?お兄さんだったら大歓迎だよ!それにあのヒトねちょっと癖あって嫌だったの、威張ってくるしみんな大嫌いで私に押し付けるんだよ?酷いでしょう?」


「あっはっはっは!それは散々だったな。———どら、したら俺が慰めてやっか」


「いや~~、こんな色男だら、なんか緊張しちゃうね~~」

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