第一章 期待を胸に

第1話

枯れ葉が目立つようになった秋の日、一人の花嫁がバスに揺られていた。




こんな秋晴れの日に漁村へと嫁ぐことになったのは、街で繁盛している旅館を営む一家の娘、大野芳江だった。




21歳の芳江は、次女として育てられたが、父親の妾の子であった。




そのことが原因で芳江は肩身の狭い思いをしていた。




そんな彼女の元へ見合い話が持ち上がる。




近年は長女である姉、幸恵が嫁に行ったばかりで、お相手は銀行で働く男性。




給料も安定しているし、何かと気遣いのできる夫のようで姉も幸せそうだった。




自分もそんな結婚生活をしてみたい―――と、憧れが彼女の中にもあるが、ここの女将に拾ってもらったも同然の彼女は、仲居としての責務を果たすことで恩返しになると信じていた。





女将は人徳があり、夫の妾の子に対して、あからさまないびりなどは皆無ではあったが、他の従業員同様に接して家族にしているような贅沢や特別扱いは一切させなかった。




それ故に、芳江はもう自分には家族はいないと思うことにしていたのだ。


肉親の父親にでさえ”お父さん”と呼ぶことは許されなかった。




自分の家族は産みの母親が亡くなってから、いなくなってしまった。


そのことが彼女の心情に影を落とし続けていた。





そんな矢先の縁談だったのだ。




自分に家族ができる。


そう思うだけでも彼女の心は温まる。




ましてや、婚約者となる男性は儚く笑みを浮かべる色男だったのだ。




芳江の心は瞬時に掴まれてしまったのである。





今まで寂しく過ごした時間が帳消しになってしまうくらい報われる思いであった。






嫁ぎ先はカニ漁の網元をしているらしく、カニ缶工場まで経営しているらしいと養母から聞かされていた芳江。


今は事業を機械を大幅に導入して、手間がかからなくなり僅かな従業員で事足りるらしく、お前は客に茶でも出して家事しとればいいと親方もご満悦だった。




普段は厳しい態度しかとらない養母も珍しく機嫌がよく、嫁入り道具などは幸恵同様、上等な物を揃えようと言ってくれた。




「いままでここに尽くしてくれてありがとう。息子たちがあなたを見下したような態度をとり続けてごめんなさいね」




婚前式の前の晩、普段は踏み入れることのない家族が住む続き平屋の家で女将は芳江に少しだけ頭を下げた。


女将からの謝罪を込めた短い言葉ではあったが、それだけでも芳江の心を照らすには十分であった。





バスは嫁ぎ先がある村へと入って行く。


式は相手方の家近くにある寺で行われることになっていたが、まずは先方の家へと挨拶に向う。


旅館で使われている送迎バスが工藤家についた途端、大野家の大半は皆眉を寄せてた。


そこにはトタン張りのバラックのようなみすぼらしい家が一軒あるだけだったのだ。


工場持ちの網元である―――という話からは到底想像も出来ないほど小さくてボロボロの家に大野家は面を食らった。


バスの後ろからは義姉弟たちの笑い声が響く。


この話は、長男が話を進め、女将に言付けしていたのだ。




ここで初めて女将である養母も、息子たちが仕掛けた罠だったと気が付くが、相手方様ご一行が外で出迎えている以上、もうなにも出来ないだろう。

親方である夫も何も言わずに外を見つめ押し黙る。



異母兄弟たちの失礼な態度に嫌悪感を抱いた芳江はバスの座席から立ち上がり降りることにした。





親方も”何かの間違いなのでは?”とも思うのだが、道案内役の仲人が乗ったハイヤーは、確かにこの家の前で止まったのだ。





それから間もなく近所中から人が集まってきた。


工藤家にどんな嫁が来たのか。子供から老人まで好奇な視線が集まっていた。


注目が集まり居心地の悪さを感じつつも、芳江は地元の婦人会や青年団の人達に出迎えられて笑顔を浮かべた。


芳江は、”多少”話しが違うと思いつつも、彼女の論点は”新たな家族ができること”に着目していたので気にすることはない。



玄関先で待っていた義両親になる二人に挨拶を済ませ、そこから村のお寺まで列をなして歩き、仏前式が執り行われる。

それが済むとそのまま大広間で宴会がはじまった。




横を見れば相変わらず格好がいい正一がいる。


ここまで来て、花婿が挨拶に来ていた男性と全く違う人だったらばどうしようと不安になったが、流石にそれはなかったようで胸を撫でおろす。


彼は表情は乏しくとも、青年団たちに冷やかされる時にみせる笑顔が魅力的だった。


