第5話

「守也兄ちゃん?仕事あんでしょ?もう起きてご飯食べてよ」

「・・・んあ」

「なにその返事。わたしもう学校行くからね」



パタパタと土間を急ぎ足で歩き、引き戸がぱたんと閉まる。

家の中は静かだった。だるま式のストーブだけがパチパチと音を立てる。

嘉男は小学校に行き、正則は外で芳江の代わりに昆布を拾う。


守也がやっと起きて水場へ行き、井戸水を溜めてある樽の蓋を開け、柄杓で水を掬くいのどを潤す。



『今日は風が強いけど、日があるから暖かいわ』


いつもなら朝一番に芳江の声がするはずの土間は、今日も静まり返っていた。

紀子が用意したみそ汁と白飯と卵焼き。

それにニシンの飯寿司を食べようと漬物樽の蓋を開けたら底が見え始めていた。



「————いつになったら君は帰ってくるのさ」


『他の女を探せ』

そんなこと言われても守也には到底無理な話だった。


二人の兄達や弟の嘉男のように社交性がない守也は、孤独になりがちだった。

ロクに気の合った友達もいなければ、気を紛らわせる女もいない。


何よりも今は芳江のことで頭がいっぱいで、他に何も考えることが出来なかった。


彼にとっていま出来るのは、人として最低限のことをやり過ごしていくしかないのだ。

雪が解けても凍らなくなった砂浜は水分が多いため、海に向かって流れる水の道を作っていた。


雪解けの季節、地面が柔らかくフラフラとした歩きごこちは、自分の弱さを象徴するかのようにこころもとない。



守也は強くなりたかった。気持ちを強くして彼女への恋心を完璧に隠し通す。

そうしてでも側に居たいと。



父親にこの気持ちを悟られることなく、芳江の側で彼女を感じ。

一緒に笑うために、気持ちに蓋をして誰にもそのことを悟られないように。

そういう大人になりたいと願っていた。







「まあだがぁ?まだそんなに獲れてるってが?」


”そんだってー、今度はコマイだぁ”


「わがったでや、からだ気をつけろ」


”うん、わるいね”



正則の返事を聞くや否やガチャン!と電話を切ってしまう民子。


「奥さん忙しいんだなぁ?『正社員』だもな」

「ああ、そうなんだ…。タバコけれ」

「おう、エコーだよな。65円」

「まだ値上がりしたのが?」

「ああ、最近は物価の上昇が激しいわ。貯金してもなんもなんねーってよ、金塊に変える奴がいるぐらいだ。あと着物とか物に変える人もいるらしいわ」

「・・・・へぇー」


正則は長篠商店の店主と一言二言話すが、カラ返事ばかりで上の空だった。

最近の民子の行動について、目に余る行為が目立つからだ。

民子は工場の正社員になったのだから、送迎バスで帰ってくる女衆と一緒に帰れないと言い張る。


季節雇用と正社員は就業時間が違い、残業もすべてしなければならないというのだ。


でも、かつては人を雇っていた正則には嘘だとすぐに気がついた。

民子は夏の間、息子たちが採ってくる昆布製品化作業に追われ、工場を休みがちになる。

年間決まった日数と就業時間に達する実績がなければ正社員にはなれない。


去年は昆布作業をしていたのだから、実績なんてあるはずもなく正社員として昇進できるはずなどないのだ。


博打にのめり込んでいるのか、クスリに手を出してしまったのか・・・・はたまた若い男にたぶらかされているのか・・・・。

買ったばかりのタバコを咥えて、火をつけ大きく吸い込む。



「昆布また寄ってきたな」



正則は家路に急ぎ、また浜へ行こうかと思いながら気を紛らわせた。











義和が働きづめだったら体壊すからと、正一の休みに合わせて芳江に休みを取らせたのは、春の陽気が垣間見れるようになった三月の中頃だった。


二人でどこへ行こうかと浮かれていた夫婦は、朝方に布団の中で抱き合ったまま話していた。



「おら映画みてーな」

「うん、わかった。そしたら映画行こう」



芳江は正一の決めたことに素直に従う。

それは結婚したてのころから変わらないことだった。


それを知っている正一はまたもや芳江に甘える。



「だいぶ温かくなってきたし、あれ着てよ。着物」

「ええー?映画館に着物?歩きづらいし、あんな暗い場所で転んだら恥ずかしいよ」

「おらがちゃんと手っこ繋ぐがら!なぁ?いいべ?」

「面倒だよ。その後、洋食屋さんにも行くのでしょう?」

「映画が終わったら一旦帰って着替えればいいべよ」

「なんでそんな面倒なことしないといけないの」「頼むって~、あれから一度も見てねーんだから」



去年の秋。一度結婚一周年の時に着てから、歩きづらいからとここに寄ったついでに仕舞っておいたのだ。



「しょうがないわね」


観念した芳江はタンスの引き出しを引き、中を覗き込む。


「・・・・・あれ?」


不思議そうに首をかしげる芳江に、ズボンを履いていた正一がすぐに反応した。


「どうした?」

「いや、なんかさ―――入れ方変だなーって。私こんな風にごちゃ混ぜにしたかな?」

「————あや、ほんとだな?なんかごちゃごちゃでねーが、あんたこんな事しねぇ人だもな」


芳江は旅館で働いていたこともあって、整理整頓をいつも心掛ける人柄だった。


着物に関しても余計な手間を省くために、着物の色合いを考え、ひと揃えまとめておいておく癖があった。



なのに、着物と帯の組み合わせが違った。それに着物の夏物冬物の厚さによって、長襦袢と襦袢を決めて一緒につけていたのだ。

その長襦袢は一つの引き出しにまとめられ、少しぶっきらぼうにぐしゃりとしたまま入っていた。



「おらたちが来る前に、泥棒入ってたんでねえべか?」

「やっぱり、お父さんが電気ついていたって」

「ちゃんと調べれ、みんなあるか?」


一枚づつ背伸びをして確認する芳江の姿に見かねて、正一は引き出しごと出しては下に並べた。


「ない―――どうしよう!ないわ・・・・お母さんの形見の着物だけない」

「————お父さんが持ってったんじゃないのか?」


「ううん、あの着物は本当はお母さんと一緒にお骨になるはずだったの。でも、これを着た時の母を忘れたくなくて私が貰ってしまったの」


「そうか、じゃあお父さんが持っていくわけないか。他にない物は?ちゃんと調べて警察さいくべ」



二人はすぐに警察本署にむかい、ことの顛末を話し始めた。


正一と芳江にとっては一大事だというのに、目の前の警官は適当な相槌を打ってかいつまんだ文章だけを調書に記録していく。



「はいはい・・・・その着物だけなんだね?”紛失”したのは」

「紛失って、泥棒が入ったんだってば!」


「・・・旦那さん、最初からね事件扱いになんないの。窓が壊れて侵入されたとか、ドアが壊れてたとか?—――あとは—…家の中荒らされたとか、不審人物がうろついていた証言があるとかね?そんなのないば、まずは”紛失”扱いなんだってば。大概こういうのは本人や家族の勘違いで違うところから出てくんだから…。鍵は?どうしてたの?」

