第3話

「さあさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」


威勢のいいもの売りが露店を連ねるお祭りで、正一と芳江は並んで歩いていた。

守也に結婚一周年を迎えたのだから、そんな日くらい二人で出かけて来いと家を追い出されてきたのだ。






ー数時間前ー




「んだがら!んなもん行げねってば!これやっちまわなかったらダメだべよ」

「んなの、俺と紀子と嘉男がいれば大丈夫だってば」



にこやかに見送ろうとする弟に対し怒りのままに言葉を荒げる正一。

その横で、沈んだ顔をして二人のやり取りを見ていた芳江は華やかな着物を着ていた。


「ねぇさん、今日は街で祭りがあるから、明るいうちに兄貴と行ってきなよ。夕方になったら紀子と嘉男を俺が連れてくから、交代で行くってことでさぁ。兄貴もそうしたら助かるなぁって言ってたしさ」


守也に言われてその気になり、一番気に入っている着物に着替えたのだ。

なのに、外に出てみたら正一は行かないとごねていた。



芳江はその様子を見て、自分だけ着物に着替えてしまい準備がよすぎたと気落ちした。


一年経っても夫の正一は、自分と出かけたくないのだと、改めて思い知ったからだ。



「すみません―――つい浮かれてしまって。…すぐに着替えてきます」

やりきれない思いを抱えて、その言葉を吐き出した。


四畳の部屋へと戻り、先ほどまで着ていた質素な仕事服に着替えるため、帯に手を掛けた芳江。


「ちょっと待て」


そう言って芳江の手を止めたのは、他でもない正一だったのだ。

「も、守也がうるさいからぁ、ま、まあ、仕方ねぇ・・が」


顔を赤くした正一はそう言いながら芳江の手を引っ張りずんずんと歩く。

「自分で歩けますから!」


可愛くないと思いながらも芳江は繋がれた手をブンブンとふるが、離してはくれない。


最寄りのバスにのり、露店街へついた二人はあてもなくぶらぶらと歩く。


「————”ドン”食うか?」

「いいえ、帯がきついので…、正一さん遠慮せずにどうぞ」

「———こんなもん、男が一人で食うもんでねえ」



子供みたいな言い草に芳江は呆れ、正一に聞こえないように小さくため息をついた。

今まさに圧力がかかり”ドン!”と大きく音をたてたところに行き財布を取り出す。


「美味しいところ、一つ下さいな」

「あいよ、今丁度できたとこだよ。————ありゃ~、こりゃとんでもない別嬪さんだな~、おいちゃんおまけしちゃう」



露店の親父がにこやかに言えば、それにつられて芳江も微笑む。

すると、怒ったように正一が二人の間に割って入ってきた。



「おまけはいいがら、やっとよこせや」

「なんだ、怖いな兄さん。あいよ」


正一は金と引き換えにドンを手にして、適当なところに座った。


ああこんなとき、紳士の方ならば、ハンカチを敷いて座らせてくれるだろうに。


正一ときたらいつも腰に下げている手ぬぐいをパンとひと叩きしただけだった。



「早ぐ座れ、食うぞ」

「———はいはい」


見栄っ張りで気の短い男だと芳江は思う。けど、腹立たしいことに家族以外の皆の前ではよく気が利く好青年を装う。

定期的にある婦人会の集まりで羨ましがられたものだ。



だけども、普段はそんな様子は天地がひっくり返っても見えることはなかった。


「ほおれ、食え」

差し出してくるのは優しさなのか、それとも女より先に手を出すことに抵抗があるからなのか。


よくよく考えたら後者の方にも思え、芳江は仕方なくその”ポン菓子”に手を伸ばした。



「久々です、美味しいですね」

「そうか、じゃあわしも食おうかな」


正一のその一言にフフっと笑いが漏れる。自分が食べたいがために芳江は巻き込まれてしまったようなもの。

どうにも可笑しく、その沸々と湧き上がる笑みを抑えることができない芳江は、手で口を抑えることもなく屈託に笑った。



「——おらの前でも、そんな風に笑うんだな」

「はい?」

「あんたは、他の奴らにはそいって笑うけども、おらの前で、んなふうに笑ったことねえ、初めでだ」

「そう、でしたかね」

「そうだ、浜のカカアは笑わねばダメよ。そやっていっつも笑ってろ」



どうにも不思議な男だった。急にへそを曲げる事もあれば、そうやって笑えという。今さっきポン菓子の店主に笑いかければ怒るくせにと。



「なかなか難しいお方ですね」

「あんたも難しいわい」


若い嫁がポン菓子を持たされて、その横から浅黒肌の男がむんずと掴み口いっぱいに頬張る。

その光景を客観的に見た芳江は、またさっきの様に笑いが漏れる。


正一もどこか穏やかな気持ちになったのか表情を緩めていた。









「もったいねぇな、誰も住んでらんのか」

「ええ。母が亡くなって10年、そのままです」



二人は芳江の生家を見に来ていた。芳江の花嫁道具はいったんここに置いてある。

いつ引き取れるとも決まってはないが、致し方ないことである。実家にも置くことは出来ないのだから。



着物で来てしまった芳江は少し窮屈に思え、スカートとブラウスに着替えた。


「衣替えもし(す)れ。寒くなってくっがら」

「そうですね、では」


芳江はセーターいち枚と厚手の綿素材タイツを二本、それとカーディガンを風呂敷に包み、着てきた着物をタンスに仕舞った。



「なんだぁ?着物は持ち帰んねーのが?」

「ええ、ここへ置いときます。浜のほうは湿気が気になりますので」

「んだな、ガスかぶりの日が多いもな。したけどなぁー、ここに置いてきぼりかぁ」



正一は少し残念に思っていた。とてもよく似合っていたからだ。

それを着た芳江を連れてバス停に向かうときなどは、村中の若い男から視線を集めて、どこか鼻が高くなっていたというのに。


「似合っでだのに、残念だじゃ」


芳江は少しの危機感を覚えてここに着物を仕舞っておくことを決めたのだ。

踊り子だった母が生前着ていた形見だったのだ。


だからこそ、どこかあの家に置いておくのは気がおけなかった

義母に一度褒められていたことも気にかかっていた。


義両親たちば”元”は家柄が良かったこともあり、物の目利きはできるようであったからだ。


人のせいばかりでもなく、金に困り自ら売ってしまうのではという心配もあり、一層のことここに仕舞っておこうと決意したのだった。


人目に触れず仕舞っておこうと思ったのは着物だけではなかった。






「では間違いなく受け取りました」

「いつもすみません。宜しくお願いします」


芳江は喫茶店で姉の夫、実と落ち合い金を渡していた。

拾い昆布で儲けた金で生活費の少ないところを補い、残った金は実を通して貯金してもらっていた。


自分で稼いだ金を漁組の預かり所に頼むのはどこか不安を感じていた。

どこか義理の父が干渉しないところへと考えた時、姉の夫である銀行員の実の存在を思い出したというわけだ。



「それよりも芳江ちゃん、困ってる事ないかい?」

「———いいえ、特には、大丈夫です」


本当はいろいろと問題はあった。けれども、ただでさえ自分に敵対心を向けている姉の手前、これ以上甘える訳にはいかない。

芳江にとって、その通帳を預かってくれるだけでもありがたいのだから。


事情があるだけに義実家に知られぬようにと代わりに入金までしてくれるのだ。


「遠慮せんで言ってよ?お義父さん(義和)も心配してるから」

「そうですか。でも、本当に大丈夫ですから」


父は身内の中で唯一芳江のことを心配している存在だった。多分、実が言っていることは本当なのだろう。婿養子として大野旅館の娘と結婚した芳江の父は、女将に逆らえない節がある。



