第二章 失せもの
第4話
芳江の父親が訪れたのはそれからすぐのことだった。
運転手付きの高級車で訪れ,相も変わらずみすぼらしく見える家に顔を顰める。
それでも引き戸を開け、土間に入れば商売用の笑顔を作り、正則に大きな声で挨拶をしていた。
なんとも身の変わりが早いものである。
娘のことはもちろん愛しているが、自分が妾に産ませた娘を引き取ることは出来ないのだ。
自分は婿の立場であって、夫婦の間での立場も弱い。
芳江はここの生活になじんでいるし、本人にも帰る意思などなかったが、父親は出戻りさせてあげられないことを不憫に思い、顔を出せなかったのだ。
芳江が嫁いで数年。
これが初の婚儀以外での訪問であった
父親の義和が土間から居間に上がり芳江が淹れたお茶を飲んでいた。
「これ、お前好きだったろう?」
そう言って差し出してきた包みには、芳江が好きな羊羹がくるまれていた。
小豆の代わりに金時豆を使っており、通常の物よりも赤みが強いそれは、甘さがさっぱりとしていて後味もいい。
芳江は小さな時から父が標津方面へ行ったときなどに買ってきてくれるこの羊羹が大好きだった。
「ありがとう!お父さん」
「正一君は仕事かい?」
「うん、舗装道路作る仕事行ってる」
「そうか、みんな元気にやっとるのか?」
「うん、浜の人らは体が丈夫なの。私が来てから誰も風邪一つ拗らせないわ」
「そうか、そりゃあ良かった」
正則はそんな親子の会話を直視することが出来なかった。
自分が嘘を並べて迎い入れたことを一度も責めなかったこの人に、頭が上がらないからだ。
寺での祝宴の時も文句を言ってくることはなかった。義和には文句を言って祝言を辞めさせることが出来なかっただけなのだが、正則があの時ほど胸を撫でおろしたことはない。
「工藤さん、今日ここに寄らせてもらったのは、その、少し困ったことがありましてね」
「どうしました?」
「いやあ、最近ですとオリンピックに湧いているでしょう?それのために都市を整備するってんで、雇用もあっちに多くあるものですから、人の移動が多くて。去年から時期を関係なくして送別会がありましてね、その宴会場が予約がひっきりなしに入ってくるんですよ。まあまあ、雇用も増やして対応しているのですが、なんせ新人も多くて手が回らんのですよ」
「はあ、そうですか」
正則もかつてはそうやって社長という名の肩書を背負って、忙しさを自慢したものだった。
遠い昔の出来事にため息が出てくる。何しに来たのだろう?早く要件を言えばいいのにと正則は思っていた。
かつて自分が持っていた、名誉や自信や誇りを持っている目の前の恰幅がいい男と、あまり長い時間一緒に居たくはなかったのだ。
「つきましてはね、こちらの仕事が本格化するまで芳江をうちで働かせて貰えないだろうか?」
「———何言ってるの、お父さん」
「何とかなりませんかね?ほんの春まででいいのです。住む家も何とかありましてね…、ほら、正一君が街で仕事があるのならその家から通うといい!」
「—————まあ、そうですね。困っているのならしょうがないです。芳江さんしっかりやってきなさい」
「でも、昆布の仕事もありますし、ごはん炊きだって」
「昆布は守也にさせる、飯炊きだって母さんが夜になったら帰ってくるし、紀子だっている。あんたが作ってくれた漬物もあるしなんとかなるよ」
「でも―――…」
「いいから、行きなさい」
正則はピシャリと言い放った。
今はまだ守也の一方的な想いしかないようだが、芳江がそれに気づいたらとんでもないことが起る気がするからだ。
二人の空間にして、早く子供でも身籠って、守也に諦めをつけさせてやりたかった。
急に決まった話だったが、正一は意外にも乗り気だった。
「毎朝乗り合いでいげば朝早ぐで嫌になっけど、街なら遅く起きていいもな!」
そうやって上機嫌になる。理由がどうであれ芳江も新婚夫婦みたいに二人だけで過ごせることが嬉しかった。
父の勝手な決断に反対したのは残される守也である。
芳江の父が訪れた時は、用があって家には居なく一人だけ知らなかったのだ。
正則は正一の前でまた何かあったらいけないと、守也には自分で伝えるからと芳江に口止めさせていた。