「—————持ってました」

「んんー・・・んだらやっぱし、まずはここに紛失届として書類を作成するからね。絵柄とか色とか、あとだいたいでいいから、値段もどのくらいだったか教えてね」

「はい、分かりました。お願いします」



正一はどこか芳江の言葉が変だとおもった。


鍵は敷地内に置いていたはずなのに、ずっと持っていたというその言葉が変に思った。




そのカギのありかを知っているのは自分しかいない。ならば自分を—――疑っている?一瞬そんな考えがよぎり、慌てて打ち消す。


芳江はそんなことするはずがないと・・・。



「ありゃ、随分なものだったんだね?—―――もしかして身内の人が持ってったんでないの?案外ここより質屋回ったほうがいいんでないべか?」

「そんな・・・」

「結構あるんだよ?売られてたら大変だから、急いで回ってみたらどうだろうか?」








「・・・おれば疑ってるが?」

「疑う訳ないじゃないですか」

「じゃあ、他に怪しいのいるか?あの鉢植えの下に鍵を置いてるの知ってる奴、他にいるのが?」


芳江は考えたくはないが、心当たりはあった。紀子と嘉男だ。


でも、そんなことをするはずがないと分かっている。心配なのはどちらかがそのことを誰かに話してしまったのではないだろうかと。


でも、あの二人があの着物の価値がわかる訳はない。

だとしたら—―――

そこまで思い至って考えるのを辞めた。


「いませんけど、たまたまご近所さんに見られていたのかも知れません」


とにかく二人は交番で教えてもらった質屋を手当たり次第に探すしかなかった。


数件探してもないといわれ次の場所に行く。

だんだんと芳江は正一に申し訳なくなってきた。


「もう、やめましょう。ありませんよ」

「馬鹿たれ!諦めるな!母さんと一緒にいれてやるべってくらいの思い出が詰まってたんだべ?それをあんたはもらったんだべよ。んだら、一生懸命探してやんねーば、かあちゃんかわいそうだべよ!」


芳江は正一の言葉が嬉しくて泣きだした。

目を瞑った脳裏には、それを着て嬉しそうに笑顔を浮かべる母がいた。

その目線の先には、同じようににこやかに笑う若き日の父がいて、その間にいる芳江は、二人と手を繋いでお祭りの露店街を歩いていた幼いころの自分。


笑顔の二人に挟まれて、とても幸せだった時代を芳江は思い出していた。

正一に励まされて気力を取り戻した芳江はまた走り出した。


もう一軒、もう一軒としらみつぶしに探していく。


最近この手の店は多くなっていた。魚が連日のように港にあがり豊漁続きだからだ。妻や恋人や愛人たちは、男から貰ったものを金に替え自分の好きなものを買いに行く。

最近は宝石や骨とう品なども扱う店が多くなってきているのだ。


さすがの正一も、この時ばかりはバイクがあったらいいのにと思ってしまうほどあちこちと走り回った。




「あ・・・、あれでねーべが!あったど!芳江!あった!」

正一が指さしたのは、大きなガラス窓で、その中にあの着物が飾ってあった。



絹で編まれ、転々と咲く華やかな山茶花は、細工が細かく美しく表現された豪華なもの。

永遠の愛を健気に誓う母に、父の義和が送ったのだった。

踊り子だった母親が、ただ一人、父の義和の前だけで身にまとう特別な着物。




「————でも、売約済みって札がある…」

「…中に行って聞いてみるべ。芳江、まだ諦めんなよ」

「・・・・はい」




そうは返事したもの、芳江は不安でいっぱいだった。

これがここにあるということは、間違いなく身内の犯行の線が強いからだ。





「あのー・・・、表にある、着物、なんだけども」

「はい、欲しいのですか?」

「ああ、何とかならないだろうか?———元は妻のなんです」

「…ええ?違う人が売りに来たよ?娘が来月上京するからその資金にするって言ってたけど‥‥。盗まれたのかい?」

「そうなんですよ、あれを買い戻すことできないだろうか?」

「あぃや・・・どうしようねぇ。こっちとしても売った人にお金を払ってるし、今さっき帰ったけど、これを金揃えて買いに来るからって人もいるしねぇ」

「そこをなんとか、どうにかならないだろうか?」


「んー…いや待てよ…。間違いなく盗まれたものだって言うんだったら、明日来るお客さんに説明しておくから、警察に言うかい?顔も覚えてるし出来るだけ協力するよ?」

「そうだな、芳江そうしてもらおう。すみませんが―――」

「いいです、もういいですよ」

「———なんで、芳江?大事なもんだろ?」

「あの、・・・・警察とか、そういうのはいいんです。今すぐにでもお支払いしますので、譲ってもらうことはできませんか?」



芳江はそれしか言えなかった。疑いたくはないが、なんとなくこれを売ってしまった人物が確信に変わってしまったからだ。

そうとなったら警察沙汰はどうにか避けたかった。




「警察に言わないのならば、明日来るお客さんに聞いてください。うちとしては先約はあちらなので、どんな理由があってもこっちから都合よくそちらさんには出来ないよ。それがイヤだったら、ちゃんと警察に報告した方がいいと思う。—————すまないね、気の毒だけど」