「あんな一家だったとはね、詐欺に近いじゃないか、工藤の親父はいいこと言ってたのに」

「————島では確かにそうだったみたいですよ?」

「まあ、そうだべな。あっからここまで”家族全員”で生きて来れたってことは、只者じゃあねぇ金持ちってことだ。それでもあっちからなんも持ってこなかったんだろ?あの様子じゃ」


話しているうちに実の言葉が砕けていくのが気になった芳江。


そうしてどこか見下しているような発言も鼻についた。


「カメラと命だけでもやっとだったみたいです。その時乗って来た船は当分の生活費にと売ってしまったようですが」

「————もったいないね、引揚者の手当とか素直に受けてれば、船売んなくて済んだろうに。エンジン付きだったんだべや」


「そうみたいですけど、仕方ないですよ」


工藤正則はきっとこんなバカげたことはすぐに終わり、何年かしたら帰れると思っていた。

満州の様にそこに住んでいたものたちを立ち退かせたのは最近ではなく、半世紀ほども経っていたので、恨みもないはずだからと。


でも結果的にはロシア本土から夢の大地を謳って人々を移住させて、今では数万人が生活しているようだった。


こうなったら帰れるはずもなく話はこじれるばかり。結局正則は何もせず返還を待つだけの人となった。



いま、もしも奇跡が起きて帰ったとしてもあの頃から10年は経っている。

残してきた工場がまともに稼働などする訳がなかった。人為的にも機械的にもとても無理な話である。


それで酒ばかりを仰ぐろくでなしが出来上がったというわけだ。


父の正明はそんな息子に見切りをつけて一人東北へと帰って行き、数年後に病気で亡くなった。

そこで少しばかりの遺産を手にした工藤家は、正一の提案の元、一艘の漁船を買ったのだ。


それが今の生活の基盤を支えていた。







「じゃあな、今年も留守頼んだよ」

「はい、いってらっしゃいませ」



去年と同じように夫を出稼ぎへと送り出す芳江は幾分か柔らかい表情を浮かべていた。

あの祭りあとから正一が心なしか優しく接してくれるからだ。


隣近所の夫婦はどうか分からないが、男が女に尽くす傾向が何となく見えるあの村で、正一は全くもってそんな気配がなかった。

仕事には厳しく、妻を甘やかさない。


でも、夜の情事の前や後に少しだけ愛し方が変わってきていたのだ。


始まる前はいきなりだったというのに、ほぐすようにもなってきたし、胸に頬を寄せて甘えているようにも見えるときがあった。



他の男ならば愛する人の為、当たり前の行為なのだが、正一しか知らない芳江にとって痛いだけだった行為がほぐされることでいいものに感じ始めてきたのである。

焦らされると縋るように先を求め、正一に救いを求める姿を見ては彼も自分の中にある男の部分を解放していた。


正一が妻に対する愛情が出初めていた。


芳江はよく働き、近所の人らとも上手くやっている。



父親の正則が村の人らとトラブルを起こしても、それを窘めようと手作りの菓子を作っては配り、わだかまりを解いていた。

いつも悩みの種だった問題に向き合い、正一の心を軽くしてくれる芳江にだんだんと見方が変わっていったのだ。


「姉さん、今回はキチンと迎えねばだめだど?兄貴拗ねっから」

「うるさいど!早く先に乗れや!」

「はいはい~」

「んだば、行ってくっから」

「フフフ、はいはい」


決まりが悪そうに顔を赤くする正一に芳江は華やかに笑って見せた。


その顔に見惚れていた正一は最後に拾い昆布腐らすなよとぶっきらぼうに言って汽車に乗り込む。


その年芳江は、きちんと汽車が発進するまでホームで見送り続けていた。












結婚二年目の秋からは拾い昆布の他に仕事が増えた芳江。


漁組(漁業協同組合)の組員たちが共同で行う”底網”の組に入ることが出来たからだ。年間の経費を人数分で割り、共同で秋鮭あきあじの選別の仕事が舞い込む。



選別の他にも塩を揉みこんで”どぶ漬け”にして長期保存がきく塩サケを作ったり、細長く切って乾燥させた鮭とばを生産したりと、一つの工場みたいな仕事も市場の隅を借りてやっていた。