そうして、すっかり二人が出た後にそのことを知らされて、おもしろくなかった守也は父親にその怒りをぶつけていた。
「なんで、急にそんなごとになんだよ」
「仕方ねーべ、大野さんが困ってんだがら」
「したけど!随分話が急でねえが?」
「…なしておめーはそんなにムキになんだがな。————知ってんだど、おめー夜中に昆布納屋でラジオ聞いてっべ?」
正則は隣り合う夫婦の寝床から聞こえる声を避けるように、守也が厚着をしてコッソリと出ていくことを夢うつつの中で何度も見ていた。
「・・・・何が悪いのよ、寝つけねーだけだ」
「ほう、それだげが?」
「————なにが言いてぇのよ親父」
「・・・あれは、ダメだ。・・・・わがるべ?」
「・・・・・・・・・おらがなにしたっていうのよ?なんにもしてねーべよ」
「・・・・そのままほっとけば、なんかするべ。おめーはちゃんと違う女探せ…」
いつもはやらない昆布仕事をやるために正則は昼間外に出る。
見よう見まねでてこずる父親を家から眺めていた守也は、くそっと叫びそこら辺の物を投げ飛ばした。
誰もいない昼間に、皿や湯飲みが割れる音が響く。
正則はその音を背中で受けながらも、咥えたばこをして顔を顰めながら昆布の手入れをしていた。
その数日後、守也は昆布を拾うことを辞め、違うところに働きに出ていた。
「芳江ちゃん!こっち片付け入ろう!あと一時間でここ開始だって」
「はい!」
芳江はこの旅館で仲居として”表仕事”をしていたが、今度は裏方の方へまわり、お客と直接やり取りの無い仕事を任されていた。
追いつかないのは片付けと皿洗いだ。厨房の方もお膳つけの手が足りず、それらを手伝う事もあった。
出来上がったお膳から運んでもらうために仲居たちに声をかける。
旅館の名が入ったシックな色合いの着物を着た仲居たちが元気にそれを運んでいく。
嫁入り前の芳江も、あの中の一人だった。
そんな思い出を回想できないくらいの忙しさが芳江を追いかけてくる。
そんな多忙を極める中でも芳江は料理人たちの手元を見るようにしていた。
どこか真似を出来るところがないか、新しい調理方法や奇抜なアイディアなどないかなど探って、料理の研究などもしていこうと思っていた。
基礎的なことは前に習っていたが、次の段階は詳しく勉強したことがなかった。
正則に飽きられないようにとも思うし、料理が上手らしいユキジに対抗する気持ちもどこかにあったのかも知れない。
見て分からないことは直接聞くのだが、忙しさゆえに怒られることもしばしばあった。が、やはりそこは仮にでもここの娘。
10歳の時からよく手伝っていた彼女のため、仕事が終わってもつき合ってくれる料理人さんたちはチラホラいた。
「まいったなこりゃ、残業扱いにならない悪質雇用だ」
終わりにはそんな冗談をいいながら帰って行く。
言葉とは裏腹に誰もが笑顔で厨房を去っていった。
「芳江」
「はい、親方様」
ここの旅館では両親のことを「親方」「女将」と呼んだ。
親方は仕事が終わった芳江に声をかけた。
時間はもうすぐ日付が変わる。
あまり遅いと正一の機嫌が悪くなるから早く帰りたいと思うのに、親方はご丁寧にも小さな客間に芳江を呼び、そこの椅子に座らせた。
「おめえ、実君に会っているのか?」
「ええ、ちょっと頼み事があって」
「————おかしいな、本人はそう言わんのよ」
「内緒にしてもらっているから、そうなのかもしれないわ」
「内緒って何?」
聞かれて一瞬戸惑う。
「あちらの両親に働いたお金を取られるから」とは言えない。
働いた金は自分で持っておくか、漁組の銀行に預ければいいのになぜそんなことする?と怪しまれるだろう。
”義両親がお金にだらしなくて—――”と言ってしまえば済む話なのだが、そうやって嫁ぎ先の株を避けてしまう言動は避けたかった。
「とにかく、頼み事をしているだけです。やましいことはありません」
「そうなのか?————では幸恵の思い過ごしなのだな?」
「————お姉さんがどうしたんですか?」
「いやぁ、お前と実君の仲を疑ってたんだよ。ほら、妊娠中によくあるだろ?」
そういう”親方”も、妻の妊娠中にこの旅館に来ていた”踊り子”にそういう事をしていたくちである。
後にその踊り子は子を宿し、芳江が生まれたわけなのだが・・・・