「いえ、それがいいと思います…。では、また明日伺いますので」










「なんで芳江、警察に言わんのよ」

「・・・・・・・・・・・ごめんなさい」

「着物を売った人に、当てがあるのか?」




何も言えなかった、心の中でそうは思っても、それを芳江の口から言うことは出来なかった。



正一は何となく自分の親か、芳江の方の親族かと思いを巡らせる。

何かと意地の悪い大野の義兄弟たちの嫌がらせかと思う節もあるが、それならばうの昔に売られているだろう。


その他にいちばん不審に思えるのは、最近やけに大人しくなった父親と、家を空けがちな母親。



「とりあえずお金をおろします」



正一はますます悪い予感があたりそうで怖くなる。芳江が警察に頼らず、金で買い取るということは、おおかたそういう事なのであろう。


でも、今はぼやぼやしている暇などない。明日にはあの着物を差し押さえてる客が来てしまうのだ。



「———おらの口座にいくらあったかなー…」

「いいの、正一さん。お金は街の銀行に預けているから」



みのるに預けていたお金は六万くらいになっているはずだ。

幸いだったのは、その金で着物を買い取れる値段設定になっていたことだった。



店主の目利きがないのか、本当ならば十万以上で売られていてもおかしくないのだ。

あの店主はきっと開業したての人なんだろうと思い、あとは明日の買い付けた目利きがききそうなお客さんと何とか事情を説明して譲ってもらえればと考えていた。


きっとその人は価値が分かっているから、安く買い取り他で高く売るのだろう。

黙ってても4万円くらいの利益がでるだろうから。



正一はどこか納得のいかない表情をしたままずんずんと歩く芳江についていたが、またもや芳江の行動に疑問をもった。



「…なんでさ、わざわざこっちの銀行なんて使ってんだ?組合で昆布買い取るんだから、そのままギョクミの銀行に貯蓄でいいべよ、結婚した後に口座作ったの忘れたのか?」

「———すみません、姉の旦那様が銀行員でしょ?だから、何年か前に口座開設して欲しいと頼まれたの。お金の出入りがないと困るらしいから入金もしてもらっていたのよ」

「・・・そうか、それじゃあしょうがねえな」

「それよりごめんなさい。すっかり時間も過ぎてしまって」

「いいよ、映画はいつでもやってんだし、あんまし気にすんなや?」


その足でみのるが勤めている銀行へと向かう二人は、またもや問題と直面してしまう。


「————はい、これが預かっていた通帳と判子だよ」


「ありがとうございます。」



安心したように中身を確認した芳江。正一はみのると当たり障りのない会話をしていた。


みのるは工藤正一が好きではなかった。色男のくせに女遊びもせず社交的な性格だからだ。


しかも妻の幸恵は正一の容姿が好みらしく、顔だけ取り換えられたらいいのにと冗談でも時々実の容姿を卑下するように笑うのだ。


正一には身の覚えがない妬みだが、みのるの中で彼に対する憎しみが蓄積しているのだ。




「工藤さんのところは魚採ってないんですもんね?勿体ないな~、こんなに豊漁の時代なのに」

「————いやあ、あれは、外れたら借金だらけになって、首ば吊んねえといけないがらさ。昆布と出稼ぎで十分生活出来てるし、必要ねえですよ」


昆布漁だからこそわずかな道具で仕事ができるし、経費もさほどかからないのだ。

これが魚漁となれば、高価な網を買わなければいけないし、船にもそれを巻き上げる機械も付けなければいけない。


どうかすれば船自体も新たに新調しなくてはならないだろう。

魚がいる沖まで行くための燃料代だって馬鹿にならないのだ。


「でもわざわざこんな時代に手のかかる昆布なんて、ばかばかしいでないですか?魚漁師の奴らなんて夜の街を大手を振って歩いてますよ?僕ら銀行員よりも漁師を優先させる飲み屋や宝石店があるぐらいですから…。ああ、でも、昆布漁師ってバレて追い出される輩もいましたね。アハハ!おもしろいでしょう?」


