第2話
工藤家は家長
そこへ芳江が加わり7人家族になる。
もとは六人の兄弟がいるはずであったが、今は四人しかいなくなっていた。
次男の
成人男性は実質三人いるわけだが、家の生計は正一と守也の稼ぎで成り立っていた。
母親の民子の稼ぎは一番先に正則が巻き上げる。
まだ50代前半の正則はロクに働きもせず、昼から酒を煽るばかり。
時には泥酔をして妻の民子を殴る事もあった。
その度に正一や守也が止めに入るのだが、芳江が嫁に来てからというものの、そんなことが少なくなっていた。
工藤家は戦時中、かつては日本当事国であった四島の島出身だった。
戦時中、一家は開拓時代から成功を収めた名家として有名であったが、すべて正則の父親にあたる正明の功績だった。
先見の目があった正明は、東北の地から資源が豊富なこの島での移住を決めた。
四男ということもあり、自分には何も親からの遺産が残らないことを見越しての決断だったのだ。
開拓団や屯田兵と共に土地を切り開き、少し残忍にもとらえられる冷静な判断で地元民族を雇い家業を大きくしていった。
蟹が多く上がったあの時代、自社の缶詰工場を持つまでになったころ、正則は生まれた。
正則は特に苦労を知らず、明治の後期に贅沢な暮らしをしていた。
交易船で物資が入ったとなれば物珍しいものはないかと子供ながらに船主と話をし、最新なものは取り入れて我が物顔でそれらを自慢する。
気になる映画が上映されれば、それだけの為に船を調達して本土に足を運んでいた。
その金遣いの荒さは終戦になり、何もかもを失った後でも治ることはなく、妻や息子たちが稼いだそばから巻き上げていく有り様。
だが、年頃の息子二人はどうも稼ぎがよくない。
見栄をはる正則は娼婦へ支払う金の他に土産の品まで用意する。
金が足りないときは知り合いにそれらしい口実をつけて借りるのだが、最近は自分を信用して金を出す者も少ない。
そこで、思いついたのが娼婦との逢引で使っていた旅館で働いていた芳江の存在だった。
仲居として働くも、芳江がここの娘であることを知った正則。
それならばうちの息子に貰いたいもんだといいまわっていた。
そんな噂を聞きつけ、姉である芳江を嫁にと正則に吹き込んだのは、大野旅館の専務である芳江の義兄弟だった。
「あんたの息子の嫁にもらってくれたら礼はするよ。それだけじゃない、困ったときはいくらでもここを頼ればいいさ」
その話に正則はくいついた。
正一など、どうせ雪路以外の女など愛せないのだ。
だが彼女はいいところの網元へと嫁いでいったのだから、出戻ってはこないだろう。
夫の男が溺愛しているという噂も聞くし、子供も何人か生まれていると。
それならば、生涯未婚のままにするよりも、これで世話をしたことにすれば自分の顔もたつ。
なにより、金の心配をしなくてもいいのだ。
この町一番の旅館を経営する一族と親族になれば、何をしても自分は安泰だと承諾したのだった。
50にもなってなんとも情けない男である。
これが30代半ばまで、贅の極みを当たり前のように謳歌していた義父の素性だった。
婚姻式が済んだ後、すぐ次男の一周忌を迎えた。
命日はそれよりも前だったのでとっくに喪は開けているが、家業の盛漁期が重なったこともあり、実際の命日より数か月遅らせて行ったのだ。
これを婚姻式のあとで行うことで、正一には芳江に地域のしきたりを婦人部に叩きあげてもらおうという計画があった。
そうしてあわよくば、音を上げて自分の元から去ってくれないかとも思っていた。
だが、芳江はなんともその場にとけ込むのが得意であった。
社交的な性格も相まって、ご近所さんや婦人会の人たちとの交流が生まれ、地域の仕事のことや町内会の役割などを知る勉強会にもなった。
目論みが外れ、正一は結婚を受け入れることにした。
昆布の仕事が終わると正一は弟の守也を引き連れて、東北の方へカツオ節を作る工場へと出稼ぎに行く。
「いつもはわし一人だっけ、でもこん年はあんたがいるから助かるわい」
珍しくにこやかに笑う正一に芳江はときめいた。
「早く行ったらどうです、列車の席が無くなりますよ」
照れ隠しに芳江は言うが、正一はなおもニコニコとしていた。
その中で浮かない顔をしているのは三男の守也だった。
「————もし、あれだよ?嫌なことあったらよ、実家さ帰ってもいいんだよ?」
そうやって深刻そうに言う守也に芳江は少しの不安を覚えた。
守也の忠告で想像できる"嫌な事"といえば、義父に酒乱のけがあることが関係しているだろう。
とにかく酒の飲み方が半端ではないのだ。
酔ってくると目つきが変わる。
直接手を出したりはしないが、義母や義兄弟たちにきつく言葉であたる様子が垣間見れていた。
しかもロクに働きもせず、タクシーを呼んでは遊びに出かけている。そんなところにも不安を覚えていた。
「大丈夫だべ、父ちゃんは芳江さんにきつくは当たらないよ」
呑気に言う正一だが、それも一理あった。
芳江を嫁に迎い入れた理由を、なんとなく理解していたからだ。
自分は一生一人でいると断言していたのに、金持ち一家の娘をどういう手を使ったのか縁談にこぎつけた。
だから、自分たちの様に暴力を振るわないだろうと思っていた。
駅のホームでは芳江と同じように夫を送り出す妻たちで溢れていた。
冬の間は仕事がないので、内地の方へ各々決まった働き口へと男たちは出稼ぎに行く。
”金、ちゃんと送ぐってや?!”