どの口がそんなことを言うのか?芳江は馬鹿らしくなってため息をついた。
「話がそれなら帰ります」
「ああ、ちょっと待て」
「まだ何か?」
「お前、ここに働きに来る前、正一君とあの家に通っていただろう?」
「いいえ?行ってませんよ?最後につかったのも、一月の新年会後です。一ヵ月以上使ってません」
「・・・おかしいな、最近ちょくちょく電気がついてるんだ」
「—―――電気は親方が通して下さったのでしょう?」
「まあな。正月に餅でも飾ろうと思ってな。そうしたらお前たちの艶っぽい声したから帰ったんだ」
芳江は顔を赤らめて”だからどうしたって言うんですか”と先を促した。
「この間行ったら石炭が減っててな、なんじゃ、やっぱあの家じゃあずましくない(居心地が悪い)から、この家で励んでるとおもったんだ。電気も時々ついてたし。お前たちじゃなかったか」
確かに石炭は減っていた。だから父親の義和が逢引してストーブを焚いているんだと芳江は思っていたのだ。
「あの女将と一緒ならば窮屈なんだべか?」正一もそんなことを言いながら、新しく石炭を買ってきていたのだった。
「———いやだ、お父さんじゃないの?———なんだか気持ち悪いね」
「う~ん、家持たずかもしれないから、気をつけなよ?」
「わかった」
ここら辺の浮浪者は寒さで凍死してしまうため、空き家に住み着く。
冬の間だけだが、同じ場所に住み続けるとバレてしまうので、ひと冬で何件か空家を変え転々とするそうだ。
芳江は紀子や嘉男に、『吹雪になって帰れない時に好きに使いなさい』と鍵を敷地内に置きっぱなしにしていた。
もしかしてその浮浪者にそのカギのありかを知られてしまったのでは?と不安になった。
芳江は帰ってからすぐにそのことを正一に知らせた。
「それでも、もうおらたちがそのカギを持っているんだもの、大丈夫だべよ」
「そうですよね」
「大丈夫だ、なんかあっても俺がいるがら」
正一は芳江を欲しくなった時、この上ない優しい顔つきになり、冷たそうに見える目つきも瞳孔を開くように大きな黒目になる。
まるで猫のようだと芳江は思った。
「サチみたいな綺麗な目」
「…サチって誰だがや?」
「猫です、ここで飼っていた」
「ねこか、おらの目がその猫に似てるのが?」
「ええ、とても」
「————…んだら、猫みてーにお前ば舐めるど!」
「キャ!あ、もう―――」
正一がふざけて首元をチロチロとくすぐれば、芳江はたまらずに笑い声を漏らす。
暫くそうやってじゃれ合って、今度は舌の腹を使って乳房の周りやぷっくらと膨らんできた頂を丁寧に愛撫すれば芳江の声は艶っぽく切なげに変化していく。
「もっと鳴いてくれ、いっぱいないでよ、おらの頭の中からっぽにしてくれや」
芳江はその意味があまりよくわからなかった。
「おらの頭をからっぽにして、あんたの声でいっぱいにしてくれや…頼むじゃ」
その言葉を聞いて、今でもこの人の中にユキジは生きているのだと思った芳江。
悲しくなるけど縋るように胸に張りつく正一が可哀そうになった。
「うん、いっぱい鳴かせて?あなたの手が触れると、私はいつだって幸せを感じるの。だから、私の中をあなたでいっぱいにして」
「————芳江・・・芳江。いい女だなぁ、おめぇは…」
正一は夢中になって芳江を求めた。芳江も涙を零しながら正一の愛撫を受け入れる。
この時二人は今までの比にならないくらいお互いを感じて幸せだった。
正一は初めて妻を名前で呼び、芳江は初めて敬語じゃない言葉で正一に想いを伝えた。
そんな小さな出来事でも、その晩の二人を大きな幸福感が包み込む。
いつかのように心が温かくなり、二人は求めあうように愛し合う。
夜が明けるまで続くその安らぎが、二人を新たな心境へと導いていった。
「朝だよ、———…正。起きて」
「————…んん…、朝が?芳江」
情事の延長でお互いを違う名前で呼び合う二人。
「なんか、なれないと恥ずかしいね」
「———ハハ、そんだな」
いままでどこかぎこちなかった二人も、やっと夫婦らしい会話を交わした初めての朝だった。
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