一軒の家庭では経費と人手がかさみ、とても大変な仕事でも、共同で助け合うことでそれは成り立つ。


年間の経費を差し引いても十分に利益は出る商売。もし仮に不漁になって給料が減ったとしても、賄いとしてシャケをもらえる分買ったと思えば損はない。


近年は水産研究部で春に稚魚を放流していることもあり、豊漁続きであった。



「おはよう芳江ちゃん」

「おはようございます」



市場に入ればあちらこちらから声がかかる。

芳江はもうすっかりそこに溶け込んでいた。



街で有名な旅館の娘。

その肩書だけで判断され遠巻きに見られがちだった芳江は、自らその印象を打ち砕くようにぶかぶかな作業着を身にまとい、砂浜に現れたのだ。


その話は面白おかしく、武勇伝のように各地域へと広まっていった。

ここで初めて会う人々も、その話を知ったうえで初めて言葉を交わす人も多く、その飾り気のない態度や振舞いにも絶大な好印象を与えた。



「ヤー今日もめんごいな~、でも嫁っこなんだもな~。こんな綺麗なおっ母もっでる男は幸せもんだな!」


この地域の人々は妻のことをおっ母かあと呼ぶ。男たちはそうやって芳江を褒めては夫である正一を羨ましがった。


「あんたぁ!私わだしだって美しいよ?はんかくさいごとばっか言ってねーで、さっさと魚持って来い!」


その美しさ故、嫉妬する妻たちが多いと思いきや、そんなことを言って笑いをとる妻たちが大半だった。

それほどに、働き者の芳江は皆に愛されていたのだ。

砂浜でも市場でも人々は活気に満ちていた。



忙しい中でも、”嬉しい悲鳴”とばかりに皆は笑顔で働く。

そんな中で仕事ができる芳江は、とても心が安らぎ居心地がよかった。


それはどこか旅館の仲間たちと仕事をしていた日々に似ていたからだ。



昆布漁は一家族でするもの。孤独とまではいかないが、夫の機嫌でその日の居心地が決まる。

船から上がる夫の顔を盗み見ては気を使わなければならない。

芳江にとってそんな毎日はどこか窮屈で気負いしてしまう。





「ぜんぜーんダメだってば!こいつの顔がぁ”オオカミウオ”だっけ、したがらみーんな逃げでしまっただ!」


不漁の日でもそんなことを岸壁につけた船の上で話す男たちに、女たちは丘でカラカラと笑いながら答える。


「あんたの顔だって”マンボウ”みたいだべさ!人のこと言えんのがい?!」


朝一番から交わされるそんなやり取りが、本当に芳江にとって楽しいものだった。



「うわー姉さん、旨そうだなぁ!」

「本当だ!今晩はご馳走だね!」



義理の妹や弟は芳江が持ち帰る魚に大手を振って喜ぶ。

サケの底網だからといってサケばかり採れるわけではない。


毎日のようにカレイやコマイ、ホッケなどの魚を持ちかえる芳江は、煮つけなどにして夕食にならべた。



「紀子ちゃん、ホッケ塩しておいたから、朝日が出たら干してくれる?」

「うん!任せておいて!」

「今度はおらが一人で干す!」

「あんたはダメ!ちゃんと網張んねえから、狐にとられる」

「今度はちゃんとするがら~」



何気ない兄弟の会話を芳江は微笑ましく見ながらだし汁に味噌を溶く。


中に入ってる人参もジャガイモも、芳江が裏の土をおこして畑を作り収穫したものだった。

浜風による塩害の影響か、あまり育ちは良くなかったが、それでも小ぶりのものがゴロゴロと出来ていた。





「うっせーど!!!」


妹弟の微笑ましい喧嘩は、正則の一言でピタリと治まる。

芳江も何となく子供たちを自分の後ろへと隠した。


「———なんだ、まあだ魚と菜なっ葉ぱが~、もう飽きたじゃー…、んだけどさ、あんた金あるべよ、たまには魚じゃねーもん食いたいなぁ」


芳江は朝早くから市場に出て、昼に帰ってくれば拾い昆布をして、日が沈むまで腐らせないようにと手入れをしていた。だから、割といい出荷率になっているのを正則は知っていたのだ。なのに代り映えのない食卓にあきあきしていた。



「———ごめんなさい。今日はこれしかないのです。勘弁してくださいな」

「ああ?金がねーのが?おっがしーな?」



正則はどこか芳江をからかうように聞いてくる。その顔がとても不快で芳江は少しだけ顔を顰めた。

正一は正則の生き写しのようにいい男なのだけれど、正一の気真面目そうな雰囲気とはどこか違い、常に口元を歪ませ性根が腐ってそうな顔つきをしていた。



自分が上手だとばかりに小ばかにするような表情は、島で”工藤カニ缶會社の御曹司”と呼ばれていた時から変わっていない。

全てを失くした後もその意地と余裕ぶる態度だけは無くすことがなかった。


「父ちゃん!黙って食ったらいいだろ!こんなに上手い飯なんだから!」


芳江の後ろで嘉男が言葉をついて出してしまうと、紀子は慌ててその口を塞ぐ。



「あんたあ!何言ってるの!」



紀子もつい口から出てきてしまったその言葉にハッとした。

いま、この父を止められる兄たちは居ないのだと。

機嫌を損ねそうな発言はしてはならなかったのだ。




案の定、そこには鬼の形相で三人を睨む正則の姿があった。


「こんのぉ!」


大きく手を振り上げて嘉男を叩きつけようとした正則。

バチン!!と大きな音が鳴ってよろめいたのはそれを庇った芳江だった。


間違いとはいえ、正則はその日初めて芳江を打った。

その途端酒が冷めたように正気になり、苛立ちながらも冷静さを取り戻そうとした。


嫁を殴ってしまった罪悪感から出た行動ではない。それほどまでに有権者との繋がりを持っていたかったのだ。



「あんたが急に出てきたんだからな!———おら、殴ってねーど!勘違いすんなや!」

「殴ったのは父ちゃんだろ!女を殴るなんて最低だ!」

「これ、嘉男!もうやめれや!」


嘉男はしばらくぶりに暴れだす父が怖いはずなのに、父親に反抗していた。自分に優しくしてくれる義姉の口が切れて腫れだしたのが痛ましく、その正義感が恐怖を越えてしまったからだ。



「ああ?!なにが言いてえんだ?!!父ちゃんが悪いって言いてえのが?———お前ら誰のおかげでそやって生きでると思ってんのよ。おらが必死こいてみんなで島から逃げてきたからだど?!母ちゃんを無事に連れて来れながったら、お前らここで生まれでねーんだど!」


また殴られる。芳江はそう思って必死に嘉男を庇うが、正則は土間から居間にあがり、茶箪笥を荒らし始める。


それを見た芳江は今日貰ったばかりの給料袋から何枚か札を取り出した。


「お義父さんすみません。———これで何か美味しいもの食べてきてくださいな」

「———ああ、そうするわ。おっ母に言っとけ」

「はい、分かりました」



正則が居間にかけてある冬物のコートに身を包み、粗々しく引き戸を締めて出ていく。

その足跡が遠のいていくのを確認してから、三人は安堵し、潜めていた呼吸を惜しげもなく荒げた。


「姉さん、大丈夫?」


紀子は慌てて手ぬぐいを冷やし、絞ってくれると芳江はほっとしたように顔を緩めた。


「大丈夫よ、心配かけたね」


紀子は泣きそうな顔をしながらも、そのきつく絞った手ぬぐいを手渡した。

その側で、嘉男はブルブルと震えていた。


「嘉男ちゃん、ごめんねぇ、びっくりしたねぇ」

「———べづに、こわくねえ」


そう悪態つきながらも、嘉男の震えは暫くの間止まることはなかった。













「あの人はあの人で、自分は役立たずだって自覚してんの。それをこっちから気づかせちゃあいけねーんだってば、馬鹿だねあんたら」


義母は軽くそう言って、芳江の作った煮つけを食べていた。

どこか的外れな発言に、芳江も返す言葉を失う。


義父が酒浸り暴力を振るうことが問題なのである。


しかし、彼の逆鱗に触れぬようにすればいいのだという義母の言葉には何の説得力も解決力もなかった。



要はそういう男なのだから諦めろと。

芳江は、こうやって妻が投げやりだから舅も段々と悪くなっているんじゃないかと胸の内で思っていた。



「あんたも実家に帰ってくれればあの人も安心するのに」

「え?」


芳江には意味は分からなかった。


「あまり帰んないがら、父ちゃんも目録が外れたって思っちまうんでないかい?」

「もくろくって——————目論見(もくろみ)のことですか?」

「———なんだい!ちょっと間違えただけだべさ!嫌味っぽいねまったぐ」

「あの、それが目当てで嫁に呼んだのですか?」

「ああ、そんだよ!それ目当てであんたばここに連れてきだの!」



この日の民子はよく口がまわった。言わなくてもいいことまで口を滑らせてしまう。近所の奥さんたちとこぞって行っている水産加工場で面白くないことがあり、苛ついていたのだ。それで帰ってから聞かされた騒動に、なおさら苛つきが増して、芳江をいびりたくなったのだ。