会話の節々に見下したような発言をするみのるに、正一は嫌悪感を抱く。

よくしゃべる男だ。と思うことにする。


それでも大きく息を吸って、堪えるようにしてから、芳江の方をみた。


正一の視線の先を見たみのるは気まずそうに動揺をして、ハンカチで額を拭きはじめる。

瞬時にして冷や汗が出始めたのだ。


この冬の寒さが残る時期にその姿は異様に見える。




「どうした?金おろさないのか?」

「—————あの・・・みのるさん」

「——————はい?」


芳江は通帳を見たまま怒りで震えていた。

通帳に記されている金額がどう考えても少なすぎるのだ。


「お金―――少なくないですか?」


毎月、少なくても三千円は渡していた。

それに鮭組でもらった給料を合わせたら少なく見積もっても六万円は固いはずなのだ。

でも、通帳には三万円にも満たない金額しか書かれていなかった。

着物の値段は五万円・・・・これでは買い取ることができない。


「ちょっと、ここで物騒なこと言わないでくれる?」

「なしただ?芳江」

「お金が少ないの。毎月入れていたはずなのに、入ってない月もある」

「———なんでこんなことになってるんだべ?—―――…あんたが、横取りしたのが?」

「物騒な。芳江ちゃんの勘違いじゃないか?毎月なんてもらってないよ」

「確かに‥夏時期は毎月じゃないですけど、それでもまとめて渡してましたよ?」

「計算間違いしてないか?まいったな、こんなことならちゃんと何かに書いとけばよかったな」

「間違ってなんかいません!」


芳江は泣きそうな顔をしているのに、証拠がないとわかったみのるは余裕な顔をしていた。


「あまり叫ばれるとお客様に失礼だから、”警備員”来てもらうけど」


「てめぇ!」


正一はみのるの胸ぐらをつかみ、ほっそりとした男の身体をジリジリと締め上げていく。


「お!おい!た、助けてくれ!」


みのるは足をばたつかせて警備を呼んでいた。



「もういいよ、正。ここから出よう!」

「———くそったれが!これで終わんねーかんな。然りと覚えとけよ!」


二人は家近くにある食堂に来ていた。


窓から夕陽が入り、二人が座る木目調の机を照らすが二人の表情は暗く、会話もないまま静まりかえっていた。

映画館や流行りの洋食屋にはもう行く気になれず、銭湯の帰りにここに寄ったのだ。


いつも通っている銭湯のそばにありながら、こうやってここに食べに来たのは二人にとって初めてのことだった。



「ごめんなさい」

「なして芳江があやまるの」

「だって」

「俺はあいつが許せね。いつかとっちめてやっから、心配すんな」

「———うん。」





「すいません遅くなって。あら?正一さんですか?」

「ああ、かなたさん、お久しぶり、元気かい?」

「ええ、何とか―――あ、この方が噂の」

「そう、おらのおっ母だよ」


正一とこの店員は顔なじみのようだった。芳江は正一に紹介されて挨拶を交わす。



「綺麗な方ですね」

「いいえ、そんな。あなたの方がお綺麗です」

「いやだ、店の者にお世辞いって。ああ、さては何か期待してますね?」

「あ、いいえー、そんなことは」

「しょうがないなー、じゃあ、熱燗つけます!私の払いで。夜になれば湯冷めしますから、温まって下さいね」

「すみません。ありがとうございます」



かなたはよく笑う女性だった。

どこか寂し気に見える表情を見せるものの、彼女の凛とした美しさが相まって一段と美人になる。


嫌味なく気さくで、どこか芳江の母を思い出させる雰囲気を思わせるひとだった。




「お知合いですか?」

「ああ、タッケの—――」

「恋人になるはずだった者です」


小声で話す正一に、続きを声を張り上げて話す奏。


「酷いのよ?武翔たけと君ったら人を食事に誘っておいて、迎えに来る前に亡くなってしまうんだもの」

「…そうだったんですか」

「知りませんでした?」

「いいえ、バイクで—――とは聞いてましたが」


「奏さん、あれの弟が、バイクが好きでの…。そのうち買うって騒いどるんだが…。あんた、気に障るかの?」

「————いいえ、なんとも思いませんよ?ただの機械付自転車じゃないですか」

「————そうかい、ありがとうな」


芳江はそんな二人の会話を聞いて、正一があれ程までにバイクを嫌がる理由が分かったような気がした。

二人は奏にからかわれながらも食事をして、少しだけ元気がでて活路も見えてきた。


家に入ってストーブの火がまわるころ、正一が芳江に向き合う。


「あした、守也ばバイクで呼んで組合行ってくる。足りない分のお金下ろしてくっから、お前は朝から店に行け」

「正一さん、でも、そんなにまでしなくても。仕事は?どうするんです?」

「やすむよ」

「いいですよ、もう」

「ダメだって。簡単に諦めたらだめなの。やれること全部やって諦めるのと、何もしないで諦めるんじゃ、全然違うんだよ?————母さんの形見…返ってくるかどうかわからんけど、やれることやんねーと、母ちゃんもお父さんも悲しいべや」