”変な女に
”酒、控えて働いてよ?”
”しっかりやってくんだぞ!途中で帰って来ても家に入れねえかんな!”
肝が据わった漁師の妻たちが威勢よく夫を送り出す。
その中で芳江のお淑やかさはやけに目立つ。
育ちの良さと、母親譲りの華やかさがあるからだ。
「じゃあ、行ってくる。留守を頼んだ」
「はい、いってらっしゃいませ」
芳江が頭を下げると、あちこちの男たちは正一へ羨望の眼差しを向けていた。
「いいな兄貴は、いい嫁っこもらって」
二人分空いている席を見つけ、腰を下ろすと同時に守也が呟く。
「何言ってる、おまえ、分かってるんだべ。俺の嫁はただ一人よ、俺はあんな気取った嫁なんかどう扱っていいか分からんわ」
窓が開いているとも知らずに正一は好き勝手なことを言っていた。
焦って言うところを見れば照れ隠しのようにも思える発言だった。
その会話が聞こえていた芳江はもう一度深く頭を下げて、その場を去る。
列車が発進する前にその場を去る妻は、芳江ただ一人だった。
その背中を静かに見つめる正一。
自分のせいだというのにそれにも気付かず虚無感に襲われていた。
やはり自分には品がいい女が合わないと思いながら汽車に揺られる。
まだ数ヵ月しか婚姻生活がないが、正一なりに嫌われる態度をするように意識していた。
妻を愛せない夫など、彼女に悪いという気持ちが消えなかったからだ。
でも、困ったことに芳江は帰る気はさらさらないという。
”たっけ、お前がいたならなんていうかな”
次男の武翔が天に帰ったのは、ススキが揺れる季節であった。
一人の女性に恋をし、まっすぐな気持ちで愛そうとしていた。
想い人を残して逝ってしまった弟を思うと、芳江との婚姻生活が重荷に感じるのだ。
愛せないのに夫として彼女と生涯を共にするのは卑怯すぎる―――と。
一時の寂しさや欲を彼女で誤魔化している。
そんな自責の念を自覚していたからだ。
芳江は器量がいいから、この近辺の色男にでも見初められ、離縁でもしてくれたらどんなに楽だろうか?