「だいたい、共同の鮭なんて行くもんでね、台風来て網壊れだらどうすんのさ、金べらぼーにとられるよ?」

「毎年全部経費に使わず繰越金もだいぶあるようなので、大丈夫だと聞いてます」

「————フンっ、そんな貧乏人が集まったような網元ごっこ組に入るやつの気が知れね!手っ取り早く工場でも勤めればいいのに!」


芳江は最初その気でいたのだが、夜遅くまで仕事がある事を気にしていくのをやめていた。

何となく義父の酒の飲み方が気になり、幼い兄弟たちを家に置いておく気になれなかったからだ。


自分が嫁に来る前は守也が家を守っていたけど、彼はいない。

母親の民子も工場勤務で深夜に家を空けることが多いのだ。



”「————もし、あれだよ?嫌なことあったらよ、実家さ帰ってもいいんだよ?」”守也がそうやって心配していた意味もそこで知る事となった。


男手が不足してしまう正月前と年始はじめは自分がこの家を守るのだと芳江は心に決めていた。










「おかえりなさい」

「おお、帰ったど」




年末に帰って来た正一に芳江は心底安心した。

義両親の本性を知ってしまった今、とても頼りになる人が戻って来てくれたのだという気持ちで夫がより愛おしく思えた。





「なんじゃ?積極的だのう」

「———いいじゃないですか、早く抱いてくださいよ」

「・・・いい女になりおって、誰に習ったんじゃ?」

「いじわるしないで下さい、私はあなたしか知りません」



芳江が恥じらいながら言えば、正一はとてつもなく興奮を覚えて粗々しく芳江をまさぐる。

日のあるうちからこんなにも大胆に出来るのは、先に守也を家に帰らせて、自分たちは芳江の生家によっていたからだ。



「誰もいねぇんだ。もっと声出せや、ん?」

「は、うぁ、ああ!」

「いいのが?ここが?こっぢが?」

「はい‥いいです、ど、ちらも、とても・・あ、ん」




正一は芳江の股に顔を埋めてなめまわす。この男がここまでして女に尽くすのは芳江で2人目だった。

芳江はその初めての快感に腰をくねらせながらも没頭して、初めて昇りつめて突き抜ける感覚を味わう。


激しく呼吸を乱し、ガクガクと身体を震わせる芳江に、たまらなくなった正一は自分の物をあてがい、ゆっくりと熔けていた溝に分け入れていく。



「————あったけぇな、すぐいってしまうわ」


正一もまた、こんなにも柔らかく敏感にうねっているそこに、自身を埋めるのは初めてといっていいほどの強烈な快感を味わう。


「おめー、俺がいねえ間まにこんな事してたんじゃねーべな?」


全てを吐き出した正一は、愛しさ余るがゆえに、そんな冗談をこぼしていた。

裸の芳江の胸には、正一から土産にもらった小さな首飾りがかけてあった。


細かな細工を施されたそれには、控えめに小さな宝石があしらわれたもの。

それを見た芳江は、”そんな高価なもの!”と叱責しっせきしそうになったが、なんとかそれを抑え込んだ。


「いいべ、それ。物売りが来てバッと広げた時どぎ、あんたの顔が浮がんだがら買ったのよ」


そんなことを言われれば、何も言えなくなってしまったのだ。



しかし、なんとも不思議な男である。

初夜の晩には然りと”君を愛せない”と宣言したというのに、帰ってから毎晩のように身体を求めている。


身体ばかりか唇まで合わせてくるのだ。

どこか不器用にガツガツとぶつけてくるそれに溜まらなく芳江が笑えば、すぐヘソを曲げて不機嫌になる正一だが、身体を求めることは辞めなかった。


行為自体は慣れたものなのに、愛を交わす”口づけ”を苦手とする正一は、それでも懸命に唇を屈指して愛撫をしていた。

寝正月とはよく言ったもので、大晦日から三日三晩、二人は電気の通ってないその家に籠り続けていた。



「これだけやれば宿るべ」


三日目の晩にそう呟いた正一に、芳江は今までの優しさは後継ぎの為だったかと落胆した。



「なんだば、もう一回が?」

「もう、たくさんです。腰にきていますから」

「っは、そうが」


満足そうに呟き、置きっぱなしだった布団ごと芳江をくるみ、穏やかな表情で眠りにつく正一。


芳江はそうやって正一に親切にされるたび、嬉しいはずなのにどこか不安を感じていた。

後継ぎが出来たら、自分は捨てられるのではないかと。

今ある幸せは、これから生まれてくる子供ごと全部奪われ、旅館にも帰れず路頭に迷うのではないかと。


実家の両親と交流がないと分かったいま、家から追い出される光景が頭を掠めていた。


自分には仕事しかない。捨てられないためには仕事を一生懸命にしてこの家に貢献すること。



いつしか芳江は、それが何より大事なことのようにに思えてきた。


「ほう、今年こどしは飯寿司があるのか!贅沢だやな!」

「ええ、底網の組に入れましたから、賄でもらったのです」

「———なんだや、いつの間にそんなん入ったんだ?」

「・・・今回からです…ダメでしたか?」


芳江は怯えながら質問をした。いつかの民子の言葉が頭をよぎり、目線を落とす。

そうしたら案の定、低い正一の声がした。


「だから昆布が去年より少なかったんだな」



その言い方にどこか傷ついたように表情を曇らせる芳江に正一は慌てて言い返した。

「少ないがら、どっか悪ぐしたと思ったんだ、責めてるわげでねえがら」

「どこも、悪くありません。」

「そうが、そりゃよがった」



安心して笑顔を見せる正一に、芳江はやはり合わせる目がなかった。