「・・・・ありがとう」


「それとよ・・・。あんた、優しいから言わないけど、———着物売ったの―――おらの母ちゃんなんだべ?」


芳江は無言のまま首を振り続けた。下を向き悲しそうに顔を歪ませながらも、顔を横に振り続ける。


「うんだって、間違いねーわ。————十中八九そうだ。————んとに、ロクてねー親だ…」



ストーブの明かりが正一を照らしていた。

その表情は暗く、今にも泣きだしそうな顔をしていた。






翌朝、正一は長篠商店へと電話をかけていた。

早くしないと守也が仕事にでてしまうからだ。


「はい」


こんな朝早くから誰だと言わんばかりに不機嫌な声が正一の耳に届いた。


「工藤です。オジサンわるいけっど、うちの守也ば頼めないかい」

「————はいはい、ちょっと待っててよ」


いい加減こんな事も辞めたいと思う店主だが、信頼あっての長篠商店を謳ってきた歴史もあり、なかなかやめられない。


早く一般家庭にも電話線が普及すればいいのにと思いながらも数軒先の工藤家へと向かった。




コンコン

「おはよう。誰かいるかい?」

「はあい」

土間続きの引き戸を開けたのは、民子でも芳江でもなく中学生の紀子だった。


「あれ、のりちゃん。だれもいないのかい?」

「お母さんは泊りがけの仕事があって、お父さんは昆布拾いで海に入ってます」


「守也いるかい?電話入ってるんだけど」

「今寝ていて‥おこします」

「ああ。それなら、嫁さんでもいいよ。正一君からだから」

「姉さんも実家の仕事手伝ってていないです」

「ありゃ、困ったな」


紀子は守也を起こすも、まだ出勤時間に間に合うこともあってかカラ返事をするだけで起きる気配がなかった。


「俺行くか!ねーちゃん!」

「あんたは話の内容忘れちゃうでしょ?私が行くから」


嘉男はちぇーとつぶやき、土間に転がっている石を蹴る。

自分はいつも人に頼りにされていないと、日ごろから感じていて、それが面白くなかったのだ。


正一が朝一番で電話をよこすというのは何か緊急のことがあったのであろう。

嘉男はそう思い、土間から座敷に駆け上がり、いまだに寝ている守也の所に駆け寄った。


「もりにい!緊急事態だぞ!」

「なんだよ」

「分からんけんど、兄ちゃんから電話きとる」

「分がんねえのに『緊急事態』とはどういうこった」


嘉男に急かされて起き上がる。

確かにこんな早い時間に電話が来るのは異様だった。


寝間着から服に着替えて、床のぬくみから離れた体をストーブで温めていた。


まさか、芳江に何かあったのではないかと思った時、紀子が帰って来たのだ。



「守也兄ちゃん、今すぐバイクでこいだって」

「なにがあった?」

「分かんないけど、凄く焦ったようなこえだった。—————これ、この通帳と判子持って来いって」


紀子が茶箪笥から出したのは、正一の通帳と判子。

ただならぬ雰囲気に、守也はそれとジャンバーをもって家を飛び出した。


「どうしたんだろうな?」

「・・・・さあ、わからない」


紀子はそう言いつつも、工場で働いている母がついに何かしてしまったのでは?と心配になった。

温泉センターで聞いた噂が、いつまでも頭に残っていたからだ。


父親は今まで散々母親に酷いことをしていた。

気持ちが離れるのは仕方ないことだと思う。

母親が通っている職場には何人もの男工だんこうさんがいる。

その中で仲よくなった男と不倫しているのではないかと疑っていた。


帰ってこないのもその男と会っているからではないかと。


だから、芳江の生家について一度も話したことはない。そこが逢引の場所になってしまいそうだからだ。


でも、そこでふと思いつく。

自分は黙っていたけど、もしかしたらおしゃべりな嘉男は—―――


「嘉男・・・あのさ、姉さんのあの家あったでしょう?あの家のことお母ちゃんに話した?」

「うん?はなしたど?—――おめえたち、どんな家だった?って街行ったときに聞かれたから、ここだよって教えだの」

「————鍵の場所も?教えた?」

「うん。だって、吹雪になって帰れなくなったら使えって姉さん言ってたべ?んだがら、母ちゃんにも教えたよ?」


紀子はやっぱりとため息をついた。

中学に母親同士が同じ工場に勤めているという同級生がいるのだ。


確かに忙しくはあるし、正社員だけ残って仕事をしていることもあるらしいのだが、それでも夜10時を最後として送迎バスが2巡回しているというのだ。



ただ、二周目は一軒一軒玄関先に降ろすのではなく、決まった地域に点々とバスを停車させているということを知っていた紀子。

民子も帰ろうと思えばその日のうちに帰ることはできるはずなのだ。



それなのにどうしてだろうと思った紀子は、それとなく聞いたがそれらしい言葉が返ってきて丸め込まれてしまったのである。


『雇用体制が違うから、”更に”最後まで残るグループに入ってんだ。だからそのバスに乗れないんだって。んだから給料も少し多めに貰ってんだってば』


怒り口調でまくしたてるように言っていた民子の言葉は、少し胡散臭いものを感じたが、紀子はそれでも民子の言葉を信じたかった。



「姉ちゃんいってきます!」

「うん、行ってらっしゃい」


本当ならば自分も、今でなきゃ遅刻になる。

でも、どうしても不安で居間の畳の上に腰をおろし、これからのことを考える。


どうしても悪い方向にしか考えられなくて悲しくなってきた。

いつの間にか正則が帰って来て、紀子の隣に腰をおろす。



「———なした?紀子。泣きそうな顔をして」

「ううん、なんでもない」

「————そうか」

「お父ちゃん?」

「ん?」

「正一兄ちゃんが夕方になったら街に出て来いって。————大事な話があるって」

「————ん、わがった」


正則は紀子を抱きしめて頭を撫でた。優しくしてくれる父に紀子も涙を流す。



酒が抜けていて、機嫌がいいときの正則が優しいのを、子供たちは知っていた。

逆に酒も飲んでいないのに、神経質で怒りっぽい母親の民子。

気分次第で皆がいい気で話してても、うるさいと怒鳴りつける時もあった。


それでも話が面白く、地域の集まりなどで皆を笑わせる母が紀子は好きだった。







「なしたの、兄貴」

「今すぐ金が要るんだ。組合さ走ってけれ」

「金?」

「ああ、芳江の着物が—――芳江の母ちゃんの形見の着物が間違えて売られてるんだ。それ買い戻す為に金おろさねばなんねーんだ」

「———なしてそんなことになったのよ」

「後で詳しく話すけど・・・多分母ちゃんの仕業だ」

「あのバカがついにやっただか?」

「とにかく今は急がねえとなんねぇのよ!いくべ!」

「ちょ、待った。姉さんは?一人かい?」

「ああ、開店時間になったら店に行けって言ってる。買い手がついちまって今日来るんだ」

「一人で大丈夫が?」



正一はそう言われて、確かにと思う。

芳江一人の時に相手が来たら口で丸め込まれてしまうのでは?と不安が過よぎる。


かといって、自分が居る訳にもいかない。

守也に引き落としを頼もうかとも思うが、最近は家庭内のトラブルが多いため、本人以外の人は貯蓄をひきだすことを良しとしていないのだ。


どうしてもという時は、委任状がいる。

誰が書いたかは分からない紙切れなのだが、まさか職員の前で守也が二人分の名前を書くわけにはいかなだろう。


委任状をもって再び正一の所へくるか?

そんなことは時間がかかりすぎてできない。


ならば組合近くに住んでいるだれか適当な人に正一の名前を書いてもらうか…。

でも、守也の性格上そんなことを頼める知り合いが居る訳がない。


方法は一つしかなかった。


「———んだら、俺一人で行っから、おめえ芳江の側に居てやってくれ」

「兄ちゃん大丈夫が?バイク運転できんのが?」

「バカにするなでや。お前らに教えたのおれだべ?」

「んなごと分かってっけどさ—――」

「———とにかく行ってくれ。」

「おう、わがった。兄貴、これ」

「———ありがとな」


正一は守也から通帳や判子を受け取り、ジャンバーの胸ポケットに入れた。

感触を確かめるようにハンドルを握り、少し吹かしてからギアを入れて走り出す。


正一はバイクに乗ることに抵抗があった。

武翔と奏の未来を奪ったそれを、どうしても許すことができなかったのだ。


そして、バイクの乗り方を教えてしまった自分をあれからずっと悔いていた。


でも、自分の妻である芳江の大事な着物を何とかしてやりたいと思った時、バスで行き来していたら昼を過ぎてしまうと考えた。


それに頼るしかないと思い、奏に聞くことで自分の呪縛を軽くしたいと昨日店に寄ったのだ。



それでも、恐ろしく速く走るこのバイクがやはり怖かった。昔はあんなに好きだったのに・・・・



小さな頃から大事に守ってきた武翔。

雪路と共に小さい子たちの面倒を見て過ごしていた島での記憶。



それをはっきりと覚えてくれていた武翔を亡くしたのはとても悲しい出来事だった。

雪路という存在を共有できる相手がいない。



それはこの上ない孤独を生んだ瞬間でもあったのだ。

でも、今はそんなことを言ってられない。


何とかして自分も交渉の場についてやりたかったのだ。

芳江を悲しませたくなかったのはもちろん、自分の身内がその事態を引き起こしてしまった。


確かではないが、正一は母親がしたと確信している。




最近家にいたくない理由はいつくかあるだろうが、ひとつに芳江の存在が気に障るのだろう。

あの酒のみでどうしようもなかった父親の正則が、芳江のおかげで変わってきたのだ。


あんなに遊んでばかりいた正則だったが、ある時から酒を断ち芳江がやっていた拾い昆布をするようになったのだ。



正則がそこまでするようになったのは、彼女が健気に父親の後始末をして回ったからだ。

また、地域の人に受け入れるようにと正則のいいところを集まりなどで話すこともあった。


そのうち、村行事があるごとに問題点などを家に持ちかえり、正則の地頭の良さを見込んで芳江は相談をしていた。


元々は社長といわれる立場にあった人である。

手先は不器用でも、人にどう仕事を振り分けていけば、物事が潤滑に進むのかを考えるのが得意なのだ。


そうして村中から疎まれていただけの正則は、今では近所の人達と一緒に仕事をするまでになっていた。



そんな様子が、民子にとっては面白くはない。

自分は苦労ばかりかけられたのに、どうして嫁がちょっと手を貸すだけでこうも人が変わるのか?