どうしたものかと汽車からの景色を眺めれば、ススキがユラユラと風に吹かれてなびいていた。
正一と守也が出稼ぎに内地へと行ってひと月経つと、シバレが厳しくなる冬が段々と押し迫ってくる。
雪がポツポツと降るが、次の日には溶けてしまうくらい温暖な地域。
北海道でありながら豪雪になることもなければ、深刻な凍結に見舞われることもない。
でも、海から吹き付ける冷たい風が、実際の気温より寒く感じさせる。
その中で芳江は見よう見まねで、波打ち際に上がっている昆布を拾っていた。
正一たちが夏の間に着ている作業着を身に着け、ぶかぶかになってしまう部分は”こもて”という名の縄で縛り、海の中に入っていく。
「おお、今日も”藁人形”がきたぞ」
腕も足も胴体も、動きやすくするにはあちこち縛り付ける必要があったが、どこか不格好だった。
いつしか芳江は藁人形と言われ、それでも本人は皆と可笑しそうに笑っていた。
この波打ち際でする”拾い昆布”は沖で漁をする”竿漁”とは違い、採取期間が決まっていない。
なので、個々の判断で採ることが出来た。
芳江は幼いころから働いていたこともあり、家で黙っていることが苦痛だった。
子供がいる訳でもないし、病気を患っている訳でもない。
それなのに民子は冬だから家で休んでいろと言う。
正一や守也が遠い場所で汗水流して働いている。
そう思えば家に黙ってなどいられなかった。
自分は良かれと思ってやっている芳江だが、民子にしてみたら面白くはない。
昆布を拾って稼ぐより、手っ取り早く実家に赴き、何かを手土産に帰って来てくれた方がいいのにと思っていた。
真面目に働いたことなどなかったに等しい民子には、嫁の行動が鼻につくようになった。
働きたい嫁と休めという義理の母。
嫁入りして幾分も経っていないはずの両者に分かり合えない壁みたいなものができた瞬間でもあった。
12月の末、2ヶ月間出稼ぎに出ていた正一と守也が帰って来た。
二人がまず目にしたのは、敷地を囲うように建てられた”干し櫓”に昆布が括りつけられている光景だった。
冬の間は雪が降る。
それが溶けて干場が水浸しになる為、この時期ならではの工夫された干し方であった。
比較的温暖であるこの地域は、降った雪が残ることなくすぐに溶けてしまうのだ。
昆布にとって水分は大敵。一度海から上げたら徹底的に乾燥に努めなければならない。
だからこの辺の昆布漁師は冬の間だけ吊るして干すのだ。
冬になって地面が固くなる前に柱を入れる穴を掘り冬支度をする。
地面に柱を何本も建て、鉄棒の様に細い棒を横に渡して昆布をかけ、飛ばされないように縛るのだ。
「おーう?これは芳江さんがやったのが?」
「はい、見よう見まねで。隣近所の人達にやり方を教わったんです。この干し櫓も青年団の方々に手伝ってもらったのですよ?」
「そうかそうか~~!やー立派だわ、芳江さん!な兄貴?!働きもんの嫁っこでいがったな!」
大げさに褒めちぎる弟に対して夫の正一は厳しい目線で昆布を吟味していた。
正一が無言で芳江を手招くと守也は顔を顰めた。
その目の前を素直に芳江は通って夫の元へと駆け寄っていく。
「・・・・これ、ここ、あめでる(腐りかけ)べ。色が赤いところは切ってやんねーと。あと、時々ひも取ってひっくり返さねばカビが生えたり青くなって匂いがつくんだわ」
「すみません・・・」
「あどよ、あったかい日の雨はだめだど?むしろかなんかかけて、雨避けしねーと。雪も同じだ、油断してたんでねぇべな?」
「雪の日は寒いから、お隣さんがそのままでもいいって」
「ああ、隣は昆布腐らす天才なんだわ、マネすんな。第一よ、雪の日はあったかいべや、ここらに住んでてそんなことも知らんのか?まいったな、おい」
半笑いで馬鹿にしたように芳江にきつい言葉を投げつけ、干してある昆布を”価値ナシ”とでも言いたげに手で払う。
「兄貴!そんな言い方ねーべ!」
「んなこと言っても、言わねーと分かんねーべ。おらの嫁っこは”浜育ち”じゃねーんだから」
芳江は冷たい夫の態度に気落ちした。
でも、確かに変なにおいがついていたのは気になっていたから、そうだったのかと、どこかで納得し、自分の感情を抑える。
「教えて頂きありがとうございます。以後気をつけます」
「・・・・・。生意気な言い草だな、ほんとにありがたいって思ってんのか、能面な顔して」
「兄貴!!」
「夫が帰ってくる日は妻が駅で待つもんだべよ。んだやそんな色気もそっけもない姿して、鼻垂らしてんなや」
正一は二か月間真面目に働いてた。
不本意であっても嫁がいよいよ来たのだ。
いつ家族が増えてもいいようにと、いろいろな誘いを断り少しでも多く金を持ち帰ろうとしてたのだ。