この人の優しさが終わってしまう日が来ることが、前にもまして怖くなってしまったからだ。



「明日は例の共同鮭漁の新年会があるそうなので、行ってまいります」

「・・・・遅くなるべ?帰りどうすんだ?」

「そのままあの家へ泊ります」

「———ダメだ、男連れ込む気だべ」

「————なにをおっしゃいます、気でもふれたんですか?」

「・・・・・・本当に新年会だが?」

「本当ですよ、お隣に聞いてくださいな」

「———やっぱダメだ、信用でぎね」


おかしな話だとおもう、後継ぎさえ生んだら他の男と浮気してもいいようなことを言っていたのにと…。


そこで、芳江はそうかと納得した。

後継ぎはまだ生んでいないし、身籠ってもいない。自分以外の子は誰だって勘弁だろうと。


芳江は全くもって他の男と浮気などする気はなかったが、夫がそのことに不安を覚える心境は何となく理解できた。


「ならば、紀子ちゃんや嘉男ちゃんも一緒に連れていきます。それで納得していただけますか?」

「————まあ、それならいっかな。」


やっともらえた返事に芳江は心の中で溜め息をついていた。






「嘉男、ちゃんと鼻拭いて。姉さんに恥かかせないでよ?」

「わがってるって~」


義兄弟の二人はバスの中でそれぞれの身なりを整えていた。

どちらの服も、芳江がお正月の三が日を留守にしてしまった罪悪感から買い与えたものだった。



会場は温泉大浴場がついた日帰り温泉施設だった。

小さな食堂には風呂上りに食べるアイスクリームや牛乳や各種瓶ジュースなども売られていた。


その他、宴会なども出来る大きな広間がいくつもある人気の施設だった。



「うわ!広ーい!」

「おら初めできただ!すっげー!」



お姉さんに恥をかかせるな。バスの中での誓いはどこへやら。

姉と弟は大声をだしてはしゃいでいた。芳江は少し恥ずかしく思うも、喜んでいる二人を見ているとそんな気持ちもすぐに消えていった。



「これでおらも恥ずかしくないな」

「あはは、ねーさんのおかげだね嘉男」


その会話の意味が分からなかった芳江は首をかしげてみせた。


「おらだけなんだ、こごに来たごとねーの」

「そうだったの?」

「うん、今日が初めで!これでおらも行ったって自慢すっだ!ありがどな、ねーさん!」



そんな会話を交わす芳江たちを、組のみんなは微笑ましく見ていた。



嘉男は男たちに任せて男風呂へいき、芳江と紀子は女風呂へと足を運ぶ。



「うわー、紀子ちゃん、胸大きくなったね~」


芳江がからかうように言えば紀子は恥ずかしがって胸を隠す。



「あっれまー、ほんとだじゃー。芳江さんもう少しで抜かれるんでないの?」


いつものように冗談めかして言ってくる女たちに芳江はムッとして「どうせ私は小さいですよ!」といじけると、元気出せとばかりにバンバンと背中を叩いてくる。

その叩き加減が痛いくらいだけど、悪気がないのは知っている。


やはり芳江はこの人たちといる時が一番心地いいと感じていた。



明日は母の加工場でも新年会があるそうだ。何でもバスを貸し切って一泊の旅行に行くらしい。


「温泉センターがい?はっはは、わびっちいね。わしらは阿寒温泉で一泊だよ」


ここに行く前にそんなことを言われた。

「今からでもいいよ?お母さんと行くかい?」



芳江がそう声をかけた途端、民子は怒りだし会社の迷惑になるから連れていかないんだと叫んでいたのはつい半日前のことだった。


「ねえ香子さん?」

「なあに?」

「ちょっと聞きたい事あるんだけど」

「だからなにい、やっと言え」


お湯にどっぷりと漬かり、しびれを切らしたように先を促すのは、この組の女衆で一番の元気者の香子。

いつも男たちの下らない愚痴にちゃちゃを入れてみんなを引っ張っていく存在だった。

そんな彼女に、芳江はいくつか聞いてみたいことがあった。


「皆さんは街の工場に行こうとは思わないのかしら?」

「———は?」

「だって、その、言いにくいのだけれど、お金を稼ぐって点ではいい環境でしょう?働き口もいっぱいあるし、送迎バスも毎日色んな加工場から村に来ているわ」

「————あんた、何も知らないんだね?」

「何もって?」

「———おおっきい声で言えねっけどさ、やばっちいんだよ?」

「やばっちい?」

「うん、中にはどこの素性かも知れん人とかも紛れ込んでるんだと」

「ええ?」

「んで、人殺しも前にいて、捕まったらしいど?」

「ひ、人殺し?」

「うんうん、まともな人も、もちろん居るんだけども、借金取りから逃げてたり、村八分になった人らもこの東になだれ込んでくるんだど。んで、いよいよ追い込まれたら、もっと東に逃げるらしい」

「もっと東って――――え?島にってっこと?」


香子は肯定するように何度も頷いた。



「ひぇ~・・・あんなどこに逃げて生きていけるってかい?」

「よぐわがんないけど、いざとなったら行くらしいわ。捕まったら死刑になるから、怖いもんないんでない?」

「なんだかよくわかんないけど、おっかないねぇ」



芳江たちがひそひそと話していれば、他の女たちもそれに混ざってくる。

これ以上年頃の紀子には聞かせたくない気持ちがあったのだが、女たちの興奮は止むことがなかった。


不倫の枠をこえて、男と女の入り混じった”交換会”が行われるらしいとか、あまりに疲れるからクスリを打って仕事してるだとか、その副作用で異常に機嫌が良すぎる人がいたり、一升瓶片手に怒鳴り散らしてる人もいるらしいと。