例え夫が良くなったとしても、今までの恨みつらみは消すことができない。

そう簡単には許せないのだ。


でも、だからと芳江にあたってはいけない。

着物の件が終わってからまず初めにしなくてはならないこと。


両親を交えての話し合いだと正一は考えていた。









「守也君にまで迷惑かけてごめんね」

「なんで姉さんが謝るの。悪いのはうちの母ババだべ」

「まだ決まったわけではないのよ‥」

「いいや、間違いねーわ。なんか最近変だもの――――まあ、そろそろもういくべ、姉さん」


店が開くころを見計らって、守也はその家を出た。

この家に来たときから落ち着かなかったのだ。


部屋の隅のほうに三つ折りにされて積み重ねられている二組の布団を見ただけで、その上に彼女を乗せて向かい合えば…とまで妄想してしまう始末。


経験がない分、こうゆうところで余裕が保てない。年末の出稼ぎで色街にでも行こうかと本気で考えていた。



店の隅で待たせてもらうと、それらしき人が店を訪れた。



余程目利きがいい商売人。

芳江はそう思っていたのに、その着物を買いに来たのは若い男と女だった。



「ほら、いいだろ?君が好きな山茶花の花があしらわれているんだ。これに決めるべきだよ」

「でも、高いよ?———大丈夫?」

「大丈夫だよ、これを結婚式に着て欲しい。初めて見た時からこれしかないって思ったんだ」



芳江と守也はその会話を聞き、たじろいだ。



「…さあ、姉さんいくべ」

「———うん」



気乗りはしないが、どうしても手放したくない気持ちもある。

心を強くして言おうと思った時、店主が助け舟を出してくれた。



「いらっしゃい。・・・・警察には言わないって決めたの?」

「はい」

「んじゃあ相手方に軽く説明するから一緒に来てくれるかい?」

「はい」


外で楽しそうに話している二人に店主と共に芳江と守也が近づいてい行く。


男は店主の男を見て昨日はどうもと笑顔で頭を下げていたが、店主は気まずそうに軽く会釈をして、芳江のほうをチラリとみてから話し出す。


「すまないね、お客さん。その着物さ、どうしても買い戻したいって人がいるんだけども…」


結婚間近らしい二人は店主の話を聞き、笑顔が段々と消えていった。


芳江はそれを見て申し訳なくなる。



「一度売るって決めたものを、やっぱやめるだなんて、都合よくないですか?あなたが辞めたいと思う前に私が買い取ったのだから、そこは諦めるべきでしょう?」



売るつもりはなく盗まれたのです。

そういえば同情ぐらいはしてもらえたかも知れない。


でも、これから結婚する二人にその言葉を使うには気の毒に思う。

そんな縁起の悪そうな言葉を芳江は使いたくはなかった。


守也もそのことが分かっているかのように、違う方法で説得を試みる。



「そこをなんとか、ならないだろうか?片付けをしていて、価値がありそうなものはまとめてここの旦那に買い取ってもらったんだけど、売るつもりのないこれが混じってしまったんだ。もちろんタダでとは言いません。今お持ちのお金と、こちらであわせたらいいのが買えると思うのですが・・・」


守也は腰を低くし、失礼がないように訛りのない言葉で二人に話しかけた。

女は戸惑いの表情を浮かべたが、男は凛として背筋をのばし守也の目をまっすぐに射貫く。


守也はこういう意思が強そうな眼差しが苦手で、すぐに目を反らしてしまった。



「これはもう僕たちの物です。もう気持ちは変わりません。——この着物は彼女のイメージにピッタリなのですよ・・・。山茶花の花ことばを知っていますか?」


守也は静かに首を横に振る。

「ごめんなさい、分からないです」芳江も知らないフリをした。



「この赤い山茶花の花言葉は、困難に打ち克つ強い志と、ひたむきさなのです。寒い冬に咲くとても強い花なんです。彼女はこの花のようにとても芯の強い女性です。それでいて健気でひたむきで…僕はこの子との新たな人生を始めるのにあたり、この着物を着て欲しいと切に願っているのですよ。お願いです!生涯この着物を大事にしますから、僕らの門出に免じて諦めて下さい!」