生活が苦しそうでも、人に好かれ温厚なひと。


芳江はそれだけでも幸せになれる気がしていた。



時刻が12時を回ったころ、大きな懐中電灯を持った正一と芳江は、あのみすぼらしい一軒家へと向かった。


これから”初夜”を迎える為である。地域によっては仲人がその初夜を障子越しに見守る風習はあったが、この村にはその役回りはすでに廃止されているとのこと。


何より、この強靭なる身体をもつ正一には”見守り”などは要らなかった。


彼は19の時に初めて経験してからというものの、何度か色んな女性と行為に及んでいたからである。


見た目の誠実さとは違う一面を持ち合わせていた。


家に入れば誰もいなく、両親や兄弟たちは寺にそのまま泊る予定であった。


それにより、今晩は誰も帰ってくる予定はない。




これはめでたく夫婦となった二人が、初夜を心置きなく迎えるための風習であった。




これから夫婦の床になるであろう部屋は、4畳くらいの狭さであり、一組の布団を敷くだけでもう余裕がない。

当然芳江の花嫁道具のタンスなど置けるはずもなく、義母が持ち帰ることになっていた。


せっかくあの義母が、気まぐれのようだったけど用意してくれたのにと芳江は落ち込む。



その暗い表情をみた正一は、向かい合って話を聞く。




「どした?」


「いいえ、なんでもございません」


「…親父がでたらめ言ってすまねぇな、あれは島での話だじゃ、ここではなんもない。昆布採り船が一艘あるだけよ」


「そうでしたか」


「嫌ならやめるが?」


「何をですか?」


「————この祝言よ。家さ帰るが?」


「・・・何をおっしゃるのですか、冗談はよして下さい!」


無理矢理に連れて来られたと思っていた正一は、その言葉にびくりとする。


確か妾の子と両親から秘密裏に聞いていた。それならば、帰るところもないかと思いなおす。


正一はそれから自分の胸の内を正直にさらけ出した。

きっと隠し通すことなどできない、そう悟っていたからだ。



「後継ぎが出来たら好きにすればいいよ」

「好きにとは、どういう意味ですか?」


「そのまんまだ。別れてもいいし、帰るとこがなかったらそのまま居てもいい。他に男を作ってもいいし好きにしなさい。後継ぎだけ産んでくれればおらはそれでいいから」


「そんな・・・」


「———おらには生涯をかけて忘れられない人がいるんだ。だから、この結婚はこの家の為だけよ」


「私は、そんなこと、受け入れられませんよ…。」


「だから、まだ間に合うよ。離縁するかい?」


そういわれた芳江はキッと睨みをきかせた。


どうしてそんなひどい事が言えるのでしょうか、この男は。


「私は出戻りはいたしません。もうここの嫁なのです、誰が何と言おうが帰りません。想い人?———勝手にしてください。私はここに生涯を捧げる誓いを立ててきたのです。誰が帰るものですか――――その想い人とやらでも私を重ねて、さっさと済ませて下さいよ。初夜の晩に何もなかったとあったら、私にどこか”不具合”でもあったと噂になってはたまりませんから」


「んなごと、おらがいわねぇばなんもないって」


「そんなことはありませんよ、どこで誰が見ているのかわかりませんから」



芳江は内面を隠すように強がって言った。本当は泣き出したい気分だった。


泣きだして、寺で酒盛りしている父親に縋りつきたい気分だった。それほどに悲しい思いを隠してでもここに残る決断をした芳江は、また義母や義兄弟らに腫物のように扱われたくなかったからだ。あの窮屈な生活に戻るのなら、仮にでもここで嫁としていたほうがいいように思えた。


それが、自分を見ていない夫が相手だとしても。





「ゆきちゃん・・・・ゆきちゃん・・・」




うわ言の様に違う女の名を口にする夫に芳江は抱かれた。


目も瞑り、自分の方を見ようともしない。




下腹部の痛さと夫の言動に思わず涙を流す芳江をみた正一は、きまり悪そうに芳江の涙を拭き、その顔が見えないようにうつぶせにさせた。




今度はなにも呟かないまま時は過ぎ、やがては芳江の上にうめきながら覆いかぶさる。




息を整えたあとにゴロンと横に寝そべる正一は、天井に怒りをぶつけるように悪態をついた。


「泣くならやめる。泣くな。————その気が無くなる」

「————すみません」

「出来るだけあんたのことを考えるけど、もうこれは病気みたいなもんなんだ。こまい(小さな)時からその人と結婚するって思ってたから、なかなか抜けねえんだ、すまねえけど」