あくまで噂だけどねと締めくくられたが、どれも本当の話に聞こえてしまう。





「お母ちゃん、大丈夫なんだろうか?」

紀子が心配そうに呟いた。


「———大丈夫よ、あなたのお母さんはきっと、どれにも当てはまらないはずよ」


そう笑顔で安心させるように芳江は言ったが、本心ではそれと裏腹に胸をざわつかせていた。


「あー気持ちよかったー!」

芳江に心配をかけないようにしているのか、紀子は気丈に振舞っていた。



「あー、嘉男!ズルい」

嘉男は先に上がっていたようでアイスを食べていた。

もう半分以上は無くなっている。


「姉ちゃんが遅いんじゃ、わしは悪くない」

「誰に買ってもらったの?」

「(隣に住んでいる)さんちゃん」

「さんちゃ~ん!わたしにもアイス買ってよ~」

「わ、なんだ、このクソガキ二号め!」


そんなことを言いながらも”さんちゃん”こと三四郎は財布を取り出して紀子にアイスを買ってやっていた。


「すみません!二人分も!お支払いします」

「いや、いいよ。芳江さんの風呂上り見れたから、それでいい」


どこかその目線がイヤらしく、嫌悪感を抱く芳江に三四郎は頭を掻きながら正一に言うなよと笑いながら去っていく。



「あいつすけべぇなんぞ」

「スケベぇ?」

「うん、女ばとっかえひっかえしては、小島に連れ込んでる。おらあいつが女とやってるの何回も見ただ」



嘉男の口からつらつらと出てくる言葉に芳江は戸惑いを隠せなかった。

芳江はチャン付けで呼んでいたが、嘉男もあと半年の7月で十一になる。

そういう年頃なのかと思い、ちゃんを君に変えようかなどと考えてたとき、また問題発言をしてきた。



「姉ちゃんも姉さんも気をつけなよ?見境ねーがら、あいつ」


「———要するに、あんたはそれを覗いてるわけだ」

やけに冷静な紀子がそう言うと、嘉男は顔を赤らめて慌てだす。



「~~~~っっ、しゃーねー(しょうがない)べ?!あいつが俺らが遊んでるところに来て、すけこましてるんだもの」

「ウソつきなさい!あんな船でしか行けない場所になにしに遊びに行くっていうの!あそこは昔からそういう場所だべさ!」


紀子も顔を赤らめながら嘉男を叱る。



普段は好かない話題でも、これには流石に芳江も笑ってしまった。

それからは大広間に移ってそれぞれ長机の前に座り、豪華な料理を頂く。


嘉男も小さな皿に少しだけ入ってる料理を嬉しそうに見ていた。



「こんなこまい皿みだごどね、すっげーなぁ、センターは」

嘉男の純粋な言葉に誰もが顔を綻ばせていた。



食事が進めば酒も進む、酒が進めば陽気な男たちは下世話な話で盛り上がる。

またしても、義妹弟たちの耳を塞ぎたくなる瞬間が芳江の中に何度もあった。




「姉さん、大丈夫だよ。私たち慣れてっから」

「慣れているの?」

「うんいつもだよ、姉さんも知ってるでしょ?」

「そうだけど、お祭りや奉仕活動の時はもっと大人と離れてるし」

「うん、でも丸聞こえだから」

「そうそう、おらだちみたいな男は聞き耳たててるよ」


最近の子供はませている。そんなことを芳江は思った。


「正一はどうだ~?いいのが?あいつ然りとやってるが?」

酔っぱらった三四郎は腰をフリながら下品に聞いてくる。

芳江は聞こえないふりをして、紀子と会話を続けていた。


「なあなあ、芳江さん。おめえさんまだ孕まないんか?おっかし―なぁ?————ああ!わがった!あいつまだひきづってんだべ!?」


それでも無理やりに話してくる三四郎。”引きづってる”の言葉に芳江は反応して無口になった。



「ああー!やっぱそうだべ!あいつまだ好きなんだべ!ユキジ――・・んーんー!!」

そこまでいった時、周りの男たちが酔っ払いは処刑だって言いながら、三四郎をズルズルとひきづり連れ去っていく。



ユキジ・・・その名前には憶えがあった。

”ゆきちゃん、ゆきちゃん”