「・・・・・・・・・」





父である義和が母にこの着物を贈る時、この若者と同じような事を言ってくれたと母から何度も聞いていた。

ただの商売人ではなかったことに感謝すべきかも知れない。


こんなにも理解がある人達の結婚式に使ってくれるのなら、その方が着物も母も喜ぶのではないかと芳江は思えた。



「大事にしてください。よろしくおねがいします」

「はい、ありがとうございます!」


急に決まってしまった話に守也は焦る。

ここに夫である正一がまだいないのに話が決まってしまうのは非常によくない。


「ちょっと待ってください!姉さん!何言ってるんだ!せめて兄貴が帰ってから決めないと」

「———守也君もういいのですよ。私は、結婚した身ですし、こういう派手なものはこれから着る機会も減りますから」

「したけど!兄貴が」

「いいんです、着物は他にもありますから」


迷いのない芳江の言葉に守也は何も言うことができなくなってしまった。


沈黙が続く中、店主が芳江に再確認する。


「—————本当に、いいんだね?」

「はい、お騒がわせいたしました」


若い男は芳江に頭を下げる。

その横で嫁となる女は泣いていた。




彼らは支払いを済ませ、着物を風呂敷に包み店を出ていく。

出た先で、もう一度振り返りドア越しに芳江にお辞儀をして、芳江も軽くそれにかえすように会釈をしていた。


「本当にあれでよかったのかい、姉さん。———母さんの形見だったんだべ?」

「いいの。もう、いいのよ」



芳江にとっては大事な思い出がある着物だった。


でも、今あれを取り返したとしても、これから起こってしまうだろう揉め事が予想出来ていた芳江。

そのせいで、小さなころの楽しい記憶よりも、悲しい感情が着物に宿ってしまうようで怖かった。


何となくそう予感した芳江は、その着物を手元に置いておくよりも、新に幸せになれる場所へと行って欲しいと。


母や父があの着物の前で笑顔が絶えなかったように、あの二人にその似たような笑顔に包まれるようにと、切に願ったうえでの決断だったのだ。













喫茶店に入った三人は、この上なく暗い空気に包まれていた。

正一は機嫌が悪かった。

出先や人前では人当たりのいい顔をするはずの男は、今に限ってはそんな気分になれないらしい。


コーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせようと思うも、その節々にイラつきが垣間見れる。


「————姉さんだって、簡単に諦めたわけでねーんだど?兄貴・・・・。あの決断はなかなかできねーって、褒めてやれや」



そう言われても正一は目をギラつかせるだけで、答えることはなく、芳江を睨むように見ていた。



「・・・あのあと、おらすぐ来たべ?なんで少しの時間も待てねぇんだ?」

「ごめんなさい・・・」


「したけど、———なあ?あそこで強情張るのはなかなかできな――」

「うんだども!!俺がいないうちに何で勝手に決めるんだって言ってんだよ!!」

「兄貴!」



芳江は泣きそうだった。それでも正一に逆らうことはなく、小さな声で謝り続ける。



「—————可哀そうだべよ」

「うるさいど、夫婦の会話に入ってくんな」



なにも正一はその着物を手放したことが腹立たしくはないのだ。

自分だってその場に居たら、守也と同じように良く決断したなと褒めていただろう。



面白くないのは、その決断をしたときに自分がいなかったということだ。

そのことが芳江に夫として信頼されていないかのようで腹立たしかった。



それに、正一にとってもあれは思い出の着物だったのだ。



初めて二人で出かけた時に、あれを着た芳江が自分に笑いかけてくれたのだ。


二人で微笑み合ってポン菓子を食べた。

あんなに柔らかく美しく自分へと笑いかけてくれたのが嬉しかった正一。

一度だけ見ただけの着物だったが、正一とっても思い出がこもった着物だった。

それなのに、芳江はその気持ちを汲んではくれなかった。


せめて自分が来るまで待って、自分にも了承を得て欲しかったのだ。


そんなことがないということは、芳江にとってあの時の出来事は頭の隅にないくらい何でもないことだったのだろう。


正一はその芳江の決断の中に、自分への思いやりが無いようで悲しかった。

その悲しさがイラつきに変わり、芳江への憎さが倍増していく。




自分の気持ちはだれも分かってくれない。


昔からそうだった。


みんなのことを一生懸命に考えてるのに、誰も自分のことを思ってくれる奴がいない。




ただ一人の女性を除いては――――


『雪路だったら・・・雪ちゃんだったらおらの気持ちを一番に考えてくれるのに・・・・もう、周りには味方なんていないんだ』



正一はどこかでそんな風に考えてしまう。









「兄貴はときどきああやって爆発すんだよな。そのうちまたケロって治るさ、気にすんなや姉さん」

「うん、そうだね」



守也と芳江は工藤の家に帰って来ていた。

母の民子の仕事終わりを狙って正一と正則が工場を訪れることになっている。


守也は正一の言いつけ通り芳江を工藤の家へと送り届け、借りていたバイクも今さっき返したところだった。



「今日の話し合いに姉さんを参加させないのは、兄貴があんたに怒ってるからでないど?」

「うん、分かってる」

「母ちゃん、何言いだすか分かんねーからよ。姉さんば傷つけたくないと思ったんだよ、きっと」

「うん。それもあるね、きっと」



芳江は何となくそんな気はしていた。

わたしを疑ってたのかと民子に罵られそうで怖い気もある。

だから正一の準備の良さに感謝していた。



「もう少しであいつら帰ってくんな。まあ、詳しく言わなくていいから、なんとなく誤魔化して。俺もうそろそろバスで行くから」



守也は急いで家を出ようと立ち上がる

。やはり芳江と二人きりっていうのはどこか焦りのようなものが出てしまう。


ヘンな気が起きないうちに・・・そう思って出ていく背中に芳江は言葉をかけた。



「ありがとう、庇ってくれて…。とても心強かった」

「ハハハ—————なんもだよ」



守也はバス停に行く途中、何度も芳江の言葉を浮かべた。

あのまま振り返って抱きしめたい気分だった。怖かっただろ?ごめんなと


————でも、やはりそんな気にはなれない。


兄を裏切るなんて恐ろしい行為は、やはり守也には出来なかったのだ。







「姉さん!久しぶりだな!元気だった?」

「うん、久しぶり嘉男君」



先に帰って来た嘉男は彼女を見るなり飛んでくるように抱き着いてきた。

まるで母親にするかのように昆布の手入れをする芳江に纏わりつく。



「凄いべ!休みの日は父ちゃんと一緒に拾ったんだど?」

「凄いね~、嘉男ちゃんは~」

「おらもう五年生になんだど?ちゃんはないべ」

「そうだったね、ごめんごめん」

「嘉男、風呂炊いたから、行っといで」

「うん!今日もおらが一番風呂だな!」



元気に駆け出す嘉男はそのまま離れの風呂場へと消えていった。

それを比例するかのように紀子の表情は暗かった。


「———紀子ちゃんもいよいよ上京だね」


「うん。————あのさ、姉さん」


「うん?」


「母ちゃんってなにかしたの?」


「—————何もしてないよ」


「でも、父ちゃんと別れるでしょ?」


「それはね、本人同士の話し合いだから」




嘉男は何も気づいてないようだったが、紀子はこの後起りそうな悪い予感のせいで不安になっていた。


「でも、紀子ちゃんはもう上京するでしょう?そっちに集中しないとさ、勤め先でやってけないよ?」


「わたし、いいんだろうか?もし、母ちゃんが出ていくことになったら、芳江さん女一人になるよ?」


「そうだね、頑張って働かないとね。それとも、嘉男君にいろいろ手伝ってもらおうかな?」



紀子が気落ちしないように、芳江は気丈に振舞って見せた。

紀子は春から有名食品企業の工場加工員として働くことが決まっている。

倍率の高く、なかなか入居が難しい寮にも入ることができたのだ。


寮と工場は同じ敷地内にあるし、男性寮と離れており警備さんも常駐するから安心だと、皆で手を叩いて喜んだものだった。



「紀子ちゃんは、ここのこと気にしないの。———決まったら連絡するから、あっちのことを考えないと」

「うん、ありがとう姉さん」



芳江は姉さんと呼ばれるたびにとても嬉しくなっていた。

半分血の分けた弟たちには姉さんなどとは呼んでくれなかったから尚更だった。












正一と正則が民子の働く加工場に行くと、ちょうど終業を知らせるベルが鳴り響いていた。


民子は夫や息子が待っているとも知らず、気落ちした面持ちで工場から出てきた。

今朝、民子にとって悲しすぎる出来事が起こったためである。



男工場員である20才年下の壮一郎に惚れこみ、言われるがままにせっせと金や金品をつぎ込んだというのに、相手は今朝になって消えていたのだ。

昨晩は燃え盛るような熱を交わし合ったというのにその姿はどこにもなく、逢引に使っていた古びた旅館の一室で地獄に落ちたかのような気分の朝を民子は迎えた。


最初は20も離れているし、からかわれていると思ったが、相手の真摯な接し方に夢を見てしまった民子。

夫、正則のことについても憎しみを共感してくれ、励ましてくれた。

そのうち体も許すようになり、あの芳江の“生家”で何度も愛し合っていた。



「このまま二人で逃げよう」



いわれるがまま、駆け落ちするための資金として働いていた給料の殆どを渡していた。

正則は妻の給料を巻き上げることをしなくなったので、できる限りの金を壮一郎に渡していたのだ。


こんな金じゃとても二人で遠くに行けないし、新たな生活も始めることは難しい。

もっとないのか?俺も知り合いをあたってみるけど、地元の人間じゃないからなかなか難しいんだ。


そう言われ、色々なところから金を工面したというのに、壮一郎は一人で逃げだしてしまったのである。

夜逃げのように逃げられて初めて自分は騙されていたのだと知ったのだ。


まさか自分がという思いだった民子。


今となっては疲れ果てた中年女だが、結婚前はいろいろなところから縁談が来るような愛らしい女性でもあった。



それに引き換え、壮一郎はどこか頼りない青年だった。

夫である正則とは正反対の性質で、お世辞にもモテるわけでもなく、どこか不器用でみんなにイジられるような男だったのだ。


それでもみんなを笑顔にさせ、愛されるような男だと好意を抱いたのに、まさか金目的の演技だったとは疑うこともなかった。



今になって自分のような被害者が他にもいたことが分かり、そこで初めて詐欺師だったのではと工場内で噂が広まったのだ。



壮一郎と逃げるつもりでいた民子の資金集めには、情が崩壊したようにモラルがなかった。

それをどんな言い訳を作って許してもらおうかと考えを巡らせていた。

正直に話して謝るなどという気は民子の中では少しも無い。



”騙された、妹がいるが病弱で天涯孤独と言われ仕方なく支援を募っていた”

などと言えばどうにか騙せるのでないか?と民子は考えながら列へと並ぶ。



でも、なんで言い訳なんか考えなくちゃいけないんだ?