「・・・・・・・・そうですか・・」

「――――今日みたいに祝儀が終わった後によ、彼女を抱くのが夢だった・・・」


彼女を抱くのが夢だった。

その一言が芳江の心に影を落とす。


家族ができた喜びも、惚れた男と夫婦になれた喜びも火が消えたように心に温度がなくなる。


暗い暗闇の中で一人ぼっちになった寂しさに心が支配されていく彼女は薄い布団で顔を隠す。


今にも泣く出しそうな顔を見られたくなかったのだ。



「だからついな、声が出てしまっただ。・・・もう、口には出さねえがら」

口には出さないが、気持ちは変わらないのであろう…。




そのぶっきらぼうな言い方に、自分はこの人に歓迎されていないのだと芳江は改めて思い知った。




自分はひと目、挨拶に来た瞬間から恋に落ちたというのに…。




思えば挨拶に来てからというものの、顔を見せに来たのは正月と盆の二回だけだった。

夏は漁で忙しいのだろう。

冬は出稼ぎに行っているのだから仕方がない。


そう思っていたのに、そうではなかった。

自分に興味がないだけなのだ――とこの時に思い知った芳江。


「もう、———いいですから」

出てくる言葉にはもう力はなかった。






水場へ向かった芳江は、汚れた秘部を桶に汲んだ冷たい水で洗い流した。


流しても流してもぬめりが取れない。月に照らされた桶の中の水は深い血を薄めた色をしていた。まるで娼婦のようだと自分のことが情けなくなった。芳江は幼い時からあの家に引き取られ、旅館で仲居として働いていた。小さな頃は夜の風呂掃除をやるようにと言われ、男に呼ばれた娼婦たちが同じ風に洗浄してる光景をよくみていたのだ。




桶に綺麗な水を汲み、手ぬぐいを持って床に帰ったら正一は寝息をたてて眠っていた。




手ぬぐいを水に浸し、正一の寝間着をまくり上げ、自分の血で汚れているそこを拭こうとした。


手ぬぐいを少しあてると身体を震わせる夫、冷たすぎるのかと思った芳江はその手ぬぐいを自分の熱で温めた。




どこが一番熱があるだろうと考え、そういえば実母と住んでいた時に飼っていた猫のサチはいつも太ももで寝ていたなと思い出し、そこに挟んで温める。




真水よりかは少しばかりマシになったと思う頃、再び布団を剥ぎ寝間着をまくり上げ、起こさないように慎重にそこを拭きあげる。




初めての経験ではあったが、男風呂の掃除もしていた芳江は、そのもの自体はよく見慣れていた。


幸せであるはずの初夜は芳江にとってただの儀式の様に感じた。


この心を開かないような男とこれからの事を思うと、ため息まで出て憂鬱になる。


でもやはり、実家の旅館に帰るという選択は彼女の中にはなかった。

実母を亡くしたあの瞬間から、自分の帰る場所はもうないと認識していたからだ。









次の日の朝、芳江は台所に立っていた。

昨日、挨拶代わりに持って来た乾麺を茹で、卵も焼いてから温かいうどんの上に乗せる。




その出汁のきいた美味しそうな匂いにつられ、正一は目を覚ました。


その匂いを辿るように土間へと足を進める正一。




「おはようございます」

「・・・・ああ、おはよう」


何事もないように朝飯の支度をする芳江を呆然と見ていた正一。


自分が酷いことをしたというのに、芳江は昨日の言葉通り、全く気にしていないようだった。


結婚を機に真っ暗だった土間にガラス戸をはめた工藤家の台所は、東に位置していることもあって朝日が燦々と入り込む。


芳江はその光を浴びながら無駄のない手つきでせっせと朝飯作りに勤しむ。



その光景は美しいシルエットのように輝かしく、正一も目が離せずに魅入るようにその光景を見つめていた。


「突っ立ってないで顔でも洗ったらどうです?」


手ぬぐいを手渡し、ポンプに手を掛ける芳江に正一は慌てて手をかざす。


「ああ、すまない」


芳江が汲みあげてくれる蛇口に桶をおき、水を溜める。

豪快に顔を洗い始めるが、どこか違和感を感じて動作が止まった。


「どうか、いたしましたか?」

「———いや、なんでもない」


正一の浅黒い肌に水の玉がしたたり落ち、昨晩の様子を思い出した芳江は顔を赤らめた。


そのあとは手ぬぐいを濡らして絞り、それを持って用を足しに行く正一はまたもや違和感と遭遇する。

手ぬぐいを持って来たのは、昨晩の様子で彼女が生娘だと思ったからだ。


でも、その予想は外れていた。


「————綺麗になっとる」



あの血の匂いがかすかに残っていた桶…。もしかして芳江さんが拭いてくれたのだろうか?


いやいや、そんなことをしてくれる女には見えない。ましてやあんなひどい事を言ったというのに、そんなに親切にしてくれるものか。

それとも・・・・。

生娘ではなかったか?

痛がる様子も演技だったのでは?

違う可能性が頭の隅を掠めるが首を振ってそれらを追い出す。


気を取り直して、ちゃぶ台がある居間へと向かった。



「正一さん?おうどんが冷めますよ?早く頂きましょうよ」

「———ああ」


二人静かに向かい合う食卓は、いつもの騒がしい光景とは違い、水を打ったように静かだった。


湯気立つ暖かなうどんは上に卵焼きが乗っていて、食欲をそそる。


一口啜った正一。


「・・・うまい」

思わず言葉がでる。


今まで食べたものとは比べようがないほど、つゆに旨味を感じるものだった。


「そうですか、ありがとうございます」

思わず漏れたような正一の呟きに、芳江は感情の込めない声で返事をした。


「・・・・・・・・」


よく分らん女だ。

そう思いながらも、昆布の出汁がきいたつゆを飲み干した。

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