初夜の夜に正一が呟いていた名前。多分、ゆきちゃんがユキジなのだろうと、芳江は勘づいた。

でもそんなことは昔のことだと自分に言い聞かせる。


胸元に下がっている首飾りを浴衣越しに触れる芳江は、正一の言葉を思い出していた。

行商が来て商品を広げた時、真っ先に私の顔を浮かべたと言ってくれた。


正一はあの頃と随分と違う、彼女を重ねるのではなく、自分を見てくれていると芳江は信じていた。





「あれ、電気がつくね」

芳江は玄関先で電気をつけようとした紀子を止めようとしたが、パチッと当たり前のように玄関照明がともる様子に首を傾げた。

「どうしたの?姉さん」


「ん?いいえー、何でもないわ。さあ、上がりましょう。だるまストーブに石炭を汲んで火をおこさないと、凍ってしまうよ」

「んだーさみじゃー、はやぐ火ぃおごすべ!」」


誰も住んでいないはずの家に石炭があり電気が通ってる。

前に来た時、石炭は正一が買ってきたのだが、電気は通ってなかったはず。

不思議に思う芳江だが、また父親が若い女でも見つけて、ここで逢引きしているんだろうと思っていた。




「良かったね、嘉男」

「えへへ、運良かったな」

「運?まったぁ、調子がいいんだから」


宴会の終わりに貰った景品、それを嘉男は大事そうに抱えていた。

今年は子供がいるからと、いつもは腕相撲勝負のところを、綱とりくじに変更してくれたのだ。

ルールはいたって簡単で、数ある綱紐から鈴付きの紐を選べば勝ちだ。



親は綱を混ぜて投げるように広げて、子はそれを一本選ぶ。




鈴付き綱を引いた人が勝ちで次の親になり、誰も鈴を引かなかったら親の勝ち。

勝った人は点数十の札をもらえて、百点たまった人から一抜けて景品を選べると言う訳だ。

今年の売り上げの一部を使い、万年筆やノート、色ペンなどの筆記用具から、菓子詰めや、映画の切符引換券など、色々なものが用意されていた。



その中でも嘉男にとって一番に輝いて見えていたのは、東京通信工業から出されているトランジスタラジオだった。


以前まで真空管を使う重いものだったのが、半導体の導入により小型化が実現になった。

嘉男は幼馴染の家に行った時に見せてもらったそれが欲しくてたまらなかった。


皆も、子供や弟たちを残してきた手前、その土産を狙っているのもが多かったが、芳江と紀子の三人分の点数を合わせて一つという特別ルールを認めてもらった嘉男。


三人分ともなればすぐに点数がたまり、見事嘉男は念願の商品を手に入れたというわけだ。



だるま式ストーブの火がまわると、洗い場の方の水を汲みだし綺麗になってから薬缶にいれてストーブの上に置く。

乾燥から喉を守る加湿の為でもあるし、お湯が湧いたらお茶かコーヒーでも淹れようと考えていた。


家の中が温まってくれば、嘉男はラジオと思いっきり向き合うことに夢中になった。

宴会の席では大人たちの声が多すぎて、よく聞こえなかったからだ。


周波数がピタリとあうと、そこから軽快なジャズが流れて来た。




「クリスマスみたいね」

「んだ、しゃれてんなぁ」


そんな二人の会話を芳江はニコニコしながらいつまでも見ていた。



「ただいまー!どうだ、守にい!いいべ!」

「おお何だべな?いいな、ラジオが?」

「おー、くじで勝ったんだ。連勝続きでおらの一人勝ちよ~」


大げさに言う嘉男に芳江と紀子は顔を見合わせほほ笑んでいた。



「おお、帰ったが?嘉男はいいもん持ってんなー、紀子は?なにもなしが?」

「ううん、お情けで色ペンもらったの」

「おう、上等じゃないか。————あんたは?なんかあてたか?」




正一は愛しそうに芳江に話しかけた。



「いいえ、私は遠慮しました」

「そうか―――、あんたは優しいもんな」



珍しく優しい言葉をかける正一に芳江は目を丸くして驚き、すぐに頬あげてほほ笑む。


「————いいなぁー、お前だじはー、———おらも行きたかったな…」


芳江の表情を視界の隅に入れながら、守也は寂しそうに呟いた。



その目は深く絶望していて、悲しみを一生懸命に隠すようにも見える。

誰も気づくことのない、守也がひっそりと抱える苦しみだった。












「いやーいや、今年は不運だったな。まさかいらねって言われるど思っでながったでや」



そんなことを言いながらも守也は楽しそうに拾い昆布をしていた。

いつもなら正月明けから道路工事の仕事が舞い込むが、今年は希望人数も多く、未成年よりも体が出来上がっている男を中心に選んでいるとのこと。


子供っぽかった守也も18になり、男度が増してきたが、やはり働き盛りの正一たちには今一つ敵わなかった。


「ねーさん、いい、おらがやるから」



海から上がって昆布を波打ち際で洗い、それを背負って干し櫓に干す。

身体の小さな芳江にとってそれはかなりの重労働だった。

干し櫓に干すときなどは踏み台や梯子を使わなくてはならず、それが何とも心許こころもとない。


ぐらついて今にも落ちそうな危なさがあり、思わず守也も止めに入る。

背の高くなってきた守也は、少し背伸びをするだけでそこに昆布をかけることができた。




それが芳江にとっては何ともおもしろくない。

嫁に来た時は頭半分くらいの差しかなかったのに、一年と少しでこんなにも変わってしまうのかと。



「それやるなって言われたら、私はなにをすればいいのさ」

「下にあるコンブを俺にわたしてよ」



一瞬だけどこか変に思えた芳江、なにが変なのか分からない。



「・・・・何?俺の顔になんかついてる?」

「訛らなくても話せるんだ」

「うん、俺中学卒業したら東京行こうって思ってたから、練習してたの」

「———ふうん」

「どう?印象変わる?」

「べつに、普通だよ」



何でもない風に芳江は装った。

でも、普段はどこか田舎臭く思えてしまう印象も、持ち前の顔の良さがより一層ひきたついい男に見え、芳江は少しだけドキリとしていた。



最近は背も伸びて、顔つきも子供っぽさが抜けてきた守也。

ただ、その顔が正一をすこし幼くさせたように見えるから、見たことのない過去の正一を重ねただけだろう。


芳江はそう思うことにした。



「あ、姉さん。長胴に穴空いてる。ひっかけたのか?」

「え?本当?」


守也が穴のか所を知らせると、そこをかがめてみる芳江。

少しだけ胸元が見えそうで守也は慌てて目を反らす。



「本当だ。どうしよう、大事にしろっ言われたのに、怒られちゃうな」




芳江が正一の作業着を着る光景を嬉しそうに笑っていた正一。


「もういい加減買ってやる」と言われ、組合横の販売所を二人で訪れたのは去年の夏の終わりころだった。


それからまだ一年も経っていない。


「どうしよう、せっかく正一さんに買ってもらったのに・・・」




守也はその呟きにどこか傷ついた。そんな何気ないことでも兄の正一が羨ましくてしょうがない。


自分はこの人に何もできないと考えれば、更に悲しみが重なっていくようだった。


「守也君?どうしたの?」


「———何でもない。どうしようか、これ?—―――あ、機械屋によ、いいのあるって聞いた。何でもくっつくのりがあるんだって。行ってみる?」

「いいよ。正一さんが帰ってから相談してみる」

「でも、兄貴が帰ってくるのは日が暮れてからだよ?店が閉まっちまう」

「うん、それでもいいの」


「だめだって、明日も天気が良さそうだし凪がいいから、昆布拾えるし、な?今行こう?」



守也は半ば無理やりだった。芳江の返事も聞かず、どこからかバイクまで調達してくる始末。

芳江は渋々着替えて後ろに乗らざるを得なかった。


芳江がこうゆうものに乗るのは初めてだった。

バスとも車とも違うそれに跨れば怖くてドキドキする。



「腕ちゃんとまわしてね」



遠慮がちだった手を、お腹までまわされて掴ませる。

自分の身体が彼の背中に密着するのが恥ずかしかった。



守也が吹かして走り出せば、後ろに引っ張られる感覚があり、慌てて抱きつくように守也にしがみつく。

こうなることが分かっていた守也は潮風を流しながら風を切る。


自ずと顔も誇らしげに笑みを含み、穏やかな表情をしていた。

好きな女をバイクの後ろに乗せる。

普通の男ならばすぐにでも叶いそうなことも、守也には到底無理な話。


この時は破れてしまった長胴に感謝してもいいくらいだった。




「帰りによ!」


「んん?!」


「帰りに!どっか寄ってくべ?!」


「どっかってどこ?!」


「どこでもいい!真っ直ぐ帰んないでよ?!どっかに行くべや!」


自分たちを知らないところに守也は行きたかった。出来ればこのまま連れ去りたい気持ちもあった。

でも、偉大な兄を前に、そんなことをできるはずもない。



分かっているから少しだけ、少しだけでもいい。


ほんの小さな思い出が欲しかったのだ。






守也が機械屋で例のボンドを手に入れると、次に向かったのは大きな灯台がある崖っぷちだった。

夏になるとハマナスの花が咲き、秋にはその実が成り、ボロボロと大粒なものが一面にある低い木にぶら下がる。


少し前までは、紀子がその実で”ジャム”を作るから、ここに連れていってとせがまれたものだった。


冬の今は、枯れた笹の葉に雪が少しのっている殺風景な景色しかない。

まるで自分の心の中のようだと守也は思う。


「なーんもねーな」

「でも、夕日が凄くきれいよ?灯台の汽笛も大きくて迫力あるし」

「大正初期に作られたんだと」

「ふうん・・・」



段々と言葉が戻ってきた。やはり訛っているのが話しやすいんだろうか?