私が働いた金はほどんど自分で使うことは許されなかったというのに。


手を付けてしまったものは、夫の正則に払わせればいい。

最近は働いているし、少しは貯えがあるだろう。


もとはといえば、夫の正則だって好き勝手やってきたのだ。

だから今更になって離婚を突きつけることなどないはずだと高を括る。



正一も自分の気持ちを理解してくれるかもしれないと希望を抱いていた。

いまいち芳江に気持ちを許しているように見えなかったからだ。



だからきっと正一も自分の味方をしてくれると信じていた。




女工たちは勤務状態を証明し、間違いがないかどうかを確かめ判を押す。

そんな夕焼け空の中、いつものように事務所前で列に並んでいる若い女たちが騒いでいる様子が民子の目に入った。




「いやあ、男前だね」

「ほんとうだぁ、やーうっとりするねぇ」

「誰ば迎えに来たんだべ?」



後ろにいた民子の知り合いが背中を小突くと、下ばかりを向けていた彼女が顔をあげる。

すると、遠くの方に門のそばで夫の正則と息子の正一が立っている姿がみえた。


なんだかそんなことが嬉しくなって、思わず二人に向かって手をあげる。




「あれぇ!工藤さんとこの旦那かい?いい男でないの!」

「隣のお兄さんは?息子さんですか?!」

「いやぁ!いい男!紹介してよ、民子姉さん!」



みんなにはやし立てられていい気分になった民子は、やはり自分の家族が一番だと調子のいいことを思っていた。



嘉男と紀子が好きな菓子でも買って、二人と一緒にあの家に帰ろう。


そう思っていたが、連れて来られたのは壮一郎と逢引するために使っていた芳江の家だった。


そのうち守也もついて、真ん中にある大きなテーブルを4人で囲いこれから起こることに身構える民子。



とてもお菓子を手土産に家へと帰れる雰囲気ではなかった。





「おめえ、なにしてるのよ」


初めにそう切り出したのは、家長である正則だった。


「なにって――――なにがぁ。そんな怖え―顔して・・・正一も、守也まで・・・。なんなのさ!」




そこで民子はまたもや現実を知る。

味方だと思っていた家族は自分に向かって嫌悪感丸出しな態度を示していた。

まるで汚いものを見るかのような目つきに傷つき顔を歪める。



「とぼけんなよ、母ちゃん。————おらのおっ母の大事な着物売ったべ」

「!!————…。知らねぇよそんなもん。誰が言ったのよ?芳江が私で間違いないって言っただか?」

「—————知らねのが?———そうが、でも、売ったどころの質屋はよく知ってるみたいだど?売りに来たやつの顔覚えでるってよ…。一緒に警察いぐが?ああ!?」

「おめぇ—――なしてそんなことしたんだ?」

「————あんただってぇ!あれ売ったらいい金になんなって言ってたべさ!」

「俺はいっただけだ、売ろうなんて思ってね!」

「うそつけ!売るつもりだったべよ!」

「誰が売るってよ!芳江の…母さんの大事な形見って知ってるのに、売る訳ねーべ!」



そこで初めて民子は怯ひるんだ。

上等品だとは思っていたが、形見だとは知らなかったのだ。


「———形見?あの亡くなったっていう踊り子の母さんのが?」

「んだよ、姉さんが大事に思って”ここの家”に仕舞っておいたのに、何でそれ盗んで—――そんなにまでして金欲しかったのか?」

「———今から買い取ればいいんだべ!」


民子はどこかぶっきらぼうに言って立ち上がろうとした。


「このごうつくばりババア!———いいから座れや!」

「———ごうつくとはなによぉ!誰に向かって口ば聞いてんだって、あんたぁは!」



ふだんから温厚なはずの正一が、母親にその言葉を向けたことに正則も守也も驚いた。

どんな人にも礼儀を怠らない人なのだ。————妻の芳江を除いては。


正一は買えば元通りになるという母親の考えが妬ましかった。



すでにそのことで自分たち夫婦仲が危うくなっているのだ。

そうして気づきたくなかった自分の奥底の想いまで掘り起こしてしまった。


そんな事態を引き起こした母親が許せなかった。

買い戻せばいいなどと開き直ってるから尚更その苛立ちが増す。


また何か言おうと思った時、守也が正一を宥める。



「みんな落ち着けって・・・母さんよ、兄さんが怒るのは当たり前だよ。姉さんは、もうあの着物を買い戻せなくなったのよ。あれを気に入った若い男が、結婚相手に式で着てもらうって買い取っていったんだ」


「そんなの、金を上乗せして買い取ればよかったべさ、まるっきり私のせいなのかい?」

「そういうことじゃねーって。金の問題じゃないの」

「したら、何が問題なの」


「————お前が、変わってしまったのが問題なんだ」

「ああ?———変りもするべよ、あんたに何回殴られたと思ってるの」

「————俺だって辛かったんだ、何もかもうまくいかなくてよ、———」



それから暫くは夫婦の口喧嘩が絶え間なく続き、息子二人はそのことには口出しをせず、黙って聞いていた。



夫は島からこちらに来てから仕事や地域に馴染めなかった心情を語り、民子はそれにより雪路を嫁に迎い入れなかった悲しさを語る。



そのうち、お互いの不貞へと話は延長して、妻の民子が近所の人から若い男と宝石店に入っていたと知らされたことを罵り、民子はいままでの女遊びについてのつらさを涙ながらに訴えた。


どちらにも非があって、どちらにも同情の余地があった。

だが、やはり、正一には民子が許せなかった。



「父ちゃんは堂々と金持ってぐけど、母ちゃんは泥棒みたいだもんな。そんな人と暮らしていけねえわ。父ちゃん、母ちゃんいるならおら達夫婦は家でっから」

「そんな、正一、わたしを見捨てないでけれよ‥‥、着物のことは悪かった。でも、これからはさ、それを償っていくから、勘弁してくれ?」




「————…母親あんたさ、他にも言うことあるべ?———謝ること、他にもあるべ?」

「—————なにが?———ないよ?」

「シラきるんだな。やっぱ信用できねえわ」



狼狽える民子にそれを静観する守也。


正則も深くため息をつき、正一の言葉を待った。



「おらや守也の口座から金とってたべ?———紀子の上京資金だって手を付けてしまって・・・何考えてるのよ?」

「・・・・・・・・・」

「バレてないと思ったのが?ここで話が上がらなかったら儲けもんだって思ってたのが?」

「———いつか、返そうと思ってたんだよ」

「思ってたんなら自分から言えや、何でおらから言うんだ、そこからもうおかしいべ?」



そこからもう民子が言葉を発することはなかった。


その日は正一が家に帰り、守也と正則があの家に留まり民子を監視して、これからのことを話して決める事となった。



別れるという正則に、別れたくないとごねる民子。

守也が夜仕事に行っている間、色仕掛けで正則とよりを戻そうとするも、それに夫が応じることは一度もなかった。




二人の離婚が成立したのは、紀子が東京へと上京した後だった。

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