同郷の奴らにからかわれれば照れくさくもなったが、誰かが自分の嫁を綺麗だと褒めたたえれば他の奴らもその話に食いついてくる。
正一はそんな時、どこかに少しだけ誇らしくなる瞬間があった。
皆が羨ましがるその嫁は、自分の帰りを今か今かと待っているのだ。
そう思うと何か自分の中に温かいものが芽生えるようでもあった。
初めて二人だけで迎えた静かな朝に食べたうどん。
染みわたったうどんの汁が身体の中を通っていった温かさにそれはよく似ていた。
でも現実の芳江は、ホームで夫の帰りなど待っていなかった。
それがどこか正一には面白くなかった。
現実に自分は妻に思われていなかったと気落ちしたからだ。
「ごめんなさい、ここを万全に整えて、貴方にみて欲しかったものですから」
「————土産、買ってきたから、家うちさ入ってみんなば集めろ」
「———はい、只今」
「うわ~本当にいいの?兄ちゃん」
「お~お~、紀子も年頃だもんな。それで自分の顔よく見てかわいぐすんだぞ?この紅も特別な時にさしなさい」
「うん!ありがとう!」
紀子は正一から貰った装飾があしらわれた手鏡や紅を持って隣の家に自慢しに出かけた。
それをにこやかに見送る正一。その横で怒ったような顔をしてる守也は兄に耳打ちをする。
「あれ、姉さんに買ったんだべ?なんで紀子にやっちゃうのさ」
「あ?んなこと言ってねーべ、勝手に決めんなや。おらの嫁っこは働きもんだし、自分で買うべ」
「・・・・・・・」
せっかく守也が気を使って小さな声で言ったというのに、正一はそれにお構いなしだった。
小上がりの茶の間で兄弟がしている会話は、薄い障子を隔てただけの土間続きになっている台所まで筒抜けだった。
息子たちの会話を聞いていた姑の民子は、流し台の前に立つ芳江に向ってため息交じりに言葉を浴びせる。
自分は忠告したのに、お前が言うことを聞かないからだと、何度も何度もつらつらと責め立てるのだ。
「だーかーらー、余計な事して働くなっていったべ?正一へそ曲げたべさ」
「すみません」
「今年は出稼ぎの給料が二倍になるんだから、だから止めたんだよ?」
「・・・・・・・・・・・」
何度も繰り返し同じことを言うので、遂には返事もしたくなくなった芳江。
そもそも、民子の言ってることに納得がいっていなかった。
お金を稼ぐことは悪いことなの?働くのも?
わからない、この家の基準が分からない。
正月を越えれば、チラホラと仕事がある。
でも結局は拾い昆布をやめることはなかった。
少しでもお金を稼ぎたかったからだ。自分にも使いたかったし、酒呑みの義父に生活費を無心されることもある。
それに備えておきたかったのだ。義兄弟たちにも最低限の物を買い与えるためにも、芳江は本業が始まるまで働き続けた。
正一はそんな芳江に感謝はするものの、声に出して伝えることはなかった。
彼は夫として夜の情事に誘うことしか興味がなかったのだ。
「おい、こっち来い」
「————はい」
正一のそれは突然始まる。
特にいい漁場にあたって昆布を大漁に採れたときなどの夜は、その時の興奮が蘇るよう荒く抱く。
「ハア、はぁ、————今日はいいとこに当たった、いいが?絶対に腐らすなよ?」
「はい・・・・」
情事の後だというのに、なんとも色気のない会話である。
正一なりの妻との気持ちの交わし方だった。二人に共通するものと言えば仕事しかない。
そこで褒めたり叱ったり期待を寄せることで妻と情を交わし絆を紡いでいく。
正一にとってそれが芳江という妻を迎えるということだった。
かつての許嫁に対しては気持ちで繋がることは出来ても、芳江とは到底無理だと思った正一。
順応に従わせるだけが夫婦なのだと思うしかなかった。
愛というよりは目上の教師に近い。
芳江にとっては6歳も年の離れた男であるから、どこか逆らえない部分がある。
現に5歳下の守也の方が気軽に話せる存在だった。
家は土間と茶の間の他にに部屋は二間しかない。
だから二人が抱き合う場所はもっぱら昆布納屋か人気のない砂浜だった。
行為の後は正一がさっさと一人で帰ってしまう。
仕事が朝早くからあるためだ。
服装を整える妻のことなど、待っている時間が惜しいのだろう。
そのまま一緒に帰ることのない芳江は、一人残されたまま月夜を見上げ涙を流す。
何のための嫁、何のための存在、何のための結婚生活・・・
いくら考えても答えは出ないことに絶望するばかり。
「ここから、逃げる?」
地響きをたてて波打つ海に問いかける。
自分はやはり身売りされた身と同じ。ここの砂浜に捕らえられた愚かな女なのだと、何も罪のない月を恨めしそうに見上げていた。
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