それとも、東京はもう諦めたから必要がないのか・・・


芳江には判断が難しかった。




「どうして東京に行かなかったの?」


「———武翔たけとがいなくなったからだよ。兄貴とタッケがここに残って、下の兄弟たちの面倒みるって決めてたから俺は上京しようと思ったんだ。———けどよ、あいつ、死んでしまったから」


「それで、ここに残ることになったの」


「うん。兄貴一人じゃあ辛いだろ?」


「お兄さん思いなのね」


「———いいや、そんな立派なもんでねぇんだ、おらは」


「そんなことないと思うけど?」


「―――いいや、ダメだよおらは」ーーーーーだって、兄貴の嫁っこを、愛してしまったんだもの。




守也は言いたい言葉を一生懸命に口から出ないよう堪こらえた。




「言葉、変わったね」


「————ハハッ!気取るのもいいっけど、やっぱしこっぢの方が楽らぐだじゃ」



守也の言葉に芳江は笑った。そうして暫くの間、二人で夕日を見つめていた。






二人が帰ったのは日がすっかり暮れてからだ。

正一はもう帰って来ていた。紀子や嘉男も心配そうに飛び出してくる。



いつものように民子はいなく、正則はだるまストーブの上で鮭とばを焼き、守也にも芳江にも特に反応することはなかった。

芳江が土間に入れば、開けたままの引き戸を目掛けて守也はバイクを返してくると声を張り、けたたましくエンジン音を響かせ去っていく。



「いやぁ、守もりにいもカッコいいなぁ。タッケみたいに似合っどる」


ストーブの前に座り、正則から焼けた鮭とばを受け取った正一は嘉男の呟きに鼻で笑う。


「なにがカッコいいのよ、うるさくて油臭いだけだべ。おう、腹減ったど」

「はい、すみません。遅くなりました」



正一はバイクに芳江を乗せたのが面白くなかった。

バイクは武翔の命を奪ったもの、あまりいい風におもっていなかった。





食卓にご飯に煮つけ、漬物のニシンの飯寿司が並ぶ。

そのお決まりなメニューにまたもや正則は溜め息をつく。



「雪の料理が恋しいな。あいづは同じ魚でもおんなじふうにしなかったっけ」


小さくそんなぼやきも口にする。芳江は一生懸命に聞こえないふりをした。



「確かにそうだっけど、そんなこと、いまゆうなじゃ。こいつはこいつで、基礎がなってんだから、まずいもんでねえべ」


芳江を擁護しながらも、決してゆきじを見劣りさせない言い方に、彼女はどこか引っかかるものがあった。


もうここに居ない人にそんな風に気を遣う正一にどこか不安になる。



「黙って食えや、二人とも。姉さん可哀そうだべよ」


正一が芳江を見れば、確かに悲しそうな顔をして俯いていたが、守也の一言で首を小さく振り、作り笑いをしていた。


自分は夫らしく妻を庇ったつもりなのに、守也の言葉の方が芳江を救ったようで面白くない。


「—————守也よ、もう二度とおらのおっ母かあをバイクさ乗せねえでけれ」


「なんでよ?」


「なんでもだ。こんな寒い日に風邪でも引いたらどうすんだ?」


「———でも、私が頼んだのですから、守也君は悪くないです」


「———ああ?頼んだ?」


「はい、貴方に買ってもらった長胴に穴が開いてしまって困り果てていたのです。いいボンドが売っているお店があると聞いたものですから」


「——————んだども、明日一日おらの長胴つけて海入ってよ。あとからバスで行けばいいべ。あぶねえからもう乗るな」


「・・・・すみません」


食卓は会話もなく静まりかえる。

守也は大きなため息をつき、ふだん口ごたえしない兄に向って言葉を放つ。


「いつまで親の仇みたいにしてるんだ?ただの機械だべよ」

「ああ?口ごたえすんのが?」

「べづにしてねぇ。」


それから口喧嘩が発展するわけでもないのに、引き続き静かな晩飯時間になった。


いつも冗談ばかりいう嘉男も、さっさと平らげ隣の部屋にいき、ラジオをつけて聞き入る。




その音が静かな家の中に反響していた。






床に入ってからもぐちぐちと文句を言ってくる正一は、夏の間の昆布漁を思わせるしつこさがあった。

終いには、近所の人が親切に誘ってくれた底網のことまで文句をつけてくる。

頭数を増やす為だのに、まんまと引っ掛かりおってと酷いことを言いだす始末。



最近では居間と家族が寝ている大部屋の間の夫婦の寝床で、夜の生活も大っぴらにしていたが、その日は不貞腐れたように正一は寝てしまった。


年が明けてから「おやすみ」と言いながら抱きしめるように寝てくれるのに、背中を向けて顔も見せてくれない。



そのことが知らぬ間に涙が流れてしまうほど悲しかった。


距離が近くなったと思ったのにまた突き放される。



こんなに心乱される人はこの世にこの人しかいない。

それが何とも悲しくて切なくなる芳江は、やはり正一という存在は格別に愛しい存在なのだと確信した。








「あいつは、———守也はまだ子供だかんな。あんましからかってやるなよ?」



昼めしを作るため土間にたっていた芳江に、正則は静かに説いた。

言った後も外にいる守也が帰ってこないかとチラチラと見ていた。



「あれはすぐこうなってしまうから、だめなんだ」



両手を顔の横にかざし、”それしか見えなくなる”という仕草をする正則に芳江は顔を傾けた。




「あんたは正一をみとったらええんじゃから」

「———はい」

「それと―――、あんま人を信用すんのも、ダメだよ?」




何でそんなことを正則が言ってくるのかが芳江は分からなかった。

それよりも、最近になって大人しくなった正則の方が違和感がある。


酒を控えたと思ったら顔つきまで変わってきた。


去年の暮は凄い形相で睨んできたというのに、あれ以来正則は腹を立てることがない。



「なんだ、また干したカレイか―――」



相変わらず飯に対する文句は健在なのだが、金を持ってるくせにと嫌味を言うことは無くなっていた。

今までは帰ってこない日も多かったのに、最近では昼間出かけても夜には帰ってくる。


金を無心されるがなくなることはないが、


「床屋に行くから200円くれ」

「煙草を買うから50円くれ」


と、最低限必要とされるものばかり。



芳江一人の稼ぎで言ったら、一日の平均800円くらいの稼ぎで、多くコンブが寄った時などはその倍以上の2000円くらいになる。


だいたい20キロの米が買える値段だ。


今までは何日分の稼ぎを一度に巻き上げられていたことを考えれば、とても取るに足らないかわいいものだった。



「いま、長篠さんに母ちゃんから電話入った。母ちゃん今日も帰ってこんと。鱈が凄いらしい」

「————まだが、最近は泊りが多いの」



正則は焼けたカレイをほぐす手を止めて呟く。それがどこか元気がないように見えた。

前までは女遊びをしていたせいもあって、若く活気に溢れていた見た目も、どこか疲れたように見えてしまう。



確かに今年は鱈が豊漁だった。鮭共組でも冬何かやればあたるのではないかと騒いでいるくらいなのだ。



「したけど、みーんな泊りがけでやってんのかな?—―――寝る場所あるのが?」

「———寮があるっていってたがら、雑魚寝してんだべ」

「父ちゃん、変なことになんねーんだべが?」

「————しらねっちゃ」



どこかぶっきらぼうに言って、ニシンの飯寿司を頬張る。

もうそろそろこの漬物樽も残り半分を越えた。



これが綺麗さっぱりなくなるのは、新たな旅立ちを迎える季節になるころだ。

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